【素知らぬ六月】

2020年5月31日

【素知らぬ六月】

コロナ禍をよき糧にして新しい生活習慣を始めよう、というソーシャルな掛け声を聞くと、むかし田中邦衛が出ていたカインドウェアの洒落た CM を思い出す。

フォーマルウェアでビシッと正装した田中邦衛が言う。

「素知らぬ顔してソシアル着れば、きのうとちがうの、ボク」

いいなあと思い、あの CM が好きだった。

新しい生活習慣の六月は素知らぬ顔して始まる。

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【本の目方】

2020年5月31日

【本の目方】

「本の目方は何ではかる?」
と友人が聞くので「内容」と答えたら、
「内容なんて読み手次第だから基準にはならん。本の目方は文字数で決まるんだ」
と言う。
「同じ値段なら文字数が多いほど目方が重いので、内容が良くても文字数が少ない本を買うのは損だ。良い内容は長い時間かけて読みたいだろう」
と言う。なるほど。

古書店に注文した本が福岡から届いた。晩年のパスカル、晩年と言っても 39 歳で死んでいるが、出版準備として思いつきをメモにのこし、遺族がそれをまとめて本にしたもので『パンセ』(Pensées)という。「人間は考える葦である」などの箴言(しんげん)もこの中にある。良品が送料込みで 860 円だったので、ポケットに収まる薄っぺらな本が届くのだろうと思っていたら、何と 848 ページもある分厚い文庫本だったので驚いた。友人なら
「こりゃたいした目方だ、あんた得したぞ!」
と言うだろう。

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【坂と石段】

2020年5月29日

【坂と石段】

文京区は坂が多い。台地沿いを歩くと古びた石段がたくさん残っている。残っているのは使う人がいるからで、古びたままなのは改修費用が嵩むからだ。

古くなった家は売買されて新しく建て替わり、小さい家がまとまって大きなビルになると、残された石段の機能的必然性がわからなくなり〝珍遺構〟になっている。

ここでは高台に上がるために坂道と石段が選べるが、石段の右に用途不明となったもう一つの石段がある。買い物帰りにはたいがい男坂的に急峻な石段を登っているけれど、ベビーカーと電動自転車のヤンママは坂道を登っていく。暑くてマスクが苦しい。

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【ブルーインパルス】

2020年5月29日

【ブルーインパルス】

 
12時52分、ブルーインパルス、六義園上空を通過。
 
 
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【一貫性】

2020年5月29日

【一貫性】

エリザベス女王の愛犬がウェルシュ・コーギーであったことは有名だけれど、最初のスーザンの直系を 30 匹以上飼い続けたというのには驚いた。人生まるごとが特異な人には生涯を貫く一貫性がある。

近所の安売り酒屋でしこたま買い込み、両手に重いレジ袋を下げて出てきた男性のズボン前チャックが全開になっていた。教えてあげようと思ったが「社会の窓」という言葉はもう死語になって通じないのではないか、と気になってタイミングを逸した。

生涯を貫く一貫性と社会の窓を、なぜか連続して思い出した。

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【ピンポイント需要】

2020年5月29日

【ピンポイント需要】

小さな地域ごとに、暮らしている人が必要とする物の需要に不思議な差があるのだろう。このあたりのスーパーマーケットで品切れ状態が続いて不思議に思っているある商品をネット検索しても、全国的に品薄になっているという情報が見当たらない。こっちとあっちが均質でない。

おそらくこの地域で子育て中のお母さんたちが、在宅で安定しない子どもの機嫌とりに必要なのではないかと思う。あえて名を出さないけれど、わが家では朝食に欠かせない食品なので、たまに入荷して売れ残っていると買っている。そういう乏しい〝狭義の地域資源〟を探して見つからず、途方に暮れる近所のお母さんもいるのだろう。

近所の大型スーパーに買物場所を限定して依存するからピンポイントの品薄が発生するということもあるかもしれない。こっちの大型スーパーやドラッグストアで品切れの詰め替え用手洗い石けんだって、あっちの小さな個人商店に行けば普通に手に入る。

相変わらずスーパーで欠品しているわが家の必需品も Amazon で検索すると普通に手に入るので、送料がかからない量にまとめて取り寄せた。子育て奮闘中のお母さんたちにとって、最後の我慢の週末になることを祈る。

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【パンセ】

2020年5月28日

【パンセ】

宇宙も世界も自然をも合わせた〝全てが神様〟である、という考えは日本人にはふつうに馴染み深い。ずっとそう思って生きてきたし、死ぬまでそう思っているだろう。

英語でそれを panthe(パンセ)といい、それにイズムがついたものが汎神論(pantheism)だ。ギリシア語の pan(全て)と theos(神)が合わさった言葉で、そうか、パスカル晩年のメモ書き『パンセ』もそれか、と調べたらどっこい、フランス語 pense(考える)の受動態 pensée(パンセ)であって思想、思考を意味するのだという。なぁんだ、と思ったついでに、前から読みたかったブレーズ・パスカル『パンセ』前田陽一、由木 康 翻訳の中公文庫版を古本屋で買った。

ミャンマー在住の若い友人が帰国して息子と居室内に逼塞していることがわかったので、隣人数名が声かけあって友人宅に集い、土曜日は緊急事態宣言解除後はじめてのソーシャルディスタンス飲み会をし、「ミンガラーバー!」と挨拶する。

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【言葉の肌ざわり】

2020年5月27日

【言葉の肌ざわり】

汎神論、たとえば新型コロナウイルスが生き物か生き物ではないかなどはどうでもよくて、すべての〝物〟は心に似た性質を持っている、そういう意味で〝コロナ〟にも心があるという考え方がらみで、真偽当てチューリングテストの話を読んでいて脱線。

相変わらず杜撰なスパムメールが届く。その日本語の細部が明らかに大企業の公式アカウントは使わない言葉の質感を含んでいるのが面白い。精読するのではなくさっと上っ面だけ撫でるように読み流すと独特な〝言葉の肌ざわり〟があるのでこれは〝真〟これは〝偽〟とわかる。

こういうメールを、いきなり意味にひかれて精読してしまうような人が騙されやすいのだろう。人を疑ってかからない善い人なのだけれど、真面目すぎて、几帳面すぎて、真剣すぎる人。わが家にもそういう人がひとりいる。電話の応対でも肌ざわりはわかるので、自分なら「ああ、結構!」と神経反射的に切ってしまうのだけれど、わが家のもうひとりはそうではない。先日も騙されかけたので自宅の電話はかけられるけれど、かかってきても鳴らない設定にした。そういうスイッチがあることに最近気付いた。

と書きつつ、自分のネット通販のパスワードが非常に危なっかしいことにも気づいたので、肌ざわりを読みにくい文字列に変更しておいた。

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【失われた2018年】

2020年5月26日

【失われた2018年】

緊急事態宣言発令中はパソコン内の不用品片付けが捗った。デジタルカメラで撮影した写真を整理したらわが家のデジタルカメラ元年は 1997 年で、最初はカメラを買ったのではなく電機メーカー時代の先輩に借りたのだった。それを持ってカメラマンの友人夫婦と気仙沼で大酒を飲む旅をした。写真だけ残って、あの店ももうない。

溜まった 22 年分の写真データは DVD ディスクに焼いて外部保存してあるけれど、古い写真を探すときなど低速過ぎて実用的ではない。TB(テラバイト)などという巨大容量のハードディスクが当たり前になったので試しに用意して書き戻してみたら、今後撮影するであろうデータの分を見込んでも一台のハードディスクにすべて収まってしまう。人間の一生など儚いものだとデータ容量を見て思う。

手間をかけて分散バックアップをするのがバカバカしくなったので、このハードディスク投げ込み方式を死ぬまで続けることにした。コロナ禍をきっかけにした新しい生活習慣のはじまりである。

全部書き戻して点検したら 2018 年の撮影データだけがごっそり無い。バックアップしたつもりで消去してしまったのだろう。諦めようと思ったけれど、人生における一年分の記憶をすっぽり失ったようでひどく悲しい。

緊急事態宣言が解除になり、妻は午後から都バスに乗って外出するという。自分はおとなしく在宅することにして机まわりを片付けていたら、未整理の DVD が 8 枚ほど出てきた。失われていたのは 2018 年のデータではなく、2018 年のデータを外部にバックアップしたという自分の記憶だった。自分の記憶のバックアップに、検索可能な「やったことリスト」の作成が必要かもしれない。

清水区江尻町の甘静舎(1997年)

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【ピリオド】

2020年5月26日

【ピリオド】

「ピリオドを打つ」の「ピリ」は「周囲」、「オド」は「道」を意味するというのがピリオドの語源になっている。ピリオドは周回リズムの一区切りであって終末ではない。当然、第二波も第三波もあるし、そういう小さな波の繰り返しが見られなくなるということは、もっと大きな波の周期に入ったということだ。

世界はそもそも波だ。波がなくなるとしたら世界が終わるのではなく一区切りに到達しただけで、そこからまた爆発するように大きな波が生まれる。

その巨大な世界の中心に小さな食卓がある。そこで毎朝 7 時半になると、ごはんを食べながら NHK BS で朝の連続ドラマ『エール』を見ている。7 時 40 分ごろになると決まって大通りから大きなエンジン音が聞こえはじめ、テレビの音量を上げないとセリフが聞き取れなくなる。毎朝、定時に活動を開始する勤勉な人たちが運転するトラックや二輪車が、エンジン音を響かせて交差点を通過するのだ。

こういうことまで、きちっとした 24 時間の概日(がいじつ)周期になっているのがおもしろい。サーカディアンリズムという。世界は極小から極大にいたるまで、周期をもって繰り返す波でできている。

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【善き隣人】

2020年5月25日

【善き隣人】

買い物に出かけようとしたら一階ロビーで住民から声をかけられた。一人暮らしの老人に見当識障害が出て徘徊しているのを見つけたらしい。声かけしてソファに座らせたもののどうして良いか分からないという。コロナ禍のため管理会社も業務を縮小し、しかも日曜なので管理人もいない。わかりました、あとは引き受けますと言って住民を解放したものの、半裸同然の女性の介助は男一人ではどうにもならない。

携帯で電話して、マンション内の友人三人と妻を呼び出し、皆で支えて自宅に戻し、室内を探して介護に入っている事業者名を見つけ、電話してヘルパーさんを呼び出した。一人ではどうにもならないことでも五人いれば手分けし、知恵を出し合ってなんとかなるものだ。

「善き隣人とはなにか」という問いへの答えにはさまざまな解釈があるけれど、善き隣人の第一条件を自分なりに言えば「顔を覚え、名前を覚え、挨拶ができる」ことだろう。それさえできれば人は現実の場でつながり合える。助けてほしいと言える。徘徊した老人は自分の名前も、自分の住まいも分からなくなっていたけれど、本人が何も言えなくても集まった友人たちはちゃんとその人の名前と部屋番号を知っていた。

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【言葉と感染】

2020年5月24日

【言葉と感染】

人生の3分の2を富山県人と家庭を持って暮らしているので、富山弁がかなり日常語に感染してしまっている。

コロナ騒ぎが始まってから理容室に行っていない。髪がかなり伸びてきたので額のあたりにかかる毛先が気ざわりで、「ああ、うざくらしい」などと富山弁が出る。「うざくらしい」は北陸でよく使われる言葉らしく、妻は「うじゃくらしい!」と強い語調でも用いる。

他地方の言語に感染する度合いは女性より男性に顕著かもしれない。妻はいつまで経っても静岡弁に感染せず、友人たちの奥さんもそうらしい。おそらく動物のオスがそうであるように、流れ者となって他の群れにまぎれ込み、自分の居場所を得るため、すすんで方言に感染しようとする性向がオスにあるのではないか。

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【炎鵬より】

2020年5月24日

【炎鵬より】

青空を背景に緑萌える川の土手で、力士が荷台に箱をくくりつけた自転車を笑顔で漕いでいる。そういう写真が表紙に使われた冊子が食卓の隅にあり、
「これ誰だと思う?」
と妻が聞くので
「遠藤」
と答えたら
「違う、炎鵬」
と言う。惜しい、どちらも石川県出身である。

西武百貨店の中元カタログで、炎鵬がはじめてのお中元に選んだのは「サマーチーズ」だという設定になっている。届け先がわが家だったらいいなあとカタログでサマーチーズを見ながら思う。

「箱あり炎鵬より来(きた)る、また楽しからずや」(論語・学而編より)

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【面さまざま】

2020年5月23日

【面さまざま】

 

昨日、郵便受けに政府支給の布製マスクが入れられていた。

近所を歩くとおもいがけない店の前に箱入りマスクが積まれ、「仕入れ値でいいから買ってください」などと書かれて下落しつつも断末魔的に法外な値がつけられている。本当に仕入れ値ならもっと値上がりするまで寝かせておくつもりだったのだろう。巣鴨地蔵通りにも我慢しきれず軽トラのゲリラ的路上マスク屋が出ている。マスク闇市。市場はそもそも闇である。ニュースの話題はフェイスシールドなど次に移っている。

小学生時代は東京下町の工場地帯で過ごしたので通学路に町工場が多く、パチパチと音を立てて溶接作業をしていた。立ち止まって眩しいアーク光を見ていると、手に持った面を外したおじさんに
「こういう面をしないで見てると目が潰れるぞ!」
と叱られた。あの作業用の面を溶接遮光面(ようせつしゃこうめん)という。漢字はわかりやすい。

対面使用のフェイスシールドは密接遮蔽面と言えるかもしれない。買い占めの使い捨て感冒遮蔽面から、いまごろ届いた官房裁断面を経て、市場ではいま夏用に、薄手の太陽遮熱面が売れ筋になっているらしい。

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【観ずれば楽】

2020年5月22日

【観ずれば楽】

 
デカルトのコギト(エルゴ)スムを正しく解釈すれば、山括弧に括られて〝ある〟がいきなり〝ある〟ように、〝楽〟を観ずればすなわちいきなり〝楽〟であってそれが楽観というものだ。〝ある〟も〝楽〟も感じ方であり、端的に〝ある〟ので言葉で後付けては言えない。〝楽〟もまたいきなり〝楽〟なのだ。
 
母は「生きてるだけで丸儲け」という言葉が好きで、好きなくせにひねくりすぎて、実生活でその言葉の運用を間違えていた。だから息子はその〝言葉〟が好きになれない。
 
 
「おっかさん、そりゃ違う、それを言っちゃおしまいよ」とフーテンの寅になりかわって諭すつもりで、墓石には「楽」の一文字を刻んでもらった。ラテン語の optimus(楽観主義オプチミスムはここからきている)ではわかりにくいので漢字にし、母が「別れたのは間違いだったかもしれないね」と言っていた夫(わが父)の書いた筆文字にしておいた。ただ端的に一文字〝楽〟である。
 
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