電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
▼アスカルゴ
東京都北区王子、桜の名所北区立飛鳥山公園。王子駅前にある「公園入り口駅」から標高18メートル上にある「山頂駅」までの、全長48メートルを2分かけて結ぶ飛鳥山モノレール、愛称アスカルゴ。無料なので一度乗ってみたいのだけれど、この日はお花見日和ということもあって長蛇の列ができていた。
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3月27日、公園入り口駅を出発して山頂駅に向かうアスカルゴ。
▼バナナ バナナ バナナ
twitterにkamenoyuというアカウントをつくり、140字ぴったりでつぶやきを投稿しています。長くなりがちなひとかたまりの文章の贅肉をそぎ落としてぴったり収める作業がとても面白いからで、まとまったところでアップロードする日記です。ひとかたまりの文字がぴったり140字です。(以上140字)
小学生だった昭和三十年代、バナナはとても高価な食べ物だった。小学生の小遣いが1日10円だった時代に1本100円もした記憶があるので、病気にでもならないと食べられない夢の果物だった。日本の外貨準備高が少ないため輸入割当制度があったことが、当時のバナナの値段をつり上げていたのだろう。
1962(昭和37)年、その高価な輸入バナナが大量に焼却される騒ぎが起き、輸出国台湾で流行したコレラの菌がバナナに付着して国内に入ることを恐れての措置だった。それをきっかけにして南米バナナが輸入されるようになり、自由化もあって次第に庶民の口に入る身近な果物になっていったのだった。
ずんぐりした台湾バナナより長くてすらっとした南米バナナの方が、子ども心には量が多くて得な気がしたのだけれど、おとな達は「南米バナナはだめだ、台湾バナナじゃなきゃ旨くない」といい、確かに台湾バナナの方が味も香りも濃厚だった。とはいえ青いくらいの南米バナナの味も好きだったのだけれど。
最近は青い南米バナナも、ずんぐりした台湾バナナも近所のスーパーでは見かけなくて、フィリビン産ばかり食べている。足が良くつると言ったら毎日バナナを食べろと教えてくれた人があり、昨夏から毎朝食べ続けているけれど本当に足がつらなくなった。子どもの頃から足がつる体質だった事が夢のようだ。
バナナの効能に関しては産地に関係がない気がするけれど、子どもの頃に感動したいかにもバナナらしい甘みと香りが乏しい気がして、もう一度台湾バナナを食べてみたいと時々思う。けれど、わざわざ遠くの気張った果実店に買いに行くほどのものじゃないなという気もして、毎朝フィリピン産を食べている。
▼ポカン・ポカン
子どもの頃『ポカン・ポカン』という歌が流行り、ザ・ピーナッツだったか梓みちよだったかは忘れたけれど好きでよく歌っていた。三木鶏郎作詞作曲ののんびりとした歌詞とわかりやすいメロディが、子ども心に親しみやすかったのだと思う。中でも春の部分が好きで、この時期になるとふと口ずさんでいる。
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3月22日、本郷通りのポカン。
春夏秋冬の中でも、春の雲はとりわけ輪郭がねむくて、フワフワとした綿菓子のような塊を見ると『ポカン・ポカン』の歌を思い出す。自然の造形の中でも雲ほど人の心を和ませるものはないような気がし、とくに春の雲のような可愛らしいものに癒されるのは、それが手の届かない所にあるからかもしれない。
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3月22日、染井銀座商店街のポカン。
▼散髪と辛夷(こぶし)と餃子
身体髪膚、髪の毛といえども自分の一部であり、それを切り落とされながら眼を閉じ無念無想でいる事は、頭と共に心も清浄になる気がするので、あまり散髪中に話しかけられたくない。幸い余り話しかけられず、少しうとうとするような心地よさの中で散髪を終えて外に出ると生まれ変わったような気がする。
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花のすぐ下に小さな緑葉があるので辛夷とわかる。
清々しい気持ちで理容室を出て、本郷通りから小路に折れたら見事な辛夷(こぶし)が咲いていた。毎年見事なのだけれど、今年は異常気象のような暖かさの中で一気にドンッと咲いたせいかいっそう見事な気がする。辛夷の花を見ていたら餃子の皮に見えてきたので餃子の王将に寄り生餃子を買って帰宅した。
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辛夷の咲く街角にて。
▼粗大ゴミの出し方
マンション大規模修繕にともなって老朽化した住まいのリフォームが必要となり、リフォームついでにずいぶんと粗大ゴミが出た。4年間かけて無人となった郷里静岡県清水の実家を片付けたけれど、粗大ゴミは車に積んでゴミ焼却場に持ち込んだり、月1回の申し込みによる個別回収等を利用させてもらった。
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有料粗大ごみ処理券は、A券(200円)とB券(300円)があり
それを組み合わせて規定の料金を払う。
その清水の清掃工場が老朽化のため操業を止めているという。そういえば清水で無料だった粗大ゴミ回収が文京区では有料で、布団を例にとれば有料粗大ごみ処理券B券1枚が必要で300円かかる。清水では可燃ゴミの日に縛って出したら持って行って貰えたことをありがたく思い出しつつ、紐で小さく縛る。
▼清水帰省の夢を見た(つづき)
清水帰省した夢の中で話しかけてきた同年配の男性に「清水じゃないですね?」と言ったら清水出身だというので、出身じゃなく今の住まいだと言ったらやはり他県在住だという。どうしてわかるのかと聞くので、清水在住なら100字以内で話せることを、丁寧に140字くらいで話されるからですと答えた。
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たぶん黄梅じゃないかな、違ってたらすいません。
「他地域の人に伝わるように話すと文章が長くなり、ユニバーサルデザインな話し方になるんです」等と怪しい理屈をこねたりするのはtwitterなどをやっているせいかもしれない。またお会いしたいからと言って名刺を渡そうとしたら、どうしても見つからずに苦労した。夢の中はうつつより人恋しい。
▼清水帰省の夢を見た
郷里清水に帰省する夢を見た。路地裏で蓋をされ暗渠になった水路跡を発見したので写真を撮っていたら、通りかかった高校生たちが「昔はどうしようもないドブ川だったんです。そこに橋が架かってました」と言う。「本物を見たことある?」と聞いたら「はい」と言うので、一昔前までは川だったのだろう。
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へぇ~、こんな風に若葉が出るのかと可愛く思う木々の芽吹き。
そんな話しをしながら、自分が高校生たちをつかまえて落ち着いて会話が出来るほど、オジサンらしい年齢になったんだなと思うと感慨深く、「写真撮ってやるからそこに並べ」などと笑いつつ記念写真を撮った。夢なのでもちろん写真は残っていないけれど、ぶらりと旅行に出たような楽しい帰省の夢だった。
▼納豆とドコモバ
嫌いだった糸引き納豆が突然食べられるようになった話は何度も日記に書いた気がするのだけれど、また書いてみようと思ったのは、日記書きに使い始めたドコモバをくれた郷里清水の友だちが、大の納豆嫌いだったことを思い出したからだ。納豆嫌いの友だちへの感謝を込めて納豆に関する日記を書いてみた。
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意味もなく龍角散のど飴。
一つの段落が140字に収まるよう自分に制限をかけて日記を書き始めたので行数と桁数が常に表示されるドコモバはとても使いやすくそういう用途に向いている。思えばパソコンではなく日本語ワープロ専用機はこんな風に使いやすかったなと懐かしく思い出し、進化が多様化でありえない時代になっている。
▼納豆と家族
糸引き納豆が嫌いだった時代があり小学校高学年まで全く食べられなかった。近所に家族揃って親切な友人がいて、母子家庭の鍵っ子という事情を知っていたせいか夕飯に誘ったり泊めてくれたりし、経済的に決して豊かそうではなかったが、一家五人揃って食卓を囲めるという点においては豊かな家庭だった。
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豊島区立駒込小学校正門脇にて。
炬燵の上にどんぶりいっぱいの納豆が置かれ、子どもたちから歓声が上がり、同級生だった末っ子が「納豆はね、混ぜれは混ぜるほど美味しくなるんだよ」と得意げに説明しながら逆に握った箸でぐいぐいかき混ぜており、おかずらしいおかずが納豆くらいしかないので、これは困った事になったなと思った。
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豊島区立駒込小学校正門脇にて。
どうやって乗り切ったかは記憶にないけれど、その後は納豆を食べるようになって母親を驚かせ、今では大好物になっているので、なかなか美味しいものだと再認識しながら食べたのかもしれない。子どもの好き嫌いというものは、大勢の人と一緒の食卓を囲むことによって克服できる場合が多いかもしれない。
▼新助坂上り下り
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2010年3月13日、新助坂上より(左)。新助坂下の隧道(右)。
27歳の時、中途採用で電機メーカーに勤めることになり、通勤に便利な山手線内で賃貸物件を探した。薄給でも借りられる格安な一軒家を見つけ、この坂を下って見に行ったが、もっと仕事場に近い文京区向丘に決めたので結局縁がなかった。不動産屋に渡された地図を見ながら坂を下った夕暮れが懐かしい。
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2010年3月13日、新助坂から見るJR総武線。
『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷信濃町に上がる坂なり、一名をスベリ坂ともいふ。坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治三十年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。(信濃町と南元町の間を南にくだる新助坂脇に立てられた道標より。昔の木製のものとは文面が違う)
▼波形の手すり
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2010年3月13日、新宿区若葉3丁目にて。
新宿区若葉にて。この手すりを初めて見たので「なるほどー!」と感心した。波形手すり「クネット」といって、全国で導入が進んでいるらしい。義父母の住まいは手すりだらけにしてあるけれど、真っ直ぐな手すりを掴んで身体を安定させるにはかなり力が必要で、力を込めて掴んでいた場所は変色している。
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2010年3月13日、新宿区若葉3丁目にて。
▼ただのワープロ
古い白黒のモバイルギアが欲しいとつぶやいたら、郷里静岡県清水の友だちが死蔵していると言い、箱まで完全に揃った状態でもらってしまった。単三乾電池2本で動き、しかもエネループを内蔵し、反射型液晶なので戸外でも快適に使える。インターネットにつなぐ手段もないのでただのワープロに過ぎない。
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届いたMobile Gear for DoCoMo、通称ドコモバ。
ポメラDM10を使っていたら“ただのワープロ”って良いものだなと思い、もっと画面の見晴らしが良ければいいのに、と思って古いモバイルギアを思い出した。早速届いた通称ドコモバを使い始めたら気持ちがよく、その理由のひとつは、ネットに繋がらない“不自由さという自由”であるような気がする。
▼たいやきわかば
新宿区若葉。昭和28年創業の老舗鯛焼き屋「たいやきわかば」。今から四半世紀ほど前、このお店の左隣にアパートがあり、その一室で若い夫婦が写植屋をしており五月社と言った。指定紙をファックス送信しておくと深夜までに打ち上げてくれ、ドアに張っておいてくれたものを未明に取りに行ったものだ。
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2010年3月13日、四谷駅前。
来来軒があった場所はKFCになり向かいのとんかつ三金は閉店していた。
2チャンネルはすごい装置だと思う。久しぶりに四谷を歩いたので四半世紀前に仲良くしていた写植屋を検索したら「四谷駅からほど近い木造アポートで作業していた五月社は? 」などという書き込みがあった。おそらくそれにコメントしても答えはない。知っている人がいた!と一瞬煌めいて流れて消える。
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2010年3月13日、たいやきわかば。
車で五月社のあるアパート前まで行くと、薄暗がりの中に湯気とあずきを煮る匂いが漂い、たいやきわかばは暗いうちから自家製の餡を準備していた。豆腐屋が未明から頑張る大変な商売だとは知っていたけれど、鯛焼きも心を込めて作ろうと思えばこうなるのかと感心した。繁盛して立派なお店になっていた。
▼石敢當(いしがんとう)
豊島区駒込。話しに聞いていた不思議な風習、石敢當(いしがんとう)の本物を初めて実際に見た。中国発祥、鹿児島県や沖縄県で見られる魔よけの石碑で、とくに沖縄ではよく見かけると聞いていたが、まさか近所で見られるとは思わなかったのでびっくりした。詳しい解説はWikipediaの当該頁へ。
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2010年3月12日、偶然見つけた石敢當。
▼雲
自然の風景を眺めることは人の心を和ませるものだけれど、とりわけ空に浮かぶ雲は我を忘れさせ遠い世界に連れ去る。東京外国語大学跡地から見上げた空にとぼけた形の雲が浮かんでいて、思わず笑みが浮かんでしまう。雲が人の心を連れ去りやすいのは、それが手の届かない遠い所にあるからかもしれない。
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2010年3月12日、東京外国語大学跡地から見上げた雲。
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