骨の折れる話

 海辺の町で生まれ育った母親は魚好きで、海の汚染が問題になって魚の不買運動が起きたときも、急に魚を食べない暮らしなんてできない、大好きな魚を食べて死ぬんだったらそれで本望だ、などと言って笑っていた。

 魚好きなので魚の食べ方も上手くて、焼き魚など皮も腹わたも残らずなくなってしまい、猫が跨いで通るくらいにきれいに食べるのが自慢だったが、一度だけ骨を喉に引っかけてしまい、目を白黒させて苦しんだことがある。
「骨が喉に引っかかったら、ごはんをひとくち丸呑みすればとれるから慌てたり騒いだりするな」
が母親の口癖だったのだけれど、ごはんを何度丸呑みしてもとれなくて、慌てて大騒ぎしている。あまりに苦しげなので手当たり次第に電話をかけ、近所の内科医が時間外だけれど診てくれるというので大急ぎで出かけていったら、ピンセットでこともなげにつまんでひょいと抜いてくれたという。

 大好きな魚を食べて死ぬなら本望だなどと言っていたくせに、骨を喉に詰まらせたくらいで騒ぐなと言って笑ってやったら、
「死ぬのと痛いのとは違うよ」
などと、わけのわからないことを言っていた。

 若い頃、妻とその母親を連れて旅をしたら、妻が魚の骨を引っかけてしまい、目を白黒させて苦しんだことがある。指定席をとった列車の時刻が迫っていたので慌てて飛び乗ったが、骨が抜けなくて痛いと涙ぐんでいる。丸呑みさせるごはんもないので口をあけさせてのぞき込んだら、思ったより近い場所に刺さっている骨が見えた。箸使いには自信があるので、手元にある割り箸をピンセットがわりにして抜いてやろうと言ったら、義母が
「危ないからそれだけはやめて」
と言う。痛がっている本人がかわいそうだし、箸の使い方には自信があるし、本人も信頼して口をあけているのだから、黙って任せてくれと言うのだけれど、とても見ていられないと言う。見ていられなかったら景色でも見ていてくれと言うわけにもいかず、結局新幹線の乗り継ぎ駅に着いてしまった。

 涙を流している娘と、それを見ておろおろしているだけの母親を連れて新幹線ホームに出たら、湯気を立てて饅頭を蒸している売店があったので餡饅をひとつ買い、お母さんに見えないように丸呑みしろと言ったら見事に抜けたという。

 そんなわけで、魚の骨を見ていると、生命と危険と痛みが喉の奥に引っかかったような、なんとも間の抜けた話を思い出す。

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トウモロコシの王国

 十二人の子どもたちを育て上げて昭和三十年代の祖父母はすでに現役を退き、できることをして跡継ぎ夫婦を手伝い、ときには孫たちの世話をしながら平和に暮らしていた。

 決して豊かな人生とはいえなかったけれど、祖父は自転車で行ける程度に離れた場所に小さな畑も買って持っており、遊ばせておくのももったいないと思ったのか、手間のかからない自家用野菜を植えていた。叔父が運転する軽三輪トラックに乗って収穫に行くと、夏の畑は一面ザワザワと揺れるトウモロコシの王国になっていた。

 それは家族全員で毎日食べなければ追いつかないほどの実りであり、トウモロコシというのは収穫直後ぐんぐん味が落ちるので、夕方近くになると叔父と二人で毎日もぎに行くのが日課だった。収穫して持ち帰るとさっそく祖父母と一緒に土間にしゃがみ、皮をむいてヒゲを抜き、七輪に炭火を熾して金網をのせ、醤油を塗りながら大量の焼きトウモロコシを作った。

 祖父はむいたトウモロコシの皮を集めて折りたたみ、束ねた根元を皮で縛ってぎゅっと結び、葉脈に沿って葉をほぐし、トウモロコシの葉で簡便なブラシを作った。そのブラシに醤油をつけてトウモロコシに擦り込み、もうもうたる煙と香ばしい匂いをたてさせ、それを何度も繰り返して醤油焼きするのを手伝った。

 出来合いのブラシではだめで、トウモロコシにはトウモロコシのブラシでないと、美味しい焼きトウモロコシにならないというのが祖父の持論だった。子どもの頃は、なるほどと感心し、おじいちゃんは何でも知っていて偉いなぁと尊敬もしたが、大人になってみれば、トウモロコシのブラシで醤油を塗ると焼きトウモロコシの味が上がるなどという、ちょっと信じがたい話を真に受けることはなくなった。けれど、孫でもいたら
「出来合いのブラシじゃだめなんだ、トウモロコシにはトウモロコシのブラシでないと、美味しい焼きトウモロコシにならないんだぞ」
などと言って、まことしやかなことを教えてみたいと今でも思う。

 よい大人になるということは、理屈に合わないこと、科学的に証明できないことを笑ったり、取り合わなかったりする知恵を身につけることではなくて、理屈に合わない非科学的なことだけど、笑って切り捨てるには惜しい大切な教えが潜んでいるということを、理解できるようになることなのだ。流行り言葉で「リスペクト」などとカッコつけて言う必要はなくて、年寄りはもちろんのこと、どんな生き物にたいしても、敬意をもって接することができる大人がカッコイイ大人なのだ。

 トウモロコシを中心とする農業を主体にして、誇り高い独立性をもって生きるホビ族のことを、中里さんの絵を見ていて思いだした。

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