【地球にぶら下がって来た男】

2020年6月30日

【地球にぶら下がって来た男】

近所の下町商店街に出るときは小さな公園内を抜けていく。そのあたりは区界(くざかい)が入り組んでいて、文京区と豊島区と北区が複雑に接しており、文京区から北区に買い物に行くのに豊島区に属するその公園を抜けていくことになる。

古びて不思議な構造の公園で、ベンチで昼間から寝ている男たちの横で若いお母さんが幼児を遊ばせていたりしており、不思議に警戒感を抱かせない間抜けたところのある公園になっている。新しい遊具と古い遊具が混在していて全体的には古い。ときどきテレビドラマの撮影に使われ、死体役の俳優がシートをかぶって横になっていたりする。

最近の公園には珍しくなった鉄棒があって高い低いの段階にわかれており、いずれにせよあまりに高さがあるので遊んでいる子どもを見かけないが、それゆえ横を通るたびにいつも気になっていた。むかしぶら下がり健康法が流行って専用器具が通販で売られていた。若い頃は興味がなかったけれど、最近年をとったせいか全身の節々が痛み、鉄棒にぶら下がって重力で上下に引っ張られたら、体の筋が伸びて気持ちいいだろうなと思う。

昨日通りかかったら運良く誰もいないので、あのいちばん高い鉄棒にぶら下がって全身ストレッチしてみようと思いついた。下に行って手を伸ばしたら鉄棒に届かない。身長 178 センチの自分が届かないのだから相当に高い鉄棒である。

えいやっと飛び上がって鉄棒に飛びついたら、身体と鉄棒がガチャッ!ゴリッ!と異音を発し、肩から腕が抜けそうに思えたのですぐ手を離して飛び降りた。学生時代より贅肉がついて腕力が衰えた男がやると全身ストレッチどころではなく、地球に一瞬ぶら下がって落下したにすぎない。

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【翌朝のあいさつ】

2020年6月30日

【翌朝のあいさつ】

朝のゴミ捨てで空き缶を資源ゴミ置き場に出そうと、エレベーターに乗ったら登校していく小学生と一緒になった。

昨日の朝、

小学校低学年の男の子とエレベーターに乗り合わせたので「おはようございます」と言ったら、あいさつはなかったけれど向こうを向いたままコックンと肯いていた

と書いたあの子だ。

「おはようございます」と言ったら、なんと今朝は小さな声で「おはようございます」と返事が返ってきた。

しかも 1 階に着いて扉が開き、降りて行く時むこうを向いたままコックンと会釈していた。あまりの進歩の速さに驚いて、コックンの返事に「行ってらっしゃい」を言うのを忘れた。しまった。こんどは「行ってらっしゃい」が言える大人になろう。

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【あいさつ】

2020年6月29日

【あいさつ】

学校が再開され、朝のゴミ捨てに出ると、登校していく小学生とエレベーターに乗り合わせるようになった。

最近は「おはようございます」とあいさつしても返事をしないおとながマンション内に若干名いる。あいさつはこちらがしたくてするものなので、向こうから返ってこなくても気にしないことにしている。気味の悪いやつだなと思うことも滅多になくなった。

小学生にも「おはようございます」とあいさつして反応のない子どもがいる。女の子は恥ずかしそうに小声で「おはようございます…」と言うことが多い。おとな同士のあいさつをしないやつはどうでもいいけれど、子どもと小さな〝ソーシャルディスタンス〟圏内に入ったとき無言でいるおとなはよくない。おとなは子どもに対しては礼儀正しくしないといけない。模範となる〝社会的おとな〟でいる義務が人間にはある。子どもに挨拶できる人間はおとなにもちゃんとあいさつできる人間であるだろう。

今朝も小学校低学年の男の子がエレベーターに乗り合わせたので「おはようございます」と言ったら、あいさつはなかったけれど向こうを向いたままコックンと肯いていた。かわいい。いつかあいさつできるようになるだろう。

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【仏教とことば】

2020年6月28日

【仏教とことば】

またまた三枝充悳(さいぐさ・みつよし)と岸田秀の対談『仏教と精神分析』をとりだして再読している。何度も読み返しているので余白に書き込みがたくさんあり、なかなか良いことがメモしてあったりするのだけれど、書いた本人がすっかり忘れている。忘れているので何度でも再読する楽しみがあり、そういう意味でも良い本だと思うが、聖書というのもそうなのだろうか。座右の仏教入門書としてとても良いと思う。

1980 年の『現代思想』臨時増刊『禅』誌上での対談をきっかけに計 4 回行われたそれを単行本にまとめたものだ。岸田秀は「知らないがために恥をかくのは慣れている」と自身がおっしゃるような得難い知性の持ち主なので、知らないこと、納得のいかないことへの質問が執拗であり、相手が碩学であればあるほど対談の質が上がる。珠玉の対談がたくさんあるので対談者としての岸田秀が大好きだ。

岸田秀の質問に冷静に答える三枝充悳の人柄が好もしく静岡市出身で、1975 年から筑波大教授を務めていたというのも親しみを感じる。


三枝「〝意識〟というのはもともと仏教のことばです。」
岸田「〝自我〟というのも仏教のことばですか。」
三枝「仏教のことばですよ。」

などというやりとりで「ああそうなのか」と思う。明治・大正生まれあたりの人には、日常用語の基礎に仏教の知恵が染み渡ってあったのだろう。仏教用語辞典がほしいなと思って検索するとちゃんとしたのは結構高い。Kindle 版で昭和九年刊の『仏教辞典』があって安かったのでそれを買い、三枝充悳の話をもっと聞きたいので、手に負えそうにない学術書ではなく『随想 仏教と世間と』を古書で探した。

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【年輪】

2020年6月27日

【年輪】

仕事で使う幼児の写真が送られてきて、胸の名札などで名前が見えるときは画像ソフトで読めなくしている。

昨日も雑誌表紙用に送られてきた園児の写真を見たら、女の子の胸元に文字を書いたものが下がっている。名札ではないけれど個人情報に関する事柄が書かれていて、印刷後に読めてしまってはいけないので拡大したら、間伐材を輪切りにした円盤を首から下げられるよう加工した手づくり木製メダルだった。

若々しい年輪の上に文字が手書きされ、小さな保育園の新入園児9名全員に贈られたらし。みんなの胸に下がっているそれを読んでみたら、なんだかほのぼのとした気持ちになった。こんなことが書かれていた。

◯なかまをおもいやり
 なかまをたいせつにおもうこと。
◯なかまときょうりょくすること。
◯じぶんのことばでつたえること。
◯あいてのめをみてはなしをきくこと。
9にんがなかまとしてつながったしるし
ゆうじょうめだるをきみに…

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【智恵は頭の外にある】

2020年6月26日

【智恵は頭の外にある】

一人ひとりが加齢とともにぼんやりしてきていても、そのぼんやりした隣人たちが数人顔を合わせて立ち話していて、そこに偶然通りかかって呼び止められたりすると、ぼんやりした人たちが結びつくことで、ぼんやりした人たちでなくなっていることに驚く。なんだか世界が昔に逆もどりしたようで嬉しい。

集合知とか集団的知性(collective intelligence)とかいわれる大仰なことではなくて、三人寄れば文殊の知恵と言われるように立派な文殊の知恵でもなくて、とるに足らぬ近所の立ち話でのことだ。一人ひとりだと最近言動がとんちんかな人たちでも、互いの頼りなくなった脳力が支え合うように、しゃっきりした事が話せたりするのだ。

数人が掛け合い漫才のようにして話すことで、こちらの言いたいことも通じるし、先方の言わんとすることもわかる。そういう状態のとき、一人ひとりの知性は頭の外にあって集合の知性として機能している。年寄りの要介護レベルが調査されるとき、家族がそばにいて口を出したりすると、年寄りが実際よりしゃっきり振る舞ってしまうのはそういうことだ。

介護ヘルパーさんに付き添われているお年寄りの明朗さが一人暮らしになったとたん不安げに失われていることも、相方を亡くした漫才師がとたんに輝きを失ってしまうことも、昨日立ち話で盛り上がった隣人が今日一対一で挨拶したらモヤがかかったようにぼんやりしていることも、多分そういうことなのだろう。

そういうごく身近な現象からつらつら考えるに、人間の知性とはそもそも頭の中にあるのではなく、頭の外にある関係的な集合のことなのだろう。

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【刹那と純粋経験】

2020年6月25日

【刹那と純粋経験】

刹那はきわめて短い時間のことで、その「きわめて短い時間」は指を一度はじく間に六十あって、その「六十あって」のことを六十刹那といい、その「六十刹那」には六十五刹那であるという異説があるわけで、その「ある」ということ自体がいかにも不確かだ。なぜ不確かかというと刹那は無限に短いからで、無限に長いことは想像できても、無限の短さを思い描くのはむずかしい。その「むずかしい」ことを西洋語で言えばインスタントであり、その「無限に短い」 instant は「立つ」を意味するラテン語 stare に由来し、stare が変化した sta に「いる」を意味する nt が付いたものだ。instant は端的に立っている。

「人間ひと皮むけるなんて言うけど、むきすぎると芯だけ残って、立っている線のようになっちゃうんじゃないか、立っている棒人間!」などと話して家人と大笑いした。なんでそんなバカ話になったかと言うと、切磋琢磨しあうにもほどほどの限界というものがあるだろう、という話の流れになったからだ。

西田幾多郎が言う純粋経験というのは無限にひと皮むけて、それでも立っている棒人間を思い浮かべるとわかりやすい気がする。無限に細まっていく棒人間には五感がうける刺激も主客未分の直接経験「毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態(『善の研究』)」であるだろうからだ。

「あ!」

…と書いているところで地震があった。発生時刻午前 4 時 47 分、震源地千葉県東方沖、震源の深さ 30 キロ、規模はマグニチュード 6.2 。結構揺れた。

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【別れのことば】

2020年6月24日

【別れの言葉】

吉田類の酒場放浪記でも紹介された近所の居酒屋が店じまいされていた。

「皆様お元気で」
という最後の言葉に店主ご夫婦の人柄が偲ばれる。茹でたてで出てくる三つ葉のおひたしが美味しかった。

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【期日前投票】

2020年6月24日

【期日前投票】

子どもの頃、母は選挙投票日の天気が悪いとやるせなさそうに
「行こうと思った気が変わらないうちに投票に行ってきちゃうよ」
などと言って傘をさして出かけて行った。

「なんだこいつは?」と思うような候補者の政見放送にうんざりしながら、「でもちゃんと投票しなくちゃいけない」と思ったらその気が変わらないうちに、今回の都知事選挙は期日前投票に行ってこようかと思っている。

「投票当日投票所投票主義」といって、「選挙期日である投票日に投票所で投票すること」が原則となっており、投票日に仕事や旅行、レジャー、冠婚葬祭等の用務があるなど一定の事由に該当すると見込まれる者にだけ期日前投票が認められている。宣誓書には □1号 仕事・冠婚葬祭等、□2号 用事・旅行等、□3号 病気・入院等、□6号 天災等、□5号 転出、というチェック項目があり、なぜか4号が抜けている。 「ちゃんと投票しなくちゃ、と思った気が変わらないうちに投票したいから」という理由なのに上記項目にチェックを入れて投票すると虚偽の宣誓をしたことになるわけだ。

「選挙期日の公示日または告示日の翌日から選挙期日の前日までの間は自由投票期間になっていますので、気が向いた時にお近くの期日前投票所で投票してください」としたら、ある「気分」を反映して選挙結果も変わりそうな気がするけれど、「気分」を許さないのが「投票当日投票所投票主義」なのかもしれない。

2020年6月25日追記

昨夜 NHK ローカルニュースを観ていたら、今回の東京都知事選挙では期日投票日会場の三蜜を避けるため期日前投票を勧めるという。で、手元の投票用紙裏にある宣誓書で…という話になり、画面に映された用紙を見たら手元にあるのと全然違う。たしか世田谷区のものだったが、手元にある文京区のものより選択肢がわかりやすく、「□1号」などといういかめしい表記もない。知らなかったのだけれど、同じ東京都民に届く選挙用紙が所轄の選管によって異なるのだという。世田谷区の方が期日前投票を選択するハードルが少し低いと感じた。

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【豆をひろう気持ち】

2020年6月24日

【豆をひろう気持ち】

新聞を読んでいたら「桂歌丸さんの愛した炒飯弁当」という記事があり、物が食べられなくなった闘病生活末期は好物の炒飯弁当を食べて命をつないだという話が載っていた。

その中で、嫌いな物があって一つひとつ箸でよけていたと書かれているので、
「それはグリーンピースでしょう」
とすぐにわかった。数年前、東京と埼玉の町中華で、
「炒飯、グリーンピース抜きで!」
と注文する若者を立て続けに見たからだ。

飾りに数粒いれられるグリーンピースが嫌なら、よけて食べなければいいだろう、わざわざそう言って注文するということは、万が一食べたら危ないグリーンピースアレルギーでも存在するのだろうかと不思議に思っていた。

よけたグリーンピースは弟子に食べさせていたという歌丸さんの話を読んで、自分も幼い頃グリーンピースがひどく目ざわりだったことを思い出した。弟子はいないので一つひとつつまんで自分が食べ、すっきりしたところで気持ちよくご飯だけを食べていた。缶詰のグリーンピースに対してだけでなく、母親が嬉しそうに炊く季節のアオエンドウご飯でもそうしていたし、赤飯でもまずアズキやササゲをひと粒ずつ拾って食べることで掃除し、すっきりしたところで気持ちよくご飯を食べていた。

「どうせ食べてもらうなら気持ちよく食べてもらいたいじゃないの」
などと言う、あの気持ちの問題かもしれない。ご飯に豆が入っているということが気持ち悪かったのだ。学校給食のサラダもまずリンゴや干しぶどうだけ一つひとつ口に入れ、なめてマヨネーズの味を除去して甘い果物だけ食べてしまい、ごく普通のサラダになったところで気持ちよく食べていた。

すい臓がんで物が食べられなくなった母が、じゃがいものニョッキを見て
「これなら食べられるかもしれない」
と言うので、茹でてクリームソースをかけて出したら
「また余計なことをする。これだけが食べたかったのに、もう気持ち悪くて食べられない」
と言っていた。気持ちと食欲の関係は難しい。

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【ダンベル】

2020年6月23日

【ダンベル】

運動不足なので、むかしNHKの『おしゃれ工房』通販で買ったダンベルを思い出して引っ張り出した。ダンベルの語源はなんだっけと調べたら dumb bell で亜鈴だった。思い出した。

ダンベルがらみでいろいろ思い出したのは、外出自粛生活で衰えたのは下半身より上半身であるような気がするからだ。朝、仕事場に来て両手で持ち上げ、ぐいぐい振り回してみたら体が軽くなって爽快なので日課として続けることにした。やはり鈍っていたのだろう。

午後3時からの診察再開に合わせて近所の診療所に行ったら、コロナでもうひと騒ぎあるかもしれないからと 2 ヶ月分の薬を出してくれた。信号待ちで膝に手を置き肩で息をしている子どもがいるので調子が悪いのかなと心配したが、青信号で猛ダッシュして行った。よかった、とりあえず元気だ。

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【蛇と次元】

2020年6月23日

【蛇と次元】

六義園門前で暮らして四半世紀になるが園内ではじめて蛇を見た。

道の行手が水で遮られているとき、人は橋があればそれを渡る。橋を渡りながら水面(みなも)を渡る風が作るさざ波を眺めていたら、一本の蛇が美しい正弦波となって岸から岸へと渡って行くのが見えた。蛇は平面上に描く波形となることで前進し、その波形の粗密で速度が変わる。

WHO テドロス事務局長の苦渋に満ちた顔の後ろにいつもあるシンボルマークには杖に巻き付いた蛇がいる。蛇は二次元平面では、うねりながら前へ、三次元空間では、ねじれながら上へ進んでいく。

人間にとってうねりのような思考法より、ねじれのような思考法が大切であるように、泳ぐ蛇を見てふと思う。蛇もネジのようになって水中を回転したら、もっと早く対岸に渡れるだろう。

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【楽しき玩具】

2020年6月22日

【楽しき玩具】

玩物喪志(がんぶつそうし)というと、物欲によって大切な心を喪(うしな)う、といった否定的な意味がまず思い浮かんでしまう。けれど物を玩(もてあそ)ぶのは悪いことではない。そもそも手に持ち遊ぶもの、「もてあそびもの」「もちあそびもの」から「おもちゃ」という言葉が生まれている。「おもちあそび」「おもてあそび」が「おもちゃ遊び」になった。広義に「おもちゃ」は、自然物を用いて手作りされた道具の総称であり、文化人類学的にいえば器用仕事ブリコラージュの産物である。

手仕事は心の憂(う)さを忘れさせる。娯楽のない昔の人や貧しい人びとは、身体を動かすことで、憂いが胸を満たす隙をつくるまいと努力していた。「物持て遊ぶ」ことで悪しき考えを振り払っていたのだろう。蟻の街の神父として、孤児や恵まれない人々の救援活動に身をもって尽くしたゼノ神父は、余計な悩み事をするどころか死ぬ暇さえないと言っていた。

考える前に体を動かして自分に考える隙を与えないということは、言うまでもなく思考に先立つ動物的で大切な知恵だ。などということを口実に早朝から言葉をもって遊んでいる。言葉はきわめてエコロジカルな玩具である。

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【野球がえり】

2020年6月21日

【野球がえり】

昭和の時代は「野球がえりの子供たち」という言葉をよくつかい、買い物カゴを下げたお母さんたちで賑わう商店街を、野球帰りの子供たちが駆け抜けていった。

上田正樹とサウス・トゥ・サウスに『やせた口笛で』という名曲があり、「えらくキザな愛の歌を、やせた口笛で吹いてみた」という歌詞で始まるその唄にもやはり「野球がえりの子供たち」が登場する。

昭和の時代の子供たちはユニホームを着て自転車などではなく、泥だらけの普段着で夕暮れの街を走っていた。あの子たちは、えらくキザな愛の歌を、やせた口笛で吹くような、懐かしいおとなになったのだろう。

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【夏の扉】

2020年6月21日

【夏の扉】

コロナ騒ぎが始まって数ヶ月、家に逼塞して鍵盤楽器を叩いて手回しオルゴール作りに没入していた家人に、たまには散歩がてら買い物にでも行こうと声かけして誘い出したら、表通りに出た途端、通りを挟んだ向こうの歩道を見て、
「あ、もう夾竹桃が咲いてるんだ!」
と言う。

ここが今年の夏の入り口となる。

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