失われた10年

|2013年2月28日|

 バブル経済が崩壊し消費や雇用がうまくいかなくなってデフレに陥った1990年代初頭から21世紀初頭までを失われた10年といい、最近は世界同時不況の現在までを含めて失われた20年と呼ばれることも多い。そしていま失われっぱなしになるかもしれない次の10年を生きている。
 失われた10年に続く次の10年に、我が家では別の失われた10年があった。21世紀初頭あたりから三人の親たちに老いが目立ち始め、病院の世話になるようになって看護介護が始まった。一人っ子同士の夫婦が三人の親たちを在宅介護したわけで、振り返ればその期間が我が家庭にとっての失われた10年になっている。

|小田急線南新宿駅|2013年2月27日|

 久し振りに南新宿から代々木まで、仕事の打ち合わせに向かうついでに裏通りを歩いてみた。表通りは見慣れないビルも建って様相が変わっているけれど、裏通りは思ったより昔の風景が残っていて拍子抜けしながらホッとする。バブル期が終わったのちの失われた10年にも、不動産ファンドが活性化したことにより再び息を吹き返した地上げの嵐があったのだけれど、さすがに裏通りまでは及ばなかったらしい。

|渋谷区代々木一丁目|2013年2月27日|

 三人の親たちの看取りも、たった一人残った義母が特養ホームに入所したことで、失われた10年がようやく終息に向かい、夫婦二人の家庭らしさが戻って来た。少し早めに家を出て、懐かしい裏通りを歩きながら失われていない風景に出会ったら、10年単位の区切りをつけながら昔のことをちょっと思い出した。

 

|渋谷区代々木一丁目|2013年2月27日|


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朝の一瞬、永遠の保留

|2013年2月27日|

 親戚の家を訪ねたら今日は従妹の誕生日パーティーがあるという。
 みんなでわいわい賑やかで楽しそうにしており、よかったら一緒に祝おうと言われて巻き込まれ、プレゼント買い出しに付き合わされて外出した。買い物をしながら突然ふっと病気で寝ている母親の事を思い出してしまい、こんな事をしてる場合じゃなかったんだと気づいて舞台は暗転した。もうとっくの昔にこの世からいなくなったはずの母親が夢に現れて夢が壊れるという、いつもの悲しいパターンで目が覚めた。
 こんなふうに目が覚めてぼんやり明るくなって行く意識の中で、急に自分を取り巻く現状を思い出して世界が暗転する朝を、親三人の介護中に体験したので、いまだにそういう夢を見てうなされる。今この時のこの朝を、そんな風に迎えている人は辛いだろうなと、くりかえし夢でうなされるたびに思う。



 世界に生まれ出たばかりの赤ん坊のように、あるいは真っさらなノートを開いたときのように、朝起きた瞬間には悩みがない。一瞬ののち、自分が今置かれている境遇に関する情報がどっと流れ込んでくるまでは。
 朝顔の英名が Morning Glory だと初めて知ったときにはピンとこなかったけれど、朝ほんの一瞬だけ花開いて萎(しぼ)んでしまうから朝の栄光なのだろう。朝に花開いて、すぐ現実に押しつぶされて萎んでしまう、朝顔のような暮らしをしていてそう気づいた。
 絶望的と思えるような状況に追い込まれた人でも見出しうる最後の光明が、朝起きた直後の真っさらな一瞬なのかもしれない。朝起きた瞬間、現実に打ちのめされる前の真っさらな直感、それこそが無為という生と死が渾然となった状態、「二項同体」「消極主義」「ミニマル・ポシブル」などという難しい言葉で語られる状態なのかもしれない。それはジャン・ジャック・ルソーが絶望の中で見つけたという一縷の光明ファル・ニエンテ(無為)というものに似ているかもしれない。
 そんなことを考えながらの起床前、シモーヌ・ヴェイユに関する論評を読んでいたら「頭痛。そんなときは痛みを宇宙へと投げだしてみると、痛みがましになる」という引用があって驚いた。痛みを投げ出してみたり引き受けてみたりして、希望と絶望、生と死が混在となった一瞬に垣間見える光明、それこそが朝の栄光であり無為というもののような気がする。痛い辛いも生きていればこそだろ?、死ねば楽になるけど死んでもいいの?、と一瞬の自問自答と永遠の保留。

 

 

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読みながら神経症?

|2013年2月25日|

 

 本を読んでいる最中に、目は文字を追っているのに頭は全く関係のない別のことを考えているという現象はどうして起こるのだろう。自分だけかと思っていたけれど、そういうことは他人でも広く起こっているらしい。そもそも目と頭という器官を対置させたとらえ方が間違っていて、「目は目で読んでいて頭は別のことを考えている」という認識と表現がそもそも筋違いなのだろうか。でも頭が別な思索にふけっているとき、目はかなや漢字を区別してちゃんと読んでいるように思え、たとえれば目が教壇で一所懸命に講義しているのに、生徒である頭が勝手に私語を交わし合っている教室のような状態なのだ。


 心のわだかまりとなっている記憶ががあり、それが読んでいる内容とどこかで繋がっていると、読書内容についての思索がわだかまりについての思索へと脱線してしまうらしい。数ページ戻って脱線した箇所に戻り、集中しなくちゃだめじゃないかと自分を叱咤して読みなおすのだけれど、やはり同じ箇所を通過するうちに別な考え事が始まってしまう。そういう時は無理をせず栞を挟んでおき、別な日に読み返すとすんなり頭に入ってくる。日を置くとなぜ大丈夫なのかも、それはそれで小さな謎になっている。
 受験勉強していた頃はラジオを聞きながら勉強したりし、「ながら族」という流行語がまだすたれず語り継がれている時代に「ながら族」だった記憶がある。日本医大の木田文夫教授が 「ながら神経症」と名付けたことで流行語になったらしいが(1958)、本を読みながら別の考え事にふけってしまうという現象も、やはり神経症なのだろうか。器質的なものによらない軽度の精神疾患を神経症というので、とりあえず日を置いてやり直すというのはまず自分でできる治療法として有効なのかもしれない。

 

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不思議な沈黙交易

|2013年2月23日|

 

 もう8年前の秋になるけれど、郷里山間部の祭りに招かれた(*1)。
 神社本堂を開け放って電灯を灯した通称 “えらい人” の席に座らせてもらい、一杯飲みながら地元のお年寄りである “えらい人” の話を聞くことができた。面白かったので、人に話したり日記に書いたりしたけれど面白さの奥が深く、何度も何度も人に話したり日記に書いたりしている。伝承されていく物語はそうして作られるのかもしれなくて、物語るたびに文章が変わって自分が書いたものにも別の味わいがある。こんな話だ。

   ***

 今ではお年寄りになった “えらい人” がむかし旅をして、道沿いにある無人売店というものを初めて見た。農家が小袋に入れた野菜を置いて値段を書いておくと、通りかかった人がそれを見て欲しいと思い、価格が適正と感じたら野菜と引き換えに料金箱へお金を入れておく。人と人とが顔を合わせないという意味で大雑把に言えば一種の沈黙交易だ。

沈黙交易: 一般的には、交易をする双方が接触をせずに交互に品物を置き、双方ともに相手の品物に満足したときに取引が成立する。交易の行なわれる場は中立地点であるか、中立性を保持するために神聖な場所が選ばれる。言語が異なるもの同士の交易という解釈をされる場合があるが、サンドイッチ諸島での例のように言葉が通じる場合にも行なわれるため、要点は「沈黙」ではなく「物理的接近の忌避」とする解釈もある。

フィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスンは、世界各地の沈黙交易を研究し、人類史における平和が、市場の中立性や、異人(客人)の保護=歓待の仕組みに深くかかわっていると述べた。カール・ポランニーは、沈黙交易について、掠奪による獲得と交易港による平和的な交易の中間に位置する制度とした。(ウィキペディア *2013/02/22)

 

  “えらい人” の地元にはまだ無人売店という仕組みが知られていなかったので、帰ったら皆に教えて広めようと思い、帰郷して早速設置してみた。
 毎朝野菜を並べ、夕方見にいくと野菜がなくなって料金箱にお金が入っている。これはうまい仕組みだと喜んだが、やがて困ったことが起きるようになった。夕方見に行くと代金が無くなっているのだ。困った “えらい人” は仕方なしに小さな錠前をつけておくことにした。
 最初のうちは良かったけれど、鍵を壊して持ち去られるようになり、新しいのを付けても付けてもまた壊され持ち去られてしまう。 “えらい人” はいたちごっこに見切りをつけ、回収の時刻を変え、回数を増やしてお金が持ち去られる前に回収するようにした。
 ある日、そうやって回収に行った “えらい人” は料金箱を見て「あっ!」と声が出るほど驚いた。料金箱には見たことのない錠前が取り付けられていたのである。

 この話の面白いところは、途中まではよくある無人売店の代金泥棒の話で、それだけでは不愉快でちっとも面白くないのだけれど、最後の「料金箱には見たことのない錠前が取り付けられていたのである」のところに深い余韻がある。野菜を置いて代金を回収する人、野菜を受け取って代金を入れる人とで成り立つ相互の交易に、鍵を開けて代金を回収する人が現れて “三すくみ” 状態になったのである。(*2)
 ただの泥棒ならこういうヘンなことはしない。この「えっ!」と驚くような事をするやつは、いったいどういう精神の持ち主なのだろうと想像をめぐらすと様々な人物像が思い浮かぶ。想像をめぐらすと “えらい人” や良識ある大人なら、軽々に想像を口にしてはいけないような人物像が思い浮かぶ。そこで “えらい人” や良識ある大人たちは結末を追求せず、
「そりゃあ困った!」
と大笑いして話の幕を引くのだ。
 そして、しばらく時間をおくとその不思議な余韻が忘れられず、人に話したり、こうして日記に書いたりしたくなるわけだ。(*3)


(*1)清水区庵原にある砥鹿神社祭礼

(*2)ウィキペディアの記述「カール・ポランニーは、沈黙交易について、掠奪による獲得と交易港による平和的な交易の中間に位置する制度とした」(ウィキペディア *2013/02/22)という部分が気になり、栗本慎一郎が引き合いに出していたカール・ポランニーの本が読んでみたくなった。検索して書評を読んだら文章が難解で翻訳も難しいらしく、とてもじゃないが内容を理解するところまでいかないとあった。それでも読み終えた人が、日本の著名な経済学者が書いたあの本の「種本」であることは確認できたとあったので、素人としては渡りに船で、種本から芽生えたという一般向け新書の方を注文した。古書だと Amazon で1円+送料250円だった。素人の教養主義的読書というのはそういうものだ。

(*3)真夜中の読書と調べ物で偶然レーモン・クノー(Raymond Queneau)の『文体練習』という本を知って買ってみた。日常の些細な出来事を切りとって文章化したものをモチーフとし、それを99の異なった文体で書き換えたもの。違う語り手の語り口、同じ語り手のゆらぎによって文章から受ける意味はまったく変わってしまうもので、そうやって書かれたもの、それこそが思想の実体であるといった話しを最近あちこちで読むので、ちょっと興味をひかれたわけだ。

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起床力エネルギーの有効活用について

|2013年2月21日|

 

 眠りから覚めて意識を取り戻し “自分になろうとする力” いわば起床力を利用して本を読むとグングン頭に入るし、作文をするとスラスラ書けたりする。起床力を利用して読み書きすると効率が良く、幼い頃、早起きして頭がスッキリしている朝食前に勉強を済ませてしまいなさいと、親たちに言われたのはそういうことだったのかと思う。

 ありがたいことに朝起きた瞬間はたいがい元気で、なんでもやすやすとできそうな気がする。実際そうなので “朝飯前” の語源はこれかと思って調べてみたらそうではなくて、昔の人は起きた直後空腹で力が入らず、ごく簡単な仕事しかできないので、そんな仕事と状態を “朝飯前” と言ったらしい。
「そんな仕事なんて朝飯前ですよ」
というのは、
「朝飯前の元気さをもってすれば重労働もか~るがるですよ」
と言っているのではなく
「こんな仕事、朝の空腹時にやるような軽作業ですよ」
と言っているわけだ。


 現代人は栄養過多で元気な人が多いのか、夜が明けかかると六義園外周からランナーたちの靴音が聞こえて来て、彼らは朝飯前に走っているのだろう。自分も季節が暖かくなると、毎朝10キロ程度のウォーキングをして汗をかくけれど最近はめっきり寒さが苦手になり、冬の間は起床力を利用してもっぱら読書や作文をしている。

 仕事をしていると猛烈に眠くなることがあり、そういう時に運良く一人だとさっさと昼寝をしている。昼寝といっても長くて三十分、たいがいは数分で目が覚めてしまうのだけれど、目が覚めた直後は気分爽快で、起床力を利用して仕事がグングン捗る。起床力活用が効率的にできるタイプ、まさに朝型人間なのだろう。朝型人間はそうやって一日に何度も朝をつくってやることで、一人で何人分も働けるエネルギー有効活用が可能かもしれない。とか言って昼寝の言い訳をしているのだけれど。


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長い米

 |2013年2月18日|

 

 小学生時代に子連れ離婚した母にはボーイフレンドがおり、休みになるたびに遊んでもらった。食事にもよく誘ってくれるやさしいオジサンだったけれど、自分は胃の全摘手術を受けたのでお豆腐のようなものばかり食べていた。レストランに入ると豆腐などメニューにないのでスパゲティナポリタンを注文し、フォークで1センチ未満の長さに切断してから食べており、母が
「行儀が悪い!ウジ虫食べるような気味の悪い食べ方しないでよ!」
と叱ると
「しょうがないだろ、こうしないと食べられないんだから」
と苦笑いしていた。


 年末に友人からいただきものした食料の中にタイ米があり、日曜日の昼食に茹でこぼし法で炊きあげ、カレーライスを作ってみた。細くて長い米粒を見ていたら家内が
「なにかを思い出しちゃうね」
と笑うので、
「そうだね」
と相づちをうちながら、細切れのスパゲティを思い出し、
「そうか、ジャポニカ米の親戚だと思うより、これはいわば米粉を使ったショートパスタなんだ」
と思えてきた。
 というわけで今朝は、余ったタイ米が冷蔵庫にあったので、腸詰めを刻んで具にしてオリーブ油で炒め、トマトソースとタバスコで味を調えながらアラビアータ風にからめてみたがなかなか美味しい。母親が健在でこれを見たらなんて言うだろうなどと思いながら食べたら格別の味わいだった。


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武蔵野

|2013年2月17日|

 

 義父母が特別養護老人ホーム暮らしを始めたり、年上の友人が入院して長引いたりで、京浜東北線や武蔵野線や埼京線に乗って武蔵国(むさしのくに)を走り回る機会が増え、起伏の多い東京山手線内を離れると「ああ、自分は武蔵野原に暮らしているのだなぁ」と実感することが多い。
 武蔵野の原風景などという言葉を耳にするけれど、いつのどんな景色を原風景とするのかがいい加減で気に入らない。江戸時代の浮世絵に描かれている里山に、実は自然破壊の行き着いたハゲ山が多いことからもわかるように、本当の武蔵野の原風景というのは定住民の入らない時代まで遡って想像しなくては見えてこないのだと思う。そういう意味で武蔵の語源は草原を意味するアイヌ語「ムンザシ」から来たという説にいちばん説得力を感じる。

 郷里静岡県清水区にある我が家の墓は、裏手に急峻な里山が迫った災害危険区域なのだけれど、静岡県は平野部が少ないのでほとんど市街地に接している。そんな場所であってもクマ出没注意の看板が立てられ、住職によればひと冬に何度も目撃情報があるらしい。里と山が垂直に近い形で接しているので動物が出やすいのだという。
 家内が生まれ育った富山県は、静岡などに比べたら遥かに平野が広く、黒部川の扇状地を過ぎ砺波平野へ向かう道すがら、水田地帯に散在する散居村をよく目にした。散在する家はそれぞれカイニョと呼ばれる屋敷森に囲まれている。


散居村(さんきょそん)は、広大な耕地の中に民家(孤立荘宅)が散らばって点在する集落形態。正しくは散村(さんそん)という。散居村は富山県内だけで通用する俗語である。(ウィキペディアより)



 屋敷林は日本海から吹き付ける強風を避けながら越冬用の燃料も手に入れられる一石二鳥の工夫である、などという明るく乾燥した効率主義的解釈ではなく、山から出て農耕に頼る平地暮らしは心細いもので、屋敷林は人々が樹木に囲まれた適度な暗さと湿り気を求めた結果であるという解釈を高取正男の本に見つけた時は、その通りだなぁと思った。
 武蔵野原は広大で山からも海からも遠い。施設訪問や病院見舞いを終えて日暮れ時を迎えると、広大な武蔵野原にぽつんと立つことの心細さが胸にこたえ、冷たい空っ風が吹き渡っていたりすると侘びしさは格別である。さっと逃げ込める山がすぐそこにあるありがたさを感じる瞬間、さっと逃げ込める山に接した里に出る、郷里のクマたちの気持ちがわかる気がする。

 

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高取正男のこと

|2013年2月16日|

 

 高取正男という民俗学者がいた。高取正男はもちろんのこと、民俗学についてもろくに知らなかった二十年近く前、神田の古書店でふと手に取った高取正男著作集全5巻を立ち読みしたら素晴らしくて、そのうち 2 民俗の日本史、4 生活学のすすめ、5 女の歳時記を買ったのだった。

愛知県名古屋市出身。愛知県立明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)を経て、1951年京都大学文学部史学科卒業、同大学院にて国文学を専攻とし柴田實に師事。先輩の竹田徳洲と出会い、民俗学を志す。京都女子大学非常勤講師の後、1961年助教授、1966年教授。1977年より国立民族学博物館客員教授も務めた。主著に『神道の成立』、『民間信仰史の研究』、『日本的思考の原型』などがあり、没後には法藏館より『高取正男著作集』(全5巻)が刊行された。(ウィキペディアより)


 手持ちのお金が全巻買うほどなかったというわけではなくて、1 巻と 3 巻が欠落した形でばら売りされていたのかも知れない。ふと手にとって再読したら残り 2 巻が読みたくなり、ネット検索したら 1 宗教民族学は手に入ったが 3 民俗のこころは桁違いの値がついていて手が出ない。

 物事には乾いて明るい面と、湿った暗い面があり、その両方が一体となって両義性を帯びて存在しているのだ、という大人というか老成した視点と、端正で穏やかな文体が気に入り、歳をとって功成り名を遂げ全集まで出る人は違うなぁと、立ち読みしただけで惚れ込んでしまったのだった。
 2 民俗の日本史のあとがきは谷川健一が書いており

「そうした業績を残しながら夭折した亡友」(谷川健一、高取正男著作集2 民俗の日本史 法蔵館)

 

などとあるので「えっ、夭折?」と驚いて略歴を読みなおしたら、なんと高取正男は五十代半ばで亡くなっていたのだった。確かに二十年近く前の自分にとって遥かに歳をとって亡くなられた方なので、略歴を読んでも夭折とは思わなかったのかもしれない。だが自分が既に著者が生きられた年数を超えて年上になっていることに唖然とし、確かに夭折だったのだなと今になって驚いてみる。

 

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鏡とフィードバック

|2013年2月15日|

 

 昔から鏡が嫌いなのであまり見たくない。見たくなければ見なくて済むのが鏡なのだけれど、困るのが床屋で散髪してもらっている時で、見たくないから目を閉じていると、最後に「できあがりはこれで良いかしっかり見て納得しろ」という無言の圧力を感じるので、目をあけてちらっと見て
「はい、どうもありがとう!」
と言いながらさっさと席を立ってしまうことにしている。

 自分が写った写真を見るのは鏡ほどイヤではないのが不思議で、写りが悪くても「ちょっと太ったな、痩せなくちゃ」とか「ちぇっ、ずいぶん歳をとってオヤジになっちゃったな」とか「ああ、いつもこんな間の抜けた顔をしてるんだろうな」と自分にイヤケはさしても目を閉じたり顔をそむけたりはしない。
 鏡の中の自分と向き合うのが嫌なのは、それが「いま」「ここ」「これ」という自分自身のオウム返しだからだ。鏡に正対して自分のオウム返し映像を見ることで感じる不快感は、ビデオ映像におけるフィードバックエフェクトで受ける不快感に似ている。あるいは音響装置におけるハウリングにも酷似している。


【マイクによるハウリング】スピーカーからの出力の一部がマイクに帰還されたことにより生ずる発振現象である。マイク、アンプ、スピーカー、音声、マイクという経路をたどる正帰還(英語で positive feed-back)が原因であることから「フィードバック」と呼ばれることもある。(ウィキペディアより)


 女性というのはしょっちゅう鏡に正対できていて大したもんだなぁと思うけれど、見ているだけでなく、叩いたり、こすったり、塗ったり描いたりして、自分の顔を作り替える作業をしている。あれはマイクやスピーカーの位置関係を変えたり、音の大きさを変えたり、周波数帯域を変更したりして、必死でハウリングを防ごうとしているのだと思う。だから鏡に映る自分の顔をリアルに感じてハウリングが激しい人ほど厚化粧になるわけだ。

 

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湯島の白梅

|2013年2月14日|

 昼食時を挟んで運動と娯楽を兼ね、秋葉原まで歩いて往復した。おそらく10kmほどの行程になる。帰り道にふと思い出したので湯島天神境内に行ってみたら、思ったよりたくさんの梅が花開いていた。六義園内は梅が開花すると気象状態によってほんのり梅の香が漂ってくるのだけれど、湯島天神境内は祭の縁日状態なので食べ物の臭いしかしない。これはとても残念。

 写真を撮るのが仕事ではないので、今までカメラ任せの撮りっぱなしで、デジタルデータの現像をしたことがないのだけれど、RAW で記録して現像を始めて見たら大した手間ではないし、思い通りの画像が取り出せるし、高校写真部の暗室作業を思い出して楽しい。自家現像による初めてのアップロード。

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あとで

|2013年2月14日| 

 会社員時代に「話はあとで聞く」が口癖の上司がいた。
 この「あとで」がくせ者なのは、時間をおいてしまうと話す側の勢いがそがれるということもあるけれど、その「あとで」の時が結局来ない事が多いからだ。上司は「立ち話もなんだから話はあとで腰を据えて聞こう」と言っていたわけではなくて「どうせ大した話じゃないんだろうから『話はあとで聞く』と言ったことで聞いたことにしておくよ」と言っていたのである。今思えば確かに大した話じゃなかったので間違いない。

 ウェブで見つけた面白いコンテンツを、もうちょっと余裕のある時にじっくり読んでみたいと思うことがある。そういうことのために特化した道具があって、最近は Pocket というアプリが人気らしいけれど改名前の名前を Read it Later という。「あとで聞く」が Hear it Later なので「あとで読む」という意味になる。

 この「あとで」がくせ者なのは、時間をおいてしまうと読む側の勢いをそがれるということもあるけれど、その「あとで」の時が来ない事が多いからだ。ユーザーは「立ち読みもなんだから話はあとで腰を据えて読もう」と思っているのだけれど「また検索するのが面倒だから保存し、『話はあとで読む』ということにして読んだことにしておこう」と思っているのである。そうやって保存したまま読んでいない記事が山のようになっているので間違いない。

 間違いないと思ったくせに性懲りもなくまたそれをやるのは、「本当にあとでじっくり読みたいんだってば」という気持ちもやはりあるからで、Google のブラウザ Chrome に Clearly を組み合わせて Evernote に保存し SONY の電子書籍リーダー PRS-T2 で EPUB としてダウンロードして読んでいる。この E Ink(R)社の電子ペーパーで表示すると紙の印刷物のように静的なので本当にじっくり読む気になる。

 だがこの「印刷物のように」がくせ者で、情報というのはいまここで読むから価値があり、保存した瞬間すでに何かが終わっているのかも知れないので、電子的とはいえ印刷までして読む価値があったのか、改めて情報の価値が問われるわけだ。 E Ink 式の電子ペーパーは紙を無駄にしない情報のお試し用印刷機でもある。

 

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小さな気候

|2013年2月13日| 

 

 地域向けの小さなテレビ番組を見ていたら、関東地方のどこだったか忘れたけれど、平野部に小さな里山があり、その南東側は日当たりが良く冷たい季節風が遮られるので、人々が集まって集落ができたと村の成り立ちが説明されていた。気候の特色は地域をぐんぐん狭めて行っても局所的な違いとして存在し、その小さな気候の特色が集落発生の要因になっているのが面白い。里山は農作業や暮らしに必要なものの供給場所にもなっているわけで、里山に寄り添うように人が住みつくさまは魚付き林に似ている。
 郷里静岡に住む友人たちから時折小さな気候の便りが届く。
 みかん栽培の盛んな庵原の友人が寒いというので意外だと言ったら、甲駿国境の山稜を越えて冬の季節風が太平洋側へ吹き下ろす際に、庵原川沿いはその通り道になるので身がちぢみ上がるほど寒いという。
 また両河内の友人が今朝は最高に寒いと言うので上空からの映像を見たら、寒気の吹き出しにともなう筋上の雲が、樽峠を越えて谷あいに侵入する様子がその朝はちゃんと確認できた。
 さらに旧静岡市在住の友人が駿府の街に風花が舞ったと言うのを聞くと、安倍奥の山々を越えた季節風が川沿いに駆け下りてくるような気象状態を思い浮かべる。


 そういうとびきり寒い日のある地域に挟まって、比較的安定して温暖な小さな場所がある。日本平に沿った日当たりのよい土地では縄文・弥生・古墳時代と重層的に遺跡が埋もれており、時代は移っても住むならこの場所と誰もが思う土地だったのだろう。逆に季節風の通り道となる場所を選んで昔はたたら製鉄が行われたので、それらの地域にはたたら製鉄に関連した地名や白髭神社が多く遺されている。
 加齢とともに冬の寒さがこたえるようになり、冬の間だけでも沖縄に避寒逃亡したいと書いたら、郷里興津はどうかと言われてそんなことを思い出した。興津と言っても極小地域ごとにまた寒暖の差があるわけで、西園寺公望も井上馨も日があたって風をよけられる小さな気候的良所を選んで別荘を建てていたのだろう。


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沖縄北海道酔話

|2013年2月10日| 

 

 昨夜は大宮の特別養護老人ホームホーム訪問を終え、友人の女性と仕事の打ち合わせを兼ねて飲み会をした。
 二軒目は大宮駅近くの沖縄料理店に行こうと言ったら、大宮で生まれ育った友人が西口に行こうとする。
東口のあの店以外に、西口にも沖縄料理店があるの」
と聞いたら、大宮は沖縄出身者が多いのだという。そういえばNHK朝ドラ『純と愛』に登場するリトル沖縄、大阪市大正区みたいな地域は関東にはないのだろうかと聞いたら、板橋区は沖縄出身者が多いという。調べてみたら板橋区にはちゃんと沖縄県人会があった。
 好き嫌いはないつもりなのだけれど、
「沖縄料理のスクガラスだけはどうしても食べられない」
と言ったら、塩漬け直後のスクガラスは食べやすくておいしいという。スクガラスは子魚なのでそもそも若いのだけれど、その若いスクガラスが塩漬けになって若い状態のものは若葉マークの初心者向けらしい。
 暖かい地域に憧れるなどということは今までなかったのだけれど、この冬はとびきり冷え込みがこたえて、冬の間だけでも避寒のため沖縄暮らしがしたいと思うようになったと言ったら、
「珍しいことを言う」
と家内が笑う。歳をとったということだ。

 沖縄の冬は暖かいだろうと大宮生まれで沖縄通の友人に聞いたら、初めての冬はそれなりに寒いと言われて厚着をしていったのに、暑くて暑くて、脱いで脱いで、Tシャツ一枚で過ごしたという。
 大宮生まれで沖縄通の友人は仕事で北海道に行くことも多いので、北海道の冬は寒いだろうと言ったら、北海道の人たちはしっかり暖房をするので、屋内にいる限り関東地方よりよほど暖かいという。上京した北海道の人を泊めたら、
「こっちの人は夜寝るとき暖房を消すから北海道より寒い」
と言うので、温かい布団の中にいるのだから暖房は不要だろうと答えたら、
「顔が寒い!」
と言われたという。そう言われてみると北海道というのは日本列島が亜寒帯に突き出した顔に見える。
 逆に北海道に行ったら部屋の中がポカポカと暖かく、北海道民はみんな次々に脱いで真冬でもTシャツ一枚で過ごしているので驚いたという。
「暑いだろうからあなたもセーターを脱ぎなさい」
と言われたけれど、セーターの下は下着なので脱げなくて、これから北海道に行くときは人前で脱げるような重ね着をしていこうと肝に銘じたという。そんな話をして笑いながら酔っ払った。

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相対と絶対

|2013年2月9日|

 

 回想法によって記憶が言葉として説明可能になる様子は、物理的ではなく論理的に壊れたパソコンの記憶装置修復作業に似ている。
 記憶障害を負った人が過去の体験を回想して旅をする番組を見た。遠い異国に行き、十数年前に訪れた街角からスイッチが入ったように記憶がつながり出す様子は、見つけたポイントから相対パスを使ってデータの帳簿を作り直す作業に似ている。あくまでも相対パスなので、その日の旅を終えホテルに戻って別の現実に戻ってしまうと、街角でスイッチが入って始まったその日の出来事すら思い出せない混乱に陥り、相対パスと絶対パスで帳簿づけされた全体として記憶を扱うことができないのだなと思う。
 わが家のマンション暮らしを思い浮かべると、5階に自宅があってその3階上に仕事場があり、その1階上に両親が住んでいる。そういう限定的な宣言の仕方で言いあらわせる位置関係をパソコン用語で相対パスという。
 だが両親が富山に住んでいたら富山県富山市…という誰もが共通理解可能な住所で、東京都文京区にあるマンション5階との位置関係を示さなくてはならなくて、そういうのを絶対パスという。音楽好きの家内になら相対音階と絶対音階といえば一発で理解可能かもしれない。

 人には相対的な記憶のしかたと絶対的な記憶のしかたがあるようで、それを専門用語に対応させるとエピソード記憶と意味記憶になる。
 人は覚えるべき事柄それぞれにある普遍性の度合いを勘案して、相対的だったり絶対的だったりとパスを自在に使い分け混在させて記帳している。そして必要に応じて、相互に書き換え通訳して再利用しており、それに失敗すると忘れてしまったり、突然思い出したり、混線してしまったりするのだろう。それらの台帳修復の方法のひとつが、パソコン記憶装置におけるディレクトリファイル再構築であり、記憶障害者に対する回想法的支援なのだと思う。

 

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兄ちゃんの不思議

|2013年2月8日|

 

 子ども時代、妙に自信たっぷりで断定的な物言いをする級友に
「どうしてそんなことが言えるんだよ」
と言うと
「だってうちの兄ちゃんがそう言ってたもん」
などと胸を張って言った。
 兄ちゃんは上の学校で勉強して、本をたくさん読んで、レコードもたくさん聴いて、ラジオで情報も収集して、世間の悪知恵も多少知っているプチ不良だったりするので、兄ちゃん発と聞いただけで、ああ兄ちゃんにゃ敵わないと思わせる威圧感があった。
 まだ噂を聞いたことしかないビートルズだって兄ちゃんのいる子が先頭を切って口ずさんでおり、兄ちゃんが家庭内に持ち込んだものをいち早く身に纏って教室内に登場するのは兄ちゃんがいる子だった。
「だってうちのお父さんがそう言ってたもん」
では大した威圧感にならず、兄ちゃんとは不思議な力を持っているものだなと思った。昔からお父さんじゃだめなのだ。クラスでませているということの一点張りでリーダーシップを握るのは兄ちゃんのいる子どもで、学校もリーダー育成の若衆宿みたいなものだった。

 一人っ子で兄ちゃんがいない宿命は大人になっても変わらないので、今でも読書をしていると兄ちゃんの威を借りるためにそれをやっているような気がするときがある。
「お前ラカンなんか読んだことがあるのかよ」
「ないけど○○○がラカンがそう書いてるって言ってるもん」
と妙に自信だっぶりで断定的に納得するために、兄ちゃんに相応しい著者を求めて本を読んでいるようなところがある。ああなるほど、そうだったのかと感心する本はたいがい年齢階梯的に兄ちゃんたちが書いたもので、いつまで経っても兄ちゃんにゃ敵わない。

 

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