【お別れ列車】

【お別れ列車】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 27 日の日記再掲)

清水次郎長通りの魚屋さんが「いいもの」をくれると言い、それはなんと昭和 59 年 3 月に廃線となった『清水港線』の「おわかれ乗車券・入場券」のセットだった。

近所の商店のレジスターマシンの奥から見つかったそうで、代金の代わりに受け取って忘れていた物だという。約 20 年振りに日の目を見たわけで、貰ってくれる人はいないか探すうちに郷土史好きの魚屋の所有物になったらしい。

それを僕にくれるというありがたい話のだけれど、僕は高解像度でスキャンさせていただくだけにし、地域で生きていく魚屋の息子さんたちのお守り札となるよう、お返しすることにした。
 
何度も乗った懐かしいローカル線だけれど、僕が 30 歳になった年に廃線となっている。その年、僕は勤めていた電器メーカーを円満退職し、本の装丁専門のデザイナーとして無謀な独立をしたのだった。そんなドタバタした年だったため、清水港線にお別れを言えなかったので、懐かしい切符を眺めながら、記念のお別れ乗車をする。

以下、解説文は切符の裏に印刷されたものを転記させていただく。

清水港線の概要
清水港線(清水―三保間8.3キロメートル)は、昭和 19 年 7 月 1 日軍事を目的とした線として敷設されました。
三保駅はアルミナ、折戸駅は軍需工場、巴川口駅は海軍と陸軍の木材や各種資材を輸送してきました。
戦後は、通勤・通学の足として、また、工場の物資輸送にと活躍してきました。しかし、道路の整備・輸送形態の変化から、旅客・貨物とも減少し、混合列車 1 往復、貨物列車 4 往復(三保駅)を運転してきましたが、昭和 59 年 3 月 31 日をもって廃止することになりました。

清水港線の沿革
昭和 19 年 7 月 1 日――清水-三保間貨物営業開始
昭和 19 年 12 月 1 日――清水港線内相互間の旅客営業開始。客車上り4本、下り 5 本運転。
昭和 21 年 4 月 1 日――一般旅客営業開始
昭和 37 年 2 月 1  昭和 59 年 3 月 31 日限り  廃止

巴川可動橋(正式名称“鉄道橋”)
巴川に跨がる鉄道橋。橋上のレールが上下に昇降する可動橋で、昭和 23 年 8 月 3 日に完成しました。
橋の長さ 88.3 メートル。5 基の橋桁の中央部1箇所が昇降する方式で、昇降部分は 17.6 メートル。橋が昇ると水面から 7 メートルの間隔があり、船舶等が往来します。この取扱いは、巴川口駅で遠隔操作しています。
(参考)川にかかる可動橋は、佐賀県筑後川の河口とこの巴川の 2 箇所です。

巴川口駅の概要
巴川口駅は、昭和 19 年 7 月 1 日開業。構内には全国で2箇所しかない昇降式可動橋の 1 つがあり、また、全国で唯一つの鉄道岸壁があります。この岸壁は、長さ 241 メートル、水深 7.3 メートルあり、3,000 トン級の船舶も着岸可能です。かつては、石炭や、東海道新幹線のレール等が陸揚げされました。
昭和 44 年 10 月 1 日駅の出札業務が廃止され貨物主体の駅にとなっています。
[あらまし]
★営業範囲 旅客、貨物
★一日平均乗車人員 1 人
★1日平均貨物取扱トン数 359 トン
(昭和 57 年度から)

三保駅の概要
三保駅は、昭和 19 年 7 月 1 日開業。清水港線 8.3 キロメートルの終着駅で、線内唯一の旅客・貨物取扱駅です。
開業当時は、アルミナ輸送に重点がおかれました。戦後は通勤・通学輸送及び工場の資材輸送を行なってきましたが、最近は貨物輸送がほとんどでした。
[あらまし]
★営業範囲 旅客、貨物、手小荷物
★一日平均乗車人員 23 人
★1日平均貨物取扱トン数 692 トン
(昭和57年度から)

キップの写真を眺め、裏の解説文を読みながら、想い出の中で清水―三保駅間を何度も往復してみたけれど、昭和 57 年度、巴川口駅の一日平均乗車人員「 1 人」!、というのが泣ける……。
さよなら、清水港線!

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【米と建築】

【米と建築】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 15 日の日記再掲)

清水の中央を南北に走る国道 149 号線。

国道 1 号線と JR 清水駅前で分岐して南下し、清水富士見町で左折してさらに清水入船町で右折し、エスパルス・ドリームプラザ前を通過して三保方面へと向かう。清水富士見町で左折せずに直進すると県道清水富士宮線になるわけだが、400 メートルほどで突き当たりになり、右折すると港橋、橋を渡った左手が清水次郎長通りとなる。

港橋たもとに『かどや』という小さなおにぎり屋があり、友人の建築家が「かどやのご飯は本当にうまい」と教えてくれ、それ以来大ファンになった。

最近は年寄りだけでなく、若者も軟らかい食べ物が好きだそうで、ご飯も軟らかめが好まれるという。で、堅いご飯は堅く、軟らかいご飯は軟らかい、のは当たり前なのだけれど、ほんとうに美味しいご飯というのは堅いようで柔らかく、柔らかいようで堅い気がする。

先日テレビを見ていたら数秒でおにぎりを作る名人が出ていたが、単にご飯を掴み、具を入れ、大きな海苔でくるむだけで、呆れる様な代物だった。握り飯を「握っていない」のである。

柔らかく炊いた米を握ればべっちょりと米粒がくっつき、適度な空気が含まれないので、口に入れた時、海苔が香り立たず、白米の微かな香味も感じられない。べっちょりさせたくないので強く握れず、それは緩く絞った雑巾の様な不潔感が漂う。

昔は総入れ歯安定剤などという洒落た商品もなく、僕の祖父母も柔らかく炊いたご飯が好きだった。それでも残りご飯をおにぎりにしても、けっして米粒がべっちょりと固まることはなかった。炊きあがったら丹念にしゃもじで切るように混ぜて湯気を逃がし、木製のお櫃に入れて保温していた。蓋との間には布巾を挟んで水蒸気が再びご飯に戻らないようにし、大切に管理したご飯だったのである。

柔らかくても米の一粒ひとつぶが立っているご飯は、強く握っても癒着しないのである。ご飯をおいしく炊くのに少量のサラダオイルを入れる、などという話を聞くけれど論外だと僕は思う。買ってきたおにぎりが妙なご飯だなと感じ、お湯に落としてみると油が浮いたりするのであり、一粒ひとつぶが立ったご飯の安直な模倣のように思える。

『かどや』で炊きたてご飯を扱うさまを見ると、昔ながらの慈しみある扱いをしていて、なるほどなぁと思う。茶道をたしなまれる建築家なので一座建立などという味わい深い言葉を教えていただくこともあり、建築家にとっておにぎりは建立するもののひとつなのかもしれない。

写真は「かどや」のしらすおにぎりと五目いなり。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【夏未だ去らず】

【夏未だ去らず】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 13 日の日記再掲)

終末介護に取り組んでおられる医師の本を装丁することになった。

日々夥しい看取りを体験されていると、人は情緒的にもなるのも仕方のないことなのかもしれなくて、著者がつけた書名も極めて感傷的に思え、サブタイトルを決める権限をいただいたので、『ホスピスの春夏秋冬』を推しておいた。『ホスピスの虹の架け橋』はどうだろうかと著者が言うので、「いや『ホスピスの春夏秋冬』で行きます」と駄目押しをしておいた。

著者も好きだという司馬遼太郎の著作の中に、吉田松陰の言葉として「その時その時に春夏秋冬がある」と書かれているそうで、「人は共有する世界の四季を生きる中で、人それぞれ個人的な春夏秋冬をもまた生きているのでしょう?」と説得しておいた。

三人の親が次々に病いに倒れ、ひとりっ子同士の夫婦が親の看護・介護をする時、「大変ですね、なかなかできることではないです」などと励ましや慰めの言葉をいただくけれど、失禁して戸惑う義父の脇に膝をつき、ズボンとパンツを脱がせ、オシッコにまみれながら介助するとき、いまこの場で、それができるのは自分しかおらず、義父もまたそれを頼りにしていると感じるとき、親子ともども、夏のまっただ中を生きているように思えることがある。
 
老いた上に病いを得て晩年を生きる者とその家族は、第三者が遠巻きに見れば秋から冬へと向かう旅人のように見えるかもしれないけれど、介護者が今できることを精一杯やること、それに応えようと老人が残された力を振り絞って頑張るとき、当事者にとってはいまこの時が真夏であるように感じるのである。
 
それぞれの親が旅立ち、次は自分自身の後始末、もうひとつの夏をひたむきに生きられるかしら、と振り返るとき、ちょっとだけ感傷的になって今日このときを思い出し、大好きな歌でも口ずさむかもしれない。

写真は芥川龍之介が若き日の夏を過ごした旧久能道沿い、清水北矢部にある臨済宗妙心寺派新定院。「しんていいん」と読んだら、次郎長通り魚初の若主人に「しんじょういん」と校正された(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【川の流れのように】

【川の流れのように】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 10 日の日記再掲)

住み慣れた土地で気ままに生きて気ままに死にたい、などという願望はそうそう簡単に叶うものではない。それが一人暮らしであり、いなか暮らしであれば尚更のことだ。

病いを得たりすれば、家族や親類のものが放っておかないのはもちろんのこと、隣近所の方達が心配して騒ぎになるし、隣り組の役員さんが心配して駆けつけてくれるし、誰に聞いたか民生委員さんも尋ねてくださったりし、都会の片隅で孤独死するようなわけにはいかない。いなかで地域に生きるということは、生きることに勝手が許されないことも多いし、勝手気ままにに死ぬわけにもいかないのである。それが都会ほど地域社会が壊れていない、いなかの有り難みなのかもしれない。

住み慣れた郷里でポックリ死ぬことが母の望みだったけれど、闘病生活は予定外だったらしく、
「また元気になって清水に戻ればいい」
という息子の説得に応じ、東京に出て家族全員で同居することになった。住み慣れた清水で愛犬と別れての入院生活より、愛犬ともども一緒に暮らせる都会暮らしを選んだのであり、同時に勝手気ままで地域の人々に心配をかけない方法を考えたのだと思う。人生は川の流れに従う。

郷里の母を訪ねるという動機がなくなったとはいえ、帰省する口実はたくさんあるのだけれど、東京に呼び寄せた母を残して自分ひとり帰省するわけにもいかないので、清水へ帰る機会も減るかなぁと思うと、ちょっと寂しい。巴川沿いに遊歩道が整備され、水辺まで下りられるようになっているので、腰を下ろしてぼんやりと黄昏時を過ごす。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【市内緩行】

【市内緩行】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 9 日の日記再掲)

ゆっくりとした動きは、ゆっくり動く者にしか見えない。

進む河川浄化、巴川も綺麗になった、などと郷里の川について言われると、幼い頃の記憶と照らし合わせて「ええ~っ」と驚き、素直に頷けなかったりするのだけれど、確かに少しずつ綺麗になっているようだ。

清水次郎長通りはずれ、常念橋からボラが泳ぐ姿を見かけたのは9月最後の週末だった。
常念川河口には静岡県が 1999 年に作った常念川水門があり、その脇に隣保館保育園、そのちょっと先には清水小学校、さらにその先には清水第 3 中学があるわけで、この地域に生まれた者は義務教育を終えるまで常念川沿いに遡上する。さらに遡って水源地には旧清水市の斎場があり、友人の魚屋によれば常念川の遡上は「ゆりかごから墓場まで」なのだそうだ。

常念川上流、古道旧久能街道と交わる地点に清水市河川課が立てた看板が残っており、そこには常念川ではなく浄念川と書かれている。市区町村が管理する準用河川なのでその辺も大らかである。魚屋によれば江戸時代の古地図では浄念川と表記されているという。

準用河川浄念川の水源地に近い斎場付近を源とする水の流れには大沢川というのもあり、ともに巴川に流れ込む巴川水系の川である。河川改修工事は県が行っているのでこちらは準用河川ではないらしい。僕が通った清水第2中学の校区内を流れ、昭和30年代はひどいドブ川だった。

清水堂林あたりから眺める大沢川の土手は昔の面影をとどめているそうで、驚くほど水質が改善されていることと相まって、河川浄化の成果を実感する。その下流、追分付近で旧東海道に交わる地点には、江戸時代「金谷橋」と呼ばれる土橋があり、街道を行き交う人々はそこをわたり、牛馬は橋横にそれて渡河した。そういう脇道を「うし道」と呼ぶそうで、旧清水市内には「うし道」の名残をとどめる史跡がいくつかある。

金谷橋から牛馬のように橋横にそれ、自転車を止めてせせらぎを眺める。
これくらい綺麗になったなら生きものの姿を見ても良いはずだと川底に目を凝らし、天地創造の神になったつもりで、生きものよ生まれ出でて地に満てよ、と念をおくると、数センチの小魚が群れをなして泳ぐ姿を発見して嬉しくなる。機敏に泳ぐのでハヤかもしれない。

ゆっくりとした動きは、ゆっくりと動かないと見えない。
旧清水市、東海道本線に交わる浜田踏切脇にちょろちょろと流れる幅1メートルに満たない“ドブ”があり、生活排水を集めたものにしては水質が清浄で、自転車を止めて 10 分ほど眺めていたら、やはり数センチの水深を住みかとする小魚の群れを見た。メダカより遙かに大きいのだが、こちらもすばしこくて目で追うのにも苦労する。
 
病気療養のため母が上京することになったので、ゆっくりと清水市内を歩く機会も減りそうで、今週末は浜田踏切脇からドブを遡上し、その水源を探す散歩をしたいと思っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【永遠のニッチ】

【永遠のニッチ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 8 日の日記再掲)

理科の時間に電磁石を作った。

焼いた鉄くぎ(表面の錆止めを落としたのだろうか)を数本束ね、ニクロム線をぐるぐる巻き、その両端に電池を繋ぐと鉄くぎが磁石になる。電流が流れる方向に対して時計回りの向きに磁界が発生する原理を利用したものだ。その後、モーターも作ったけれど、学習キットを使ったせいか感動が薄くてあまり記憶にない。

国道 1 号線に面した清水の町を歩いていたら、『捲替修理専門』と看板を掲げたお店を見つけた。「モートル」「トランス」とあるから、捲き替えるのはコイルなのだろう。内部を覗くとたくさんの道具があり、黒光りした一つひとつを見ているだけでワクワクする。町工場の主が使う道具は、一つひとつに使い手の創意工夫が込められ、それは「器用仕事(Bricolage)」の宝庫である。

「モートル」も「トランス」も大発明である。それなしでは今の社会もあり得ないくらいの発明なのだけれど、それが当たり前に存在することに慣れ、原理に感動することもなく使い捨てていくことは、物にとどまらず、知恵と文化を使い捨てていくことだ。

子どもの頃面白かったものは永遠に面白い。永遠に面白いものを生涯の仕事とすることは幸せだ。

新幹線車内備え付けのビジネス誌をパラパラとめくると、「グローバル・ニッチ(他者があまり進出していず隙間となっている分野・市場で地歩を築こうとするマーケティング戦略)をめざす」などという謳い文句を目にするけれど、誰もが忘れがちな永遠に面白いものに拘ることにこそ不変のニッチは存在するように思う。

郷里清水の商店主と話す時、
「食べていくだけで精一杯」
などと笑いながら話され、その含意には深いものがあるけれど、「食べていけるだけの人生でいいのか」などと目上の者から説教された高度成長、バブル崩壊の時代を経て、永遠に面白いものに拘りながら食べていけることこそ素晴らしいと思える歳になった。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【清水秋天】

【清水秋天】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2003 年 10 月 1 日の日記再掲)

日曜日早朝、母が清水商業高校に隣接した桜ヶ丘公園に立つ朝市で午前 8 時まで遊んでいると言うので、自転車を駆って懐かしい街並みを走る。

靴流通センターの先で山側から流れ出る清流を見つけ、左折して緩やかな道を進むと曹洞宗玉泉寺という寺がある。山門前に自転車を止め、墓地の石段を登って振り返ると絶景である。

週二日の清水暮らしを始めてみて気付くのは、清水という町が資源ゴミの回収に熱心なことである。東京の住まいがある地区では行われていないペットボトルの回収もあり、キャップを外し中身を空っぽにし、ラミネートのラベルを剥がして資源ゴミとして指定日に出すのであり、母を手伝いながら、なるほどなぁと感心する。そう友人に話すと、静岡県東部地域はゴミの回収に熱心であり、その地域から移り住んだ人によれば、清水のゴミ回収はそれでも大ざっぱなのだと言う。

そう言われてみれば、東京は可燃ゴミと不燃ゴミの分別にうるさく、母のゴミ出しを見ていると、こんな分別だと東京では回収拒否にあうのに、とはらはらしたりもする。

玉泉寺の境内からの絶景に見とれていると、家並みの方角から防災警報用のスピーカーを使ってだろうか、今日は資源ゴミの回収日だという広報が聞こえてくる。そうだ、明日は資源ゴミの回収だからと前日母と新聞紙を束ねたのを思い出した。

東京ではビニール紐で束ねたりするのだけれど、清水では白い紙紐を用いるように厳しく定められているらしい。8 時までに戻って新聞紙の束を回収場所に運ばなければ、と自転車を走らせる。

清水入江南町、僕が生まれ育った町では早くも資源ゴミの搬入が始まっており、自転車のカゴと荷台に載せて新聞紙束を運ぶ。自治会の若い主婦たちがゴミの回収を手伝ってくれるのだけれど、確かに皆、白い紙紐で束ねられ、回収作業の労を少しでも軽減するため、きちんと積み上げられていく。

清水というのは隣組や自治会の結束が強く、子どもたちまで早朝から親たちを手伝ってゴミの整理にあたっているのに感心し、それが楽しいイベントでもあるかのように嬉々としていることにも驚く。早朝の富士山を眺めるのも心洗われる体験だが、白い紙紐で結束した資源ゴミが整然と積み上げられていくさまを青空の下で眺める朝も、ことのほか清々しい。

 
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( )