▼紅一点

東京都港区虎ノ門。
『大阪屋砂場』の美しい店頭。



大正12年築の店舗。
家宝はひいきにしてくれた山岡鉄舟の書だという。

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▼千の階段

静岡県清水相生町。

波止場踏切脇に接岸したような三角形の建物、
その船のような建物の先端は螺旋階段になっている。
階段を上った2階は『さくら邸』という居酒屋になっている。



一度入ってみようと思いつつ、どうもおじさん一人では入りにくい。
螺旋階段の上り口に料理のメニューが置かれていて
若い女性が一人立ち止まって思案していた。

一人で即座に決断してプイッと入ってしまえるタイプの人もいる一方で
そうでない人もまたいるわけで男女の差も年齢の差も関係ないのかもしれない。

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▼カラスと大使館と時々ぎょうずい

東京都港区赤坂7丁目。

カナダ大使館前の紡錘形をした池の端にカラスがいて
通行人が珍しそうにカラスの顔を眺めて通り過ぎると
カラスも顔の向きを変えて通行人を目で追っている。

人通りが途絶えるとさっと飛び降りて水浴びをし、
また人影が見えると縁に飛び上がって様子をうかがう、
という動作を飽きること繰り返している。
池の縁に所々飛び上がった際に水がしたたった跡が見える。

暖冬とはいえ肌寒い午後の水浴びに固執するほど
きれい好きそうなことにも感心してしまう。

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【詩の生まれる突き当たり】

【詩の生まれる突き当たり】

静岡県清水入江岡町。

県道 197 号通称駒越富士見線が東海道本線と静岡鉄道を桜橋で跨ぐために高くなり、県道 407 号通称南幹線が県道197号通称駒越富士見線と交差点を形成するために背伸びをしようと盛り土して高くなったためにできあがった言葉で表現するとややこしい割に説明しがいのない突き当たり風景。


それでも反射ミラーとねじれた影と白いガードフェンスがあり、その向こうを首のない自転車の人が通りかかり、彼方まで続く真っ青な虚空があることで,かろうじてマグリット的な詩の世界になっている……かも。

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【光の帝国】

【光の帝国】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 2 月 23 日の日記再掲

ルネ・マグリットに『光の帝国』という作品がある。好きなのは 1954 年に描かれた『光の帝国』であり、未完の遺作になった 1967 年のものまで、何枚もの『光の帝国』が描かれている。

ルネ・マグリット:(1898-1967) ベルギーの画家。フランドル派風の写実主義の伝統を継承しつつシュールレアリスムの立場から,詩的な独自の幻想世界を描いた。(三省堂新辞林より)

作品の基本的なアイデアは「昼」と「夜」、「地上」と「空」、「ここ」と「あそこ」という対照的なものを「地と図」として反転させるもので、1954 年に描かれた『光の帝国』では地上に立つ白い建物のこちら側は日が陰って夜のようであり室内と街灯に明かりが灯っているが、背景である木立の向こう側の空は昼間の明るさなのである。マグリットはこの関係を反転させた作品も描いている。

それらの作品が意図するところはマグリットの言葉に
「この “昼と夜の同時性" は驚きと魅惑の力を持つ。この力を私は詩と呼ぶ」
とあり、絵という詩に頼らずとも “昼と夜の同時性" は見る人をして詩人たらしめる力を持っているということも意味し、夜明けや夕暮れの昼夜混然とした曖昧な領域は人を詩人にする。

■静岡県清水。清水橋跨線橋から港橋方向を見る光の帝国。

静岡県清水。東海道本線をまたぐ清水橋跨線橋が架け替えられて新しくなった。

東海道本線清水駅越しに西日を受けて赤く輝く富士山を眺める絶景ポイントのはずだけれど、粋な計らいは一切なく、ただ側壁を眺めて渡るだけのつまらない橋になっている。

■静岡県清水。清水橋跨線橋から東海道本線、清水駅、清水テルサ越しに微かに夕日に染まった富士山が見える光の帝国。

それでもわずかな隙間から街を覗くと、光の帝国では昼と夜の交代劇が静かに繰り広げられており、“昼と夜の同時性" の力を借りて、家路を急ぐ人々も否が応でも詩人にならざるを得ない不思議な空間になっている。

 

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【象と虎】

【象と虎】

静岡県清水江尻東。

ミシンは『シンガー』編み機は『ブラザー』冷蔵庫は『日立』電球は『ナショナル』が口癖だった母が『ジャノメミシン』に縁ができたのは一日中沸かし立ての風呂に入れるという『湯名人』という商品を静岡県清水江尻東にある『ジャノメミシン』で買ってからだった。



魔法瓶はなぜか『象印』より『タイガー』が好きだった母だが根拠はよくわからない。
ビールは『キリン』と決めていた頃があるけれど、象と虎の差ほど明確な違いがあったのかと思うと確信がなく、そういうことを真剣に話していた時代が妙に懐かしい。

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【しゃがんで考える人+】

【しゃがんで考える人+】

静岡県清水南岡町。

梅蔭寺まで出かけたのでついでに300円払って次郎長座像を見る。
清水の「考える人」と四半世紀ぶりの再会である。

次郎長没年を思い出すのは簡単で地元の人たちは「いいやくざ= 1893 年」と覚えている。


せっかく 300 円払ったので石の上に没後 114 年座り続けている次郎長像を撮影してみたけれど、汚れなのか、像も岩も石垣も奇妙な色合いに写るので
モノクロームにしてみた。故人になって久しいので、その方がよく似合う。

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【しゃがんで考える人】

【しゃがんで考える人】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 2 月 20 日の日記再掲

同い年で編集者の友人は老眼が始まるのが早くて、何年も前に
「トイレで新聞を読む楽しみがなくなった」
と言っていた。

大相撲千秋楽の表彰状授与のように両手を思い切り前に突き出さないと新聞の文字が読めなくなったのだと言い、腕を突き出した先に新聞を開いて持つような広さはないし、そこまでしてトイレで新聞を読もうとする気力も失せたと言う。

■静岡県清水江尻東。いつも演劇のポスターが貼られている不思議な民家。

昔の父親はトイレでよく新聞を読んだものらしい。
今のように洋式トイレではなく和式便所でしゃがんで便器を跨(また)いだまま新聞が読めるというのは、しゃがんで背中をそり返したゴリラが両手に持った新聞を読むような状態であり、そんな姿勢で新聞が読めてしかも頭に入るというのはちょっとした特技といえるかもしれない。

わが実家もくみ取り式の和式便所だった時代があり、母は便器を跨いだまま新聞を読む人ではなかったけれど、真正面の壁に大きな日本地図を張っていた。しゃがんで便器を跨いだまま地図を眺めているのが好きだったらしく、隅に置いた落とし紙の上に重石を兼ねて大きな虫眼鏡を置いていた。

■静岡県清水巴町。巴川端枝垂れ梅のある夜景。

友人や親戚の家に泊まって観察すると、お父さんというのは便器を跨いでしゃがんだまま煙草を吸う人も多かったようで、あくのを待ちかねて飛び込んだらかすかに煙っていたこともあるし、便所に煙草の灰を落とすなとお母さんに小言を言われる姿もよく見かけた。

便器を跨いでしゃがんだまま新聞を読むより煙草を吸う方が遙かに楽な気がするけれど、そんなことより息を止めて入りたいようなくみ取り式便所にしゃがんで跨ったまま、たとえ煙であっても臭気とともに口から体内に吸い込む気に、よくなれるものだと呆れた。

■静岡県清水巴町。巴川端枝垂れ梅のある夜景。

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【屈託と哀愁と清水文化センター】

【屈託と哀愁と清水文化センター】

静岡県清水文化センター。
ここでかつて郷ひろみショーがあったと言っても驚くには当たらない。
驚くには当たらないのに妙に覚えているのは
静岡のローカルラジオ番組に出演して
「コンサートで清水市に行かれたそうですが、どんな印象でしたか?」
という質問に
「だははは、いいですねぇ、哀愁があって。だははは」
と答えたときの、なさ過ぎるくらいに屈託のない底抜けの笑い声が耳について離れないからである。


そんな郷ひろみという歌手が最近は嫌いではなく、どうしてかと聞かれたら
「だははは郷ひろみ、いいですねぇ、哀愁があって。だははは」
と、なさ過ぎるくらいに屈託のない底抜けの笑いで答えられそうな気がするからである。

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【ぼくとまつやと、時々、ひろみ】

【ぼくとまつやと、時々、ひろみ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 2 月 19 日の日記再掲

個人商店主は店という舞台で体を張る役者のようなものであり、それだけでたいしたものだと尊敬してしまう。

個人商店自体も街という舞台で体を張る役者のようなものであり、人間ではないので尊敬こそしないけれど、別の意味でたいしたものだなぁと思う。

古い写真に写っているのが田舎ではなく街の風景だと、時代という舞台の上で個人商店とその主が、役者として時代の求めに応じて体を張った生きざまが、写しとめられていて感動することが多い。

■静岡県清水岡町。現在の『まつや食堂』。

静岡県清水岡町、柳宮通り沿いに『まつや食堂』という店がある。実家片づけ帰省の折りに梅蔭寺まで出掛ける用事があり、ちょうど昼食時だったので初めてのれんをくぐってみた。

『まつや食堂』店内には、昔の清水という舞台の上で『まつや食堂』とその主が、役者として時代の求めに応じて体を張った生きざまを写しとめた写真が展示されていてとても興味深い。
『まつや食堂』は昭和 29 年創業であり、最も古そうな写真には「ラーメン、親子丼、カレーライス、きそば」と書かれている。柳宮通りはまだ未舗装であり自転車に乗った人々が行き交い、『まつや食堂』の道を挟んだ向かい側には静鉄バスがたくさん停まっている。やがて時代が下って店頭にガラスのサンプルケースができ、看板に「とんかつ」と「かつ丼」が登場し、「名代次郎長そば」の文字も気になるけれど、注目すべきは「餃子」の文字が追加されていることである。今のお店は一見中華料理屋に見えるけれど、『まつや食堂』はその名の通り、現在にいたるまで一貫して何でもありの大衆的な食堂だったのである。

大衆的な食堂と餃子で思い出したけれど、評論家の呉智英さんは昭和 21 年生まれで愛知県出身なのだけれど、彼が生まれ育った地域に子ども時代「餃子」などという食べ物はなかったという。江戸時代の文書に登場し水戸黄門が日本人として初めて食べたという説もある餃子は、戦前まで関東の限られた地域で食べられていたに過ぎず、戦後ようやく一般的な食べ物として関東地方から全国に広まって行ったのだけれど、呉智英さんが未成年期を過ごした頃の愛知県にはまだ餃子という食べ物が伝わってきていなかったのではないかと著書の中で回想されていた。餃子を知らずに育った彼と同郷の友人が大学入学のため上京し、食堂に入ったら品書きに魚卵の煮物定食らしきものがあったので
「その鮫子(さめこ)定食をください」
と注文してしまったというのだ。

■『まつや食堂』内の写真展示。

写真にある局番が一桁のままの新しい方の『まつや食堂』は昭和 30 年代半ば以降のお店だと思うけれど、母が清水に店を開いた昭和 42 年にはすでに局番は二桁になっていたので、清水では呉智英さんが餃子を知らずに育って上京されるのと入れ違いに、大衆食としての餃子が定着しさらに西の地域に向かって通過して行ったのだと思う。

『まつや食堂』はラーメンと日本蕎麦と餃子ととんかつと清水おでんが混在する大衆的な店なので、ラーメンとカレーライスのセットを注文したら、昔ながらの中華ソバに添えられて出てきたのは僕が大好きな昔ながらの黄色いカレーライスだったので、ひどく儲けた気がして嬉しい。

■『まつや食堂』のラーメン + カレーライスセット。

舞台で体を張る役者の年齢にはからきし疎いのだけれど、同級生(早生まれ)の編集者が歌手の郷ひろみ(遅生まれ)と同年生まれで同じ学校に通っていたと言い、ということは僕も郷ひろみとひとつ違いの同世代だったのかと驚きつつ複雑な心境になった。

郷ひろみのみならず西城秀樹や野口五郎などの年齢不詳御三家と同世代だと知った人はきっと同じように驚きつつ複雑な心境になるのだろう。『まつや食堂』に心があって自分が郷ひろみとひとつ違いの同世代だと知ったら、驚きつつ複雑な心境になるに違いない。同世代の『まつや食堂』が作った昔ながらの黄色いカレーライスを郷ひろみは好きだろうか。

郷ひろみの実家(福岡県)で正月に作っていたお雑煮の餅は中にあんこの入った丸餅で、とても美味しかったと話しているのを聞いたことがあり、僕も美味しそうに思うのでそういうお雑煮を一度食べてみたいものだと思っている。

中にあんこの入った丸餅で作ったお雑煮が好きな人間なら、ラーメンと日本蕎麦と餃子ととんかつと清水おでんが混在する大衆的な店の昔ながらの黄色いカレーライスが嫌いなはずはないと思う。何となく漠然とだけれど。

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【記念塔通り】

【記念塔通り】

静岡県清水上清水。

桜が丘の五差路にかかる歩道橋に登ると電線越しに富士山が見える。


清水港の方から巴川にかかる八千代橋を渡って桜が丘に登る県道197号線。
登り切った場所にかつては記念塔と呼ばれるモニュメントがあり、年寄りの多くはこのあたりのことを「記念塔のとこ」呼んだりする。

道には『記念塔通り』という愛称がつけられている。

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【清水おでん再考】

【清水おでん再考】

清水のおでんの串の先には具が味噌壺に滑り落ちないための小さな蒟蒻がつけられており、静岡おでんは皆そうだと思っていたけれど
そういうわけでもないらしい。

静岡県清水江尻町『みのべ』さんのおでん以外の清水おでんはどうだったかなぁと古い写真を調べてみた。


↑ まずは清水浜田町の『水越』さんの清水おでん鍋。
味噌壺の味噌がたれたりして「ぶしょったい」ように見えるけれどお母さんがつねに新しい具を追加したり、煮えすぎた具はお客にサービスしてくれたりして手を入れているので見た目ほどぶしょったくない。
※「ぶしょったい」は清水弁で汚らしいの意。


↑ 『水越』さんの蒟蒻は『みのべ』さんのより小さい。
『水越』さんがお店を閉じられてしまったのは何とも惜しい。
僕は『水越』さんのジャガイモが大好きだった。


↑ 清水島崎町、江尻船溜まりにある『望月商店』さんのおでん。
正統清水おでんである証拠に先端に蒟蒻が打ち込んである。
船溜まり風景を見ながら食べる清水おでんにはまた格別の味わいがある。

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【フォロー・ミー 清水中央公民館の思い出】

【フォロー・ミー 清水中央公民館の思い出】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 2 月 16 日の日記再掲

 

「親孝行したい頃には親は無しとはよく言ったもので……」などとは親を亡くして 1 年半経ったけれど一度も思ったことがない。

そもそも親孝行って何だろうというのはいまだに解けない謎なのだ。謎の親孝行に責め苛まれることはないけれど、単純に
「親の話をもっと身を入れて聞いてやれば良かったなぁ」
と思うことはある。親があんなことを言っていた、こんなことを言っていたと思い出すとき、その先の話が聞いてみたかったと今になって悔やまれることが多いのだ。

■清水中央公民館(左)と清水文化センター(右)の谷間から清水商業高校グラウンドが見える。

静岡県清水桜が丘町。清水中央公民館前を通りかかったら、母がここで藍染めを教えていた頃のことを思い出した。

集まってくれた生徒さんたちと清水中央公民館前と清水文化センターの間の谷間をグループの作業場にしていたこと、清水文化センター駐車場脇のパン屋でサンドイッチや調理パンを買うと美味しかったこと、清水中央公民館 1 階展示ロビーで作品展を開いたことなど、話してくれたことの詳細をもう少し聞いてみたいけれどそれはかなわず、「親の話、聞いてみたい頃には親は無し」ということは身にしみて思うことである。

■清水中央公民館1階展示ロビー

映画『フォロー・ミー』で素行調査を頼まれた私立探偵が依頼主である夫に、妻(ミア・ファロー)のあとを 10 日間ひたすらついて歩くこと、ひと言も言葉を交わさずついて歩くこと、ただ相手を見つめながらついて歩くことを相互理解の秘策として提案するのだけれど、親のあとを 10 日間ひたすらついて歩くこと、ひと言も言葉を交わさずついて歩くこと、ただ相手を見つめながらついて歩くこと……もう一度親子の関係をやり直すことができたとしても、やっぱり無理だろうなぁと思う。

■ 1 階ロビーで弁当を食べる人。

とはいうものの、親の話をひたすら聞くこと、反駁したりせずただ話の流れについていくこと、静かに相手を見つめながら話を聞くことくらいは、もっとしても良かったなぁと今になってみると思ったりする。反駁など親が他界したあと心の中で勝手自在にできることだから。

壁に貼られていた清水中央公民館短歌グループ『ともしび』1 月の詠草より。

時雨きて はや寒々と 日の暮るる 白き山茶花 そこのみ明るし(宇野三保)

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【○○○ドーナツ】

【○○○ドーナツ】

静岡県清水本郷町。
 
茶房『かっぱ』が閉店してしまったので、清水駅前に来て珈琲を飲みながら本でも読みたくなるとついつい西友脇にあるこのドーナツ屋に来てしまう。
ここのカフェオレはおかわり自由で本に夢中になっていると女店員が注いでくれるのがちょっと嬉しい。


ドーナツは正円の輪なのだけれど、その正円の輪をぐるぐるっと捻ると螺旋になる。

正円の輪にしたパン生地をぐるぐるっと捻って油で揚げ砂糖をまぶした甘いパンが昔からあり、幼稚園児時代、パン屋に行くたびにそのパンを買って貰い僕は「ねじりパン」と勝手に呼んでいた。

先日清水のパン屋が焼いた同じものを見つけたら
「○○○ドーナツ」と書かれていて
そうか正式名称は「○○○ドーナツ」というのかと感動したけれど、メモしておかなかったのでもう忘れてしまっている。

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【忘却と新発見】

【忘却と新発見】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 2 月 15 日の日記再掲

思わずぞっとするような物忘れが増えてきたけれど、楽しい物忘れもあってそれは日々の慰めになる。

些細なことに対する新鮮な発見に喜びつつ、
「(待てよ、忘れたことを新たな発見と喜んでいるだけじゃないだろうな……)」
という不安が常に頭の片隅にある。

■新清水駅前の『みずほ銀行』


静岡県清水相生町、さつき通りという清水のメインストリートにみずほ銀行がありそれはかつて第一勧業銀行だった。

第一勧業銀行を亡き母は
「だいちかんぎん」
と呼んでおり、僕は今でも
「だいちかんぎょうぎょうぎんこう」
と入力するけれど、ATOK で「だいち」は「第一」と変換されないし、広辞苑に「だいち」という読みの「第一」はない。

NHK ラジオ体操の記憶を頭の中で再生すると「らじおたいそうだいち」と聞こえていた気もするし「きょうもあんぜんだいちでおすごしください」という言葉を聞いたようにも思える。本放送を注意深く聴いていると「だいいち」と発音しているけれど、夏休み巡回ラジオ体操の生放送では口も言葉も滑って「だいち」と滑らかに発音することがあったような気がする。

■不思議な螺旋。

その「だいちかんぎん」の建物はかなり古くて、物心ついた時すでにこの場所にあった。そういえば伯母がこの銀行で掃除婦をしていたことがあったような気がする、という事を今こうして日記を書きながら思いだした。

その左隣につい先日まで旧花菱百貨店のビルがあってビルの複数形という意味でのビル街だったのだけれど、旧花菱百貨店のビルが解体され「だいちかんぎん」は単数形のビルになった。

■何年頃のものかわからないが建物の細部が面白い。

ぽつんと取りのこされた「だいちかんぎん」が妙に感慨深くて、しみじみと見上げていたら頭の中が不思議な螺旋形のようになる。

■とぼけた螺旋が青空に妙に似合って和む。

物忘れの底なし沼がある「あたま山」の上空で、不思議な螺旋物体がくるくる回っている。

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