【古井戸に呼び戻された話】

【古井戸に呼び戻された話】
 

 更地になって売却を終えた清水の実家となりのご主人から突然電話が入り、我が家との境界のブロック塀を撤去したら、なんと古い井戸が出てきたという。



静岡県清水、清水銀座にて。

 そういえば、昔は隣家との間に井戸があって共同で使っていたという話しを母から聞いた記憶があり、売却後とはいえ責任を持ってお祓いをして埋め戻さなくてはならないので、隣家と折半ということで工事をお願いした。
 静岡県清水で海辺寄りの旧市街地に暮らしていた人々は、水道が普及するまでは、井戸を掘っても飲用に適する水が出ないので、良い水の出る井戸までもらい水をする苦労があったと聞く。
 祖父母が暮らしていた大内の家は昭和のかなり後期まで水道がなく井戸水だったが、大きなカメに汲み置きして時間が経たないと臭いが取れず、清水の低地に多いブタンガスを含有した水が湧いていたのだと思う。
 草薙川流域や岡清水のうちでも北矢部の井戸は鉄の酸化物である「赤ソブ」臭がある水が湧くし、清水町では関西で「カナケ」と呼ばれる塩分が混じった水が出るという。



静岡県清水、東海道本線巴川橋梁越しに入江方向を眺める。

 そんな清水でもわずかに良質の水が出た場所もあり、下清水の紺屋があったあたり、日本平近くの宮加三、今泉髭神社、有東坂藤の木山東側、大内塩田川伏流水が湧いた高部小学校、西久保の三和酒造に良い井戸があったという。
 入江南町にあった我が家の井戸にどんな水が湧いていたのか興味があるので、次回帰省時に隣のご主人に聞いてみようと思う。実家売却に思いがけないアンコールの一幕があったことになる。

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▼茅の輪のくぐり方

 

 6月29日、根津の出版社で打ち合わせがあり、予定より30分ほど早いので根津神社境内を歩いたら茅の輪くぐりの準備が完了していた。




根津神社境内にて。



 日本各地の神社で新暦6月30日に行われるという夏越の祓(なごしのはらえ)の茅の輪くぐり。「輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓う」とWikipediaにある。言葉ではわかりにくいけれど、根津神社の茅の輪は横に図解した立て札があるのでわかりやすい。1日早いけれど、子どもの頃の長縄飛びを思い出しながらくぐってみた。




茅の輪のくぐり方。



 根津神社では今年9月までかけて国の重要文化財である総漆塗りの社殿と楼門の修理工事を行っている。茅の輪をくぐって拝殿で手を合わせようとしたら、工事用ネットの向こうにヘルメットをかぶった神様……ではなく工事関係者が作業していて、ちょっと有り難みに欠ける気がしてしまう。




根津神社の茅の輪。



 友だちの亡くなられたお父さんが、お墓の前で手を合わせる時は願い事などしてはいけない、ただ感謝の気持ちを念じなさいと言いのこされたと聞いてから、墓前はもちろんのこと神前でも願い事はしないことにしている。何年も実践していたらすっかり板に付いたし、毎回願い事を考える必要もなく、ただ「(ありがとうございます)」と感謝すればよいので、楽なこともあってすっかり気に入っている。




拝殿側から見た根津神社の茅の輪。
向こうに見えるのは修理中の楼門。



 賽銭箱に小銭を入れて「(ありがとうございます)」と手を合わせ、ネットの向こうの工事関係者にも「(ありがとうございます)」とついでに感謝し、振り向いて拝殿を出ようとしたら正面に茅の輪が見える。
 儀礼にのっとって3度くぐってお祓いをしたのに、帰りに逆方向にまたくぐってもいいのかと一瞬ためらったが、感謝の気持ちさえ忘れなければバチあたりにはなるまいと思い、「(ありがとうございます)」と感謝しながら茅の輪をくぐって退出した。

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【清水みなとの名物は わが心の劇団ポートシミズ】

【清水みなとの名物は わが心の劇団ポートシミズ】
 

 ご自身が「清水みなと製」であることを作品中で繰り返し書かれている村松友視さんには、今も心の中に清水みなとにおける記憶の棘がいくつも突き刺さったままだそうで、そのひとつが昭和22年から25年半ばまで、短くも鮮やかに戦後復興期の清水っ子を慰め楽しませた「劇団ポートシミズ」に関する曖昧な記憶なのだという。



『清水みなとの名物は わが心の劇団ポートシミズ』。

 その曖昧な記憶に、岡小学校前の文具店で100円払って買ったボールペンで、明確な輪郭づけをしていく過程を描いた書き下ろしノンフィクション『清水みなとの名物は わが心の劇団ポートシミズ』が白水社から刊行された。
 清水の人々が劇団ポートシミズを語る時、必ずその劇団に楠トシエが所属したという話しが自慢話のように出てくるのを村松さんも面白く感じていたようで、その記述に笑ってしまったのは、わが母もまさにそういう人だったからだ。



作品中で村松さんも渡る港橋。

 現在の住まいに引っ越す前、僕は文京区千駄木の団子坂沿いに住んでいたことがあり、坂を挟んだ向かいにあった楠山さんというテーラーこそが楠トシエ、本名楠山敏江さんの実家だった。上京して我が家に泊まるたびに、母は劇団ポートシミズとそこに所属していた楠トシエの話を自慢げに何度も話していたのである。
 作品中に村松さんが、楠トシエご本人に会って話をうかがう機会を得るくだりがあり、そのあたりでは母親に成り代わって読んでいるような気分になってしみじみとした。母は自分が有名人なら向かいの楠山テーラーにうかがって、劇団ポートシミズと楠トシエに関して、詳しい話しを聞きたいものだと遠い眼差しで話していたのだ。昭和5年生まれ、村松さんより10歳年上の母もまた、心の中の棘として「劇団ポートシミズ」に関する曖昧な記憶を抱えたまま人生を生きたのかもしれない。
 村松さんありがとうございました、でももう5年早くこの本を書いてくださったら、亡き母もすっきり心に刺さった棘を抜いて往生できたのかもしれないと思うと残念です。でも、心の中に同じような棘が刺さったまま今を生きている清水っ子には、ぜひとも心の棘を抜いて安らかに、永遠のシアター・パラダイスに向かって旅立って貰いたいものだと、心から願ってやみません。

『清水みなとの名物は わが心の劇団ポートシミズ』
村松友視著/白水社刊/定価(本体2000円+税)
ISBN978-4-560-08016-0

 

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▼肴町の蕎麦屋

 歴史研究にはふた通りの方法があって、文字として書き残された古文書を研究する方法と、発掘などの調査によって現存する物を読み解く方法であり、二つの方法による研究成果を互いに持ち寄って新たな発見を探る試みがようやく始まっていると聞いた。

 素人が歴史研究をしようとしたら、勝手に遺跡を掘り返したり文化財調査をするわけにも行かないので、できるとすれば私的に古文書に当たることになるのだけれど、達筆で書かれた古文書を読み解くこともまた素人には容易でない。古文書どころか、サラサラと書かれた毛筆の書き物ですらちゃんと読めないので、歴史の調べごとなどには向かない自分を恥ずかしく思う。




駒込発秋葉原行き都営バス内にて。



 東京都文京区向丘二丁目。このあたりはかつて駒込肴町(さかなまち)という地名で、江戸時代にはその名の通り鮮魚を扱う店が軒を連ね、江戸有数の肴店(さかなだな)のひとつだった。本郷通り日光御成道、「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と言われたかねやすを通り越して駒込方向に進んだ場所であり、 海の魚を天秤棒で担ぎ肩を血だらけにした魚屋が、はるばる河岸から走ってここまで売りに来たという。
 この辺りには農民が江戸市中に野菜を売りに行く途中休憩地があり、それが発展して駒込土物店(つちものだな)という神田、千住と並ぶ野菜市場になっていたので、野菜や魚を商う絶好の場所だったのかもしれない。




肴町長寿庵の広告。



 その駒込肴町に肴町長寿庵という蕎麦屋がある。
 駒込発秋葉原行きのバスに乗ったら店の車内広告があったのだけれど、「江戸蕎麦匠○○○○○肴町長寿庵」と書かれた筆書きの「○○○○○」が読めない。終点秋葉原駅前まで頭をひねったがどうしても読めないので写真に撮ってきた。今こうやって眺めてみてもやはり読めない。
 納魚御用を勤める小田原町の魚商たちが日本橋に魚河岸を開いたことにより、駒込肴店も近世後期あたりには消滅したという。

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【ジブン対自分】

【ジブン対自分】
 

 関西では相手を指すあなたという言葉のかわりに自分という言葉を使うという。

 ジブンという言葉は、関西弁では相手を指すことがある。
「ジブン、ニンジン嫌いやろ」
などと、相手を指していう。関東で育った若者は、ひょっとすると、なんのことやら、意味がわからないであろう。むろんこれは、
「アンタ、ニンジンは嫌いだろ」
という意味である。それならジブンは同時にアンタという意味である。
  (養老孟司『無思想の発見』ちくま新書)


ネットで公開されている、新潟の放送局が制作した新潟弁講座を見ていたら
「ねえ、ジブン~」
などと相手に話しかけているのでびっくりし、新潟の友達に聞いたら、新潟でも相手を指してジブンを用いる地域があるらしい。



5/30、静岡県清水、美濃輪町に今年も咲いたブーゲンビリア。

 久しぶりに母親が夢に登場し、
「アンタ、清水の家どうした?」
と聞くので
「片付けが終わったので解体して、買いたいという隣のお宅に買ってもらったよ」
としゃれを言うように話したら、今から取り消せないかという。どうしてかと聞いたら
「長いことかかったけどガンもようやく良くなったので、そろそろリハビリをかねて畑でもやりたいと思って」
などという。
 病気が癒え、本人にやる気が出てきたのが何よりなので
「お母さん、畑をやりたいならあんな家が建て込んだ場所じゃなくて、草薙、そうだな中之郷あたりの日当たりのよい場所で畑を貸してもらえないか聞いてあげるよ」
と言ったら、
「アンタなんにも知らないんだねぇ、あの辺は山が土砂を押し出した扇状地で水はけがよすぎて、夏に日照りが続いたりすると農業で生活してくのが大変なんだよ。園芸に活路を開いたからあの辺は植木屋が多いんで、あんなところで素人が野菜畑なんてやったら、アンタ夏場は大変だよ」
と苦笑いしながら言う。この人にはかなわないなぁと、昔と変わらない達者な口ぶりにこちらも苦笑いした。



5/30、静岡県清水、桜橋夜景。

 目が覚めて、おかしな夢を見たものだと思う。
 夢というのは自作自演なので、やりこめている母親もやりこめられている息子も自分であり、
「(かなわないなぁ)」
と頭をかきながら苦笑いする息子を演じる、ジブンの名演技にも自分で感心してしまう。こういう夢を見るというのは自分という存在が曖昧な日本人ならではの現象で、欧米人はそんなけったいな構造の夢を見ないんじゃないかと思うんだけど養老先生はどう言うかしら。

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▼ユニクロ気分

 

 男より女の方が総じて買い物に要する時間が長いんじゃないかと思う。
 年老いた両親の介護をしている家人は、午前9時半に父親をデイ・サービスに送り出し、12時から食の弾まない母親を励ますように昼食をとり、午後3時半か4時半には父親のお迎えに行き、その合間に両親の病院行きにも付き添い、午後6時から家族全員の食事の支度という慌ただしい時間割で毎日過ごしているので、落ち着いて買い物に行くまとまった時間がとりにくいし、その買い物自体が家族全員分だったりする。買い物に要する時間が長い女にとっては酷な暮らしだと思う。



アキバ・トリム前にて。



 東京都千代田区神田佐久間町。首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス秋葉原駅の駅ビルであるアキバ・トリムの3階に無印良品アキバ・トリム店があり、その上の4階にユニクロアキバトリム店が入ったので、山手線で秋葉原に出ると無印良品・ユニクロふたつの買い物が一度に済むので家人は大喜びしている。



アキバ・トリム前にて。



 どの程度の面積を持つ店舗なのか下見に行ったら、無印良品は広く感じるのに同じ面積のユニクロは狭く感じ、どうしてだろうと思うにユニクロの天井の高さが低い。帰宅して
「ユニクロの天井が低いので店舗面積は広いのに狭く感じちゃう」
と言ったら
「そりゃあ清水・静岡の贅沢な造りのユニクロを見慣れてるからで、東京のユニクロなんてみんなそんなものよ」
と笑う。そう言われてみれば確かにそうだけれど、清水・静岡のユニクロしか知らないのでやはりどうしてもユニクロ気分になれず、天井も商品の一部だったように思えてならない。

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【蝉便り】

【蝉便り】
 

 静岡県清水。クスノキの巨木がある神社の緑が濃くなり、本格的な夏到来を予感させる風景になってきた。



5/30、静岡県清水、旧久能道村松原稲荷にて。

 郷里静岡県清水の夏というと「シャーシャーシャーシャー」という、耳をつんざくばかりのクマゼミの声を思い出す。
 小学生時代は東京で滅多に聞かないクマゼミの声をひときわ清水固有の音と感じたし、さまざまな原因で生息域が北上し、東京でもクマゼミの声を聞くようになった昨今でも、クマゼミの大合唱を聞くと「(ああ清水の夏だなぁ)」とやっぱり思う。清水のクマゼミは清水言葉で言うなら「寝てぇられないくらいぎょうさんしい」のだ。



5/30、静岡県清水、旧久能道村松原稲荷にて。

 
 清水で実家の写真館を継いだ高校の後輩からメールが届き、雨上がりを梅雨明けと勘違いしたのか、店の裏庭で蝉が羽化していたという。
 永年地中で暮らして地上に出てみたものの、こんなに早くては伴侶を見つけるのは絶望的だろうと、いかにも写真店主らしい細やかな心配をしていた。

 蝉とゴキブリを一緒にするのも何だけれど、「1匹見たら、10匹いると思え」というように、清水では鎮守の森で耳を澄ますと、早熟なセミたちが伴侶を呼ぶ声が聞こえていたりするのかもしれない。
 いつか「寝てぇられないくらいぎょうさんしい」清水のクマゼミを、録音しておきたいと思っていたので、これからの帰省は忘れずに録音機材を持参しようと思う。
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【港まで】

【港まで】
 

 営業距離11キロメートルの静岡鉄道静岡清水線。
 このところ新静岡駅を利用する帰省が続いている。どうしてかというと新静岡センター再開発が始まったことにより、新静岡駅臨時改札が地上一階で直結になり、いったん地下に降りなくて良いせいでぐっと近く感じられるからだ。



6/15、静岡鉄道静岡悅水線、新静岡駅臨時改札口風景。

 こうやって階段を上り下りしなくて良くなったおかげで、お年寄りや障害者は静鉄電車が利用しやすくなったに違いなく、
「再開発後も以前のような地下改札にならなければいいな」
と言ったら
「集客の都合でまた同じような構造になるかも」
と友だちが笑っていた。



6/15、静岡市葵区御幸町にて。

 JR静岡駅と新静岡駅が近く感じられるようになったので御幸町歩きも楽しく、今まで入ったことのない店の暖簾もくぐってみたりしている。
 東京にいて居酒屋チェーン店頭に『清水港直送』の文字を見ると「(この店はマグロを売り物にしているのか)」と思い、はるばると清水港から送られてくる冷凍マグロを思い出すけれど、静岡市葵区御幸町で『清水港直送』の文字を見ると、清水魚市場で仕入れた魚を竹カゴに入れ静鉄電車に揺られて港から帰る板前の姿を想像してしまう。東京都内で早朝の電車に乗ると、築地まで仕入れに行った帰りのそういう人に良く出会うからだ。

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【月の満ち欠け】

【月の満ち欠け】
 

 帰省時に行きつけの理容室で女性店主に散髪をお願いしたらご主人が急に入院されたという。
 あれこれ病気を抱えて入退院を繰り返されているご主人なので
「今度はどうして?」
と聞いたら、夜間就寝中の様子がおかしいのだけれど、うまく言葉で説明できないので、テープレコーダーに録音して医師に聴いてもらったら、どうやら睡眠時無呼吸症候群らしいので検査入院になったといい、昔からそうだけれど、この奥さんは偉いなぁと感心する。



5/30、エスパルスドリームプラザ前の人工海浜で遊ぶ女子中学生たち。

 進化とともにあごが小さくなり、どんどん肥満している人類の宿命病とも言われている睡眠時無呼吸症候群だけれど、発見が遅れれば命に関わる病気でもあり、また病院通いが始まるけれど、それはそれでよかったねと髪を刈られながら話した。



5/30、エスパルスドリームプラザ観覧車と月。

 渚に波が寄せては返し、子どもたちが海の中に入っていっては駆け戻り、観覧車がゆっくり一周して地上に戻り、太陽と月が追いかけっこをするように昇っては沈み、その月が欠けていっては満ちてくる、といった単調な繰り返しが心地よいと感じることがあり、その心地よさが永遠に続いてくれたらいいと感じる人が寄り添っていると、微かな予兆に気づいて病気を見つけてくれたりするわけで、他人から見たら苦労の絶えないご夫婦だけれど、末永く二人でいられたらいいなと心から思う。

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【東海林太郎】

【東海林太郎】
 

 東海林太郎という明治生まれの歌手がいて、直立不動の姿勢で歌う不思議な人だった。1972年に亡くなられるまで現役で歌われていたので、テレビの生中継でも見たことがあり、1965年には紅白歌合戦にも出場されている。当時は直立不動の姿勢が妙におかしくて物まねをする芸人も多かったけれど、亡くなられて久しいせいか最近は見かけなくなった。
 国定忠治など任侠ものに題材をとった持ち歌が多いので、清水次郎長関連の歌がないかと調べてみたけれど見あたらない。そのかわり1936(昭和11)年に発売された「椰子の実」のメロディーは、正午になると防災スピーカーから清水の町に流れている。「椰子の実」が流れて正午だとわかると「(ああ、清水にいるな…)」と思う。



5/30、エスパルスドリームプラザ前にて。

 子どもの頃から寝相が悪いと言われ続け、今でも朝になると180度回転した姿で目が覚めたりするので相変わらず悪いままでいる。一方、義母は異様に寝相の良い人で、介護中に寝室をのぞくときまって直立不動まま硬直して後ろに倒れたような格好で眠っており、生きているのだろうかと不安になるけれど、家人に聞くと
「そう、あの人昔から東海林太郎だった」
と素っ気なく答える。
 寝相の善し悪しが健康に良いか悪いかは別にして、直立不動とまではいかないまでも、心がけと努力次第でおとなしい寝姿を身につけるのは可能ではないかと思う。そうでなかったら、時代劇で見かけるように、髷(まげ)や日本髪を結った武家の男女が、あんな不思議な木製枕で寝られたはずがないと思う。



5/30、テルファーのある黄昏。

 東海林太郎スタイルで眠る義母は、性格もまた過剰なほど几帳面で頑固で融通の利かない直立不動スタイルであり、寝るときも直立不動の姿勢で行儀よく眠ることを、固い決意と不断の努力で身につけた可能性が高い。
 直立不動とまではいかないけれど、まっすぐな姿勢で謡う流行歌手も最近は多いけれど、そのことを笑われることはない。どうしてあの頃東海林太郎が笑いの対象になっていたのかと思うに、空前の「なつかしの歌声ブーム」だった1960年代の日本が、空前の「行儀の悪い時代」だったのかもしれないな、と今になって思う。

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【乙姫さまとブヨ女房】

【乙姫さまとブヨ女房】
 

 郷里静岡県清水の友だちが、母は何歳で他界したかと聞くのでその年齢を伝えたら
「ああ私はお母さんの年まであと20年しかない」
と言う。そういう考え方はきっとこの人を不幸にすると思うので、人生の長さの感じ方は、一人ひとりの心のもちよう次第だということを伝えようとしたのだけれど、うまく伝わったか自信が持てない。



5/30、清水松井町界隈にて。

 母の晩年は、インターネットが普及して郷里清水にたくさん友だちができ、そのおかげもあってとても楽しいことが多く、僕も母も充実して過ごしたし、その楽しかった日々は永遠にも匹敵するように大きな想い出になっているのだけれど、今振り返れば不治の病とわかるまでの、わずか3、4年のあいだの出来事にすぎない。



5/30、港橋から見る巴川下流。

 助けたカメに連れられて竜宮城に行き、乙姫さまの接待を受けて楽しく過ごし、元いた海辺の村に戻ったら驚くほどの歳月が過ぎて見知らぬ人ばかりになっていた、というのが浦島太郎のお話なのだけれどその逆の話しもある。
 若者がたんぼ道を歩いていたらブヨがわいており、そのうちの一匹が美しい女性に姿を変えて女房にして欲しいという。手に手を取って所帯を持ち、子どもももうけ、長年連れ添って幸せに暮らすのだけれど、悲しいことに女房に先立たれてしまう。泣く泣く元いた村に戻ったら、ブヨの女房と過ごした幸せな歳月は、わずか半時の間の出来事に過ぎなかったという話しだ。



5/30、港橋から見る巴川上流。

 長命なカメと短命なブヨが出てくる二つの話しを並べてみると味わい深く、そんなふうに時間という不思議なものは、一人ひとり気持ちの持ちようで長く感じたり短く感じたり、伸縮自在なのだと昔話は教えている。たった20年しかないと嘆くより、10年でも、1年でも、たった1日でも、それが永遠と同じくらいに大きな宝物と感じてありがたいと思う、そんな心の持ち方のできる人間になることが、きっと幸せな人生を生きるコツのように思うのだけれど、自分で実践するのはもちろんのこと、他人に伝えるのはとても難しい。

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▼twitterでね

 


疲れたときのひとりごと
 
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【まちの古道】

【まちの古道】
 

 たくさんの人が踏み分けることによってできた道はとても良くできている。
 1974(昭和49)年7月7日、郷里静岡県清水に大洪水を引き起こした七夕豪雨の際、大内の田んぼ内で孤立した祖父母の家に向かった母は、洪水に行く手を阻まれていったん引き返し、高橋方面から北街道ルートを進んだら、押切の先で自衛隊のボートに乗せて貰うまで陸上を歩いて行けたという。低湿地だった郷里では歩ける高みに沿って道ができたから古道ほど水害に強い。



古道久能道にて。

 次郎長通りの魚屋で買い物をして帰る際に、古道志みづ道を通って古道久能道に出ると楽だと聞き、そうしてみたら確かに勾配が少なくて楽なのでそうしている。図面上で計画された道は図面上まっすぐで合理的に見えても、地面上を歩いてみれば強引に勾配を産んでいることが多い。
 入江南に実家があった時は、久能道に出たらそのまま入江岡跨線橋を渡って帰っていたのだけれど、6月15日の帰省の際は、桜橋町の櫻珈琲に寄ってから帰京することにしていたので、久能道から再び志みづ道に入り、昌庵地蔵前を通って中央図書館裏手から県道清水富士宮線を渡り、清水市民文化会館脇から古道伝いに南幹線道路を渡り、さらに二本塚踏切で静鉄と東海道本線を渡って桜橋町まで歩いてみた。やっぱり楽だ。



久能道入江岡跨線橋にて。

 どうして楽なのかというと入江岡でも桜橋でも跨線橋を渡るのために坂があるのだけれど、志みづ道は踏切を渡るので勾配がないのであり、勾配というものは人に優しくない。勾配のない人に優しい志みづ道を台無しにしているのが県道清水富士宮線で、大曲と記念塔跡までの直線区間は横断歩道が少なくて歩道橋を渡らなくてはならないし、押しボタン式の横断歩道は壊れているのではないかと思うほど車優先で人を待たせる。東京でこんなに人を待たせる押しボタン式信号機に出会ったことがない、



久能道入江岡跨線橋から眺める桜橋方向。

 おそらくこの区間沿いに住む年寄りや障害者はこの道路によって生活圏を分断されているのであり、たいした交通量もないので、もっと人に優しいゆったりした横断歩道を作れば楽になって、いつまでもこの町で暮らしたいと思う人がたくさんいるのに……と古道を辿りながら思う。

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▼新幹線とiPodと万葉集

 

 東京・静岡間は新幹線でほぼ1時間なのだけれど静岡駅に停車する列車が少なくて、理論上よりずっと遠い。
 たとえば午前9時12分静岡駅着のこだま号に乗るために東京の家を出たとして、運悪く乗り遅れてしまうと静岡駅午前9時58分着のこだま号まで待たなくてはならない。そういうケースでは駒込・清水間が3時間近くかかってしまう。




東海道新幹線車両。



 東京駅午前6時33分発のこだま号に乗ったら指定券が禁煙車両の1Aで、その先頭の席には目の前の壁に100ボルトのコンセントが付いている。掃除用のコンセントだそうで、パソコンの充電などに使っても叱られることはないらしいけれど、電圧が安定しないので自己責任らしい。その壁の上にダウンロードして聴ける万葉集の広告があった。



うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見む

 大伯皇女(=大来皇女(おおくのひめみこ))のうたなのだけれど「弟世」が読めないので頭の中で「・・・・」と読むしかない。それでは鑑賞にならないので、こだま号停車中に携帯をネット接続して調べたら「いろせ」と読み、「いろ」は「母=同じ腹」、「せ」は「男」のことで「女」をあらわす「いも」の反対語だという。
 謀反の嫌疑をかけられて24歳で死んだ大津皇子(おおつのみこ)を二上山に葬り、明日からはこの山を弟と思って眺めよう、という歌なのだという。なるほどなぁと写真を眺めていたら静岡駅到着の車内放送が流れ、慌てて下車準備をした。無為に過ごさなければやっぱり静岡は近い。

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▼ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』2


2009年6月12日収録



ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』2

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