【母と歩けば犬に当たる……126】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……126】
 

126|終わりのない夏の手帳 11 ―自分のことは自分で

 母親の介護をしながら炊事、洗濯、掃除をしてみると、家事がたいへんな仕事であることを、人生半ば過ぎのいま身をもって思い知る。
 炊事、洗濯、掃除が自分でできなくなった母は、息子の介護を受けながらときおり腹を立てると、
「自分のことは自分でするからいいよ!」
などと投げ捨てるように言う。投げ捨てるように言った後、壁際に寝返りを打ってふて寝している後ろ姿を見ると、自分のことは自分でしたいんだろうな、としみじみ思う。そして自分のことを自分でしながら、さらに夫や子どもや親のことまでやってくれた女の偉大さを思う。
 男女の別に関わりなく人間は自分のことは自分でするのだけれど、女の方が自分のことを自分でしなければならない仕事が多い分、自分のことを自分でする能力に長けているのではないかと思うし、ちょっとだけフェミニズムすれば、男はそういう女に依存しつつ体面を保つために会社社会を作って、自分のことを自分ですることから逃避してきたのではないかと思う。
 まわりの女性を見ていて、老いたり病んだりして心が壊れるとき、そのきっかけは自分のことを自分でできなくなった現実を受容すること、その不安と悲しみが原因ではないかと思うことが多い。
 自分のことが自分でできなくなった犬と、何でも自分でできそうな犬、それぞれの身体を掻いてやると、前者はすぐに腹など出してひたすら気持ちよさそうにしているのに対し、後者は掻かれながら後ろ足をしきりに動かしたりする。他人に掻かせながら自分が掻いているつもりになっているのであり、本当は自分のことは何でも自分でできるんだぜ、と言いたげなまじめくさった顔をしている。掻かれながら後ろ足で宙を掻いている犬を見ると笑ってしまう。
 自分のことを自分でできなくなった義母や母を見ていると、今まで自分がやってきたことを他人にやってもらいながら、少しは自分でやっている、自分も少しは役に立っているという体面を保つために周りをうろちょろして、非常に邪魔に思うことが多い。
 子どもは自分のことを自分でしながら親の介護までしているわけで、それがかつて自分のことを自分でやりながら他人のことまでしてくれた母親であるが故に情けなくて腹立たしく、自分のことを自分でできなくなったうえに助けてくれる他人の邪魔をするのか、などと腹が立ったりするのだ。
 自分のことをやってくれている他人の周りをうろちょろすることができなくなったわが母は、介護用ベッドに寝ながら息子に指図して、やることなすこと文句をつけるので、この人は自分が情けないあまりに息子をいびることで発散しているのだろうか、と思うことが多く、だったら自分でやれよ!などとひどいことを言いそうになって言葉をのみこむ。
 郷里に戻り完全同居介護になって3週間も経つと、そういう母親とうまくやっていくコツが身に付いて来た。母親がうるさいことを言い出すと、ああ、また後ろ足で宙を掻いているんだな、と思うことにしている。
 今週に入って意識の混濁があり言動がおかしくなった母である。
 観察していると一日に飲む薬のコントロールや各種税金の支払いや現金の管理などという、辛うじて自分でやっていたことがうまくできそうになくなったことへの、不安と悲しみが一因ともなっている気がする。
「お母さん、これは僕が担当しようか」
と声をかけるとあれもこれも任せると次々に不安の種が出てくるのであり、そういうものを少しずつ取り除きながら、上手に後ろ足で宙を掻かせて、自分でやっているかのような感覚を尊重してやるわけで、自分のことを自分でしながら他人のことまで自分でやるという180度回転して巡って来た役回りに奮闘している。

(2005年7月28日の日記に加筆訂正)

【写真】 熱帯夜。日本平で花火が上がっている。

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