【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編8】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編8】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 31 日の日記再掲)

旧東海道、狐ヶ崎駅前を通過して江尻宿を目指すと、静岡鉄道と東海道本線を渡る追分踏み切りがある。

子どもの頃から静岡鉄道狐ヶ崎・桜橋駅間が異様に長く感じ、どうして中間地点に駅がないのだろうと不思議だったが、大坪町と追分が接するあたりで静岡鉄道と東海道本線を潜って南北をつなぐ道路が開通するのに伴い、新駅開業の計画があるらしいと教えていただいた。

考えてみたら静岡鉄道入江岡駅の手前から狐ヶ崎駅の先までは私鉄の静岡鉄道と旧日本国有鉄道東海道本線が線路を並べて走っていたのであり、その2路線を跨ぐ橋を架けるのは容易ではなかったろうから、入江岡駅、桜橋駅、狐ヶ崎駅は横断して沿線両側の住民が利用するための橋があったからこそ、駅が成り立っていたのだろう。狐ヶ崎・桜橋間に静岡鉄道の新駅ができたところで2路線を跨ぐ手段がなければ東海道本線を跨ぐか潜るかしなければ北側に住む追分の住民は利用不可能なわけで、道路開通は新駅にとって欠かせない条件だったことに恥ずかしながら気づいた。

運用中の鉄道路線を跨いだり潜ったりする橋や地下道を作るのはきっと大変な事業であり、ましてや旧日本国有鉄道の主要路線なら尚更だったろうと思い資料を見ていたら、かつて清水市内を走っていた静岡鉄道の路面電車『清水市内線』が東海道本線を跨ぐ橋(現在架け替え工事中の『清水橋』)は『清水市内線』を走らせるために静岡鉄道が昭和7年鉄道専用橋として自力で架橋したのだと知って驚いた。これによって同年8月、港橋・横砂間が全線開通している。

考えてみれば赤字覚悟の思い切った投資であり、それがなければやがて自動車も走れるように増築されていった今の清水橋も無かったかもしれなくて、東海道本線により南北を分断されて清水の隆盛自体もなかったかもしれない。それほどに鉄道路線を跨いだり潜ったりする手段が清水には少なかったし、今も多いとは言えない。

国道1号線と南幹線を結ぶ道は、2路線を潜る地下道工事を待つだけとなり、旧東海道沿いの追分農園脇ではマンション建設も始まっている。

写真小:旧東海道沿いの人気ラーメン店『しなそばや永楽』
写真大上:旧東海道沿い追分から北脇新田方向を見る。この先に国道1号線とバイパスがある。
写真大下:左手に大沢川、右手に追分農園がある。
[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

【駅】

かつて東海道本線清水駅と興津駅の間に袖師という駅があり、それは夏の海水浴シーズンだけ開業される特殊な駅だった。1926(大正 15 )年に設置され、当時の国鉄総裁は後藤新平(政治家。水沢藩士の子。医師より官界に転じ、衛生局長ののち台湾総督府民政局長・満鉄総裁として植民地経営に手腕をふるう。また逓相・内相・外相・東京市長などを歴任、関東大震災復興や対ソ外交に努力。壮大な構想を度々提唱し、「大風呂敷」と呼ばれた。伯爵。[広辞苑第5版より])だった。

当時清水で海水浴をするとしたら折戸海水浴場か袖師海水浴場であり、袖師海水浴場への客を当て込んだ袖師駅の乗降客数は、最盛期 1948(昭和 23 年)の第 1 日曜日などは 1 日 3 万人を記録したという。

袖師海水浴場が寂れる頃までしつこく泳ぎに行った少年時代だったけれど、駅が廃止になる頃の海は本当に汚かったので、駅廃止に関してはそれはそれで仕方ないと、清水っ子の誰もが消えていく駅を見送りながら苦々しく思ったことだろう。袖師駅は東京オリンピックのあった年、1964(昭和 39 )年に廃止になっている。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編7】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編7】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 30 日の日記再掲)

旧東海道を江尻宿目指して歩くと、大きな溜池『上原堤(うわはらづつみ)』手前に大きな火の見櫓と小さな祠がある。

『上原延命子安地蔵尊』と呼ばれ地域住民の信仰を集めてきたこの小さな祠には、かつて行基作とも伝えられた御本尊(行基は 668 ~ 749 年の人なので、だとすると奈良時代)があったといい、少なくとも地蔵信仰が普及した鎌倉時代あたりまで創建年代が遡れる。

御本尊もさることながら、 武田方の武将で江尻城主だった穴山梅雪と徳川家康が会見した(梅雪は徳川方に寝返った)という由緒ある地蔵堂だったが、残念ながら火災で焼失したという。

こういう小さな祠の案内板に出会うたびに読んでみると「本堂は火災で焼失」というのが非常に多い。管理者無住であることから火の不始末もあるだろうし、この地蔵堂のように不審火によるものも多いようだ。

誰でも自由に立ち入れるという意味で「公」の場所なので、信仰のために立ち入った人々や、行き暮れて一夜の宿りをした人たちが原因の失火なら「公」であることの宿命と思って本望なのだろうが、悪意による不審火の可能性を思うとちょっと切ない。

街でスプレー塗料による落書きを見る度に不思議なのは、マンションや企業のビルより、図書館や公園など「公」の場所へのいたずらが多いことである。

毎週末、東京・清水間を介護帰省のため東海道本線で往復すると、見事に線路沿いの壁に落書きがあるが、落書きをされる場所と免れる場所に公私の別による差が明らかに見える。

他愛のない落書きによる発散の道具として「公」の場所が役立つなら「公」であることの本望と言えなくもないがちょっと切ない。反逆するなら「公」より「私」だろう、と思う性格だからなのだろうか。「公」の場所というのは本来自由な場所であり、「公」を打ち壊す人々は自由を愛しているようでいて実は自由を疎む民であるということになる。

大人たちの「公」というものの教え方も悪いような気もし、落書野郎たちは「似非の公」に対して人一倍敏感なのだと理解できなくもない。 

小さな祠のある場所には火の見櫓があることがとても多く、それは「公」の砦を守る見張り塔にふさわしい場所であることも理由のひとつだろう。

『上原延命子安地蔵尊』前に江戸時代(樹齢二百数十年)からある「槙(まき)」。
老木なので剪定されて背が低いが幹回りはかなりある。

[Data:SONY Cyber-shot DSC-F707]

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編6】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編6】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 28 日の日記再掲)

市立有度第一小学校を左手に見て旧東海道を江尻宿めざし、てくてく歩くと上原(うわはら)という地名になる。

かつて上原堤(うわはらづつみ)という貯水池に隣接して狐ヶ崎遊園地があり、狐ヶ崎遊園地はヤングランドと改名の後、今は巨大な郊外型ショッピングセンターになってしまったが上原堤は今も水をたたえて健在である。

この辺りは…、というより日本平に連なる丘陵地帯はとても豊かな水が湧くようで、山歩きすると驚くほどの湧水があるし、それらを集めた川や貯水池も多い。

有度第一小学校前から 150 メートルほど歩くと右手に『上原鎮守十七夜宮』がある。創建年代不詳とのことだが、現存する最古の資料でも 1651(慶安 4 )年には存在していた古刹である。

旧東海道から折れて 100 メートルほどの参道を緩やかに上りながら、きっと境内にも水が湧いているに違いないときょろきょろしたら、ちゃんと『観音井戸』という素堀の井戸があった。

江戸時代にはこんこんと湧き出て東海道を行き交う旅人の喉を潤したという。深さ 20 メートルあるそうで昭和 43 年に井戸替え(井戸の水をすっかり汲み上げて井戸を掃除すること)されたという。

子ども時代は家庭の事情で他人の家の釜の飯を食べる機会が多かったけれど、思い出してみると昭和 30 年代、他人の子どもを預かってくれるような大きな家には井戸があることが多かった。

水道の蛇口をひねると電動ポンプが水を汲み上げる音がしたし、夏になると果物や野菜を冷やしたし、水道が引かれ水質検査で井戸水が飲用に適さなくなってからも、水道料がもったいないから洗い物は井戸水を使え、などと言われた記憶がある。

東京で過ごした学生時代の下宿にも水道とは別に井戸水の蛇口があり、冬場に手で洗濯するときは井戸水が暖かくて嬉しかった記憶がある。夏場も井戸水を流しっぱなしにして冷やしたキュウリやトマトは絶妙な温度で美味しかった。

『上原鎮守十七夜宮』からさらに江尻宿目指して進むと左手に旧街道にふさわしい佇まいで掛軸を商う店があり、その先が更地になっていた。

街道に対して左手奥に木の柵があり直径 1 メートルほどの円形の蓋が地面にある。旧東海道に面していた家屋で穴と言ったらくみ取り式の厠(かわや)か井戸を思いつくのだけれど、いまどき厠なら埋め戻してしまうに違いないので、きっとこの家には井戸があったのではないかと思う。そして、その井戸はまだ生きているので保存され、コンクリートの蓋はしたものの子どもたちが遊んでいたりして落ちたりすると大変なので囲いがしてあるのではないかと思うのだけれど違うだろうか。造成工事で穿たれた下水道などの穴ならこんなに物々しい囲いはしないような気がする。

友人に電話して、たとえば今この土地を買って新たに井戸を掘ったらどれくらいかかるかと聞いたら、
「そんな地質・地層・深さ・工法・難易度もわからないええ加減な質問には答えにくいけえが、口径 1 メートルで 30 メートルくらい掘るなら 100 万円くらいじゃなーいー?」
といい加減に教えてくれた。

きっとこの穴には 100 万円くらいの価値があるのだろう。

いつか井戸のある家に住んでみたいなぁと思うこともあり、ふと母がひとり暮らしする実家にも幼い頃に家庭用の井戸があったような気がしてきた。

きっと井戸を持っていたどの家庭も水道水の水質がこんなに悪くなるなどとは想像もつかず、井戸替えなどの保守にお金のかかる井戸を埋め戻してしまった時代があるのだと思い、実家の縁の下に井戸が残っていないか次回の帰省時に確かめてみようと思う。

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【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編5】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』旧東海道編5】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 28 日の日記再掲)

JR草薙駅前に降り立ち、静岡鉄道草薙駅の踏み切りを渡って直進すると、その先で広い道にぶつかる。

『南幹線』と呼ばれる、日本全国どこにでもあるようなつまらないバイパスである。右に折れるとつまらないまま静岡駅南口方面に向かうが、左に折れてしばらく進むと『草薙一里塚』と書かれた石柱があってこの道が変わり果てた旧東海道であることがわかる。 

その先へ 300 メートルほど行くと左手に逸れて行く脇道があり、つまらなさから逃れるように清水みなと方面に足を踏み入れればその道が都市のバイパス化を免れた旧東海道の残る別世界である。

天気が良いと旧東海道に折れたとたん正面に富士山が見え、その先は絶景を楽しみながらののんびりした旅になる。

左手に市立有度第一小学校があり、大規模な工事をしているので、ちょっとドキッとする。清水・静岡両市の合併により、校舎の老朽化を理由にした学校統廃合(体の良い金銭的合理化)の動きがあるので、また旧清水市の学校が廃校の憂き目にあったのではないかと思ってしまう。

おそらく春休みを利用して校庭の土壌を改良し水はけを良くする工事をしているのではないかと思うのだけれど実のところはわからない。

写真を撮りながら、東京の子どもたちが羨ましがりそうな広大な土のグランドを眺めていたら、後ろに老人が立っていて、
「どこから来なさった」

と言うから東京から来たと言うと複雑な顔をするので、
「東京から歩いてきたわけじゃないですよ」
と付け加えたら力の抜けた笑顔が出た。

以前、北海道紋別の人影のない飲食店街で飲んでいたら店の夫婦が興味津々で、
「どこか遠いところから来たんでしょう」
と言うから、どこから来たと思いますかと逆に尋ねたら、
「そうねぇ、釧路!」
と言うので東京から来たのだと言うと複雑な顔をされたが、それに似ているのかもしれない。

富士山を見ながら清水江尻宿までのんびり歩く旅の途中、
「どこから来なさった」
と聞かれたら
「草薙駅から歩いてきました」
と答え、
「どこまで行きなさる」
と聞かれたら、
「清水の入江町まで」
と答えるのがのんびりと尺度を他人と共有するための礼儀作法かもしれない。

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【清水ことばで語るフラットな羽衣伝説】

【清水ことばで語るフラットな羽衣伝説】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 27 日の日記再掲)

巴川に架かるたくさんの橋で、最も河口に近い橋が羽衣橋である。


今は昔、若い漁師が三保の海岸を歩いていると松の枝にこの世の物とは思えないほど美しい布がかけられている。手にとって眺めたり、くんくん匂いを嗅いだりしていたら、美しい娘が近づいてきて返してくれと言う。

「こんなとこでなにょおしてただ?」

「わたしは天に住む者ですが、この海岸があまりに美しいので、舞い降りて水浴びをしていました」

「ほうかね。だけんこけえらの外海は急深(きゅうぶか)だんて危ないよ、こんだ来るときは内っかわの折戸湾の方にしなよ」

「ご親切にありがとうございます、で、羽衣をお返しください」

優柔不断な清水っ子らしい漁師がなかなか羽衣を渡してくれないので天女は言う。

「羽衣をお返しいただいたら天に舞い上がりながら天女の舞いをお目にかけましょう」

漁師は喜んで羽衣を返そうとしたけれど、

「あ~、ちいっと待ってえ。そう言っといておらん羽衣をきゃあしたら、さっさと天に逃げちまうじゃないだか。ほうじゃな~い~?」

と語尾あげで上目遣いに美しい天女の顔を見るの、で天女は呆れて、

「清水の人はそう言って人を騙すのが当たり前なのでしょうか。天女は言ったことをちゃんと守るし、人を騙したりしません」

毅然として答える天女の美しくも凛とした顔を見ていたら漁師は急に恥ずかしくなり、

「わりいっけやぁ。べつに疑った訳じゃないだよ」

と言って、もう一度匂いを嗅いでから羽衣を手渡すと、天女は素早く身に纏い、上空に舞い上がり、ゆっくりゆっくり旋回して美しく舞いなから上昇し、やがて青空の小さな点になり、ついには見えなくなった。

おわり

[Data:SONY Cyber-shot T-1]

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【生ジュースの来た道】

【生ジュースの来た道】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 24 日の日記再掲)

子どもの頃「生ジュース」というのは魅惑的な言葉だった。

昭和 30 年代、「生」のつかないジュースですら子どもにとって憧れの的であり、それは多くの子どもが貧乏だったこともあるし、お金を持っていても缶や瓶やペットボトル入り清涼飲料の自動販売機がなかったからである。

ジュースと言うと粉末ジュースを思い出す。インスタントなどという言葉が流行った時代である。時折いただき物でコンクジュースというものもやってきて、それは濃縮液体ジュースだったが、いずれにせよ水道の水で薄めて飲む物だった。

外出時に喉が渇くのは今も昔も変わらなくて、今の自動販売機がわりだったのがミルクスタンドである。牛乳販売店店頭に立ち飲みができるコーナーがあり、よく牛乳やコーヒー牛乳、フルーツ牛乳などを飲んだ。

ミルクスタンドにはストローがあり、ストローというのもあこがれのひとつだった。

今はストローというと樹脂性だけれど、僕が子どもの頃はロウ引きされた紙の物が多く、ストロー=straw=麦わらの字義通り麦わらのストローもあった。

まっすぐで中空状態の麦の茎を同じ長さに切りそろえたもので、茎に微細なひび割れがあると吸い上げる時に空気が進入して巧く吸えず、ミルクスタンドにあるストローが麦わらだと「(ちぇっ、麦わらストローか)」と心の中で舌打ちしたものだが、今思えば非常に粋な物だった。まだ作られているのだろうか。

ジュース自動販売機の登場は衝撃的だった。上部にガラスのドームがあり、ジュースが噴水のように吹き上げられてはガラスを伝って下に落ちるという仕掛けで、電気の力で動く機械なので飽きることもなくそれを繰り返していた。

ジュースが流動的であることは鮮度保持などに役立つ合理性もあったのかしらと気になり、当時その機械を作っていた業務用冷蔵庫メーカーのサイトを覗いたら、単に見せびらかしていただけらしい。

電動ミキサーの登場は衝撃的で、デパート地下の果実店などでは、果物や水や氷や砂糖をぶち込んでかき回し粉砕してジュースを作って飲ませるようになり、電動ミキサーのある果実店はとてもハイカラだった。「生ジュース」の登場である。

僕が子どもの時代の「生」はいかがわしい作り物ではない「本物」の意味合いが強かったけれど、缶や瓶やペットボトル入りで売られているのも「本物”である時代になったので、「生ジュース」という言葉の持つ意味合いは非常に微妙である。

清水中央銀座ソフトクリームの高田が改装休業のあと、となりのタケダの「生ジュース」に寄せられる期待は大きい。

「今この時代だからこそあらためて生ジュースの意義を問う!」

そんな意気込みを込めて、ぜひ腰に手をあてて飲んでみたいと思うし、清水中央銀座は時代のど真ん中に立ち止まって思索を深める場所にふさわしいと思うのだ。踏み切りもあるし。

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【どこかで春が】

【どこかで春が】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 23 日の日記再掲)

春というのはくすぐったいものである。

くすぐったさとしての春は、人が自ら進んで感じ取るものである。

旧東海道、『いちろんさんのでっころぼう』で名高い青果店『堀尾商店』の軒先に大根が4本吊り下げられているのに初めて気づいた。

「(いったいいつ頃から吊り下げられていたんだっけ)」
と、見過ごしていたモノに不意に気づくのも、人が自ら感じ取る春の兆しのひとつである。

4本であることに意味があるのだろうか、何かのおまじないだろうかと最初は思ったが、それよりどうして 4 本の大根が右から順にしなびているのだろうと不思議である。

寒干し大根のサンプルのようであり、店の奥に大根がいっぱい干してあって、客は店頭の干し具合サンプルを見て、
「あ、左から 2 番目の干し具合のやつを沢庵に漬けるから 20 本ちょうだい」
などと言って買い物をする、というのも想像すると楽しい。

いや、時間をおいて大根を干し、毎年同じ時間差をおいて干すのにしなび方に年ごとの差が生じ、そのしなび方の差で何かの吉凶を占っているのではないか、いや占いでありながらきわめて科学的な根拠に基づく自然観測が行われているのではないか、などと想像してみる。

意味などというのもまた人が勝手に感じ取るものであり、意味のないモノまでが意味ありげに見えて楽しいのもまた春の兆しのひとつである。

   ***

清水大手町、『ホームラン焼き』の前を通ったら「ところ天 始めました」と貼り紙が出ていた。

投手が次に投げる球種や球筋を予測してバッターボックスに立つ打者ほど、ど真ん中のストレートを見逃しやすい。

「ところ天 始めました」のひとことで春が来る。

アスファルトが溶け出すような灼熱の日差しのもと、県道に面した玄関先にホームラン焼きの白い暖簾がはためく真夏にまで、一気に連れ去られそうにすらなる。

人は冬という名の投手が投げ下ろす球種や球筋を予測し寒さに耐えて過ごすのであり、春の宣言とも言える「ところ天 始めました」のど真ん中ストレートに意表を突かれて三振を奪われたりする。

それもまた快感と感じるのも、嬉しい春の楽しみ方である。

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【花の命は短くて】

【花の命は短くて】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 22 日の日記再掲)

毎週末の郷里清水帰省を繰り返していると、劇的な季節の移ろいがあることを、ずっと見過ごしていたことに気づく。

一週間ごとに帰省している。人間にとってコマ落としで世界を見ることが、季節を感じる心を刺激するために有効なのかもしれない。

清水銀座巴流大通りを魚町稲荷方向に歩き、『メガネの春田』の角を左折し、柳橋を渡り、『玉川楼』で早咲きの桜を眺める。その先、『巴川製紙』と『静鉄ストア』が角にある五差路から『白髭神社』前を通って大曲交差点へ向かう道、その道の両側に植えられたコブシの花が満開になっていた。母は『コブシ通り』と呼んでいるけれど、そういう名前なのかどうかはわからない。

旧久能街道を自転車で走っても満開の春の花が次々に現れて壮観である。

燃え上がるような命の息吹を感じたその一週間後には、そぼ降る冷たい雨に濡れて花の散った枝が光っているだけだったりするので、一週間のコマ落としで世界を見ることの悲しみもまた深く、季節を感じる心を刺激する。

[Data:SONY Cyber-shot T-1]

【苦しきことのみ多かりき】

清水上清水町、大小山慶雲寺門前のお言葉が新しくなっていた。

「苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ」

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【選挙カーで清水駅まで】

【選挙カーで清水駅まで】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 20 日の日記再掲)

清水・静岡合併後初めての市議会議員選挙が始まった。

候補者の顔が並んだ小芝八幡宮前のポスター掲示板を見ていると、個人的に知った顔が何人かいる。

東京都民であり文京区民なので選挙権の有無に限れば清水の選挙には無関係だけれど、ひとり暮らしの母の介護の一部を担う身には無関係でもないし、そういう故郷の市議会議員選挙に知人・友人の顔が並ぶのは感慨深い。

母の介護帰省を終え、帰京のため清水駅に向かう道すがら、旧東海道沿い入江地区で廃業したスーパーマーケット跡が更地になっているのを感慨深く眺める。

噂ではマンション建設が始まるそうで、おそらく現在生きている大人は二度と見ることのできない、旧東海道からふるさとの山々をを見通すことのできる貴重な一瞬だろう。マンション完成後はもう見えない。

小芝さん前を過ぎ大手町方向に歩くと様々な候補の選挙カーとすれ違い、友人の乗った選挙カーが来たので手を振り、清水駅前まで行くついでに乗せてもらうことにした。

選挙カーの助手席に乗り、「○○○○○をよろしくお願いします」と行き交う人々に声をかけ一緒に手を振るという希有な体験をする。道行くすべての人に挨拶をし、手を振るという日常生活ではとても出来そうにない麗しい行為が、選挙カーに乗るとしたくてたまらなくなるのが不思議であり、それに応えて手を振ってくれる人がいると「(やった、これでまた一票入るかもしれない)」などという皮算用以前に、素直に心に春が来たように嬉しいのもしみじみとする。

生まれ故郷の選挙ポスターに自分と年の近い友人たちの顔が候補として並ぶような年齢になり、親ともあとどれくらい一緒にいられるか心細い境遇になった。そして、いつまでも誇らしく港町に旗をはためかさせ不滅と思われた清水市が時代の波に併呑されるという憂き目に遭い、地域の見方感じ方が大きく異なって感じられる春の日を選挙カーで行く。

新幹線ひかり号の切符を買い、乗車時刻に間があるので静岡駅南口に出て深呼吸する。駅前に立つ石碑に埋め込まれた徳川家康遺訓にこうある。

人はただ身の程を知れ草の葉の
露も重きは落るものかな

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【甘辛しゃん】

【甘辛しゃん】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 16 日の日記再掲)

旧清水市が好きだが旧静岡市が嫌いではない。

「梶原山に登れば清水も静岡も一望でき何の境界もなく同じなのだからひとつにしちゃえばいいではないか」などと言って市町村合併を推進した田舎グローバリズムの彼らのことは嫌いである。

介護帰省して母の本棚を覗くと、清水・静岡地域に生まれ育った人々による地域文芸作品に接する機会がある。

清水・静岡には小高い山とその山襞が数多くあり、すぐ隣りの集落でも驚くほど暮らしぶりが違う。たとえば日当たりが良い側はミカン、その反対側はお茶というように作物も違うのであり、作物が違えば労働の質も収入も違い、暮らしぶりも人の目線で見れば明らかに違うのである。その違いが情を育み、郷土の人材を産む。

複雑な事情が絡み合い、同じように見える小さな地域でも、一軒一軒その家の事情が違うという当たり前の事を、子どもたちが敏感に感じ取って成長した時代があった。そういうみんな違うという現実から出発して、豊かな感受性を持ち得た地域の年寄りたちが、瑞々しい少年時代を描いた方言丸出しの小説は、何度読んでも心洗われる思いがする。

   ***

清水と静岡、それぞれに生まれ育った人間には両地域の微妙な違いがわかるのであり、清水で好き勝手に書いても大して的は外さない気がするけれど、静岡でそれをやると大外れする確率が高いので避けている。

清水で生まれ育ち静岡に嫁いだ中学時代の同級生に会う用事があり、静岡駅での待ち合わせ時刻に 30 分ほど時間があったので南口を散歩してみた。

『ファミリー食堂さいとう』という店があり、近代的ビルが建ち並ぶ静岡駅前でこういう店に出会うと嬉しくなる。

「形は悪いが、味は一番!」と書かれた鯛焼きはきっとガタが来ても道具を大切に使い続けた結果だろうなぁと微笑ましいし、ソフトクリームもラーメンも餃子もやきそばも食べてみたいし、目が回りそうに豊富な定食メニューにひかれて通い詰めてしまいそうな店である。

清水にもこういう店が何軒かあり、店頭にに立つたびにワクワクさせられてしまう。それはかつて地方を回っていた小さなサーカスを思い出させ、こういう何でもありの饗宴の場は食のサーカス小屋と呼ぶのがふさわしい気がする。あまりに嬉しかったのでメモしておく。

良いお店というのは良い形をしていて、船ならばそのまま海に浮かべても大丈夫と思えるほどに、安定性が良さそうに見える。静岡駅南口にある蕎麦屋『名代清見そば本店』を見てそう思う。

看板に『瀧鯉』という酒の名があって初めて聞くけれど、「(知ってる人は知ってるのかなぁ)」と気になり、「(何て読むのだろう、たきこい、たきごい、ろうりかな…)」などとと首をかしげたが「たきのこい」と読むのだという。

神戸市東灘区御影石町でつくられている酒なのでまさに「灘の生一本」であり、製造元である木村酒造株式会社の建物は NHK 朝の連続テレビ小説「甘辛しゃん」のロケ地としても使用されたのだという。

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【猫のバカ】

【猫のバカ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 15 日の日記再掲)

徹底した猫可愛がりをされたせいか、祖母の愛猫「みい」は屋内外を問わず祖母について歩き、本家前にあった小さな畑に鍬を持って出ると一緒について来て、畑の隅に行儀良く座って畑仕事を見ていた。

時折爪をかけて畑脇に植えられた小さな柿の木にかけ上がったりかけ下りたりし、
「退屈すると猫はこういうバカをするだよなぁ」
と祖母は笑っていた。

畑の隅に座っている「みい」のカタチが好きで、本家に祖母を訪ねてその光景を見る度に猫のいる暮らしをうらやましく思った。

両前足をそろえて座ったさまは忠犬ハチ公像によく似ており、犬なら祖母につき従う忠犬とも言えるのだけれど、忠犬に対して忠描という言葉は聞いたことがなく、猫の行為に忠義の心を勝手に見るのも無粋な気がする。祖母の言葉を借りれば、「バカをするだよなぁ」というたとえがふさわしいような無為(自然のままで作為のないこと)の行動が、しみじみとした猫の良さに思えるのだ。

道端で揺れるエノコログサに猫パンチをくれている猫や、風に吹かれてかさこそ転がっていく枯れ葉を追いかけている猫や、仰向けになってプランタがわりの発泡スチロールをひっかくのが面白くて全身雪まみれのようになっている猫を見るのが馬鹿馬鹿しくて、全身の力が抜けるように幸せになる。 

夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。
その夕刊の紙面に、犬のあくびをしている写真が、懸賞写真の第一等として掲げてあった。
その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一つ大きなあくびをした。
ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新聞を見ていたが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かんで、そうして、……一つ大きなあくびをした。
やがて、二人は顔を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。
そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびをした。
あらゆる「同情」の中の至純なものである。
(寺田寅彦『柿の種』岩波文庫より)

清水の言葉で「バカ」は「おろかなこと」ではなく「無益なこと」という意味合いで使われることが多く、無益であることを尊ぶ気風があるのが郷里清水の誇るべき美点だと思う。清水に帰省すると清水っ子は本当に「バカ」という言葉を良く用い、それは一種の褒め言葉である場合が多い。

寺田寅彦風に言えば、人が猫から多くを学べるもののひとつは、「バカはあらゆる営為の中の至純なものである」という事だろう。

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【日本平と春の声】

【日本平と春の声】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 5 日の日記再掲)

午前 10 時。清水駅前銀座を歩いていたら懐かしい歌声が聞こえる。

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋が作った清水駅前銀座の歌である。そういえば駅前銀座商店街で流されているとは聞いていたけれど実際に聞くのははじめめてであり、かつて清水本町石野源七商店の蔵で開かれていた『清水蔵談議』に元気だった母と通い、魚屋ファミリーの生演奏を聴いた頃を思い出して不覚にも胸に迫るものがある。

   ***

静岡市議会議員選挙が始まる。3 月 27 日の投票日に向けて選挙戦の準備が始まっている。

4 月 1 日の政令指定都市移行に伴い「清水区」となる予定の第 3 区では議員定数 18 の議席を争うことになるらしい。清水中央銀座ソフトクリームの高田前にはポスター掲示板が設置され、静鉄電車の車内には中吊りポスターが掲示されている。

母が昼食後の腹ごなしで、少し買い物がてら散歩したいというので旧東海道沿いを追分方面に歩く。

のぼり旗を立てて自転車に乗ったユニフォーム姿の男女が「こんにちは~」と声をかけて通過し、母は「口先だけ愛想を振りまきながら年寄りに道を譲らないああいう連中には投票しない、あれは○○候補だ」などと腹を立てたように言う。

   ***

古びた八百屋の店先に美味しそうな白菜漬けを売っている店を見つけて足が止まる。

清水の八百屋は東京に比べて、自家製漬け物を売っている店が少ないなぁと思っていたのだけれど、古い店だとやはり自家製漬け物を売っているのがわかって嬉しくなる。

ご主人が近づいてきて、
「うちの白菜漬けは美味しいよ」
と笑顔で言うのが嬉しくて一袋買って帰る。 

   ***

母が手芸洋品店に寄りたいと言う。手仕事を始めたいというのは母の気力が充実している証拠なので嬉しい。
「エスパルスチケット2枚差し上げます」
という貼り紙があり、そういえば今日からJリーグが開幕だったなぁと思い出し、ここでも小さな春の声を聞く。

[Data:SONY Cyber-shot T-1]

【日本平】

幼い頃、祖父母の家の 2 階の窓からは真正面に日本平が見え、頂上には 3 本の鉄塔があった。

新幹線の車窓から見える日本平の鉄塔はずいぶん増えている。

[Data:SONY Cyber-shot T-1]

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【金を出せ!】

【金を出せ!】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 2 日の日記再掲)

何年か前の静岡新聞の記事で、清水のコンビニに強盗が入り、「金を出せ!」と凄んだら店員がすかさず「金はない!」と答え、賊は何も盗らずに逃げたという記事があって妙におかしかった。

「金はない!」と答えたという店員の態度が毅然としていたばかりか、賊を威圧するような犯罪抑止力があった、と考えるのがまともな解釈かなと思う。

もうひとつ「金はない!」の効能を考えると、自分が上がりやすい人間なのでよくわかるのだけれど、人は心に描いたシナリオ通りでない反応に出会うと、気を殺がれてやる気が失せる事ってないだろうか。

母がまだ清水旭町で飲み屋をやっていた頃、深夜店を閉め自転車に乗って帰宅する途中、浜田あたりの路地から飛び出して来た賊に押し倒され「金を出せ!」とのしかかられたという。倒れたときに痛かったので清水訛りで「い~や~、痛い~!」と叫んだら「ごめんなさ~い」と言って賊は何も盗らずに逃げたという。

清水で前を通りかかる度に「I haven't money! 現金は一切有りません」という 2 カ国語表記の張り紙が気になるバーがある。

かなり以前から張り紙があるので、近所の店か自分の店がかつて強盗の被害にあったのかもしれない。こういう機先の制し方も賊の気を殺ぐ効果があるのだろう。

日本人なら、
「本当に金はないのか!」
「ないって表に書いて張ってあるだろう!」
「嘘つきは泥棒の始まりだぞ!」
などというカビの生えたお笑いになる。

“I haven't money!”しか読めない外国人の賊がこういう会話の手順を踏むと、
「Pass money! Can you speak English?」
「No! I can't speak English!」
「You are liar!」
となってやはりお笑いになるので、きわめて犯罪抑止力に優れた張り紙かもしれない。

[Data:SONY Cyber-shot T-1]

【花柳巷】

巴川に架かる橋で柳橋が妙に好きで、柳橋から大正橋にかけての川端柳が好きなのかもしれない。

多賀書店で買った本にこんな記述があった。

「唐・宋の遊里は、いずれも柳の木に囲まれていたという。柳の並木が色里の象徴だったのである。そのため遊里をまた『柳巷(りゅうこう)』といった。『柳巷』の妓楼(ぎろう)には『花』がある(向こうで『花』といえば牡丹のことだ)。『花街』といい、『花柳巷』という言葉はここから生まれた(この『花柳』という言葉は、我が国に伝来して『花柳界』なる語を産み、『花柳病』なる忌まわしい言葉さえも出来たのである)。」(隆慶一郎『吉原御免状』新潮文庫より)

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【判子は笑う】

【判子は笑う】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 3 月 1 日の日記再掲)

判子(はんこ)は面白い。面白くて面白くて、親の判子を見つけて押しまくり、「判子で遊ぶんじゃない」と叱られた子ども時代がある。判子は世界最少の印刷機である。

仕方がないので消しゴムを自分で彫って判子を作ったりしたけれど、判子というのは紙に押すと左右倒立した印影になるのに、なぜか天地は倒立しないのが不思議でたまらなくて、そこが何とも面白かった。この不思議さというのは、鏡に映った自分が左右反転するのにどうして天地は上下倒立しないのか、という不思議さを言葉に表現して人に伝えることと同じくらい難しい。
 
ほら不思議、ほら面白い、と判子をペタペタ押して遊んだ経験がない者も、小学校に上がって図工で版画を習い、彫り上げたものを刷ったら文字が左右倒立していたという失敗で不思議さに気づいたりする。天地は倒立しないので絵を描くように意識せずに彫っている先にある落とし穴である。判子を押すことは鏡に映すことと等しい。

文化服装学院出版部刊『銀花』1969 年新年号を読んでいたら篆刻家・石井雙石(そうせき)という 96 歳のおじいちゃんが紹介されており、著名な先生らしいが、おじいちゃんと呼んでも怒ったりしそうもない面白味のある人物だった、

『一笑百印』という作品群があり、
「「一笑百印」は雙石翁が戦争中疎開していた時、皆の表情があまりに険しいからと、顔に似せて彫ったもの」(文化服装学院出版部刊『銀花』1969年新年号より)
とある。その辺にあった小枝に彫ったりしたらしく、どれも形が不揃いな印面に「一笑」と彫ってある。

「笑」という文字は口偏にほそい竹をあらわす「しょう」と言う文字をくっつけた形声文字の略字であり、「咲」という文字も同じ成り立ちであって、「咲く」というのは本来「笑う」という意味である。

雙石じいちゃんの「一笑」がずらりと並んださまは花が咲いたようであり、花が咲いたように見える光景は「破顔一笑」であり、判子というのは笑い顔だと雙石じいちゃんは教えているように見えるのだ。だから雙石じいちゃんの彫った印影は皆笑っているのであり、判子というのは楽しいものなのである。

『俺はカクとかツノとかの入った名前は嫌いだ』と言って「角」のつく名の政治家の印づくりを断ったという雙石じいちゃんは、この『銀花』発行の2年後に98歳で亡くなられている。

※挿絵の「一笑」は僕が PocketPC の画面に彫ったもの。

【判子は笑う】

判子屋の店頭が暗く陰鬱に見える時代は良くない、と勝手に思う。
出来合の三文判は面白くない。判子は面白くないものであって、面白くないからこそ出来合の三文判で良い、三文判で良いなら 100 円ショップので十分というのは、なんとも面白くない。

面白くないものは模造が容易だし、量産が可能であり、何でもかんでも値下げ競争、という泥沼に引き込まれやすい。そもそも面白いものを作っている人は、安い面白くないものを作ったり売ったりしてはいけないし、本来面白いものをもっともっと面白くして、面白さを高く売る不断の工夫をしなくてはいけないと、自分も似た職業なので自戒の念を込めて思ったりする。

[Data:SONY Cyber-shot T-1]

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