老人ホームの雛飾り

2017年2月27日
僕の寄り道――老人ホームの雛飾り

2017年2月26日は老人ホーム訪問日。義母の居室前の廊下に折り紙のお雛様が飾られていた。お年寄りみんなで折ったのかと思ったら入所中のおばあさんが一人で折られたという。

よく見ると1センチくらいの幅しかない極小の折り鶴まで添えられており、折り鶴が得意な自分でも折ったことのない大きさなので驚嘆した。人間には年齢と体力による優劣を超越した集中力と器用さがあることを再認識した。

食堂に行ったら毎年飾られる、利用者家族から寄贈されたと思われる雛壇が設(しつら)えられていた。数日前に若いケアワーカーの男女が、説明書を読みながら仲睦まじく組み立てていたという。

五段目にいる三人組は仕丁で、台傘(だいがさ)・沓台(くつだい)・立傘(たてがさ)という。台傘はかぶりもの、立傘はさしものの傘を持っているはずなのだけれど、部品がなくなってしまったのか、適当にめでたい飾り物を持たされていて笑える。真ん中の沓台は手ぶらで手持ち無沙汰に見える。

雛壇手前にある元の所有者の名前はまりちゃんで、昭和 48 年 12 月 20 日生まれとあるので、もう40代半ばになっているはずだ。その両脇に白酒がわりのコーヒーフレッシュが置かれており、営業中ののぼり旗と合わせて元気の良い雛飾りになっていた。


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「あの夏」

2017年2月26日
僕の寄り道――「あの夏」

ニュースの見出しに「あの夏」とあって、「あの夏ってどの夏?」と思う。

記事を読んでみたら若者世代、そのごく一部の人々によってのみ共有され得る「あの夏」についての記事だった。おじさんは当然知らない。そういう記事が全国紙に出ている。

人にはそれぞれ他人とは違う「あの夏」がある。昭和の時代に「あの夏」といえば被曝や敗戦という出来事のあった「あの夏」が多くの人々に共有されていた。戦後生まれの自分たちでも、親たちが「あの夏」と言えば「あの夏」のことだろうと思えた。

国民的に共有される「あの夏」は遠ざかり、いまはひとりひとり個別に「あの夏」がある。

「あの夏」の文字を見て自分にとって忘れがたい「あの夏」を思い出したけれど、「あの夏」でわかりあえる人はもう誰もいない。新聞に「あの夏」の文字を見て「あの夏」と刻まれた墓標があったら手を合わせてみたくなった。人それぞれに黙祷したい「あの夏」があるだろう。


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花とおじさん

2017年2月25日
僕の寄り道――花とおじさん

高齢の男性がよたよたと腰を屈め、歩道脇にしゃがみこんで土をいじっているのを横目で見た。買い物帰りに、あの人はさっき何をしていたのだろうと気になり、見に行ったら多肉植物であるジュウニノマキを三株ほど移植していたのだった。無事に移植を終えて水をかけた跡があった。

マンション住まいのベランダで育てていたものが増えてしまい、始末に困って捨てるよりはましだろうと、人に踏まれそうな歩道脇に植えたと見た。真相はわからない。踏まれずに育てばいいなと思う。

実は見知らぬ人でもないので「どうしたんですか」と聞いてみることもできたけれど、背中がちょっと寂しげに見えて声をかけそこねた。歳をとった男性が黙って小さな植物の世話をしていると寂しげに見えるというのは、根拠のない妙な固定観念なのだけれど。

こちらはチューリップ


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見ている

2017年2月25日
僕の寄り道――見ている

昨年の夏、静岡での編集会議前に登呂遺跡へ寄り道したら、若い女性がしゃがみこんで熱心に稲作遺構を観察していた。いいなぁと思い、考古学女子のいる風景を写真に撮ったが、帰郷して拡大して見たら、復元された竪穴住居裏でスマホをいじっていたのだった。

土曜日の昼下がり、枯れ木ばかりになって寂しい六義園内にもかなり入園者がある。正門入り口付近の様子を写真に撮り、拡大して見たらほとんどの入園者がスマホの画面を見ていた。奇妙な時代になった。


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好き

2017年2月24日
僕の寄り道――好き

人造物と自然はせめぎ合う。遊歩道をつくっても草木の侵攻を食い止めないと、人間の作ったものなどすぐ自然に還ってしまう。ここでは半透明の塀を設置することで、かろうじて防御線としている。

秋になって植物の勢いも衰え、木枯らしに耐えた蔓と枯葉が向こう側で冬の陽を受け、こちら側に透けて影絵模様を作っている。ウィリアム・モリスの壁紙のようだ。それが何十メートルも線路づたいに続いている。

なんて綺麗なんだろうと思い、昔からそういう写真を夢中で撮っている。親のすねをかじる学生の頃は、こういう写真をフィルムがなくなるまで撮り続けると、
「くだらない写真をとるな、お金がもったいない!」
と母親に叱られた。

結婚してからは、こういう写真を見せると妻は《映像のゴミ拾い》と言い、いったい何を写しているのかと聞くので
「心象」
と答えると大笑いされた。

友だちにこういう写真を見せると
「ゲイジュツ写真は見たくない」
と言い、漢字でなくカタカナで《ゲイジュツ》と聞こえるところに、女性の嫌悪感が現れている。女性というのは概して5W1H 的に説明できない写真は《くだらない》や《ゴミ》や《ゲイジュツ》になるらしい。

線路づたいにエンドレスで続くモリス・バターンがあまりに綺麗なので、夢中で写真を撮っていたら通りかかった高齢の女性が立ち止まり、
「何を撮られているんですか」
と聞くので、来たなと思い
「塀に透けて見える蔓植物がとても綺麗なので」
とわかりやすく答えたら
「お好きなんですね」
とにっこり笑った。


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独奏と独唱と独習

2017年2月23日
僕の寄り道――独奏と独唱と独習

2 月 22 日は金子みすゞゆかりの出版社の女性ふたりに誘われ、小石川「学下コーヒー」まで歌とリュートの演奏を聴きにいった。演奏者は横山沙由子さんというソプラノの美しい声楽家で、リュートやオルファリオンをつまびきながら唄う。おじさんなので「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースを思い出してうっとりした。

十数名が座れるだけの小さな空間である。いままで大きなホールで、弾いてるんだか弾いてるフリをしてるんだかわからないような状態でしか聴けなかったリュートを、ちょっとしたミスタッチがわかるくらいの近さで聴いた。こういうのを室内楽の愉しみというように思うけれど、厳密に言えば独奏(Solo)は室内楽に入れないらしい。

学下コーヒーにて

「近くていいけど真正面に若い女性がいるので眼のやり場に困る、なるべく視線を合わせないようにしている」
と小声で耳打ちしたら
「わかる、同性でもそうだもの」
と妻が笑う。

学生時代は眼が悪いので教室の一番前に座るのが好きだったが、教師と眼が合うとたいがい指されるので、視線の投げかけ方に注意していたのを思い出した。おかげで手帳にたくさんメモを取ったので勉強になった。


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蕎麦屋の中華そば

2017年2月22日
僕の寄り道――蕎麦屋の中華そば

昭和の時代の大衆的蕎麦屋は食べ物なら何でもありで、蕎麦、うどん、丼もの以外に中華そば、さらにカレーやオムライスやハムエッグなどの日本的洋食もメニューに並べていた。

西池袋の編集事務所で打ち合わせを終え、西武池袋線椎名町駅めざして歩いていたら看板に《生蕎麦中華》と大書された蕎麦屋があったので入ってみた。

昭和の時代の蕎麦屋はオリジナリティあふれる中華そばを出す店が多く、同じ時代に子どもだった友人たちと会うと、
「あー昔ながらの蕎麦屋の中華そばが食べたいなー」
などという話になる。わが世代の《昔ながらの中華そば》といえば《蕎麦屋の中華そば》なのである。

生蕎麦と中華を併記しているような蕎麦屋なので、期待を込めて注文してみたら期待通りのチャーシューメンが出てきた。薄味で透き通ったスーブ、縮れてややこしのある麺、品の良い味付けのチャーシュー、昔懐かしいナルト、色味づけにゆがいたインゲン、そしてこれでもかというくらいに惜しげなく刻みネギが添えられている。存分にユニークである。

そして驚いたことに食べていたら昔懐かしいゼリーとオレンヂが出てきて、珈琲はホットとアイスどちらにしますかなどという。じゅうぶんすぎるくらい親切である。

ちょっと感動したので店名・住所・写真付きで日記に書いておく。

生蕎麦中華「可祢井そば (カネイソバ) 」
東京都豊島区千早1-25-1


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「まんめんじ」のひみつ

2017年2月22日
僕の寄り道――「まんめんじ」のひみつ

子どもの頃はいろいろなはやし言葉があった。昭和四年生まれの精神科医が書かれた本にはこんなはやし言葉が回想されていた。
「まねっこ、まめすり、みそやの小僧」
「まねっこまんざい、まめやのむすめ」
人のまねをするという行為にけがれを感じ、まねっことはやされることに屈辱を感じた時代なのだろう。けがれと屈辱の感じ方は時代によって変わる。

小学生時代、男子児童と女子児童が仲良くしていると
「おとことおんながまんめんじ」
とよく囃された。まんめんじの語源がわからなかったのだけれど、こんなことを書かれている人がいた。

「男と女とまァめいり、いってもいってもいりきれない」と。仮名書きだから断定しにくいが、「まァめいり」とは「豆煎り」のことだろう。うまいことを言ったものである。
http://www.izbooks.co.jp/kodomo41.html

男と女が向き合って仲睦まじくしていることを「いちゃいちゃ」とか「いちゃつく」とか「ちちくりあう」とか「ててくりあう」とかいう。

この「くりあう」すなわち繰り返されて果てしもない喜びのとき、まさに男女が向き合って真ん中に置いた素焼きの焙烙(ほうろく)を見つめ、手と手をさしのばして豆を煎っている姿が思い浮かぶ。

なるほどと感心したので、引用元で参考文献としてあげられていた大田才次郎編『日本児童遊戯集』東洋文庫 122(1968/9)の古書をAmazon で注文した。

 

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東京オリンビックとトラ箱

2017年2月21日
僕の寄り道――東京オリンビックとトラ箱

本を読んでいたら懐かしいトラ箱という言葉が出てきて、インドネシアのスラウェシ島トラジャ地方で産出されるコーヒー豆トアルコ・トラジャを思い出した。父親も母方の兄弟たちも酔うとトラになったので、トラ箱の世話になったことがあるのではないだろうか。

1964 年の東京オリンピック前、街をふらふら歩いている泥酔者たちを外国人観光客に見せては恥ずかしいというので、酔っ払いのための軽犯罪取締法が保革一致で成立した。泥酔者の酔いが冷めるまで警察署の特別留置所に収容して隠そうというわけだ。その場所をトラ箱と呼んだ。

で、泥酔してトラ箱に入れられても懲りずに飲酒を繰り返してしまい、家族や知人から勧められて断酒を決意しなくてはならなくなった人たちのため、法整備と並行して日本最初の収容施設が作られた。国立久里浜病院東六病棟、通称アルコールセンターがそれで、最初の担当医として若き日のなだいなだが着任したのが 1964 年 10 月だった。東京オリンビックは様々なものを社会の表層から見えないよう隠蔽した。

今朝は静岡県清水、自家焙煎工房櫻珈琲のイタリアンブレンド

アルコール摂取は国の収入源として公認ですすめられている薬物的トリップである。小さなトリップをして元気になり、他人に「やめろ」と言われない範囲で病気とされないことになっている。コーヒーもまたカフェインを喫する合法的トリップである。コーヒー豆トアルコ・トラジャを調べたら点々付きで「ドリップしよう」というバナーがはられていた


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台所の片隅に

2017年2月20日
僕の寄り道――台所の片隅に

たまねぎ、にんじん、だいこん、じゃがいもなど、持ち重りのする根菜を買って来てほしいと頼まれることが多い。男としての体力に期待をされているわけで、女にそういう頼られ方をされるのが嫌いではない。

女にとっての世界の片隅、そのもっと片隅にある台所、さらにその台所の片隅にさりげなく転がっている、そういうことにふと気づくと嬉しいのがじゃがいもなのではないか。

片隅の片隅のそのまた片隅にあるちいさな喜びに役立つことほど、男にとって大いなる光栄はない。そんな男の喜びにふと気づいてもらえたら嬉しいと、八百屋で男爵いもを選びながら思うのだ。


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醤油改造

2017年2月19日
僕の寄り道――醤油改造

近所の店で好みの減塩醤油が手に入らなくなったので、ここ数年、市販の醤油を改造してわが家流減塩醤油をつくっている。薄口のつけ醤油として使えばまろやかな味で減塩になるし、料理に使うとちょっと味が上がると妻にも評判がいい。

醤油の香りと、塩分の強さと、旨味のバランスが微妙なので毎回試行錯誤しており、今回は 1.5 倍にのばしてみた。材料は市販のしょうゆ(2000ml) 、だし用昆布、かつお節の厚削り、日本酒。みりんは甘いのが嫌いなので使わない。

水を煮立たせ、だし用昆布とかつお節厚削り 180g を入れ、ていねいにアクを取りながら中火で10分程度煮立てる。火を止め、ふきんを敷いたザルでこして 760ml のだしをとる。 酒 240ml は煮切ってアルコールを飛ばしておく。だしと酒、計 1000ml が冷めたら醤油 2000ml と混ぜ合わせる。

わが家流減塩醤油が 3 リットルできた。これを冷蔵庫で保存して少しずつ使う。


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七度目の春寸景

2017年2月18日
僕の寄り道――七度目の春寸景

春一番が吹き、義母が特養ホームで暮らすようになって七度目の春がきた。居室ベランダに出てみると、昨日から十度近く気温が下がり、今日はまた冬に逆戻りしている。

畑のカキの木から熟した実がひとつもなくなり、いよいよ食べるものがなくなったせいか、ヒヨドリが中庭のユズをついばんでいる。

カリンの芽吹きはかなり早くて、年明けから新芽を小鳥についばまれている。小鳥の餌になることもおりこみ済みであったかのように、新たにたくましい若葉を出して光あふれる春に備えている。

裸になって寒々しいヒメリンゴの木も空を背景の影絵にしてみると、小さな芽をたくさん準備しているのがわかる。

そういう老人ホーム中庭の小道を通り、夜勤を終えた介護士が帰宅していった。

大宮駅近くにある「大宮操の桜」。樹齢百年をこえる河津桜が満開になっていた。


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春のコーナーアーク

2017年2月18日
僕の寄り道――春のコーナーアーク

むかしから春の生暖かい世界が苦手で、外に出てそういう空気に触れると、心がわさわさと不安で満たされる。

幼い頃の入園入学、卒園卒業など、慣れ親しんだ世界からの出口、見知らぬ世界への入口、さまざまな別れと出会いが春という場所にあったからだろう。

そういう不安に胸が満たされるとよく泣く子どもだった。大人になって避けられないことの不安には動じなくなったはずなのに、やはり生暖かい春の風に吹かれると心がわさわさする。

春のコーナーアーク

最近読んだ本に「恨みは消すことができる、だが記憶は消せない」という至言があり、誰の言葉で正しくはどうだったか、調べ直したいのだけれど見つからない。

恨みは忘れることはできても、あった事実をなかったことにはできない。人間とはそういうもので、赦し合うとはどういうことか、忘れてはいけない大切なことだ。アジアの果ての小国同士、いまだいえぬ確執を乗り越える鍵はそこにあるだろう。

幼い頃の不安は消し去ることができた。でも不安でいっぱいの胸の痛みに泣いた記憶は消えない。だから春風に吹かれると大人になっても声をあげて泣きたくなる。そういうものだ


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春一番とオリンパス・ペン

2017年2月17日
僕の寄り道――春一番とオリンパス・ペン

小学生時代、わが家にやってきた初めてのカメラはオリンパス・ペンというハーフサイズの製品だった。36 枚撮りのフィルムを入れると倍の 72 枚撮れるので経済的なのだと母は言っていた。

わが母の経済性は、意地でも 72 枚撮り終わるまで写真屋に出さないという決め事で成り立っていた。早く写真が見たくても 72 枚撮り終えるまでは見ることができない。36 枚撮りフィルムを詰められたオリンパス・ペンは 72 枚撮り終わるまで、ナフタリン臭い洋服ダンスの隅で次の出番を待っていた。

そしてとうとう 72 枚を撮り終わると写真屋に出され、母がちびちび撮りためた写真が闇から復元され、
「あれっ、これ、いつどこで撮ったんだっけ?」
という写真の塊(かたまり)となって仕上がってきた。

   ***

2 月 16 日、保育関係の女性編集者が入稿用データを取りに来てくれると言う。午後 5 時くらいに来てくれたら駅まで送りますと電話で言ったら
「あっ、魂胆が丸見え!」
と言って笑う。

暖かい夕暮れとなり、明日 17 日は春一番が吹きそうだという。さっさと受け渡しを終え、魂胆通り、駒込駅前まで送りがてら飲みに出た。机の脇にあったデジタルのオリンパス・ペンを首に下げて出かけた。

駒込駅前『カーニバル』のあった場所はこういう店になっている

楽しく飲んで別れて翌朝となり、酔っ払って昨夜撮った写真をパソコンに取り込んだら、夜景に混じって寒々しい雪景色が出て来て驚いた。

昨年の 11 月 24 日は雪だったようで、仕事場のベランダに出て写真を撮り、あまりの寒さに引っ込んだままカメラを放置したらしい。母親と同じようなことをしている。


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おはようございますの風景

2017年2月16日
僕の寄り道――おはようございますの風景

本郷台地の東側で台東、上野のお山の東で東上野、台東区東上野を歩くと、関東大震災を教訓に作られた防火帯により、空襲による被災消失を免れた古い家並みが残っている。

ちょっと路地を入ると、こういう出桁造り(だしけたづくり)の町家がところどころに残っていて嬉しい。朝の町角を折れたら正面にシャンとした佇まいで風情の良い家があったので、水平垂直に気を遣いながら挨拶をするように写真を撮ってきた


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