【青山】

【青山】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 30 日の日記再掲

人間いたるところに知らないことがあるので、毎日目から鱗が落ちてばかりいる。

「人間(にんげん)いたるところ青山(せいざん)ありと申しまして……」
などというスピーチを何度か聞いたことがあり、石の上にも三年、どんな場所でどんな仕事でも辛抱すればやがて道はひらけるという訓辞なのだけれど、「人間いたるところ青山あり」の「人間」は「じんかん」と読み人の住む場所、「青山(せいざん)」とは骨を埋めるところなので、「骨を埋める場所は人の住む世界いたるところにある」という意味であり、「人間」を「にんげん」と読み違えて「石の上にも三年」と説教しても、なんとなく意味が通じてしまうのでやっかいである。

静岡県清水元城町。長江山宝久寺境内に
「青山もと不動 白雲自ずから去来す(青山元不動白雲自去来)」
という禅語が掲示されており、「真理というものは、ちゃんとそこにある。しかし、妄想によりみずからみえなくしている。」という大意が書き添えられていた。

■清水元城町。長江山宝久寺にて。
RICOH Caplio GX 

禅の教えでは「雲」を妄想、「山」を本性にたとえるのだという。

■宝久寺門前から45度折れて渋川方面へ向かう道。
RICOH Caplio GX 

伯父は数年前に他界してこの宝久寺に眠っている。
庵原で椎茸農家をしている友人が娘さんを連れて、大内の保蟹寺にあるわが母の墓に参ってくれた。彼女のご両親は伯父と同じ宝久寺に眠っておられ、わが母の墓参りをしたあとそちらにも回るという。伯父のことを思い出したので用事を済ませたあと、追いかけるようにして行ってみた。

■かつて海船川が流れ海船橋がかかっていた『肉のタガヤ』前の旧東海道が一段窪んでいるのがわかる。
NIKON COOLPIX S4

旧東海道を追分方面に進み、右手「肉のタガヤ」のある路地がかつて海船川のあった場所であり、そのもう一本先の細い道を右折すると入江三丁目の明通寺脇を通る。宝久寺はたしか明通寺の向かいだったな、と見当をつけて直進したら真正面に宝久寺が見えた。この道は古道なのではないかと美濃輪町の友人にもらった明治時代の地図を見たらやはり載っていた。

人の気配のない宝久寺の墓地を歩き、立ち止まって蝉の声を聞きながら、じっと目をこらしていたら微かに白雲のような煙が流れてきたのでそちらの方に歩いて行ったら、友人が亡きご両親に手向けて去った線香がまだ少し残って煙っていた。

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【ふと目を上げて】

【ふと目を上げて】

インターネットで知り合った清水の友人が母の墓に参ってくれるというので、バケツとタオルを新調して早めに清水大内の保蟹寺に行き、到着を待ちながら墓の掃除をし、ふと目を上げたら脇に自生した花にシジミチョウがとまっていた。

RICOH Caplio GX

墓の掃除を終えてふと目を上げたら清水大内で生まれ育ち、山梨県に嫁いで行ったはずの従妹が立っていて驚いた。
一昨年他界した叔母の三回忌で今着いたばかりだという。

友人母娘が到着したので一緒に墓前に花を供え焼香し、ふと目を上げたら墓石の上にカマキリがいてこちらを見ていた。

今月はじめの一周忌に墓参りをしてくれた友人一家が、墓参りを終えてふと目を上げたら、やはり墓石の上にカマキリがとまってこちらを見ていたという。

ふと目を上げたら何かに気づく、ということはちょっと嬉しい。

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【伊豆石と虎の子渡し】

【伊豆石と虎の子渡し】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 29 日の日記再掲

 

何年か前、清水本町にある石野源七商店の蔵に入り込んで呑ませてもらっていたら、友人が「この蔵の石は伊豆石だ」と言った。

母の墓をつくるために色味で石の種類を選んだら、昔はよく使われたけれど最近は用いる人が少ない石だという。産地である兵庫県から清水まで運んでもらうことになり、そのためにかなり時間がかかった。今の時代でもそうなのだから、昔は石の蔵を造るなどということになったら、材料の石を遠くから運んでくるのでは金と時間がかかって仕方ないので、海を挟んで隣り合った伊豆産を選んだのだrう。

静岡県内の近場で石の産地と言ったら伊豆であり、伊豆では良質の安山岩、凝灰岩、砂岩などがとれ「伊豆石」と呼ばれて昔から珍重されたという。切り出した石を運ぶのに用いる海運の便が良いこと、大消費地に近いことも味方して全盛期には 90 カ所もの丁場(工区)があったという。

■静岡県清水。巴川沿い清水町から美濃輪町へ向かう道沿いにある「KIP」の石の蔵(倉庫)。
RICOH Caplio GX 

市街地の 90 パーセント以上が消失したという太平洋戦争の清水大空襲にも耐えて、清水でも古い石の蔵を見かけることがある。そしてそれらの石のほとんどが、駿河湾を渡って伊豆から運ばれた石なのだろうと思うとしみじみ見入ってしまう。

この石蔵は何に用いられた倉庫なのだろうとぼんやり眺めていたら入口近くに「遊漁船業者登録票」が貼られているので今の商売が何かはわかった。所有する遊漁船の名がふるっていて「遊漁船の名称 虎之児丸」と書かれている。「虎之児丸(とらのこまる)」という船名を見て思わず笑顔になったのは、大切な伊豆石を積んだ小船で駿河湾を渡ったり、釣り客を工夫して釣り場に渡したりする、船長の見事な操船技術を「虎の子渡し」のように連想したからである。

【虎の子渡し】虎が三匹の子を生むと、その中に一匹の彪(ヒョウ)がいて他の子を食うので、川を渡る時に親の虎はまず彪を負うて向こう岸に行き、彪を置いて帰り、次に一子を渡してから彪を連れ帰り、次に彪を残して他の一子を渡し、最後に彪を連れて渡り、彪と他の子だけの組み合わせの生ずることを避けるという故事(広辞苑第五版より)

燃料と時間節約のため東風が吹いて追い風になるのを待って西伊豆土肥から船を出したというわが祖父もまた、清水港内に入ると巴川を遡り、この「 KIP 」近くの松井町「川口瓦店」前に接岸し、子どもだったわが母を川口さん宅に預けて遊ばさせてもらい、伊豆の椎茸を持って行って清水銀座みどり寿司本店で買ってもらい、伊豆に帰って売るための瓦焼き用粘土と完成品の瓦を川口瓦店で買い、預かってもらった母を乗せて船を出す、という「虎の子渡し」のようなことをして生計を立てていた時代が戦前にあったという。

 

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【おいべっさんの裏手】

【おいべっさんの裏手】

八雲神社下流、「おいべっさん」右側が更地になり、毎度の事ながらその場所に以前何があったか思い出せない。
なんか町内会の倉庫のようなものがあった気もするけど「ハズレ」かなぁ。

 RICOH Caplio GX

更地の奥に蔵のような古い建物があって気になる。
更地になった場所に以前何が建っていたかもわからないが建物の裏手に見える別の建物の裏手が何の裏手にあたるのか余計なお世話かもしれないがわからない。
山田医院の裏手に蔵があるのだろうか。

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【おはよう江尻宿】

【おはよう江尻宿】

ほんのちょっと前まで、東京駅 5 時 20 分発普通列車静岡行きに乗るために最寄り駅へと向かう道は朝日が眩しいくらいだったのに、もう朝 5 時近くなっても町が暗いのにびっくりする。
あっという間に日が短くなって「秋だなぁ…」と思う。


8 時 16 分清水駅に降り立ち、駅前銀座商店街のアーケードを辿り、清水橋をくぐり、清水銀座を西に歩いて旧東海道江尻宿に入ると、日が短くなって夜明けが遅くなったせいか、午前 8 時半でもまだ「早朝」の爽やかな気分が、朝靄のように立ちこめている気がして嬉しくなる。

魚町稲荷手前、稚児橋方向へ折れる角の「餃子倶楽部」がなくなっていてびっくりした。

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【鳥物語】

【鳥物語】

静岡県清水相生町。

ふと見上げたら「鳥物語」という看板があり、久しぶりに言葉の力を感じる看板を見てしばし立ち止まる。

子どもの頃、清水市高橋に住む伯母の家は庭に鶏舎があってニワトリに卵を産ませていた。
小さな鶏舎だったがちゃんと棚になったそれ風のもので、家庭では食べきれないほど卵を産んでいたので、売って商売にしていたのかもしれない。



遊んでいるうちに鶏舎に入り込み、産み落とされた卵を手伝いのつもりでかごに集めて持ち帰ったら、
「2歳くらいになって卵の産みが悪くなった鶏はさっさと潰すだよ。どの鶏ん産んだか記録しているだから持って来るじゃないよ」
と叱られたことがある。知らなかった、ニワトリにはそういう物語があるのか……と驚いた子ども時代である。

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【八雲神社縁起】

【八雲神社縁起】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 28 日の日記再掲

 

「おーみこーし、さ・ま・よっ」

「清水市街地の少し高台にある上清水八幡と、巴川河畔にある八雲神社の関係はどうも良くわからない」
と 2004 年 8 月 9 日の日記に書き、その日の日記を参照しながら 2006 年 8 月 25 日の日記に
「母の新盆をするために帰省していた 8 月 12 日、夕食の買い出しに美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋まで自転車を走らせていたら、旧久能道の御神燈に灯りがともり、柳宮通りを辿っての買い物帰りに、上清水八幡を出発した練り御輿を見た」
と書いたら、その友人から上清水八幡と八雲神社の関係を教えてもらった。なんと昔は八雲神社の「荒みこし」は青年団員に担がれて次郎長通りまで練り歩いて来ていたのだという。

次郎長通りを練り歩く御神輿を 2 階から見下ろしていると
「神さんを見下ろす奴があるか!」
と怒鳴られ、
「見送りは軒下でしろ!」
と叱られるほどに凄味があったのだという。

「おーみこーし、さ・ま・よっ」のかけ声が聞こえてくるような話である。

■ 2004年8月7日の八雲神社。
SONY DSC-W1

通称「けんかみこし」と呼ばれても御神輿同士が喧嘩したわけではないらしいが、喧嘩が起きて御神輿(沿道の家?)が壊れるほどに威勢の良い練り歩き方をしたのは事実のようで、
「上町(かみちょう)の桶屋の角が破損の名所だった」
などという古老(?)の言い伝えもあるという。

大正五年刊行『清水町沿革誌』第二章「神社」に「村社八雲神社」に関して解説があるものの写しを見せていただいた。

「宝暦元未( 1751 )年三月上一丁目漁民小平ナルモノ清見寺前沖合ニテ漁撈ノ際木造神体一躯ヲ拾ヒ得巴川ノ河岸ニ社殿ヲ創建シテ之ヲ祀ル」

とあるのが八雲神社の縁起である。昔、清水の同級生に小平君がおり「こだいら」ではなく「こびら」と読むので驚いたけれど「漁民小平ナルモノ」が「こだいら」だったのか「こびら」だったのかが個人的に気になる。(同日追記:考えてみたら「小平」は苗字ではなく名前であり「こへい」だったに違いない。しまったなぁ……大恥)

「天明四辰( 1784 )年暴風大雨ニテ巴川河岸決壊社地不残流失」とあり、大雨で八雲神社が巴川に流失してしまったので一時「漁民小平ナルモノ」の家に御神体を移したが「享和三( 1803 )亥年故アリテ上清水村八幡社神主岡部式部方ヘ預ケ移ス」を経て「安政二( 1855 )卯年六月上旬再ヒ上一丁目利三郎ナルモノ、宅地ニ移シ」となり「安政三辰( 1856 )年七月巴川決潰地復舊(ふっきゅう)ニ付同地ニ復シ奉祀シテ上一丁目ノ氏神ト崇敬ス」となって現在の八雲神社として落ち着くところに落ち着いたという。

■安政大地震前。

■安政大地震後。

友人の資料に延享二丑( 1745 )年と嘉永七寅( 1854 安政元)年安政大地震前後の絵地図が添えられていた。友人は何を伝えたくて絵地図を添えたのだろうかと子細に眺めると、安政大地震と地震に伴う津波が去ったあと、清水みなとの内側には沢山の干潟が出現し「地震のあとには火事も来るけど干潟もできるのよ」になっていたことを思い出した。洪水で跡形もなく流された八雲神社のあった場所も干潟として隆起しているので、御神体も無事に帰ることができたのだろう。

そういえばこの大地震により三保では土地の大陥没・大隆起が起こり、その結果役人と農民の土地争い、神官太田の暗躍、佐倉の宗五郎と並び称される義人遠藤藤五郎登場、次郎長と壮士の墓、赤心報国隊……と明治の夜明けに向かって郷土の人びとは激動の幕末を駆け抜けていったのであり、その時代の風を受けて創建の地に戻った八雲神社の御神輿が「荒みこし」である理由も、わからないようでいてわかるような気もする。

神社への参り方を覚えたのは、朝夕の通学時に八雲神社に詣でる人びとが
「ええかぁ、神さんにはこうやってご挨拶するだぞっ!」
と背中で地域の子どもに凄味をきかせているような、二拝二拍手一拝する後ろ姿を繰り返し見たからである。

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【順転逆転と逆旅】

【順転逆転と逆旅】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 26 日の日記再掲

 

東京駅 5 時 20 分初の普通列車静岡行に乗ったら、夏休み最後の週末とあってか、立っている人もいるほどの混雑だった。

仕方なしに四人掛け対座シートの窓際に座り、進行方向の逆に遠ざかる景色を見ながら清水への旅をした。度重なる帰省で見慣れたはずの車窓風景がひどく新鮮に見えた。

逆旅(げきりょ)という言葉があり、国語辞典を引くと「宿屋」と「旅」という二つの意味があげられているけれどそれだけではわかりにくい。「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」という。芭蕉も旅のはじめに百代の過客を引いていた。

人の旅は相対的に世界にとっても旅であり、人を固定すれば世界が人を置き去りにして遠ざかっていくのであり、やってくるものだけでなく遠ざかるものもまた未来なのだ。

■早朝の相模湾。根府川付近。
RICOH Caplio GX 

東海道線上り電車に乗れば前方に見ることになる嫌になるほど見慣れたはずの風景が新鮮に見えるのは、順転で見る景色を逆転で見るからで、たいがいの人は逆転の世界を滅多に見る事なく生活している。

■桜えび・しらす直売所のある由比漁港付近通過。
RICOH Caplio GX 

実生活から離れた空想の世界でも、人は過去の出来事を心の中に思い描いてみる時すら、逆転の映像ではなく過去のある時点からの順転映像を見ている。思い出という心の中の映画館もそういう仕組みになっている。

■たもとに「岩城人形店」のある興津川に架かる橋を通過。
RICOH Caplio GX 

そうでなかったら、貧しくともうるわしい、卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで家族そろってご飯を食べた思い出の食事風景が、口から食べ物を箸でつまみ出しては皿や茶碗に盛り付けるという奇妙な配膳風景を見ることになってしまうからだ。へんなたとえになってしまった。

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【パッケージプラザイトウ】

【パッケージプラザイトウ】

東京の住まいの近所に「五十嵐商店」というのがあって、我が家では「いがらしのこんぽうや」と呼んでいる。
梱包材料店というのは身近にあると便利なもので、もしかすると文具店よりも利用する機会が多いかもしれず、それは梱包材料店といっても文具店が扱う商品の領域をかなり浸食しているからだ。
そして文具より梱包材料の方が人間の暮らしの必要不可欠な道具の領域を多く包含しているのかもしれない。


実家を片付け始めたら清水ではこの「パッケージプラザイトウ」のお世話になることが多い。
母は確か「いとうせろはん」と呼んでいたので、もともとはセロファン袋を商われていたのではないかと思うのだが、僕が憶えているこの場所はかつて中央スーパーがあったような気がする。
ここに中央スーパーがあったのは、さつき通りの中央スーパーが移転してきたんだったっけなぁ…などと思い出し、さつき通りの中央スーパーができる前は、さつき通りを挟んだ向かいに深沢マートという店があって同級生に秀才の深沢君がいたっけなぁと思い出す。

深沢マートも中央スーパーも次第に記憶がいい加減になり、いい加減な記憶をまとめて包含したように今は梱包屋がここにある。

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【 2006 年の上清水八幡八雲神社大祭】

【 2006 年の上清水八幡八雲神社大祭】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 25 日の日記再掲

みなと祭りと平行して上清水八幡八雲神社大祭の準備が淡々と進む風景を見るのも、懐かしい清水の風物詩である。

前回上清水八幡を出発する練り御輿を眺めたのはいつだっけ、と過去の日記を検索したら 2004 年 8 月 9 日に「上清水八幡八雲神社大祭」と題して日記を書いていた。その年は 8 月 6 日・7 日が祭りの日だった。

その頃まだ母は東京にいたけれど、副作用との戦いに疲れたとの理由で抗ガン剤投与を打ち切り、しきりに「清水に帰りたい」「帰ってどうやって暮らすの?」「暮らさない、死んじゃう」「じゃあ帰さない」と押し問答を繰り返していた頃である。ため息をつく母のガス抜きに付き合って清水に一時帰省し、上清水八幡八雲神社大祭を見たのだった。

その年の 9 月始めに母は再び清水暮らしを始めた。そして 1 年後、昨年夏のアルバムに上清水八幡八雲神社大祭の記録はない。清水みなと祭り最終日翌日、2005 年 8 月 8 日の朝に母が他界したから地域の祭りを見る心の余裕がなかったのだろう。

■上清水八幡八雲神社大祭。旧久能道(南小路)に掲げられる御神燈。
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■御神燈に灯りがともる旧久能道(南小路)。
RICOH Caplio GX 

2006 年 8 月 7 日、清水みなと祭り最終日の朝、旧久能道に車の通行が少ない時間帯を見計らって今年もまた御神燈を掲げた門を設置する作業が行われていた。

■柳宮通り。禅叢寺山門前・敬順堂薬局入り口・旧しみづ道の御神燈。
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■柳宮通り。浜田小学校脇の御神燈。
RICOH Caplio GX 

そして母の新盆をするために帰省していた 8 月 12 日、夕食の買い出しに美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋まで自転車を走らせていたら、旧久能道の御神燈に灯りがともり、柳宮通りを辿っての買い物帰りに、上清水八幡を出発した練り御輿を見た。

■柳宮通り。「おーみこーし、さ・ま・よっ」「おーみこーし、さ・ま・よっ」今年も練り御輿のかけ声が聞こえてくる。
RICOH Caplio GX 

「おーみこーし、さ・ま・よっ」「おーみこーし、さ・ま・よっ」
聴き慣れた練り御輿のかけ声を聞きながら、実家の片付けを終えているはずの来年の夏は、いったいどうしているのだろう……と遠い先のことを思ったりする夏の夕暮れである。

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【巴川の三ツ石】

【巴川の三ツ石】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 23 日の日記再掲

 徳川家康公、駿府城(今の静岡市駿府公園)を作る時、諸国大名が献納した城石が筏の事故で、この会社の所(昔は巴川の河口であったようです)で沈んだものと思われます。巨大な三個の石は、海の干満によって、姿が見え隠れしていたのを、土地の人々は三ツ石と呼んでいました。この辺り一帯の字名を「三ツ石」と明治の頃まで使われています。
 明治二十七年、巴川製紙の前の会社、太田製紙所が建設の時、掘り出し、このようないわれのある石であったので、正門の門柱として使い、現在に至りました。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

■静岡県清水入江。巴川製紙正門の門柱となった三ツ石その1。
MINOLTA DiMAGE F300

家康が駿府城を建設する際、諸国大名に献納させた城の石垣の石が船で運ばれてきたという話を学校で教わっても、にわかに信じがたかった。

■静岡県清水入江。巴川製紙正門の門柱となった三ツ石その2。
MINOLTA DiMAGE F300

漬け物石でさえ不用意に持ち上げるとぎっくり腰になるほど重いのに、こんな大きな石垣の石を積んで運べる船というのは相当に浮力を備えていなくてはならなくて、どんな排水量の船に、どうやって巨石を積んで巴川河口までやってきたのだろうか、というのが長年の謎だった。

■静岡県清水入江。巴川製紙正門の門柱になった三ツ石の解説版。この台座も同様の由来らしい。
MINOLTA DiMAGE F300

静岡県清水入江一丁目。
旧東海道稚児橋たもとにある『楠楼』門前に「河童のこしかけ石」と名付けられた石垣用の石が保存されており、解説板にはこう書かれている。

 これらの石は、駿府城を築くため、石垣の石を伊豆から運んだとき、巴川に落ち、そのままになったものと思われます。
 昔、巴川は駿府への大切な交通路でした。その証しとして、この石をここに置くことにしました。(平成四年十月吉日 入江まちづくり推進協議会)

■静岡県清水入江。旧東海道稚児橋たもと、清水で一番古い割烹料理店『楠楼』正面玄関前。
MINOLTA DiMAGE F300

『楠楼』門前の石くらいなら小舟に載せることもできそうに思うけれど、巴川製紙正門の巨石はどんな船に積まれたのだろう。

巴川製紙正門前の解説板を注意深く読むと「船」ではなく「筏」と書かれているので資料を調べてみたら、当時城の石垣などに用いる巨石を運んだ筏の資料を見つけてびっくりした。

記憶を頼りに絵を描いてみた。真ん中に穴の空いた筏が、その穴から紐で縛った巨石を水中にぶら下げた状態で運んだのだという。

固体の全部または一部を流体中に浸すと、それが排除した流体の重さに等しいだけの浮力をうける(広辞苑第五版より)

巴川河口のの水中に落下して置き去りにされた石垣用の石は、船がひっくり返ったわけではなくて、おそらく筏の穴からぶら下げておくための紐が切れたりほどけたりして陸揚げに失敗したのだと思う。

それにしても、なんとアルキメデスの原理!を駆使して駿府城の巨石は巴川河口まで運ばれていたのであり、感心したので思い切り膝を打ったら痛かった。

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【本の始末】

【本の始末】

6月中旬、清水中央銀座にて。


古本の価格などを見ると「売る」なんていう状況じゃないのかしら。実家の本の始末をどうしようかと頭が痛い。
こうやって捨てる人が多いのだろうか。

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【「みのべ」開店】

【「みのべ」開店】

静岡県清水江尻町。
江尻宿裏の小路を抜けて仏具店に向かう道すがら、茄子紺に「やきそば おでん ところてん」と爽やかに染め抜いた暖簾の清水風ファーストフードのお店が開店していた。

Panasonic DMC-FX8

完全なる新規開店なのか、以前からご商売されていた店の新装開店なのかはわからない。

「みのべ」とあるのは苗字だろうか。
「みのべ」というと行政法学者美濃部達吉と「走れコウタロー」に登場した美濃部亮吉元都知事しか知らないので、とても珍しくてそれだけで暖簾をくぐりたくなる。

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【記憶の不思議「和田精肉店」】

【記憶の不思議「和田精肉店」】

静岡県清水江尻東。
新清水駅前から清水厚生病院行きのバスに乗る。
普段バスで通過することのない道を、高い視点から眺めるのは面白い。

この派手な店構えのパソコンスクールに勤務する女性から箱蕎麦の『音羽屋』さんに関してメールを貰ったことがあったなぁ…と懐かしい。
懐かしいのはいいが、その左隣が精肉店だったことに初めて気づいて驚いた。


何年もの長きにわたってその店の前を行き来していたのにバスの窓という高い視点から町を眺めて初めて気づく、そういうことってよくあることなのが不思議である。

病院に入院中の友人からのメールで、冷蔵庫に入っているビールが立っているとビールとわかるのに寝かせて入れてあるとどうしてもビールと認識できないおばあさんの話が面白かった。

僕は室内で捜し物が見つからず、この部屋に必ずあるはずだと確信があるときは、椅子の上に立って天井近くから見下ろす事にしているが、そうするとどうしてそこにあるのが目に入らなかったのだろう…
と思うような場所に捜し物があることが多いのだ。

誰でもそういうものなのか、僕の個人的な病気なのかは謎である。

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【一家の劇場】

【一家の劇場】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 8 月 20 日の日記再掲

他人を励まそうとして励ますことは難しい。難しいので妙に力んでしまい、たぶん、ちっとも励ましになっていなかったのだろうと思うと、帰り道をたどりながら、そのまま遙か地平線の彼方に消え入りたい気持ちになる。励まそうとするのがいけない。

他人を励ますことの一番の近道は、かつて他人に励まされた自分が、いったいどうしてもらったのかを思い返し、今度は他人のためにそれをまねてみることかもしれない。それとは、たぶんちゃんと話を聴いてもらったという体験だろう。

■静岡県清水庵原町。清水厚生病院正面玄関。
RICOH Caplio GX 

 明治二十六年(一八九三)六月、本郷菊坂の借家にあって、「糊口的文学」を脱し「実業」としての駄菓子屋経営を計画していた二十一歳の樋口一葉は、日記にしるした。「侠客駿河の次郎長死亡」「上武甲の三州より博徒の頭だちたるもの会する、五百名」
 村上元三はさらに三十五年たった昭和三年、十八歳で静岡県清水に移って父とともに製函業をおこしたとき、土地の人が「次郎長さん」と親しげに口にするのを聞いた。五年後事業に行き詰まり、帰京した村上元三は小説家たるを志し、長谷川伸に師事した。そして戦後、四十二歳のとき『次郎長三国志』を書いた。
(関川夏央『本よみの虫干し』岩波新書、第五章「家族」と「家族に似たもの」をめぐる物語より)

静岡県清水庵原町。
清水厚生病院に入院中の伯母夫婦を見舞う。90 歳近い夫婦の老老介護で共倒れとなり、従兄が孤軍奮闘の介護生活に入っている。その大変さは身に染みてわかる気がするけれど、励ましにならない励ましもどきをせぬよう心して病室に会いに行く。

年老いた両親の姿、仕事もできず真夏の夜をまんじりともせずに過ごす在宅介護疲れの長男の顔、それをしっかり見て、家族が置かれている現実について誠実に聴くことだけを心がけ、しっかり目を見て話を聴く。何か言おうと考えることは理解の妨げになるのでいらない。無理解だけが人を悲しませる。

■清水厚生病院の次郎長一家。
Panasonic DMC-FX8

病室を出てエレベーターに乗り1階ロビーに出たら、患者さんまたはそのご家族だろうか、松永きわさんという方が寄贈した清水次郎長一家の人形があって思わず和んでしまう。

きわさんの手作りなのか、一家といえば兄弟同様と言わんばかりに親分と子分全員の顔がうり二つなのもまたご愛敬で、清水庵原の病院に次郎長さんはなんと似合うのだろうと嬉しくなる。

 清水一家の面々は、語りものと小説の堆積のうちに、粗忽者、乱暴者、ジゴロ、恐妻家、それぞれ世に生きる人の典型的人間像となって流通した。「石松タイプ」「小政のような男」といえば、誰もが即座に了解した。
 しかし日本人の共通知識がテレビという底値で安定するようになると、「巨人の桑田みたいな人」「SMAPでいえば香取君」と移り、同時に講談・浪曲も、とりとめない「トーク」の濁流のうちに姿を没し去った。
(関川夏央『本よみの虫干し』岩波新書、第五章「家族」と「家族に似たもの」をめぐる物語より)

関川夏央の言葉を借りれば、没し去ったはずの「「家族」と「家族に似たもの」をめぐる物語が、決して避けては通れない現実を前にして、真摯に語られ聴かれるべき場所として残っているのが病院なのかもしれなくて、やっぱり次郎長さんは病院に似合うなぁ、と思うのは清水っ子だからという理由だけではないような気もする。

病院とは「家族」と「家族に似たもの」が混沌として共棲すること、一家として同じ舞台に立って人生の大団円を演じきることを、利用者と利用者をめぐる人びとに求める劇場なのかもしれない。

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