▼明日への日記…9 日本料理とは何だったのか

 

2011年8月28日 twitterに投稿:
近所は中国人の料理人が作る料理店が乱立し、昔ながらの支那そば屋風チャーハンが食べたいので坂下までやって来た。客のいない店内に慌ててエアコンがついた。

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 都内はいたるところ中華料理とインド料理の店が乱立し、おそらく中国人やインド人だと思うけれど、片言の日本語を話す人々が商売に精を出している。
 かつては高級専門店に行かなければ味わえなかった本場の味が、近所で気軽に味わえるようになったのは良いことなのだけれど、時折懐かしい日本のカレーライスや日本の中華料理が食べたくなることがある。
 昔、海外の子どもたちを日本の家庭に迎えて交歓会をすることになり、日本料理でもてなそうとアンケートをとったら、一番がカレーライスだったという話を聞いて笑ったことがある。
 今の日本で、しかもサンダル履きで行ける近所で、本格的なインド料理や中華料理が食べられるような時代になってみると、昔ながらの日本風カレーライスや日本風中華料理が時折無性に恋しくなる。
 そう思って黄色い日本風カレーライスや日本風モヤシそばが食べられる店を探すとどんどん減っており、あの懐かしい内外折衷の味こそが、実はいかにも日本らしい日本料理の真髄だったのではないかという気もし始めた。
 懐かしさだけではなく、このまま伝統食文化が消えてはいけないという気もあって、昔ながらのラーメン屋に行ったら客が一人もおらず、帰り道にある中国人の店からは、ニッカーボッカーズ姿の労働者たちがぞろぞろと出てきた。
 中国人の店の方が量的に安いし高カロリーだし、本場の味に近いことをありがたがるなら美味しいし、味も店員もみんな元気がよいのだ。
 元気がよいと言えば、いまも元気のよい昔ながらの大衆酒場には、たいがい日本風カレーライスと日本風中華料理がある。中途半端に本格を気取れた時代が不況と軌を一にするように終わりつつあるということなのだろう。
 外国人に日本らしい日本の家庭料理を食べさせたいなら、老若男女が一堂に集って楽しげに飲み食いしている、下町の大衆食堂に連れて行けばいいし、昔から日本の家庭料理は貧しい大衆の中にあって、今もただ変わらずにいるだけかもしれない。若者に大衆食堂が人気なわけだ。

 
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▼明日への日記…8 夏の荒れ地に萌え出でて

梅雨に逆戻りしたような陽気が続いたけれど、また夏らしい日差しが戻ってきた。


これからしばらく続くであろう夏の日々は、道にたとえれば野放図な荒れ地に似ている。そういう荒れ地のような炎天下を歩くとき、毎日人間によって丁寧に水やりされている花々よりも、この季節は誰の手も借りず空地や公共地に生えだした自生植物を見るのが楽しい。

カメラを取り出すのも面倒なので携帯電話(iPhone)で撮影した夏の花たち。



さいたま市見沼区。



義母が入所しているさいたま市見沼区にある特別養護老人ホーム、その敷地に隣接するバスターミナル。生活用水路脇の鉄製フェンスで満開になっている昼顔。



文京区本駒込。



再開発された文京グリーンコートに隣接した空き地に、何も建物が建たないまま歳月が流れ、今年も名も知れぬ草花が芽吹き、天をめざして伸びていく。

 
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▼明日への日記…7 石を拾う

いまから五、六年前は仕事で外出するとよく道に落ちている小石を拾った。小石の中でもとくに小さい1センチ以内の大きさで、金属の台にのせて指輪になりそうな綺麗な色形をしたものを見つけると、拾ってポケットに入れて持ち帰ったものだった。


どうしてそんなことをしたかというと母や義母がとても喜んだからで、夕食時にポケットから取り出してじゃらりと無造作にテーブルに置くと目を輝かせて喜び、
「これみんな拾ったの?」
と聞くので、そうだと得意げに答えたものだった。

末期のすい臓がんとの告知を受け、それでも二年間がんばって生きた母は、衰えて足取りがおぼつかなくなっても散歩が好きで、寄り添って散歩につきそうと息子に負けまいと足下の小石を拾った。散歩途中でベンチに腰掛け、拾った小石を取り出して見せっこすると、
「あんたは綺麗な石を見つけるのが上手い」
と母が言うので、
「見つけるんじゃない、石がここですよって呼ぶんだ」
とバカなことを言うと、母は
「なるほど、そうか」
とまじめくさって頷き、そういうタイプの与太話に親和性のある人だった。



8月5日の仕事帰り、ひさしぷりに拾った小石。1cmくらい。



とうとう我が家から二人の母親がいなくなり、小石を拾って帰っても喜ぶ人がいなくなったせいか、小石を探しながら町歩きする楽しみを忘れていたが、昨日仕事帰りに通りかかった青山通り沿い、高橋是清翁記念公園の石段で、小さな石が
「(ここですよ)」
と呼んでいる気がしたので拾ってきた。

明後日8月8日は母の命日で、早いもので七回忌となる。

 
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▼明日への日記…6 あれはあれでよかったということ

 

大宮駅どまりの京浜東北線がホームに入り、折り返し運転になった車両内にぐっすり寝込んだままの乗客が必ず何人かいる。起こしてあげないと不幸になりそうな人はなんとなくわかるもので、誰かが
「終点ですよ」
と肩を叩いて起こしている。

その一方で、誰も起こす人がおらず、自分もまたそれを躊躇ってしまう人もいて、そういう人は大した急ぎの用事もなく今はひたすら眠いだけに見え、起こすより寝かせておいたほうが幸せそうに見える。



大宮駅2番線ホーム、折り返し大宮行きの車内にて。



起こしてくれる人もなく終点からまた引き返していく人の向かいに座って観察していると、折り返し電車が数駅先の蕨あたりに着いた頃、ぼんやり目を覚まして降車して行く。電車が走り出し、遠ざかる姿を見ていると、
「(やっぱり大宮まで引き返すのかな…)」
とは思わず
「(よかった、遠回りしたけれど今度は目的駅でちゃんと降りられて)」
などと思ってしまう。

そういうしくみで困った人に声がかけられず、あれはあれでよかったと思ってしまう事が、誰にでもあると思うのだ。

 
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▼明日への日記…5 八月の日めくり

 

八月になったので、Twitter に新しい日替わり数字アイコンを落描きしはじめた。

7月はデスクトップの Macintosh で描いて iPhone からアップしたので、10年以上肌身離さず使ってきた Windows Mobile の PDA に触っていない事になり、Windows Mobile の PDA に触っていないという事は、スタイラスペンを使って絵を描いていないという事になる。



六義園内にて



さて、8月はどんな画材(アプリ)で描こうかなと考えたら、もうスタイラスペンにこだわるのはやめて、iPhone の指先ペインティングでもいいかなという気がして来た。iPhone の Twitter クライアントからアイコン変更ができる事がわかった事も、そういう気持ちを後押ししている。



六義園内にて



今月は Adobe Ideas というベクターベースのドローイングアプリを使ってみた。iPhone の画面に指で触れて描いた指の軌跡は、描いたはしから整然としたベジエ曲線に変換されていくけれど、太さ変更可能なストロークとして線で記録されるわけではない。



Adobe Ideas



描き上げたものは PDF ファイルとしてメール添付できるので、自分宛に送信し、Macintosh で受信して Adobe Illustrator でひらき、微調整してからDropbox 経由で iPhone に書き戻し、毎朝 iPhone の twitter クライアントからからアップしている。

そういうことを、早朝セミの声を聞きながら、毎朝繰り返す八月が始まった。

 
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