【ジーンズが G パンだった頃】

【ジーンズが G パンだった頃】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 12 月 23 日の日記再掲)

初めてジーンズを買ったのは 1970 年大阪万国博のあった年なのでよく覚えている。

高校 1 年生になっていて、やっと長髪が許されて坊主頭を卒業し、多少は色気づいても来ていたようで、母に「 G パンがはきたい!」と言うと意外にも「買ってやる」と言う。
 
昭和 30 年代、G パンと言えば米軍放出品であり、場末の店頭に薄汚れ湿って重くなった古着の G パンが山積みされ、下の方に積まれた G パンは土に帰りつつあるように見えた。

「古着なんてとんでもない、あんなきったない G パンなんかよくはけるよ。あんたはあんなもん、はくんじゃないよ」と店の前を通るたびに言っていた親が、小ぎれいな新品の国産 G パンを商う店が清水にも出来始めて、そんなにはきたいならはかせてやろう、という気になったのかもしれない。

金も出す分、口も出すうるさい母であり、ピチッとしたのを買おうとしたら、「すぐに体が大きくなるんだから大きめのにしておけ」などと言う。「 G パンだけでなく G ジャンも買わないとおかしい」と言い、きっと学生服や背広を息子に買い与える感覚だったのだろう。「寒くなったら下にセーターが着られるように大きめのを買え」などと言い、結局だぶだぶの囚人服、もしくは藍染の作務衣のようなインディゴ姿ができあがったのだった。

清水に介護帰省したついでにジーンズを買いたくなり、さつき通りにあるジーンズショップ『オサダ』に行ってみた。

まだ二十歳そこそこと思える若い店員が勧めてくれる最近のジーンズは最初から古着風であり、もう汚いジーンズがカッコイイ年齢を過ぎ、汚いジーンズをはくと本当にキタナイオジサンになってしまうので、ビシッと色の濃いのを探す。

なんとなく最近の若者が身につけているジーンズに誘導されそうなので、「(あのね、お父さんは 34 年前から清水で G パンをはいていて、松田優作に似てるから G パン刑事と呼ばれたこともあるんだよ)」と言うように、
「あのさ、508 が好きなんだけど 508 はないの?」
と聞くと、ちょっとびっくりした顔をして「 508 はもう製造中止になったんですよ」と言う。
「リーバイスじゃなきゃだめですか?」
と聞くのでそうだと言うと、似た形のを勧められ、店員の顔を立ててそれに決めた。

どうも最近の若い店員は長めに裾上げするようで、帰宅してはいてみたらかなり裾が余るので、「もう少し詰めて貰おうかなぁ」と言うと、母はベッドの上で顔を上げて「そのくらい長い方がいい」などという。1970 年だったら付け加えられたはずの「すぐに体が大きくなるから……」がつかなくなったのがちょっと寂しい。

   ***

写真小:ジーンズショップ『オサダ』。創業は 1969 年と看板にある。
写真大上:『オサダ』の店内。
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写真大下:僕が 1970 年に初めてジーンズを買った巴町の G パン屋。当時も軍隊衣料雑貨も売っていたけれど、今では完全に軍隊物店に特化しているらしい。
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【占有と力】

【占有と力】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 12 月 21 日の日記再掲)

昭和 30 年代の地方都市では、なくてはならない家財道具のように猫を飼っている家が多かったので、猫のいる暮らしは馴染み深い。

「〇〇さんとこの、よくネズミをとる猫が子どもを産んだらしい」
などと聞くと、段ボール箱に入れて貰ってきたりしていたけれど、ひとつ家に飼い猫が増えて増えて困るなどということもなかったように思う。子猫が生まれればよく貰い手が現れたし、よく捨ててもいたし、猫も勝手に屋内と屋外を行き来し、どこかで事故に遭ったり迷子になったり、ノラになって自然死もしていたのだろう。
 
祖母は貰ってきて元気のない子犬や子猫に自分の乳首をふくませることがあったといい、13 人もの子どもを立て続けに産んだので、いつでも乳の出た祖母だった。祖母によると子犬も子猫も、舌で乳首を包み込むようにして上手に吸うけれど、猫の方がふくみ方が巧みで優しく、両前脚を交互に動かして乳房を揉む愛らしい仕草も、よくそんなことを知っていると感心したものだという。
 
子犬や子猫に乳をやったことが知れると祖父はひどく祖母を叱ったそうで、
(1) 自分が作った子どもがふくむ乳首を犬猫と共有することで病気にでもなったら困るから。
(2) 人間さまの乳を畜生どもに与えるのは、みほとけの教えに反するから(そんな教えが本当はなくても)。
(3) 自分で独り占めしたい愛妻の乳首を、実の子ならまだしも、犬猫に奪われるのは我慢ならないから。
などと仮説を立てて、厳格だった祖父の顔を思い浮かべるとひどくおかしい。

旧東海道江尻宿。実家にほど近い東海道と久能道の追分。ふと見上げると窓辺に猫の置物を並べているお宅があり、
「(よくできた置物だけれど、もう少し数を減らして置き方を工夫すればいいのに。あんなにびっしりと間を詰めて同じ方向に並べたら置物だとすぐにわかって面白くないのに)」
などと考えながら見上げていたら、置物が動くのでびっくりした。

かなりの頭数がいて、入れ替わり立ち替わり窓辺の特等席を譲り合っているらしい。きっと厳格な上下関係が確立しているものと見えて、争い事もなくスッスッと入れ替わるのが面白い。さらに同方向を向いて詰め合うことで一度に日向ぼっこできる頭数が増える工夫も素晴らしい。

ただこの方式だと右側面しか暖をとれず、しばらく見ていたら反対向きになるのかしら、その時は最上位のリーダーが
「よぉし、今度は左側っ!左向けぇ~、ひだりっ!」
などと号令をかけるのかしら、と想像しただけで愉快で道端に腰掛けて確かめたくなる。

室内で多数の猫を飼うと、猫同士が感じ合うストレスもあるだろうから、実は日向ぼっこの時くらい顔を合わせたくないだけなのかもしれない、などと想像するとまたおかしく、一頭が偶然逆向きになると、顔を合わせるのを嫌ってオセロの駒が裏返るようにパタパタと逆向きになるのかも知れないなぁ、などと想像したりして、歳をとったらたくさん猫のいる暮らしというのも飽きなくていいんだろうなと思う。

最近はカモメにしろ猫にしろ、場所の奪い合い(譲り合い)の儀式のようなものを見ていると、妙に馬鹿馬鹿しくて気持ち良く、ゴロッと道端で横になりたくなる。

   ***

写真小:右手 3 階の窓に晴れた日は猫の置物が並ぶ。
写真大:大阪の立ち食い鮨屋でもこういう光景が見られるという。行ってみたいが、店の名を失念。
[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

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【ちいちいとちんちん】

【ちいちいとちんちん】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 12 月 11 日の日記再掲)

非常識であるということは、他人に指摘されると恥ずかしいけれど、自分で気づくぶんには愉快なこともある。

清水には昔から「ちいちいもち」という名のお餅があり、和菓子屋などで今も普通に売られていて、ある程度の年齢の清水っ子なら「ちいちいもち」は常識である。

母に「ちいちいもち」ちいちいはなんだと思うかと聞いたら、ちいちいはチュウチュウと同じでネズミのことではないかと言う。ネズミでも大黒ネズミであり、♪ 俵のネズミが米食ってチュウ…しているような豊かな家であることを願い、俵・ネズミ・大黒さまの連想によって創作伝承された餅ではないかと言う。そう思って見ると「ちいちいもち」はネズミに似ている。

広辞苑でちいちいをひくとちゃんとのっている。

ちい‐ちい
(幼児語)
(1)虫。特に虱(しらみ)・蚤(のみ)。
(2)小鳥。特に雀。

♪ ちいちいぱっぱちいぱっぱ…… のちいちいと同じであるなら雀餅なのであり、そう思って見ると「ちいちいもち」は雀に似ている。

僕は虱(しらみ)を実際に見たことがないのだけれど、子どものころ猫を膝にのせてかまうのが好きだったので、蚤(のみ)ならよくわかり、広辞苑のちいちいを蚤とする解釈に従えば「ちいちいもち」は蚤に似ている気もしないではないけれど、なぜ餅が蚤の形をしていなくてはいけないかの必然的こじつけに乏しいので採用しがたい。米食う雀に見立てたのだろう。

清水の高齢者のみならず、全国的に「ちんもち」という言葉は常識らしく、ちゃんと広辞苑にものっている。

幼い頃、年末が近づくとおとなたちの口から「ちんもち」という言葉ををよく聞き、不思議な名の餅だと思った。

僕は「ちいちいもち」から連想して、本当の名は「ちんちんもち」なので大人たちは「ちんちんもち」と言いたいのだけれど、ちんちんという言葉は人前で口に出すのが憚られる言葉だし、ちんちんをいじった手で作ったお餅だと思われてはいけないし、大人には「ちんちんもち」と大声で言えないもっと別の事情があって、「ちんちんもち」と呼ばずに「ちんもち」と気取って呼ぶのだと思っていた。

「今年はちんもちにしようか」
思い出してみれば、そう言うときの大人たちは決まって小声であり、妙に元気がなかった気がする。家族総出のにぎやかな餅つきがも何よりも楽しく、つき上がった餅を親類縁者へお裾分けするのが晴れがましく誇らしかった時代の話である。

旧久能道沿いの米店に「正月用 賃モチ 受け承り中」の張り紙が出て、ちんもちちんちんもちだと思いこんでいた幼い日を思い出し、ちんもちがお金を払ってついてもらう賃餅であることを知って、立ち止まってひとり笑いした。餅をつけない人は賃銭でついてもらうのだ。昔は暮れに賃餅をつく仕事で家々を回る人々もいた。

時の流れのゆるやかな古道沿いの家々でも年越しの準備が始まっている。

   ***

写真上:清水宮加三。天王山遺跡を経てサッカーの日本平スタジアム方向。午後4時半を回るとあたりはこんなに暗い。
写真下:旧久能道、丸山米穀店店頭にて。
[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

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【地図を塗る】

【地図を塗る】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 12月 4 日の日記再掲)

もう何年も前に手がけた本の帯広告に、「ローカルに考え、グローバルに実践する」という言葉があって、いいなぁと思った。

今思い出すと「グローバルに考え、ローカルに実践する」という生き方も良い気がするし、その前に「ローカルに考え、ローカルに実践する」方がもっと良い気がするのが不思議である。それくらいに世界の見え方も変わった。

郷里静岡県清水の中学では社会科の副読本に戸田書店発行の『わが郷土清水』という本を使い、その名の通り、郷土の過去・現在そして未来への夢を分かりやすくまとめたものだった。

介護帰省の度に古道を歩き、旧跡を訪ね、地域の成り立ちの不思議に首を傾げ、その度に帰っていくのも『わが郷土清水』のページの中であり、分かりやすい本というのは永遠に古びないのだなぁと思う。

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に立ち寄ったら資料を貰い、それは清水の地名の由来ともなったという湧き水に関するものだった。

清水では掘っても良い水が出ない地域が多く、祖父母の家もまたブタンガス混じりの不味い水しか出なかったのだけれど、チャンチャン井戸周辺にはなぜか美味しい水の出る井戸があって、不味い水しか出ない地域の人々の暮らしを支えたという。その理由が、もらった資料には書かれていた。

清水という町は、その昔、日本平の東側に海底から浜堤という陸地が幾筋も現れ、その隙間を土砂が埋めるようにして平野ができていったという。自然の干拓事業である。

土砂とともに雨水も浜堤の内側に溜まるわけで、わが母校清水市立第二中学と岡小学校の南東側には小池という池があり、その池の水が地下水脈となって、東側の低地で掘った井戸に湧き出していたのである。

通いなれた旧久能街道が梅ヶ丘町辺りで「かくかくっ」と直角に折れ曲がる不思議な場所があり、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に古地図の写しを見せて貰ったら、昔から「かくかくっ」と曲がっているのに驚くとともに妙におかしくて笑ったことがある。

「かくかくっ」と曲がらずに直進する細道があったのを思い出して入ってみたら、驚くべきことに家並みに囲まれて大きな農地がぽっかりと広がっており、思いもかけない光景だったのでびっくりした。

「そうか!」と雷に打たれたように気づき、大急ぎで自転車をこぎ、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に行き、
「『かくかくっ』の突き当たりの先は今でも農地になっていて、きっと家を建てるには不向きだったはずで、あれが小池の名残なんじゃない?」
と息せき切って言うと、「(やっとわかったか)」と愚かな学友開眼の頃合いを見計らっていたかのように取り出したのが前述の資料だったのである。悟空がきん斗雲型自転車で清水市内を走り回り、「(どうだここまできたぞ!)」と巨大な柱に「小池ここに在りきっ!」と大書したら柱は魚屋の中指だったという清水西遊記である。

帰京後、浜堤と小池の関係を確認するために『わが郷土清水』をめくり、浜堤の位置を示した図版を見つけ、わかりにくいのでコンピュータに取り込んで色を付け郷土好きの友人たちに送って確認してみた。

その過程で驚いたのは、清水の浜堤の位置が何度も行きつ戻りつした古道の位置にピッタリと重なり、何故旧久能道が不二見小学校手前で海沿いに折れ、村松方面を進んだのかも明瞭になる。古道は地盤のしっかりした浜堤の上を辿ったのであり、歩きづらかったであろう地域は湿地帯だったり、小川が流れていたりしたのである。

郷里の優れた教育者が残した資料の白地図に、郷土好きの友人たちに教えて貰ったことを点として重ね合わせ、自分でもう一度考えながら色を塗ってみることで初めて見えてくる世界がある。そうか、退屈だった社会科の白地図色塗りにはこういう意図もあったのかと懐かしく思い出す。

グローバルに考えるという大切なことの作法は、かつて一度放り出してしまった「ローカルに考え、ローカルに実践する」ことの中で学ぶべきものだったに違いないと、遅ればせながら悟空は悟る。

   ***

写真小上:梅ヶ丘にある小池の名残から流れ出した水は畳屋の先を下り梅陰寺裏を通り江川沿い山本履物店あたりに流れ込んでいたらしい。このルートも魚屋の指示で歩いてなるほどと頷く。
写真大上:旧久能道が梅ヶ丘町で一旦“かくかくっ”と直角に折れ曲がる現場。
写真大下:“かくかくっ”と直角に折れ曲がらないで私道風の道を進むと突然農地が現れる。
図版:鈴木繁三著戸田書店刊『わが郷土清水』第3版41ページ第13図:清水平野のなりたちを想像した地図に着彩。
[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

【沈思黙考】

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋からの帰り道、浜清水浜堤下、暗渠になった江川沿いの古道志みづ道を歩くと右手にいつも浜の人々のことを考えて思策にふける神々しい背中を見る。

成就院、實相寺、妙慶寺、いずれの寺に属する方かわからないが、この方はいつもローカルに考えローカルに実践しながらその先のグローバルを考えている。

[Data:MINOLTA DiMAGE 7Hi]

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【こだまの人々】

【こだまの人々】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 12月 1 日の日記再掲)

特急こだま号と言えば東海道本線を走る特急列車で、幼稚園時代に電池で動く玩具を買って貰った憧れの電車だったけれど、貧乏だったせいか一度も乗ったことがない。

毎週末の介護帰省、行き帰りには幼い日に憧れていた東海道本線を走る特急列車に乗りたいのだけれど、特急ワイドビュー東海号は朝夕 2 往復しかないので、母が昼食をとったことを確かめての帰京などになると、残念ながら新幹線を利用するしかない。

静岡駅からの上りにはこだま号を使うことが多く、それは静岡駅に停車するひかり号が少ないからなのだけれど、最近はすすんでこだま号を利用するようになった。“こだまの人々” が好きなのである。
 
例えば静岡駅 13 時 10 分発のひかり号は 63 分で東京駅に着くのに対して、静岡駅 13 時 22 分発のこだま号は 94 分かかって東京駅に着く。こだまはひかりより 30 分遅いわけで「勝ち組ビジネスマンはその 30 分に仕事をする!」などと言われそうだけれど、いい加減な自営ビジネスマンなので 30 分仕事がさぼれて嬉しいし、せっかくの良い椅子なので 30 分余分に座っていた方が得な気のする世代でもある。

「こだまの方が好き」という視点で見ていると、静岡駅から乗り合わせた東京まで行く “こだまの人々” というのは “ひかりの人々” とはどこか違う気がしてならない。

“こだまの人々”  はよく景色を見ている。
“ひかりの人々”  は、車窓の景色がうるさいとでも言うように、カーテンを閉めて週刊文春などを読んでいたりするが、“こだまの人々”  はぼんやり徒然なるまゝに車窓を過ぎ去るよしなしごとをそこはかとなく見ていることが多く、“週刊文春” を読むより “ぼんやり” の方がよっぽど知的で有意義な時間を過ごしているように見えて好もしい。

“こだまの人々” はよくトイレに行く。
こだま号は各駅停車なので、停車駅では 5 分以上かけてのぞみ号やひかり号の通過待ちをするのであり、のぞみ号やひかり号なら「もうちょっとだから我慢しとこうか」と思えるところが「今のうちに行っとこうか」になるのであり、一人がトイレに立つと「私も行っとこうか」という尿意の連鎖が起こるような気がする。

“こだまの人々” は停車駅に到着する直前まで席を立たない。
「れでぃーすあんどじぇんとるめん」(懐かしいなぁ、トニー谷みたいだ)、「ういあーあらいびんぐあっととうきょうたーみなる」などという車内放送を聞くと、我先に荷物を持って出口への通路に殺到し、浜松町あたりから行列して立っているなどという “ひかりの人々” のような愚行をしないのである。

下りこだま号に乗ったら寝てしまい、隣の席に誰かが座った気配で目が覚めたら静岡駅に停車したところだった。慌てて網棚(網じゃないのに未だに車内放送でそう呼ぶ)からリュックを引きずりおろし、窓際に置いたがらくたを突っ込み、通路に飛び出し、自動ドアに膝をボコーンと打ち付け、前のめりにホームへ飛び出して転びそうになり、とっとっとっと……と止まって、忘れ物をしなかったかと振り向いたら、こだま号は 5 分間のひかり号通過待ちに入ったところだった。

「(なんだ、慌てなくても良かったんだ……)」と自分の愚行を恥じていると、窓からこちらを見て笑っている奴がいる。

“こだまの人々” はホームの景色もよく見ている。

   ***

写真小上:「こだま」の文字を見るといまだに在来線特急と小型のスイカを思い出す。
写真大上:待ち時間にちまちまと文字打ちをするビジネス戦士。自分で似たようなことをしていてなんだが、実用というより癖に過ぎず、たとえて言えば貧乏揺すりに近い。
写真大下:静岡市丸子、東海道丸子宿とろろ汁専門店『丁字屋』前にて。静岡駅からタクシーで15分くらい。駅ビルでせかせか食べるより、ちょっと“こだまの人々”になれば、落ち着いた山懐で心身ともにくつろげる。店頭前の石畳は古い屋根瓦である。
写真小下:「こだま」に乗っている人のアタマ。
[Data:SONY Cyber-shot W1]

【急がば回れ】

文京区根津の出版社で打ち合わせを終え、「これから清水に介護帰省するけれど、東京駅に出るには千代田線の大手町で降りればいいんでしたっけ」と聞いたら、電車の最後尾に乗り、もうひと駅乗り越して二重橋で下車すると東京駅丸の内玄関に近いと教えていただいた。

電車最後尾寄りの改札を出て真っ直ぐな地下道を歩き、右折して階段を上って地上に出ると、確かにレンガ造りの東京駅があった。急がば回れのゴールデン・ルートであり、急いでいなくても利用したい近道である。

[Data:SONY Cyber-shot W1]

 
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