線香の神様

2012年6月29日

 郷里清水で実家片づけを始めたばかりの頃、訪ねてくれた建築家の友人が亡き母の遺影の前で、線香を一本取り上げて真ん中で二つに折り、火をつけて立てているので驚いた。線香を折るというワイルドな作法を初めて見たからだ。
 浄土真宗では線香を折って火をつけ横に寝かせて置き、その他の宗派では折らずに線香を立てるのだけれど、その本数に決まりはないらしい。おそらく友人は短時間でさっと香り立ち、長時間部屋が煙るのを避け、火のついた線香が倒れて万が一の事故を起こさないため、などといった建築家らしい心遣いでそういう焼香をしてくれたのだと思う。

大宮駅前の居酒屋店頭にあった盛り塩

 これは良いなと思ったので帰京した後も、毎朝立てる線香は二つに折っている。
 線香を一本手に持って朝の光にかざし、両手の親指人差し指でつまみ、真ん中とおぼしき場所で「えいやっ」と二つに折るのだけれど、正確に二等分するのがなかなか難しい。
 「えいやっ」の瞬間に心の集中ができていないと、数ミリ長さが違ってしまうのが面白く、どれだけ正確にできたかによってその日の吉凶を占っている。最初のうちは見た目による等分がまずいのだろうと目を凝らすことに集中したけれど、そうではなくて左右の指と指に均等な力が掛かり、線香が指と指の真ん中で折れるように集中できたかで精度が違ってくるらしい。
 そんなわけで毎朝小さな仏壇に向かい
「ぴったり二等分できていい日になりますように」
などと、仏様の前で線香に神頼みしている。


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【ラーメンとかき氷】

【ラーメンとかき氷】

 

 「酒飲みが買って帰る甘いものは旨い」
部下が出張帰りに買って帰る土産物を、長年食べ続けた上司がぽつりと漏らした至言である。
 出張先でへべれけになるまで飲んでいる姿が容易に思い浮かぶような同僚が、後ろめたいことでもしてきたかのように、柄にもなく気張った店の和菓子を手土産にするときがある。それがきんつばであれば、あずきの滋味が損なわれない程度の甘さのなかにかすかな塩味を感じたりし、甘党の同僚はもちろん辛党をも唸らせる絶妙な味わいだったりするわけだ。酒飲みは絶妙な味わいを手土産に職場へと復帰する。

|静岡市清水区『甘寅』のラーメン|2005年8月|


 今年もまた毎月の静岡出張が始まった。
 新幹線で静岡駅に着くとまず南口にほど近い『清見そば本店』で食べる、昔懐かしい味のラーメンを愉しみにしている。残念ながら店舗改築のため休業中と聞いたので別の店で食べたらひどいラーメンで、楽しい昼食を無駄にしたと会議で話したら、静岡駅至近なら『きなこ』のラーメンがいいと教えて貰った。『きなこ』は甘味処なのだそうで、
「清水銀座、戸田書店前の路地を入った『甘寅』のラーメンみたいなものですね」
と言ったらそうだと笑っていた。
 富山市出身の家内は、学生時代からなじみ深い『柳の下 末弘軒 本店』のラーメンが好きで、昨年墓参り帰省した際に寄ってみたら確かに美味しかった。『きなこ』も『甘寅』も『柳の下 末弘軒 本店』も、夏になるとかき氷やソフトクリームを売っているような店であり、
「夏にかき氷を売るような店のラーメンは旨い」
というのがわが家の至言になっている。

 

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あれとこれと太閤検地

2012年6月27日

 子どもの頃、親に
「あれはどうした」
と聞かれ
「あれとこれを交換した」
と答えながら交換したものを見せると、ひどく怒られることがあった。価値の釣り合わない馬鹿な交換をするなと怒っているのだけれど、子ども心に十分釣り合うと思ったから交換をしたわけで、価値の釣り合いというのは難しいものだなと思った。
 大人になっても釣り合いをとるのは難しいようで、郷里清水で家具店の息子に生まれた友人が、高校時代の同級生と恋人同士になったが、親達によって結婚前に別れさせられたという。お姉さんにその理由を聞いたら、家具屋の息子と缶詰会社の娘では釣り合わないからだというのだけれど、家具屋も缶詰会社も立派な家柄なので、どう釣り合わなかったのかいまだにわからない。

 埼玉県立歴史と民俗の博物館を見学していたら太閤検地の様子を描いた絵が展示されていた。
 昔のことなのでさぞや入り組んだかたちの田んぼもあったと思われ、そういう田んぼの面積はどうやって測量したのだろうと不思議に思っていたが、その答えがここにあった。不定形の田んぼを包含するような矩形をつくり、田んぼではないので欠けた場所は「貸」、田んぼなのにはみ出してしまう部分は「遣」とし、あれとこれである「貸」と「遣」の釣り合いがとれる矩形がその田んぼの面積に相当するわけだ。検地帳には確定後の縦横寸法が記載されたという。
 友だちと一杯飲みに出てはしごをすると
「前の店でご馳走になったからここは払わせて」
などと奢り奢られしている。酔っ払っていることもあって、必ずしも「貸」と「遣」が相殺されているとは限らないけれど、結局長い付き合いになっている友人というのは、いつのまにかあれとこれの釣り合いがとれている関係のような気もする。

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ああ関東ローム層

2012年6月26日

  小学生時代から落ち着きがなく、学校の授業にもろくに身が入らなかったので、誰もが学校で学んでわかっているはずの常識が、いまでも身についていない現実に唖然とすることがある。

 関東平野は、富士山や箱根の噴火によって噴出し、風によって運ばれた火山灰が降り積もって、赤い土の関東ローム層に覆われていると社会科で習ったのに、自分の足もとを掘っみても、赤土ではなく湿った黒い土ばかり出てくるのを小学生時代から不思議に思っていた。
 実は関東ローム層が見られるのは台地上だけで、自分が暮らす下町には見られないこと、ようするに洪積層でできている高台の地域ではなく、東京下町のように沖積層で覆われている土地、平たくいえば長いこと水の底だった土地では、関東ローム層は見られないわけだ。そういうこともちゃんと習ったはずなのに、しっかり聞いていなかったので「おかしいな…」と首をかしげたまま大人になった自分がいる。

埼玉の特養近くにある畑

 義父母が埼玉県の特養ホームに入所したので、面会のため毎週大宮まで通っており、早いもので三度目の春が来た。
 大宮駅東口からバスに乗って特養ホームに行き、帰りはそのまま浦和美園駅まで足を伸ばすこともあるけれど、都心にほど近い通勤圏なのに、広大な農地がいまも残っている埼玉県に感動する。

 今年もまた畑の準備が始まり、見事な関東ローム層が掘り返されて赤い地肌を見せていると、ああ自分はいま関東平野にいるんだなぁと、子どもの頃習った社会科の授業を復習するように、実感をもって感動する。

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私生活上の事柄

2012年6月25日

 小学生時代に暮らしていた北区王子の木造賃貸アパートはひどい安普請で、風が吹くとゆさゆさ揺れた。台所もトイレもない六畳一間が長い廊下に並び、各世帯間を隔てる壁はベニヤ板一枚だけだったので、ちょっと大きな声で話せば、私生活上の事柄まで隣室に筒抜けだった。仕方なしに声を潜めて話すこともあったけれど、そういう暮らしを続けるのは肩も肘も疲れるので、他人に聞かれて困らない話だけを大声で話し、開けっぴろげに暮らしていたのだと思う。他人に聞かれて困らない話だけをすることでも、40ワットの電球が60ワットになったくらいに家庭は明るくなる。

根津にて

 隣の部屋でいつもの夫婦げんかが始まり、ビシッと頬を叩く音がして奥さんのすすり泣きが聞こえたりすると、
「まぁまぁ喧嘩はそれくらいにして…」
などと隣人が仲裁に入り、
「今日のところはそれくらいにして、どうです軽く一杯」
などと家族同士の飲み会が始まってしまうこともあった。
 子ども時代のそういう暮らしが身についてしまっているので、あなたは何でも大声で話しすぎるとよく家族に叱られるけれど、聞かれて困るような話を、聞かれて困るような人たちがいる前で、声を潜めて話すということがいまも苦手だ。

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「十一屋のある通り」

2012年6月23日

 千石交差点から南西に延びて護国寺方向に向かう不忍通り、通り沿いにある林町交番向かいあたりから不忍通りを右折して北西に延びる道があり、巣鴨方向までまばらながら商店が並んでいる。商店があるので商業的な通り名くらいあるのかも知れないけれど道の名を知らない。十一屋という角打ちのできる酒屋さんがあるので、自分で勝手に「十一屋のある通り」と呼んでおり、しばらく「といちや」だと思っていたけれど正しくは十一屋能村酒店 (じゅういちやのむらさけてん)という。

伊勢五米店

 明治の終わり(明治39~42年)頃の地図を見るとまだ不忍通りはないが「十一屋のある通り」はちゃんと存在し、巣鴨方向から南東向きに伸びてきて林町にあった徳川邸にぶつかってとまっている。当然明治始め頃の地図を見ても載っているので、江戸時代からある古道なのだろう。ちなみに十一屋ならびにある登録有形文化財指定の米店「伊勢五」さんのサイトを見ると、創業のはじまりは享保年間(1716~1736)あたりまではさかのぼれるという。

十一屋のある通り

 大塚の出版社まで打ち合わせに行くと、バスに乗るほどでもないので不忍通りを歩いて帰ることにしている。路面電車がなくなってしまってからの不忍通りは、味も素っ気もない産業道路だけれど、「十一屋のある通り」に折れて裏通りを行くと妙にほっとする。たくさんの人びとの生活道路らしい風情がいまも残っているからで、とうに消えてしまった江戸、明治、大正、昭和初期の人びとが、やはりこんな風にこの街を行き交っていたんだろうな、と思い浮かべることができるからだ。

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本郷通りとカンナ

2012年6月3日

 静岡県清水を流れる巴川沿いにあった祖父母の家で暮らした幼稚園時代、夏になると土手に真っ赤なカンナが咲く光景を今も覚えている。大雨になるたびに氾濫への注意が必要な暴れ川だったので、上流から流れ着いた球根が野生化して生えていたのかもしれなくて、そう思って帰省時に巴川の支流である塩田川沿いを歩いたら、やはり何カ所かで野生化したカンナを見た。

本郷通り沿いに咲くカンナ|2011年

 本郷通り、上富士交差点から霜降橋交差点までの街路樹下に夏になるとカンナが咲き、宿根草(しゅっこんそう)ということもあって、枯れては咲き枯れては咲くということを毎年繰り返している。
 すべての街路樹下にカンナが植えられているかというとそうでもなくて、紫陽花だったりパラだったりし、本郷通りを上富士交差点で折れて不忍通りに入ると、なんと枇杷や柿など実のなる樹木が植えられていてびっくりするので、住民が勝手に植えたらしい。

 

今年も芽吹いたカンナ|2012年 

 街路樹下の貴重な地面のゴミを拾い、花を植えて緑化したいという思いは、たいせつな市民意識の基礎なので自由に任せられており、ただし50センチ程度の高さに抑えることという明文化されないお約束があるらしい。
 今年もまた本郷通りに、いかにもショウガ目らしい姿でカンナが芽を出している。殺伐とした道路沿いに花を見るのは嬉しいものだし、アルバイト店員らしい青年が店の前のカンナに水やりしている姿を見ると、いいものだなぁと心和む。


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柳小路とさくら新道

2012年6月1日

 昭和30年代の東京、JR王子駅前東側にある飲食店街柳小路に『花寿司』という小さな寿司屋があった。同じ頃JR駒込駅近くに『富士』という名の割烹料理店があり、とても良い腕前の板前がいて、母は料理の基本はすべてその板前に教わったと言って慕っていた。その『富士』の板さんにハンサムな弟がいて、自立して王子に開いた寿司屋が『花寿司』だった。というわけで自分にとって王子と駒込は二つの店でつながっており、母に連れられてよく出かけたので、ふたりの板さんにはずいぶんかわいがってもらった想い出がある。

在りし日のさくら小路|2011年

 柳小路のある王子駅東側ではなく、西側の線路が飛鳥山と接する場所にあったのがさくら新道で、昼間でもちょっと暗い線路際の飲食街を、飛鳥山での野球帰り、友人たちと足早に通り過ぎたものだった。東の柳小路、西のさくら新道、その仄暗さ加減に相通じるものを子どもながらに感じていたが、戦後にできた闇市再開発の際、くじ引きで柳小路から移った人びとが、あらたな新天地として飲食店を営んだのがさくら新道だったのだという。

さくら小路飲食店街、屋外にあった共同流し場|2011年

 その後『富士』の板さんは鉄道事故で亡くなられたと聞き、『富士』も『花寿司』も店を畳まれてもうないが、あの頃から半世紀経っても変わらないさくら新道が懐かしくて、時々散歩したり飲みに行くこともあった。2012年1月21日の火事で焼けてしまったさくら新道飲食店街は、今もなお京浜東北線車内から無残な焼け跡が見えており、王子駅を通過するたびに人も店も街も車窓風景のように過去へと遠ざかる。


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