地蔵塚古墳と望遠鏡

2012年5月31日

 埼玉県行田市にある若小玉墳群、その中にある方墳のひとつである地蔵塚古墳は、上に地蔵堂が祀られていたことからその名があるという。安山岩でできた石室の壁に線刻の絵が残っており、この絵は船に乗って竿を操る人のように見える。
 7世紀中頃に作られた古墳だそうで、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中で暗殺し、孝徳天皇が即位し、大化の改新詔勅が出されたと歴史の授業で習った頃だ。そういう歴史を学校で習った頃は、あまり現実味のない気が遠くなるほど昔の話だなと思ったけれど、自分があれから半世紀近くも生きてしまい、それがあっという間の出来事だったせいか、大化の改新だってまだ1500年も経っていないついこの間の出来事のように今は感じるのが不思議だ。

埼玉県立歴史と民族の博物館にて

 この古墳近くには荒川や利根川があるので描かれた絵は川船だろうか、それとも見渡す限りの水田だったであろうこの地域で田舟を操る人だろうかと想像したりする。描かれてまだ1500年も経っていないわけで、特殊な望遠鏡でも発明したら、その頃の人びとの姿をのぞき見ることができそうに思えてしまうのが、こういう歴史的展示物を見る大きな楽しみであり、その不思議な望遠鏡とは、実は無事に半世紀以上生きられたことによってすでに手にしている想像力なのかもしれないなとありがたく思う。


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町の残像

2012年5月21日

 東大正門前の出版社で打ち合わせがあり、約束の時刻にちょっと早かったので、本郷通りからひとつ手前の路地を折れて時間調整してみた。
 大好きなカレーライスがある『万定フルーツパーラー』前の道をまっすぐ進むと6本の道が交わってできた不思議な三角形の広場がある。突き当たり左が『ベーカリー・カヤシマ』になるが、露地をはさんだ右隣が更地になっていてびっくりした。

 はて、ここには何があったっけと記憶の中の残像を探ると、都会では珍しい間口の広い八百屋だったような気がし、帰宅して調べてみたら GoogleMap のストリートビューに残像があってやはり『宮前青果店』だった。

 地域の地図とともに町並みの光景を記憶しておかないと暮らしに差し障りがあるのが生活圏というものだけれど、詳細に憶えておく必要のない通りすがりの町並みに突然更地ができると、そこに何があったかまったく思い出せないことが多い。

 娯楽より知識が欲しくて本を読むようになってからは、読んでなるほどと感心した箇所をパソコンの読書ノートに書き写して保存する癖がついている。読んで感心したくせに時とともに記憶がおぼろげになるのが人間なので、忘れた時検索可能にしておくために始めたのだけれど、教師が黒板に書いた文字をノートに板書するように打ち込んでみると、それが深い記憶の助けになっていることを面白く思う。学生時代に「書いて憶えろ」とよく言われたが、真剣に著者の言葉を清書してみることは、知識を不揮発性の記憶として自分に取り込むよい手段なのだな、とあらためて思う。

 ネット検索すればたいがいのことが調べられる時代になり、板書のかわりにコピー&ペーストができるようになったけれど、それは身体性を伴わない外部の記憶であって、外部であることは揮発しやすい。思い出そうとしても思い出せない揮発性の知識というものは、ふと通りかかった町の更地に見る残像に似た、知の残像に過ぎないのかもしれない。

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橋を架ける手順

2012年5月20日

 橋を架け替える工事の手順を素人が端から見て先の進行を類推するのは難しい。
 本郷通りが駒込駅前で山手線を跨ぐ駒込橋に平行して染井橋という小さな跨線橋があり、数年前に架け替工事があった。散歩のたびに工事現場の写真を撮り、次はおそらくこういう工程になるだろうと書き添えてはブログに日記を書いていたが、次々に予想が外れて意外な作業が始まってしまい、訂正が追いつかないまま引っ込みがつかなくなって、定点観測日記を放棄した思い出がある。

 義母が暮らしている埼玉の特養ホームに大宮駅東口からバスで通う道は、古くからある道のようで歴史の本にも載っている。古い道なのでバスがやっとすれ違える道幅しかないが、沿線に学校などが多いので、主要道の役目をいまだ脇を走るバイパスに譲りきれずにいる。
 その古道を辿って特養ホームに向かうバスは、途中で芝川という小さな川を渡りバス停の名を芝川新橋というが、義父母が入所になった2年前には新橋もすでに老朽化したようで架け替え工事が始まっていた。毎週面会に通う道すがら、工事現場を眺めながら完成を楽しみにしているけれど遅々として進まない。遅々としたまま進まないうちに義父が他界してしまい、義母も衰えが激しいので、ひょっとすると特養ホームに縁があるうちに、完成した橋を渡る機会が来ないのではないかと思ったりする。

 それでもようやく橋が完成に近づいたと喜んでいたら意外なことに水道管工事が始まり、この橋は水管橋も兼ねているらしい。水管橋部分の完成がまた遅くて今年の11月ということになっている。ということは開通した橋の渡り初めは新春になりそうだと思うけれど、その予想も外れてさらにまた別の工程があるのかもしれず、鬼に大笑いされそうなのでもう先のことは考えないことにしている。

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神田松之亟二つ目昇進祝い『向島で松之亟を聴く会』に出かけた話

2012年5月19日


 神田松之亟二つ目昇進祝い『向島で松之亟を聴く会』に出かけた。妻が装丁を手がけた小峰書店『花実の咲くまで』堀口順子・作(みずうちさとみ・絵)という本の出版記念パーティで、神田松之亟という若手の講談を聴き、これはよい芸人だと感心したので二つ目昇進祝いの会に出かけてみた。


 『花実の咲くまで』は表紙も挿絵も布に刺繍して彩色したもので、紙の印刷物なのに布のように見えるというところが、心のくすぐりどころになっている。日暮里で常磐線に乗ったらポッカ「じっくりコトコト冷たいポタージュ」の中吊り広告があり、こちらもまた紙の印刷物なのに布のように見えるという視覚の遊びを用いた広告なのだが、本当に布じゃないのかとさわってみたくなるほど、なかなかよくできている。


 北千住で常磐線を降り東武伊勢崎線で曳舟駅に向かうが、この区間は「東武スカイツリーライン」という愛称がつけられており、電車内にもスカイツリーに関する中吊り広告があった。東京スカイツリーの開業はまだだが、周辺商業施設はすでにオープンしているので、そちら方面から向島に到着した編集者によると、土曜日であることも手伝ってずいぶん混雑していたらしい。

神田松之亟二つ目昇進祝い『向島で松之亟を聴く会』
 開口一番として春風亭昇也が登場し、藪医者の話を枕にして寺の和尚と小坊主と医者の『転失気(てんしき)』、てんしきとはおならのこと。
 続いて神田松之亟が登場し江戸の名横綱2代目谷風梶之助が、病気の母親を抱える小野川に八百長相撲で負けてやったという人情話。
 続いて師匠神田松鯉が登場し『水戸黄門』。水戸頼房が女中・おしまに産ませた子が大阪の貧しい夫婦に虎松と名付けられて育てられ、のちに水戸家に戻ることができたが家督はすでに弟(光圀)が継いでいたので讃岐に分家して大名となる。だがその事情を知った光圀が隠居後兄の子どもを跡継ぎに迎えるという人情話。
 休憩後立川龍志が登場し『義眼』。開口一番と松鯉師匠の黄門話をうけて「医者が患者の肛門から腸内を覗くと飲み込んだ義眼がこちらを睨んでいる」という馬鹿馬鹿しい笑いで前半をうけつつ松之亟につなぐという味な高座。
 最後は再び松之亟が登場し『吉岡兼房』で師弟の情愛を熱演するという、実に上手い演目になっていた。

 神田松之亟二つ目昇進祝い『向島で松之亟を聴く会』が終わって外に出たら午後9時近くになっており、表通りに出て見上げたら巨大なスカイツリーが頭上にあった。友人たちと総勢五人で軽い打ち上げということで、曳舟駅まで歩く途中『四季料理 東西南北』という店を見つけたので入ってみたら素晴らしい店だった。とくにゆべしが絶品で、手作りして天井からつり下げてある物をお土産に購入してきた。

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