「これはたいへん!」

2014年8月28日(木)
「これはたいへん!」

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ほぼ一貫して通信簿に「落ち着きがなく協調性がない」と書かれ続けていた。母親はいつも苦笑いしながら、いいかげんに自分で何とかしろと言っていた。何とかしろと言われても思い当たる節がなく、自分では十分に落ち着いて協調性もあるつもりでいたが、友人たちがどう思っていたかは知らないし、先生は「落ち着きがなく協調性がない」子どもだと思っていたのだろう。

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クラスでたったひとり、母ひとり子ひとりの母子家庭であることは自覚していたけれど、自分が他の子どもと際だって違うと思ったことはない。ちゃんと静かに授業が受けられていたし、成績は小学校から高校まで常に上位十人以内にいたし、友だちも多くけんかもしたことがないのだ。それでも常に「落ち着きがなく協調性がない」と言われ続けた。

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ただ一つだけ困ったなと思うことがあり、机の中に忘れ物をしたものどもが奥の方で丸まってしまい、それが積み重なって収拾が付かなくなると、やっかいなあれやこれやでいっぱいになってしまうのだ。そういう困ったものが掃除当番の机移動などでドサッと床に落ちて「これはたいへん!」と追い詰められてしまうまで、自分で片付けができないのだ。机だけでなくランドセルの中もそうだった。

03
中学生になってもその癖が抜けなくて、手提げ学生カバンがパンパンに膨れていることが多かった。それに目をつけたのが二年生の時に担任だった社会科教師で、皆の前でカバンの中味をぶちまけられ、ひどく叱られることが多かった。初めて人前で自分の痛い癖を叱った教師は
「お前が母ひとり子ひとりの家庭だということを知っているからこうして叱るんだ」
と真っ赤な顔をして言っていた。

04
その担任が家庭訪問にやって来た。猫の額のように狭い店舗兼用住宅の飲み屋だったので、応接間を兼ねた店のカウンターに腰掛けて、担任教師の家庭訪問を受けた。そして、三年生になって担任が替わっても、しょっちゅうその教師に会うことになるのは、先生が夜になるとやって来る母の飲み屋の常連になったからだ。母は「せんせー、せんせー」と呼んで喜んでいた。

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先生には定型発達をしない娘さんがおり、同じく教師をしていた奥さんと一緒に、その娘さんを連れてよく飲みに来た。カウンターで独特な行動をとってしまう娘さん同伴を疎むこともなく、むしろ喜んで迎える母だったので、先生一家も立ち寄りやすかったのだろう。

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いつもパンパンの革カバンを持っていると笑われながら高校も卒業して大学に進学し、そこで知り合った同級生と結婚することになり、仲人をしてもらいたいと思ったのが不思議なことにその先生だった。二人ともそれぞれ名の知れたデザイナーの元で働いていたので
「将来のことを考えたらそういう人に仲人をしてもらった方がいいんじゃないか」
と言われ、間髪入れずに
「いえ、先生にお願いしたいんです」
という言葉が口を突いて出た。

07
いまでも「これはたいへん!」から次の「これはたいへん!」までの間隔がなるべく狭くなるよう、恩師の真っ赤な顔を思い浮かべて、定期的に身の回りの棚卸しと大棚ざらえを心がけている。そういうありがたい習慣を教えてくれた人に感謝しながら。

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出定(しゅつじょう)

2014年8月28日(木)
出定(しゅつじょう)

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禅の修行に入った状態である禅定(ぜんじょう)から覚めて立ち上がることを出定(しゅつじょう)というらしい。修行とはいえ座ってばかりもいられないので、機をとらえて立ち上がり、掃除や農作業という作務(さむ)を行い、また座って修行にいそしむわけだ。

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書評を商売にしていない人たちがネット上に書いているブックレビューを読むのが好きだ。「寝転んで読めるほどわかりやすい語り口の本だが、時おりはっと気づかされて立ち上がりたくなる」などと書かれていると笑ってしまう。

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自分にもそういうことが思い当たっておかしいのは、ごろごろ寝転んで本を読むことが多いからだ。立っているより座っているとき、座っているより寝ているときの方が楽だからで、余計な筋肉を使わずに疲れない姿勢だと集中して本が読める。

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ごろごろ寝転んで本を読んでいると、時おり「なーるほどー!」と叫んで膝を打ちたい記述に出会うことがあり、ごろごろ寝ていては膝が打てないので立ち上がり、膝を打つだけでは足りなくて「そうか、そうだったのか!」などと思いながら部屋の中をぐるぐる歩き回ったりする。

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犬も嬉しいとぐるぐる走り回るものであり、バカなやつだなぁと笑ったりするが、人もまた嬉しいとぐるぐる回りたくなるものらしい。犬ではないので読書の喜びの余勢を駆って出定し、気が重かった用事を一気に片付けてしまうというのも良い生活の習慣かもしれない。

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転石苔を生ぜず

2014年8月26日(火)
転石苔を生ぜず

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忙しいから辞退したいと後ずさりしつつ、うまいこといわれてマンション管理組合理事を引き受けさせられてしまい、いやいや引き受けて理事会に出てみたら、女の中に男がひとり的な騙し討ちに遭って理事長職を押しつけられてしまった。

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組合活動というものがそもそも得意ではない。その長になるなどもってのほかである。落ち着きがなく協調性がないといつも通信簿に書かれ続けたので、子ども時代は落ち着いて他人と協調することばかりを念頭に置き、気苦労の絶えない人生を送ってきたのだ。

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学校を離れて大人になったら、他人に影響を及ぼさない範囲で自由気まま、共同幻想論でいったら自己幻想の世界で暮らしていたいと思い、だから芸術学科に進み、芸術に毛の生えた換金可能な物づくりを職業にしたのだ。

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ストレスにしろなんにしろ、心の負担になるものから遠ざかって逃げることが不可能なら、逆に負担になるものに笑顔で近づいていくような奇手が、意外と有効な困難回避法だと思っている。気に染まないことをやらなくてはならないと観念したら、逆に積極的にやってみることが自分を楽にする突破口となる。

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そう思ってやってみると、組合の理事長職というのも案外面白い。自分に合わないと思っていることには意外性があるからだろう。頻繁に管理室から声かけがあって、理事長に会いたいと訪ねてくる者たちの相手をする。世の中にはいろんな人がいて、まるでドラマのようにいろんなことが起こり続けている。

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今日もまたこんな面白いことがあったとネットに向かって大声で言えたら楽しいだろうと思うけれど、理事長のブログをネットで読みましたなどと言う若い女性理事もいるので、滅多なことを書けないのが残念で仕方がない。そんなわけで、嫌で嫌で仕方ない組合理事長を、なんでこんなにバカなことばかり起こるのだろうと面白がりながらやっている。

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転石苔を生ぜずという言葉は、「活発な活動を続けている者は、いつまでも古くならないことのたとえ」と大辞林にあるけれど、「活発な活動を続けていようと心がける者は,過ぎたことのつまらぬ連関に心が囚われている暇がない」と解釈した方が、心理学的にも仏教学的にも正鵠を射ているように思う今日この頃である。

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日々是好日

2014年8月24日(日)
日々是好日

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代々木ゼミナールが少子化の影響で全国17都道府県に展開している予備校を七校に集約するという。そんなニュースを読んだら「日々是好日」という禅語を思い出した。高校卒業後上京し、一年間代々木ゼミナールに通い、校舎内のあちこちで「日々是決戦」という張り紙を見て過ごした日々があるからだ。

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歳をとるにつれて毎日代わり映えのしない穏やかな日々が続くことが好きになり、盆や正月やクリスマスがやってくると煩わしさと嫌悪感で気が塞ぐ。そして社会の喧噪が去って代わり映えのしない日々が戻ってくると、ほっとして安らかな気持ちになる。

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子どもの頃からそうだったかというとそうでもない。ふりかえれば西暦2000年代に入り、親たちが大病をしたり老化したりで急激に衰え、三人の年寄りの世話で振り回されるようになった。その十年以上に及ぶ体験が、代わり映えのしない穏やかな日々が続くことこそが、至上の喜びであると感じさせるようになったのだろう。

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週五日間、1時間以上かかるさいたま市まで義母の介助に通う妻がいて、週末は一緒に付き添って通っている。山の手線から京浜東北線に乗り換える田端駅ホームでは、1番線ホーム側壁にしがみついている植物の生育情況を眺めるのが好きだ。これもまた代わり映えのしない穏やかな日々の楽しみの一つである。少なくとも、義母が存命中はこういう人生が好きでいるだろう。それから先のことはわからない。

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虫退治

2014年8月21日(木)
虫退治
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子どもの頃、よく面倒をみてくれた伯母が母に
「この子は疳(かん)が強いじゃないだか」
と清水言葉で心配そうに言っているのを聞き、疳とはなんだろうと気になり、気になったせいかそのやりとりをいまだに覚えている。

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小学生時代は前髪が長く、横わけにしないと目にかかって鬱陶しいのだけれど、手でかきあげるのが面倒でよく頭を振っていた。その動作を見た伯母が、この子は疳の虫が疼きやすい体質なのではないかと心配したのだろう。

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疳は同じやまいだれの癇を簡略化して書いたのではないかと思われ、ひきつけや興奮や痙攣など神経質の症状をいう。昔の人は体内にいる疳の虫がそれを引き起こしていると考えていた。

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疳が強いというのは、この子は勘がいい子だと褒めているのだろうか、それにしては眉をひそめて小声で言うのがおかしいな、と訝しく思ったものだった。

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疳の虫封じという奇妙な習俗がある。幼児が夜泣きをしたり、興奮したり、ひきつけを起こしたりするのは、体内にいる疳の虫のせいだということで、まじない的な民間療法の対象となってきたのだ。

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祖父母に預けられていた幼い頃、親元を離れたさみしさのせいか、一日中めそめそと泣いて過ごすことがあり、業を煮やした祖母に灸をすえられたことがある。

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泣き虫もまた疳の虫封じの対象であり、その療法のひとつが鍼灸だったのだけれど、泣く子に痛熱い灸をすえるのは体罰でしかない。

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熱いのはお前じゃない、お前の中にいる悪い疳の虫が熱いと悲鳴をあげているのだ、退治しているのだから我慢しろというわけだ。疳と濁る濁らないの差で似ているガンの治療に関しても、ちょっと考えさせられる思い出になっている。

 

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咳払いと落下

2014年8月18日(月)
咳払いと落下

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クラシックのコンサートで演奏中に聞こえる咳払いや持ち物を落とす音は気になる。静謐な緊張感がたかまるときを見計らったように「ゲホン!」とか「バタン!」とかが会場に響くのでなおさら腹が立つ。

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他人のことはさておき、自分だけは演奏中に「ゲホン!」や「バタン!」をやらかすまいと自らに緊張を強いるのは辛い。他人の失態が不快であればあるほど、自分を抑圧する気持ちに力がこもるからだ。

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他人の失態が不快で、自分を抑圧する気持ちに力がこもる人ほど、やってはいけないときに「ゲホン!」や「バタン!」をやらかしてしまうという、不幸な現象があるのではないだろうか。神経質者治療について書かれた本を読んでいてそう思う。

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ヤマ場に静謐な緊張感に満ちたときがやってくるという形式は芸能のジャンルを問わずに存在するけれど、クラシックのコンサートほど「ゲホン!」や「バタン!」が問題になることがないのが不思議だ。

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実は、クラシックコンサートでは「ゲホン!」や「バタン!」を慎むべきであるという自らへの戒めと、そういうことをやらかすのが自分ではないかという不安と、目くじら立てるクラシック愛好家たちの存在という共同幻想による心的圧力が、ここぞというときに「ゲホン!」や「バタン!」を発生させているのではないだろうか。

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夏の煩悩草むしり

2014年8月15日(金)
夏の煩悩草むしり

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静岡県清水に墓参りをするときは墓掃除と草むしりをする。墓掃除と草むしりのやり方は亡き母親にいやというほど教わった。母親は墓参りが好きな人だった。

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秋から春のそれとは違い、いのち燃え立つ夏の墓参りは、墓のまわりがひどく草むしているので掃除のしがいがある。青々と生い茂っているものを根こそぎむしり取ることもまた殺生なので、墓のまわりでそれをするのは気持ちのよいものではない。

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草を引っこ抜くときのブチッという触感が嫌いで、かけがえのない生命を奪っているようで胸が痛む。墓のまわりが命であふれかえっているのも悪くないではないかなどと思って、草むしりをやめてしまいたい気持ちになることが多い。

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だいたい仏教の第一は不殺生だし、そもそもお墓は仏教と関係など無くて、お釈迦様には墓などないのだ。さらに自分のご先祖さまという概念自体が、仏教の教えに相応しいものではないはずなのだ。

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何とも釈然としない思いを胸に草むしりをし、汗だくになって線香をあげ、腰をおろし手を合わせて墓参りを終え、それでもすっきりした気分になっている自分がいる。

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そしてよその墓が草ぼうぼうになっているのを見ると、たまには墓参りをして草むしりをすればいいのに、ご先祖さまも草に埋もれてさぞや切なかろうなどと、正反対のことを考えている自分がいる。自分に対してと他人に対してのものの見方が狂っているのであり、それもまたひとの煩悩なのだろう。

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道をつくる

2014年8月15日(金)
道をつくる

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文京区の北端に住んでいる。さまざまな事情が重なって、バスの利用者が減ることと本数や路線が減ることのいたちごっこに陥ってしまい、引っ越すわけにもいかない者の暮らしにくさが高じ、その一方で、それを補うような取り組みもある。

01
駒込駅あたりではミニバスの利用が可能で、区境なので文京区のB-ぐると北区のKバスが走り回っているのをよく見かける。

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ミニバスの真骨頂は、大型の路線バスが通らない思いがけない道を路線に含むことで、思いがけないところにバス停ができ、思いがけない人々が「百円バス」と呼んで手軽に利用している。

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運行者側と利用者側によって見捨てられた大通りでなく、思いがけない道を抜けて行くことで新たな人の循環を作っているわけで、まちなか循環バスの取り組みというのはこうあるべきだと思う。

|六義園脇に停車した文京区のB-ぐる|

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知らなかったので思いがけなかったのだけれど、文京区のB-ぐると北区のKバスは、同じ条件の切符なら相互利用が可能になっている。

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行政区画を越境していくこともまた新たな道の開拓であり、そういう利便性を理解する人びとを乗せた満員のミニバスが、ちょろちょろ走っているのを見るとちょっと嬉しくなる。

 

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米の量

2014年8月14日(木)
米の量

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2013 年 12 月 21 日には、こんなことをつぶやいていた。

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富山の農事組合法人ファーム八乙女に越中井波「八乙女米」玄米 30kg を注文した。今年 6 月に注文した 30kg をようやく食べ終えるので、わが家は夫婦ふたりで年 1 俵(60kg)食べる計算になる。武士の俸禄は夫婦 2 人扶持だと 1 日 8 合、1 俵は 400 合なので 50 日分となる(計算してみただけ)。

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2014 年 8 月 5 日には、こんなことをつぶやいていた。

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宅配便の配達人が 30kg の富山米を持って来たので「ここに置いてください」と言ったら「うーん」と唸りながら「どすん」と置いた。昔の米屋や酒屋は「うーん」などと唸らなかったので、現代人は重いものの持ち上げ力が弱っているのだろう。配達人が帰ったので「うーん」と唸って位置を移動した。

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昨年末に届いた 30kg の米をおよそ 8 ヶ月かけて食べ終えることになり、 同じように食べているつもりでも、わが家における夫婦ふたりの米消費量は、昨年度に比べて年 3/4 俵(45kg)に減ったわけだ。加齢とともに米の消費量も減っていくのかもしれないが、予想外の急な右肩下がりに「うーん」と唸る。

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2014年8月13日(水)

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空の虹をひとより先に見つけた経験はほとんどないけれど、一人遊びの中でいろいろなものに小さな虹を見つけたことはよくあるし好きだった。

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母親の裁縫箱を開けると、貝殻で作られたボタンは角度ごとに変わる小さな虹をもっていたし、小さな紙の包みをあけた中にある銀紙も、銀紙の中にびっしり並んだピカピカの縫い針たちも、顕微鏡のような目で拡大して見ると一本一本の表面が極小の虹を宿していた。
 
02
雨の路上に自動車がこぼしていったオイルも、晴れた空におさな子たちが吹き上げるシャボン玉も、やはり虹となって世界の不思議を物語っていた。

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パソコンモニタの前においた iPod Touch のうすい透明ジャケットが美しい虹を作っていた。ただそれだけのことなのに写真をとったり日記に書いてしまうのは、虹が物語りだから。

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空の鉛筆キャップ

2014年8月12日(火)
空の鉛筆キャップ

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バス停でのバス待ちは退屈なのでぼんやり空を見上げることが多い。特養ホーム入所中の義母に面会するため通っているさいたま市では、電柱上部に被せられた鉛筆キャップのようなものが気になる。

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どうして気になるのだろうと思って確かめてみたが、少なくとも住まいのある六義園界隈で鉛筆キャップをかぶった電柱を見たことがない。この歳になって初めて電柱にかぶせる鉛筆キャップの存在を知った。

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この鉛筆キャップは GW キャップといい、GW は英語でグランドワイヤのことだ。日本語では架空地線(かくうちせん)といい、落雷によって電線が切断されるのを防止するため、電柱の一番上に取り付ける線のことをいう。

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電柱をつないで横に伸びてゆく電線が、上に渡された架空地線を傘とする範囲内に入ることで、落雷による断線を避けているわけだ。関東平野も山岳部に近づくほど雷の発生が多くなるが、さいたま市見沼区では GW キャップのある電柱を当たり前に見る。

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編集委員をしている季刊清水の編集会議で帰省し、清水区大内にある寺で墓参りをし、北街道沿いにあるしずてつジャストライン大内観音入口バス停でバス待ちしていたら、道路脇の電柱が埼玉とは違う GW キャップをかぶっていることに気づいた。

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近所の GW キャップをかぶっていない電柱の落雷対策はどうなっているのだろう、かぶらなくてもちゃんと架空地線が張られているのだろうかなどと、外出時は電柱の上ばかり見上げているので首が痛い。

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鮎と魔術

2014年8月11日(月)
鮎と魔術

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ウェブブラウザで電子書籍を読むボイジャーの BinB ★1で池澤夏樹が読めるというので四編ほど買ってみた。文字量がまちまちだがどれも百円だった。

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『鮎』がなかなか面白い。もとはスペイン語圏の民話らしきものを英語で読み、それを記憶の片隅に置きつつ日本を舞台に日本語で書いたものらしい。芥川龍之介の『魔術』も同じようなからくりで書かれているので、どこかに原型となる話があるのだろう、という著者による注があった。

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青空文庫で芥川龍之介の『魔術』もダウンロードして読んでみたが、こちらもたいへん面白い。さまざまな国のさまざまな言葉をもちい、さまざまな状況を設定して語られても面白いのであるなら、そもそも民話として語られる世界の骨組み自体が良くできているのだろう。

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数分で読み終わるような掌編を百円玉と交換して読むという体験もまた面白い。電子レベル読書法と対価についてのさまざまな体験を経て、リピーターとなるかどうかは、それぞれの読み方による魔術のかかりぐあいによるのだろう。

★1 BinB
http://binb-store.com/

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白と黒の宴

2014年8月10日(日)
白と黒の宴

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白い食べ物が無性に食べたい時があって、その筆頭はなんと言っても炊きたてのご飯だ。白米になるまで精米した米粒は、豊穣の秋の果てにある枯れ野で、矢をうけて失血死した極小のイノシシのようだ。

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身体に良くないのではないかと思うような黒い食べ物が無性に食べたいこともある。そういうものはたいがい、火を放たれて黒焦げになり、雨に濡れそぼって大地に帰りながら、来るべき春の芽吹きを待つ焼かれた畑のような味がする。

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白と黒の食べ物が隣り合わせになった料理が無性に食べたいときがある。白黒の鯨幕(くじらまく)が凶事を表すのは明治以降のことであり、かつては神へと繋がる慶事にもその組み合わせは用いられていた。白黒隣り合わせの料理には生と死が渾然となった祈りがある。

※写真は大好きな万定フルーツパーラー(文京区本郷6丁目)のカレーライス

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つゆのいろ

2014年8月8日(金)
つゆのいろ

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関西出身の友人が、就職のため上京して蕎麦屋に入り、真っ黒いつゆを見てこれを飲むのかと驚いたという。静岡県清水生まれで小学校卒業まで、学校のあるときだけ東京暮らしという変則的な育ち方をしたが、真っ黒いめんつゆを見ても抵抗はない。

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郷里の蕎麦屋もめんつゆは見事に真っ黒であり、徳川将軍家旗本御家人10万人以上が移住した土地であることも理由の一つにあるかもしれない。いまはもう東京のカレー南蛮は腰が砕けて黄色くなってしまったけれど、郷里の蕎麦屋ではいまでも真っ黒いカレー南蛮が出てくる。

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大好きなカレー南蛮を食べるなら郷里静岡に限ると半ば諦めているけれど、カレー南蛮でなければ東京でもまだ、どすんと腰の据わった真っ黒く濁ってほろ苦い旨味のあるつゆで温かい蕎麦を出す店がある。

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二十年以上通い続けている近所の蕎麦屋★1もまたそういう店で、ときどきあの「どすんと腰の据わった真っ黒く濁ってほろ苦い旨味のあるつゆ」で天ぷら蕎麦を食べたいなと無性に思う。

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「おまちどおさま」と目の前に置かれた丼の中をのぞき込むとき、まるで吸うか吸われるかの戦いを挑みかけるかのような漆黒の宇宙がそこにある。

★1 本駒込二丁目の松月庵。ここのカレー南蛮も清水ほどではないけれど悪くない。

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