【木の縁起】

【木の縁起】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 30 日の日記再掲)

自転車の荷台に小さなヤツデの鉢植えを縛り付け、自転車をこいでやってきた祖父はすでに 70 歳を過ぎていた。

静岡県清水市旭町で飲み屋を開いた娘に、「ヤツデは縁起木で魔物をはらって客を招くから」と言い、庭の隅にあったものを鉢に植え替え、店先に置くようにと持ってきたのである。祖父はその後 6 年足らずしか生きられなかったけれど清水市大内からはるばるヤツデを積んだ自転車でやってきた祖父の姿を思い出すと、懐かしさとともに明治生まれの父親の飾り気のない情愛を感じて胸が熱くなる。

母は店を開くにあたって父親に金を借りており、開店早々大繁盛したのであっと言う間に返せることになったのだけれど、母と一緒に返しに行ったら祖父は「返さなくてもいい」という。

「そういうわけにはいかない、父娘(おやこ)だって借りたものはちゃんと返す」
と母は言い、どうしても祖父が受け取らないので祖父の前に布でくるんだ金の包みを置くと
「われにくれてやっただんて持ってきゃあれ!(おまえにやったのだから持って帰れ)」
と言いながら手に持っていたハエ叩きで押し返し、傍で見ていて札束とハエ叩きの組み合わせが妙におかしくて笑いをこらえるのに苦労した。

写真上:実家の玄関先にある祖父が持ってきたヤツデ。大きくなって、もう鉢にも入らないし自転車にも積めない。
[Data:SONY Cyber-shot T1]

くれてやってもいいと娘に金を貸したのに、それをあっと言う間に返される父親の心境を思うと感慨深い。コツコツと働いて貯めた金を娘に貸し、開店祝いにヤツデの鉢植えを贈った職人の父は、捨て子同然の境遇から手に職をつけて身を立てた人であり、その時の祖父はハエ叩きで金を押し戻すなどという虚勢を張りながらもひどく寂しげで小さく見えたのだった。


写真下:清水八千代町にて。
[Data:SONY Cyber-shot T1]

考えてみると昔の人は家のまわりに縁起をかついで植物を植えることが多く、万年青(おもと)を植えて子孫繁栄を祈り、南天(なんてん)を植えて難を転じ、柊(ひいらぎ)を植えて邪鬼をはらった。

清水八千代町。美濃輪稲荷裏手の民家、その玄関先に「(でっかい蘇鉄だなぁ)」と見るたびに驚く大木があり、考えてみれば蘇鉄ではなく椰子だと思うのだけれど、清水には龍華寺とか海長寺とか巨大蘇鉄で名高い古刹があるので、椰子科の植物を見るとつい「蘇鉄!」と思ってしまうのである。

元気そのものだった祖父があっと言う間に衰えて他界したように人の命は儚いもので、常緑である植物はいのちの儚さの裏返しとして尊ばれ、蘇鉄もまた好んで植えられてきたらしい。

樹の勢いが衰えたら鉄分を施すと元気になることから蘇鉄という名が付いたといい、元缶詰会社の所有物として二本並んで生えていたのだと美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に教えてもらった。缶詰と蘇鉄、なんだか縁起の良い組み合わせだなぁと思うが、残念ながら蘇鉄ではなくカナリー椰子だと思う。

カナリー椰子は原産地の南方では 2 ~ 30 メートルの樹高に達するものもあるが日本では 5 ~ 6 メートルが限界らしい。カナリー椰子(フェニックス=不死鳥)の名も縁起がよいので、とびきり温暖で日当たりの良い清水で是非とも南方並の樹高に育って欲しいと思う。きっとこの椰子にも込められた祈りがあるのだ。

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【地球儀】

【地球儀】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 22 日の日記再掲)

小学校を卒業するまで過ごした東京では木造賃貸アパートのひと間が「家」だった。

風呂がないこと、台所もトイレも共同であること、泣いても笑っても家族がひとつの部屋にいるしかなかったことが、今になって振り返ると貧しかったのか豊かだったのかわからなくなっているのが不思議である。

六畳ひと間の片隅に四角い座卓を置き、小さな本立てを置き、蛍光灯スタンドを置いたら勉強机らしくなり、母はもっと勉強机らしくするために地球儀を買ってくれた。

地球儀とは不思議な物で、23.5 度傾いて回転する球形の張りぼてに地図が描かれ、その上に人間が振り落とされもせず静電気で引き寄せられた埃のように寝たり立ったり座ったりして暮らしている。地球儀をくるくる回していると「(そうか、人間はこの球の上にいるのか)」と感慨深く、人間は地球の上に寝たり立ったり座ったりしているらしいけれど、「地球儀」の上でそうしているわけではないとはわかっていても、自分が生きている地球という場所を手に持ってぐるぐると凄いスピードで回転させたりするのは決して気持ちの良いものではなかった。

そういう意味で地球儀というのは超現実的な物であり、そういう凄い物が六畳ひと間に置かれた勉強机の上にあるというのもまた超現実的であり、地球儀のある場所にはいつも唐突に詩があった。

母がお気に入りのカメラ、オリンパスペン EE で写真を撮ってやるから勉強していろと言い、どうやって勉強しているポーズをしたらいいかと聞くと、虫眼鏡で地球儀を見ていろと言う。虫眼鏡で地球儀を見たり、図鑑を見たり、花瓶の花を見たりしている幼い日の写真が今も残っているが、母はわが子の「皇室アルバム」を作りたかったのかもしれない。

清水駅前銀座『久松』。店内に入ると壁に段掛けされた額入り絵画群にも圧倒されるけれど、カウンタの隅に置かれた地球儀がいいなぁと思う。一階は大衆的な寿司処であり、階段を上ると会合や宴会ができるようになっている店内に、どうして地球儀があるのかと思うけれど、「どうして?」と問うのが野暮であり、「どうして?」と思うような場所にあるから超現実的であり、詩的であり、場に神々しさが備わるのである。

「 ♪ 小指と小指 からませて あなたと見ていた 星の夜……」という歌詞の歌が流行り、僕は恋し合う男女がからませている指は足の小指だと思っていたのだけれど、今にして思えば男女が足の小指と小指をからませるのは相当に高度である。相当に高度な姿勢でいちゃつく男女が「 ♪ 地球も小っちゃな 星だけど……」と続ける歌詞がいいなぁと思い、子どもの頃よく口ずさんでいた。

どうして好きだったのかというと、足の小指と小指をからませるという高度な姿勢でお布団の中にいる(!)男女の枕元に地球儀が置かれている場面を想像して「いいなぁ」と思ってしまったのであり、必然であったかのように恋に落ちたひと組の男女に、さらなる詩情を付け加える地球儀はエライ!と思うのだ。

歌の題名は『恋しているんだもん』。島倉千代子 1961 年のヒット曲である。この年、坂本九が『上を向いて歩こう』を歌い、小っちゃな星の上で上を向いて歩くはるか頭上には、人類初の宇宙飛行士ガガーリン少佐が飛んでいたのだ。

写真小:『【写真ものがたり】昭和の暮らし4――都市と町』須藤功著、農文協刊。この木賃アパートひと間の家は 5 畳半であり、半畳は左上で小さな台所になっている。6 畳ひと間に引っ越す前には、僕もこういう 5 畳半に住んでいたことがある。昭和 30 年代の都会ではごく当たり前の暮らしだった。

写真大:清水駅前銀座『久松』にて。
Data:SONY Cyber-shot T1

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【稲垣足穂的小路】

【稲垣足穂的小路】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 21 日の日記再掲)

袋小路でない飲食街には入口と出口がある。

僕が小学校を卒業して6年間を過ごした飲食街は残念ながら袋小路であり、出口が入口を兼ねていて、ズボンのポケットをひっくり返して表に出したような侘びしさがあったし、稲垣足穂の言葉をいい加減にひけば「 V( vagina )」に似ているなぁと思う(そういえば僕が暮らした袋小路には『 V 』というバーがあった)。

向こう側に抜けられる飲食街はいいなあと思い、郷里清水を歩くたびに吸い込まれてみたくてたまらないけれど、そういう自由な夜をなくして久しい。

袋小路でない飲食街には、気に入った店を見つけて止まり木に止まらなくても、通過するだけで嬉しい感覚があり、入口を「 O( oral )」とすれば出口は「 A( anus )」であり、入れば「 O 」出れば「 A 」を自在に行き来する飲食街に相応しい哲学的快感がある(ないか?)。

写真上:新世界
写真下:銀座小路
Data:SONY Cyber-shot T1

静岡鉄道新清水駅前の飲食街『新世界』。

かつてこの小路のある場所を路面電車が走っていたのであり(なんか新宿ゴールデン街に似てるなぁ)、現さつき通りを走っていた清水市内線の路面電車とは別に、平行してエスパルスドリームプラザの先にあった波止場まで走っていたので「波止場線」と呼ばれていたのである。

船が出たり入ったりする波止場もまた「 O 」であったり「 A 」であったりする感覚器官の一部であり、新清水・波止場間の鉄道路線もまた「 O 」であったり「 A 」であったりしたわけで、鉄道趣味の快感というのはそういうものなのかもしれない(どういうものだ?)。

そんなろくでもないことを考えながら巴川端を歩き、清水銀座から河岸に抜ける飲食店街『銀座小路』前を通りかかるとき、その開口部が『 A 地点』というスナックであることにいつも笑ってしまう。

『 A 地点』のある側が「出口」か「入口」かは個々人の趣味、美学のあり方にまかされている(いないか?)。

【かつてここに寺があった】

清水旭町。

かつてこの辺りに『クラブミンクス』があったなぁと更地を見て思い出す。

Data:SONY Cyber-shot T1

僕が高校を卒業して酒を飲めるようになった頃は清水の町もまだまだ景気が良くて、母が営む飲み屋の客に連れられて飲み歩き、旭町歓楽街のほとんどのクラブ、バー、スナックで飲んだことがあるけれど、『クラブミンクス』だけは入ったことがないのが今となっては惜しまれる。

母が意外なことを言い、『クラブミンクス』がこの場所にできる前は寺があったのだという。何という寺で、その寺はどうなってしまったのか興味があるけれど、ミンクス以前など全く想像もつかない。

 
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【どんすこの科学】

【どんすこの科学】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 20 日の日記再掲)

毎週末の介護帰省。通い慣れた朝の久能街道で「おやっ?」といつもと違う気配に気づいて立ち止まるのは、先週と今週における季節の変化、景色の間違い探しゲームに似ている。そういう単調な繰り返しの中で些細な変化を喜ぶ暮らしが好きだ。

塀の向こうから赤い花のような物がたくさん顔を覗かせているのに気づき思わず自転車を U ターンさせて引き返し、見上げて写真を撮ったりする。ささいな気づきを喜ぶのは子どもじみているけれど、それは科学的な態度の原点かもしれない。少しだけ科学的であることは何歳になっても人生を楽しくさせ、少なくともちょっとした暇つぶしに事欠くことがない。

Data:SONY Cyber-shot T1

かつて清水エスパルスに在籍した戸田選手のモヒカン刈り、もしくは理科室の試験管ブラシのようだと書いたら、見ての通り「ブラシの木」別名「金宝樹」だと友人に教えていただいた。

清水村松原、久能街道沿いにある原稲荷神社脇を、元気だった頃の母と愛犬イビを伴って歩いたことがある。なんと相次いで病気になった母と愛犬は、数年前まで美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋まで歩いて往復することができたのである。人も犬も先のことは予測がつかない。

二人と一匹で立ち止まり、見事な大楠を見上げていたら小高い境内から老婆が顔を出し、
「犬はだめ、犬を連れて入っちゃだめだよ」
と機先を制された数年前の暑い日を思い出す。

海岸や湖岸に林があり、様々な自然の恩恵をこうむりながら魚が繁殖している場所を魚付林(うおつきりん)という。魚付林が魚にとって心地よい暗さと、適度な風よけと波よけ、そして安定した水温によって良い林であるように、年寄りが付いている年寄付林(としよりつきりん)を持つ神社はよい神社である。

Data:SONY Cyber-shot T1

毎週末この神社前を往復すると境内には年寄り達が群れていることが多く、自転車を止めて寄り道し、ベンチに腰をかけてひと休みしたくなる。子どもの頃から年寄りが付いている場所は良い場所であると感じることが多く、ついつい吸い寄せられてしまう。年寄りが気持ちよさそうにしている場所近くに腰掛けていると妙に心安らぐし、年寄りもまた年若の者が近くに寄ってきた気配を感じるのが嫌いでなさそうな気がする。

原稲荷境内は綺麗に掃き清められて年寄り達のゲートボール場としても利用されており、境内は年寄り達に守られ、境内と年寄り達は大楠がつくる傘の下で守られ、境内と年寄り達と大楠は祀られた神様によって守られ、この神社の年寄付林は居心地良く保全されている。

境内に腰を下ろし、年寄り達のゲートボールをのんびり眺め、「(怪しい者ではないですよ)」と正体を明かすように鞄からノートパソコンを取り出してわざとらしくメールチェックなどをし、単なる通りすがりのパソコンオタクを演じてみる。

Data:SONY Cyber-shot T1

見知らぬ者への緊張感が失せてゲームに熱中する年寄りたちの姿を見ていたら、いつも閉まっている祠の扉が開いているのに気づいた。薄暗い祠の中で人の気配がし、中から「どんすこ、どんすこ、ちゃっちゃっ」という鉦太鼓(かねたいこ)の音が聞こえ、ゲートボールとは別の一団となった年寄りの群れが祈祷をしているらしい。何という宗教なのだろう。

「どんすこ、どんすこ、ちゃっちゃっ、どんすこ、どんすこ、ちゃっちゃっ……」の単調な繰り返しの中で、ゲートボールの球を打つ「コン」という音と「 5 番通過~」などという声が境内で入り交じる。

「あれまあ、太鼓に合わせて打った方がいいじゃん」
「あれいやだ、ホントだね」
(コン)
「ほんとだ太鼓に合わせるとしっかり打てるね」
(コン)
「これからは太鼓叩きながらやるかね、あははは…」
(コン)
 
年寄り達もまた適度に科学的であることを楽しんでいる。

   ***

ゲートボールのリーダーらしき女性に自転車でやってきた男性が近づき、

「思い切って外のトイレのドアを替えたんてね」
「あれまあ、そうかね」
「鍵ん外からかかるようにしたんて、ほう、この鍵あんたもひとつ預かっといて」
「鍵を開けてトイレに入るのかね」
「ほうだよ、中に入れといた紙を散らかしたり持ってったりする奴がいるもんで」
「ああほうかね、だったら鍵んあったほうがいいねえ」

神さまと共に紙もまた氏子達によって守られている。

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【サクライドキュウ】

【サクライドキュウ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 17 日の日記再掲)

西洋医学によるがん治療も手詰まりとなってきて、母は鍼や灸を試してみたいと言う。

鍼と言えばかつて三島市に良い先生がいて通ったことがあり、当時のおじいちゃん先生が健在なら通ってみたいなどという話しになり
「お母さん、それはもう三十年以上も前の話しでしょう」
と大笑いしたりする。何度も聞き慣れた話しなので適当に相づちを打っていたのだけれど、
「むかし草薙の方に有名な灸があって清水の人は皆そこに通ったもんだよ」
などという初めて聞く話になってびっくりする。

その灸は「サクライドキュウ」といい、よく効くと大変な評判で、子どもが夜泣きをしたりすると必ず連れていき、13 人兄弟姉妹だった母は自分のすぐ下の弟すなわち 10 人目まで皆「サクライドキュウ」をすえられたことがあり、その跡が身体にあるはずだと言う。

昔の人は良く子どもに灸をすえ、大人もまた身体の調子が悪いと「サクライドキュウ」に行き、たいそう繁盛していたので待たされることも多かったそうで、「サクライドキュウ」は一度すえてもらえばその特殊なツボの在処(ありか)もわかるので、自宅で同じ場所にすえられるようお持ち帰り用「サクライドキュウ」まで売られていたと母は言う。
 
   ***
 
帰京後「サクライドキュウ」という言葉が妙に気になり、「サクライド」や「さくらいど」で検索したらたくさんの灸と無関係な言葉がヒットする。素直に「桜井戸+灸+清水」で検索したら、夥しい情報群の中に静岡県立大学の学内報『はばたき』に国際関係学部教授高木桂蔵氏が「谷田風土記――東海道の名所『桜井戸』」と題して『桜井戸』について書いておられるのを発見した。「サクライドキュウ」は母が言う通り『桜井戸の灸』として実在したのだった。

静岡のお茶を清水港まで運んで出荷するための軽便鉄道(静鉄の前身)ができた際には『桜井戸』という駅が設置されたほどの賑わいだったというが、その後、区画整理によって移転を余儀なくされ、鍼治療に対する需要も減って途絶えてしまい、桜井戸のあった場所は史跡公園として整備され、山岡鉄舟揮毫による看板も保存されているという。

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【岬の人々】

【岬の人々】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 11 日の日記再掲)

清水岡町、月見里笠森稲荷神社(やまなしかさもりいなりじんじゃ)裏手には畑が残っている。

「残っている」と書かなくてはいけないほどに清水市街地の農地も減ってきた。月見里笠森稲荷神社や三五教(あなないきょう)のあるこのあたりは一種「頑固な気」を発散しており、先日訪ねた庵原の町も然り、頑固を守り貫き通すには歴史や宗教がその支柱となる事が多く、農のある暮らしにとって鎮守の森もまたかけがえのない宝物である。

民俗学者高取正男の本を読むたびに思うけれど、平地に出て農のある暮らしを営むことは森や山に守られて暮らすことと相反するのであり、だからこそ平野に切り開いた農地の真ん中に屋敷林や山居村が作られたのであり、鎮守の森もまた、心ならずも森や山を捨てた人々のかけがえのない心の寄る辺だったのかもしれない。

Data:SONY Cyber-shot T1
写真上:月見里笠森稲荷神社に隣接した農地から鎮守の森を見る
写真下:畑には「いちろんさんのでっころぼう」のようなネギ坊主が並んでいた

源為朝は、この神社に 5 日間幽閉された後に大島へ島流しされたという。

為朝が滞在した頃の月見里笠森稲荷神社はどんな姿だったのだろう、船に乗り込むために海辺まではどれくらい歩かなくてはいけなかったのだろう、光陰矢の如し(月日がどんどん過ぎていくのは飛び去った矢のようである)、若くして死んだ為朝の人生はまさに彼が得意だった矢のようであり、配流の際に歩いた道は矢の通った跡のように思えたのだろうな、などと自転車を停めてぼんやり思う。

月見里笠森稲荷神社は岡清水から突き出た船の舳先のようであり、または海に張り出した岬のようでもある。そんな不思議な形をして不思議な場所にあり、不思議な逸話を孕んだ社である。

島流しと言えば戦国の武将宇喜多秀家は関ヶ原の合戦の後に捕らえられ、慶長 8( 1603 )年 9 月 2 日より久能山に幽閉されている。久能山もまた船の舳先のようであり、または海に張り出した岬のような場所である。

宇喜多秀家がその後盛んになる八丈島への島流し第 1 号として清水の港から船出したのは慶長 11( 1606 )年の事であり、なんと 3 年間も久能山に幽閉されていたのだけれど、光陰矢の如し、3 年間などものの数ではなく、宇喜多秀家はその後八丈島で 49 年も生き、明暦元( 1655 )年 11 月 20 日、享年 84 歳でこの世を去っている。

●追記

月見里稲荷の舳先が繋ぎ止められている場所は以前はもうすこしずれた場所にあったらしく、為朝が逗留したのは下清水八幡の上あたりであり、当時は広かった八幡下の江川から船出したと伝えられているそうだ。魚屋さんの情報に感謝。そういえば戸田書店『わが郷土清水』146 ページ第 35 図 向島の地形の変化 によると巴川の東側(向島)はかなりの年まで海の底である。

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【清水マリーナ】

【清水マリーナ】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 9 日の日記再掲)

清水松井町、常念川河口水門脇のベンチに座って遠く富士山を望むとき、対岸に真白いプレジャーボートが並んでお洒落な前景になる。

巴川両岸の水際に舫われて浮かぶ小舟たちではなく、鋼鉄製の棚にきちっと整理整頓されているのであり、カタカナ言葉で言えばマリーナである。自転車の路上放置に対しての駐輪場であり、面倒でも駐輪場に停める人の公共への接し方が好きなので、マリーナに並ぶボートはひときわ白が眩しく、日ハム新庄の歯、もしくはおろし立てのパンツみたいに清々しい。

ふと「あの場所に行ってみたい」と思い、羽衣橋を渡って対岸に立つ。清水築地町の倉庫脇を左折し、巴川に平行した道を進んだ突き当たりが『清水マリーナ』であり、道は突き当たることで袋小路になっている。


Data:[上]CANON PowerShot A70、[下]SONY Cyber-shot T1

マリーナ《外》[marina<イ,ス(海岸)]ヨットやモーターボートのための基地,または停泊所.海(湖)岸にあって,舟の係留・保管・燃料補給ができ,ホテル,レストラン,ゲーム場などが付属している.〈現〉★日本では昭和34年(1959)の「びわこマリーナ」が最初.東京オリンピックに備えて38年(1963)にできた「葉山マリーナ」で一般化.(『三省堂 現代国語辞典・コンサイス外来語辞典』より)

『清水マリーナ』は海岸でも湖岸でもなく河岸にあるマリーナである。

突然だがマリーナと言うと語感が油っこいのはなぜだろう。カタカナであるだけでなく響きが妙に油脂系なのは、「マリーム」とか「クリーマ」とか「ラーマ」とか「エコナ」とか「ソフィーナ」とか「チッチョリーナ」とかに似ているからだろうか。マリーナにはバタ臭さよりはちょっと軽めのくどさがある。

ハイカラなマリーナの隣に懐かしい昔ながらの社屋があり『森田造船所』と書かれた木の看板が下がっている。

Data:SONY Cyber-shot T1

清水で造船所というと、巨大な船が造れる日本鋼管株式会社清水造船所、漁船などの造船で名高い株式会社金指造船所、株式会社三保造船所などを思い出す。「清水」と「造船所」をキーワードに調べると株式会社カナサシ重工、合資会社小柳造船所清水分工場、株式会社伊藤鉄工所などの名前が出てくる。知らないだけで清水には『森田造船所』のような小さな造船所がかつてはいくつもあり、今もあるのかもしれないなと思う。

Data:SONY Cyber-shot T1

祖父母の瓦工場には木製事務机を一つ置いた土間の一角があり、事務机と帳簿と算盤と電話機があるだけでそこが商家の事務所になるのが不思議だった。そしてそういう昔ながらの仕事の場所が好きで、町工場や古い商家に往時の面影を見つけると嬉しくなる。

同じ敷地内で右手が『清水マリーナ』、左手が『森田造船所』になっているのであり、右手がサンドウィッチなら左手は味噌をぬったおにぎりであり、ここには商いの二世代同居の姿がある。くどすぎず枯れすぎないよう、いつまでもこのバランスを保ったままならいいな、と思う。

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【人間蒸発】

【人間蒸発】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 4 日の日記再掲)

1960 年代の後半頃だったか「人間蒸発」などという言葉が流行り、
「ああ、わたしも蒸発しちゃいたいわ」
などと笑いながら他人に話しているお母さんたちの姿をよく見た。

東京に残って自分の両親を介護している妻も、電車に乗っていると「ああ、このまま蒸発しちゃいた」と思うらしい。

静岡県清水松井町。巴川端の道と次郎長通りの裏通りが交わる場所に三角形の舳先のような公園があり、藤棚の下に沢山の将棋盤と椅子が用意されている。週末の介護帰省時、美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋に立ち寄るついでに覗くと、いつも同じようにパチンパチンと駒をうつ響きが聞こえてきて、いかにものんびりした巴川河口に相応しい安らぎに満ちた空間になっている。

Data:SONY Cyber-shot T1

その先、常念川の水門脇にはベンチがあり、客船の甲板のような気持ちの良い休憩場所になっている。

Data:SONY Cyber-shot T1

介護帰省をし、夕食の買い物を口実に外出し、ぶらりと巴川端に出て寄り道し、「(まさかこんな場所で横になっているなんて誰ひとり知らないだろうな)」と思う時、それは小さな失踪でありほんの一瞬蒸発して空中を彷徨うことに似ている。

Data:SONY Cyber-shot T1

松井町公園で静かに将棋を打つ男たちも、永遠に桟橋を離れることのない船の舳先で出航待ちをしている気分なのかもしれなくて、ふらりと家を出る小さな失踪ごっこを繰り返し繰り返し楽しんでいるのかもしれない。
「ああ、蒸発しちゃいたいなぁ」
と声に出して言ってみる。そうすることで家に帰ろうという元気が湧いて来るから不思議である。

【ただいま】

松井公園に面したお宅の前に猫がいて、将棋に興じる男たちの方をじっと見つめている。

可愛いので写真を撮っていたら、将棋盤を取り囲んだ人の輪を離れたお父さんがやってきて、
「おい、うちんなかへ入るか」
と猫に声をかける。

Data:SONY Cyber-shot T1

お父さんが 玄関の鍵を開けようとしたら猫が立ち上がって玄関の木枠に前足を掛けて爪を研ぎ始め、玄関を開けられないお父さんは
「おう、おう、おう」
と声をかけている。

Data:SONY Cyber-shot T1

いつもの習慣らしく玄関は傷だらけであり、真剣な顔をして爪を研ぐ猫の姿を見ていたら確かに
「おう、おう、おう」
と声をかけたくなる。そう思っただけで家に帰ろうという元気が湧いて来るから不思議である。

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【三保のグリンピース】

【三保のグリンピース】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 6 日の日記再掲)

「三保の実家で義父が育てたグリンピースを頂いた……」と友人がサイトの日記で自慢していたグリンピースをお裾分けでいただいた。

幸せと不幸せの境界は曖昧で、とれたてのグリンピースをいただいたのは疑いもなく幸せである。

さっそくサヤの中から豆を取りだし、母が買った一番安い新潟産コシヒカリに福島産ミルキークイーンを混ぜて研ぎ、岩塩を振り入れてお豆ご飯を炊く。炊飯が佳境にさしかかってもうもうたる湯気が上がり始めた頃を見計らって豆を放り込む。あまり早く入れてしまうと豆が爆ぜたり、柔らかくなりすぎたり、色合いが悪くなったりするのでタイミングが難しい。今回もちょっと早すぎたかな、と炊きあがりを見て思う。

食べたら親子で絶句した。
「とれたてのグリンピースってこんなに甘くて豆くさかったっけ?」
と驚くような美味しさである。掘りたてのタケノコや、もぎたてのトウモロコシが甘く薫り高く滋味溢れるものであるのと同じである。掘りたてのタケノコや、もぎたてのトウモロコシを食した時と同じなので
「こりゃあ別物だ!今まで何を食べてたんだろう!」
と呟いてしまうのも同じである。

Data:SONY Cyber-shot T1

食べ終えて至福の喜びを感じつつふと寂しくなるのは、こういう本当の美味しさを知ってしまい、もう一度それを味わいたくてもなかなか叶わないと知った時である。真実を知り得た幸せと、真実を知ってしまった不幸せとは表裏一体である。

三人の親が相次いで要介護となり、それが暮らしの中心となって間もなく丸三年になる。
そういう暮らしの中で知り得た知恵の一つが「どんなことも引き替えの結果である」ということであり、喜びも悲しみも、幸せも不幸せも必ず引き替えであり見事に一対の均衡状態となって相殺されていると考える、ということである。

掘りたてのタケノコや、もぎたてのトウモロコシ同様、グリンピースもまた、どうして本来のうま味を失った商品を買って食べているのだろうと考える時、そういう不幸せと引き替えに手に入れている幸せは何かと考えることにしている。

「どうして!?」と苛立ち悲しむ不幸せな社会問題の多くが、今得ている幸せと引き替えでなくては解消不可能なものだからである。

   ***

失明した母の愛犬イビは視覚的能力を失うのと引き換えに、聴覚と嗅覚が研ぎ澄まされ、食欲はビッグバンを起こしたように活性化し胃袋はブラックホールそのものである。

母と僕がエンドウのサヤからグリンピースをザルに取り出していたら「くれ!」と言わんばかりに足元でシッポを振っている。
「きっと食べるからサヤを差し出してごらん」
と母が言うので鼻先にサヤを持っていったら「パクッ!」とワニが噛みつくように奪い取り、「バリバリパリッ!」とかみ砕いて飲み干し「もっとよこせ!」という。

呆れた。

【庵原】

県立静岡がんセンターでの定期検診が早めに終わったので、東名清水インターから庵原の『ふれっぴー』に立ち寄ってみる。生産者の名前や写真を添えられた地場野菜コーナーは午後 2 時過ぎで空になっている棚も多く、開店直後に来ないと新鮮な地場野菜は手に入らないと母は言う。

商品を出品する農家も相応のリスクを覚悟しなくてはいけないらしく、母によれば、売れ残った野菜は出品した農家が引き取って持ち帰るのだという。

庵原で椎茸栽培をする農家の友人は、売れ残った椎茸を持ち帰るのが丹誠込めて育てた父親に申し訳なく辛いので友人に配ったりすると言う。出荷してしまったらそれまでの販売方法の気安さと引き替えに、売れれば収益率が高い販売方法への賭けなのだろうし、消費者は早起きと引き換えに新鮮な野菜を手に入れることができる。

『フレッピー』は庵原農協に隣接しており、駐車場脇に二宮尊徳蔵があるのでびっくりした。

庵原というのは報徳運動(二宮尊徳の思想を実践する目的で組織された結社。1843年(天保14)小田原報徳社の結成に始まる。――広辞苑第五版)が盛んな土地だったのであり山梨了徹、山梨稲川、柴田慈渓、柴田堅節、片平信明、柴田泰山、牧田勇三という『庵原七大人』を輩出している。牧田勇三というのは報徳精神による貯蓄銀行的色彩の強い『清水銀行』創設者のひとりだ。

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【次郎長意外伝 2】

【次郎長意外伝 2】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 4 日の日記再掲)

【次郎長意外伝 2】

合いの手は無いが先へといそぎます。
 
三五郎の足の速さと来たら切支丹伴天連五輪大会に出ても首掛け小判確実の凄ま
じさ。久能道、月見里(やまなし)稲荷神社、五七教(あなないきょう)、福厳
寺(ふくごんじ)下の荷車通りも一気に駆け抜け、江川歯科医院の横の四尺間の
細道を電光石火の如く、あっという間に石野源七商店の蔵の前まで来てしまう。
 
石野    「あらまぁ、三五郎さん、大層な汗をおかきになって、冷たい麦酒でも
      いかがかしら」
三五郎   「あ、おかみさん、今日もど派手な、いや素敵なお着物で。申訳ないが
      一世一代の出入りがあるんで失礼さしておくんなさい」
 
石野源七商店から次郎長親分の元へ、この時の三五郎のタイムが 10 秒フラットと
いうのですから大したもんで、
 
三五郎   「親分、親分はでぇじょうぶですかい」
次郎長   「おうっ、三五郎、よくけえった」
三五郎   「ふ、河豚にあたったって噂ですが、でぇじょおぶですかい」
次郎長   「いや、何人かひどくやられたが俺はこうして元気でいる」
三五郎   「そりゃあ、よござんした。じ、実は追分まで都鳥の連中が来ていやし
      て、次郎長一家が河豚にやられたのをこれ幸いと、今宵夜討をかけよう
      と相談してるのを聞いちまったんでさぁ」
次郎長   「野郎、飛んで火に入るなんとかってやつだ。こっちから出向いてぶっ
      た切ってやろう」
三五郎   「ちょ、ちょっと待った、それじゃあ竹ちゃん…いや府川さんに迷惑が
      かかる。ここはひとつ、あっしに秘策がありますから任せていただけや
      せんか」
次郎長   「そうか、実地に聞いて来たお前が言うのだし、どんなつまらねえやつ
      でも人前で小言は言っちゃあいけねえし、あっしのために命を投げ出そ
      うって子分は一人もいやせん、だが、あっしはいざとなりゃあ子分のた
      めに死ねるし、博打に手を出しちぁいけねぇし、ここはひとつお前に任
      せてみるか」
三五郎   「親分、ずいぶん名文句を並べましたねぇ」
次郎長   「なかなか台詞が回って来ないからな」
 
さて三五郎、子分たちを集めると次々に指図して行きます。
 
三五郎   「まず、みんな人目につかないところへ隠れておくんなさい。で、裏の
      川っぷちに首だけ出して埋まってる連中の横に、このデッコロボーを二
      十五本きれいに並べて差しておくんなさい。で、いいか、そこに埋まっ
      てるおめえたちは都鳥の連中が来て次郎長は何処だと聞かれたら、おい
      おい泣きながら、河豚の毒になんてあたるもんじゃねぇ、みんな苦しん
      で顔がどんどん小さくなって、これこの通り二十五人みんな成仏しちま
      った。どうぞ首検分してやっておくんなさい、こう言うんだ。いいな」
 
♪~一方~都田一党は~ 観光気分もいいところ~
どうせ目当ての次郎~長は 河豚にあたって虫の~息
急ぐ旅でもある~まいし~ 勝ったつもりで~浮かれ~行く~
 
音松    「親分、まだお天道さんは高いし、腹が減って来たし、この梅蔭寺前の
      表に屋台の置いてある不思議な支那蕎麦屋で腹ごしらえして行ってもい
      いですかい」
万作    「だったら親分、あっしたちもこの梅和可っていう店が島ずしを食わせ
      るっていうんで寄って行ってもいいですかい」
吉兵衛   「ああ、いいだろう、それじゃあおれたちは美濃輪稲荷前の魚屋がいい
      匂いを立ててる烏賊の丸焼きでも食いながら、境内で暗くなるのを待つ
      としよう。で、いいか梅蔭寺の暮れ六つの鐘が鳴ったら全員で次郎長一
      家に殴り込む。あの家は、書き物とか土産物とかでとっちらかってて、
      ちょっと暗いから合言葉を決めておこう」
伊賀蔵   「どんな合言葉ですかい」
吉兵衛   「一方が“静清合併”と言ったら、一方が“大賛成”と答える、やって
      みな」
伊賀蔵   「静清合併!」
万作    「大賛成!」
吉兵衛   「どうだ、口当たりがいいから馬鹿でも覚えられる。“静清合併”“大
      賛成”いい響きだ。クェーッ、クェッ、クェッ、クェッ」
 
♪~互いに巡らす~策~と~策 清水みなとに~血の雨降るか
和平の~道は~無い~ものか 運命の日の陽は~落ちて~
完結編までもうひとうな~り! 
日を改めて~語り~ま~~~~~しょうおぅ~~~~
 
(つづく)待て感動の大団円!

やがて梅蔭寺の小僧が撞き出す暮れ六つの鐘がかるろす・ごーんと清水の町に鳴
り渡ります。美濃輪稲荷境内で烏賊の丸焼きを食いながら賽銭をちょろまかした
りして時を待っていた都鳥三兄弟、それっとばかり一気に次郎長宅に押し入りま
す。この辺はみな商家ですから間口が狭くて奥が深い。いわゆる鰻の寝床という
奴。土間をだだっと走り抜け、なまこ壁のある中庭で裸胸の瓶をひっくり返しど
どどっと巴川の川っぺりまで出てしまう。暗い川辺に河豚中毒の治療中らしい頭
だけ地上に出した子分がひいふうみい。
 
吉兵衛   「やいやいっ!次郎長はどこだ」
子分    「河豚の毒になんてあたるもんじゃねぇ、みんな苦しんで顔がどん
      どん小さくなって、これこの通り二十五人みんな成仏しちまった。
      どうぞ首検分してやっておくんなさい」
 
と、三五郎に言われた通り棒読みで答える。
 
吉兵衛   「クェーッ、クェッ、クェッ、クェッ。次郎長もくたばっちまえば
      哀れなもんよ。梅干しくれえの顔になっちまって。どれ、暗くてど
      いつが大政でどいつが小政かもわからねぇなぁ」
 
三五郎   「明かりでもつけてしんぜましょうかい」
 
吉兵衛   「だ、だ、誰でぃ! せ、せ、静清合併!」
次郎長一家 「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
      「大反対!」
吉兵衛   「げげっ、はめやぁがったな! た、た、たたっ切れ!」
 
都鳥三兄弟が苦し紛れにどすに手をかけようとした瞬間、三五郎が汗だくになっ
て持ち帰った見城さんのエビ天をぶわっと都鳥めがけてぶちまける。エビ天とい
うのは駿河湾名物桜えびをたんまり入れてこさえた煎餅。それに桜えびのエキス
を溶かし込んだ秘伝の水飴をたっぷり校庭ん愚したものですから、湿ってくると
べちっと粘りが出て、炬燵ぶとんにへっつけようものならなかなか取れなくて大
変。それを浴びせかけられた都鳥、顔や手や、着物や刀の柄にまでエビ天がくっ
ついてしまいましたのでどすを抜こうにも抜けない。おまけに羊羹屋から万引き
して来た追分羊羹が懐いっぱいあるから身動きが取れない。
 
三五郎  「それっ、ふん縛っちまえ!」

あっという間に取り押さえられてお縄に。おっとり刀で駆けつけた四天王、この
様子を見て一目散に逃げちまいます。子分に背かれるほど情け無いことはありま
せんが、これも身から出た錆。
 
♪~可愛い可愛い石松~の 命を奪った憎いやつ~
しかもきたねぇ 騙し討ち~
いわば手呂も同然と~ 怒りに震える子分~たち
はやく叩き切りましょう~ どすに手をかけ~進み~出~る~~~
 
次郎長   「待ちなっ! おう! 都田の! てめぇ可愛い子分の石松を騙し
      討ちにしただけで飽き足らず、この次郎長や子分の命まで取ろうと
      しやがった。たたっ切っても切りたりねえ憎い野郎だ。だが、この
      次郎長、たったいま目が覚めた」
三五郎   「親分!」
次郎長   「都田の! “静清合併”だってなぁ。ふるさとってのは尊いもん
      だぜぇ。ふるさとを愛するもんには、見ねぇ、羊羹やエビ天やでっ
      ころぼーなんていう心を持たねぇもんまでが、こうして次郎長の命
      を救ってくださった。てめぇの欲と意地で命のやり取りなんて事を
      続けていたら、ふるさとや後々の子々孫々に汚ねぇ傷を残すだけだ。
      おれは金輪際人様の命を奪うような真似はしねぇと決めた。都田の!
      おれはおめぇたちを赦す」
三五郎   「親分!」
吉兵衛   「ほ、ほ、本当ですかい!」
 
次郎長   「だがなぁ、この次郎長、いわば人殺しよ。渡世上の行きがかりと
      はいえ、今までたくさんの人間をあやめて来た。その次郎長が子分
      の仇の都鳥を赦したと聞いて、赦しちゃあくれねぇ世間もある。平
      和ぼけだなんてほざく奴もいる。だから、都田の! おめえたちに
      はここで死んで貰うぜぇ」
吉兵衛   「ど、ど、どっちなんでぇ。さっきと言ってることが違うじゃ
      ねぇか。てめぇ、本当にぼけやがったな次郎長」
 
次郎長   「黙って聞きねぇ。おめえたちは、ここで次郎長の手にか
      かって死んだことにする。追分羊羹屋の府川さんに頼んで追分街道
      に『都田吉兵衛の墓』をこさえてもらい、おめぇたちはおれに切ら
      れてそこへへぇったことにする」
吉兵衛   「そ、それでおれたちはどうなるんで」
次郎長   「おめぇたちは、梅蔭寺の宏田和尚に頼んで預かりの身と
      なってもらう」
吉兵衛   「ざ、座敷牢で一生暮らすくらいなら死んだほうがましでい」
次郎長   「そうは言っちゃあいねぇ。ちっとの間辛抱すれば、晴れて自由の
      身にしてやらぁ。おれは真人間として生きると決めたその時から未
      来の察しがつくようになった。今後おれは壮士の墓を建てて敵味方
      の区別なく死んだものを弔い、英語塾を作り、海運会社を興し、富
      士山麓を開墾し、油田の開発を助け、船宿を経営し、清水みなとの
      基礎を作り、人間次郎長として語り継がれる第二の人生を生きるの
      よ」
三五郎   「こりゃまた、随分予定が立て込んでますが、でぇじょうぶですか
      い」
次郎長   「なぁに、1893(明治 26 )年 6 月 12 日、風邪をこじらせ 74 歳で成仏
      し 3000 人の参列者に見送られ、碩量軒雄山義海居士として梅蔭寺に
      葬られるまで、元気に生きると田口英爾の次郎長年譜に書いてあら
      ぁな。おめぇたちもしっかり、ついてくるんだぜぇ」
三五郎   「へぇー、こりゃあぶったまげた」
 
吉兵衛   「そ、それであっしらはいつ自由になれるんで」
次郎長   「おう、それだ。やがて幕府は倒れ年号は明治と変わる。その頃、
      この清水みなとを赤報隊というのが通る。その中に、あの黒駒の
      勝蔵がいる筈だ。勝蔵といえばおれにとっちゃあ憎んでも憎みきれ
      ねぇ仇だが、おれは勝蔵も赦す。おめぇたちは、首から“静清合併”
      と書いた札をぶら下げて勝蔵についていけ。そのあと、おめぇたち
      の運命がどうなるかは神さんが決めてくださるよ」
吉兵衛   「あ、ありがとうござんす~~~~~」

♪~どすは命をあやめるけれど~ 心のどすは命を~活かす
浜の真砂がつきぬよに 故郷に心の根を張る~やつは
いつかははちすの~ 花~と咲く
松は枯れても 末代~までも
富士と並んで その名を~~残す
清水みなとは~~~~ 日本~~~~い~~~~~ち~~~~~~~
 
ちょうど時間となりました まだまだ語り残したことが
たんとあるよな 気もするが
私ゃ持病の血圧が ますますあがってまいり~ます
それでは皆様 ごきげん~~~よ~~お~~~~

(おしまい)

(2001年10月26~30日の投稿に加筆訂正を加えたものです)

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【次郎長意外伝 1】

【次郎長意外伝 1】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 4 日の日記再掲)

【次郎長意外伝】

連休中に新しい MacOS Tiger をインストールしよう思い古いメールを整理していたら、清水に関するメーリングリストに天田愚庵を気取って投稿したインチキ浪曲が出てきた。『赤報隊』『黒駒勝造』『天田愚庵』『東海遊侠伝』『清水次郎長』のキーワードで調べると、激動の時代の人々を見直す視点は無限とも思えて面白い。
 
無邪気にこんな与太を飛ばしていたんだなぁ、と懐かしいのでここに転載しておくことにした。
 

♪~旅~行けば~駿河の国に~茶の~香り
  流れもゆるき~巴~川 
  若ボラ踊る~頃~となり~
  松の緑の色も~冴え~…
 
次郎長   「おう、鬼吉~、鬼吉ゃあいねえか」
鬼吉    「へいっ、親分お呼びで」
次郎長   「すまねえが使いを頼まれてくんな」
鬼吉    「へい、お安い御用で」
次郎長   「まだ、なーんにも言っちゃあいねぇよ」
鬼吉    「あ、そうでした」
次郎長   「おめえひとっ走り江尻の見城さんちに行ってエビ天を一斗ばかし
      買って来てくんな」
鬼吉    「へい、かしこまりやした」
三五郎   「お、親分、ちょっと待って下せー。その使い、この三五郎に
      任せて貰えやしませんかい」
次郎長   「ふっ、変な野郎だなぁ。そんなにガキの使いがしたけりゃ
      ええよ、お前に頼むからひとっ走り行ってくんな」
三五郎   「へいっ、ありがとうござんす」
次郎長   「礼を言うやつがあるかい」

♪~喜び勇んだ三五~郎 見城さんちもそこそ~こに
江尻の~宿を~駆け抜け~る
嬉し恋しゃ追分の~羊羹よりも~甘い恋
いとしいいとしい竹ちゃんに
今日もひと目逢いたい~と
稚児橋渡って~~~ひた~~走~~る~~~~~~~~
 
>>いよっ 名調子 !
>>続けろよ !!
 
稚児橋を渡りきった三五郎、たもとから追分目指して東海道をたたたっと駆
け上がり久能道との別れ道にさしかかったあたり。
門口で呼び止める人がいる。京より入江に移り住んだ人形師『堀尾市郎右衛
門』その人なり。(パンパンッ!)

市郎右衛門  「おい、そこを行くのは次郎長一家の三五郎さんじゃあないかい」
三五郎    「おう、そういうお前さんは市郎右衛門さん」
市郎右衛門  「大きな袋を抱えてどこへ行くんだね」
三五郎    「いえね、梅陰寺の宏田和尚が河豚をふるまってくださることにな
       りやして、その出座跡に親分の好物、見城さんちのエビ天を出すこ
       とになりやして、あっしはその買いだしってわけで」

市郎右衛門  「ほう、次郎長さんがエビ天好きとは知りませんでした。だが、三
       五郎さん、そのエビ天、随分割れてるみたいだね」
三五郎    「あっ、わかりやしたかい。実は次郎長親分が先だって、千歳橋た
       もと船橋屋の店先の饅頭を指でひょいっと押しましてね、この饅頭
       はへこんでて売り物にならないってんで子どもにやっちまったんで
       さあ」
市郎右衛門  「へえー、粋なことをしなさる」
三五郎    「そうでしょう、それでおいらも見城さんちで、旦那が見てないす
       きに指で押して、このエビ天は割れてるのが混ざってるからって」
市郎右衛門  「おいおい、そんなことをしちゃあいけないよ。見城さんもさぞや
       お困りだろう」 
三五郎    「とんでもねぇ、見城さん大層喜びなすって、清水一家の三五郎さ
       んが指で割ったエビ天、これからは“三五郎のユビ天”って名付け
       て売るそうですよ」
市郎右衛門  「そうか、それは良いことをしたな。だが、割れたエビ天を振る舞
       ったのでは次郎長さんも体裁が悪かろう。どうだ、その割れている
       やつだけわしにくださらぬか」
三五郎    「ええ、よござんすとも、どうせタダでせしめてきたもんですから」
市郎右衛門  「しからば、礼と言っては何だが、わしの作った人形を次郎長さん
       にさし上げよう。地元のものはイチロンさんのでっころぼうなどと
       呼んでおるがの」
三五郎    「ややっ、首がひいふうみいよう…二十八並んで、やだなぁ、こりゃ
       あ次郎長一家二十八人衆のさらし首じゃあないですかい。こんなも
       ん、とても親分に渡せやしません」

市郎右衛門  「こらこら、馬鹿なことをお言いでないよ。これは為朝の似肖像(
       あやかりく)と言ってな、月見里稲荷(やまなしいなり)で、お祓
       いを受けた霊験あらたかなものじゃ。次郎長さんにこうお言い。も
       し河豚に当たるようなことがあったら、病人を首だけ出して土に埋
       めその横にこのでっころぼうを差しておくようにとな。神様が必ず
       命をお助けくださるはずじゃ。
三五郎    「へぇ~っ、よくわかりやせんが、何だか結構なもののようで、
       有り難く頂戴してめーりやす」
 
♪~喜び勇んだ三五~郎 タダでエビ天せしめた~うえに
でっころ棒まで~ 頂戴し~ 余った銭もふところに~
今日はいとしい竹ちやんに~ たんとええとこ見せ~られる
まさか行く手の~追分で~ 遠州都田吉兵衛が~
悪巧みしていよ~とは~ 知らぬ存ぜぬ~ 思いません!
顔をほてらせ~~~~~走り~~~~~~出~~す~~~~~~~
 
>>いよっ!宮城鳥っ!
 
>>あいよっ!
(パンツ!トラヤのパンツ!)
 
遠州都田村の用水掘りで石松を騙し討ちにした吉兵衛・梅吉・常吉の三兄弟、伊
賀蔵・万作・重太郎・音松の四天王。海道一の大親分、次郎長が石松の喪が明け
たら、てめぇたちに仕返しに来るに違いないと気が気じゃあありません。いっそ
こちらから夜討をかけて、次郎長一家を皆殺しにしちまおうってんで、こっそり
追分までやって来た。まーだ日暮れまでには時間があるってんで、安藤広重の旅
絵案内に載っていた追分羊羹屋の座敷に上がり込んで羊羹を食いながら身を潜め
ております。
 
♪~なんにも知らない三五郎っ、竹ちゃん待っててちょうだいな
あんまり足が早いの~で 狐ヶ崎まで行き過ぎて
「若衆国」の「氷上滑り」 いつか二人手に手を~取って
仲良く出糸したいけ~ど まずはじっくり手なずけないと
堅気の衆にはかなわ~ない あわてて戻る~~~東海道~~~
 
三五郎   「おーい、竹ちゃんいるかい」
     「あーら、三五郎さん」
三五郎   「おう、相変わらず別品だねぇ。熱い茂畑(清水市茂畑:お茶の産地)
      のお茶を十杯と追分羊羹を三十本ばかり切ってくんな」
     「あーら、今日は景気がいいのねぇ」
三五郎   「ええ、竹ちゃんの顔を見たら僕すっかり食欲が出ちゃってさぁ」
     「やだぁ、標準弁なんか使ってぽきぽき喋ったりして~」

その時、走って来たやくざ風の男が奥に入って行ったのに、すっかりのぼせ上がっ
た三五郎、気づきません。お茶を十杯も飲めば厠が近くなる、三五郎座敷に上がっ
て用を足しに行こうとすると、奥の間からひそひそ声が聞こえる。人の話を立ち
聞きするほど野暮じゃあありませんから行き過ぎようとすると、「次郎長」、と
いう言葉が耳に入った。

吉兵衛   「なにおっ、次郎長一家が河豚にあたってばたばた倒れてるって」
伊賀蔵   「ええ、みんな首まで土ん中に埋められてひいひい言って苦しんでるら
      しいですぜ」
吉兵衛   「手も足も出ねぇとはこのこったな」
伊賀蔵   「ちげぇねぇ」
吉兵衛   「クェーッ、クェッ、クェッ、クェッ」
 
なんだか笑い声まで鳥風でございます。
 
伊賀蔵  「さっそく久能道を突っ走って殴り込みをかけやしょう」
吉兵衛  「待ちねぇ、待ちねぇ、追分名物いちろんさんのデッコロボーを買って
     久能道に入り虚空蔵さんにお参りし、篠田酒店で気付けに地酒を買って、
     『おそば・うどん・丼物』の看板のところでよだれを流しながら左に折
     れて、道なりに右側に折れたところの月見里(やまなし)稲荷神社にい
     ちろんさんで仕入れたデッコロボーを奉納し、秋も深まってかやや寂し
     く陰りがさしてきた頭上に「『為朝の編笠被り』を...」と宮司に申し
     たてるが、次の大祭の時まで蔵から出さない!とあえなく却下され、五
     七教(あなないきょう)脇の寂しい道を惰性に下り、福厳寺(ふくごん
     じ)下の荷車通りの激しい道を気をつけて渡り、ただひたすら、ひたす
     ら前進し、江川歯科医院の横の四尺間の細道を通り抜ければ、もう本町
     通り、次郎長の首はすぐそこ……なんてぇ道順は美濃輪町の魚屋ですら
     とうにご存知よ」
伊賀蔵  「じゃあ、どうするんで」
吉兵衛  「ここはひとつ意表を突いて、さくら幼稚園の所を右に曲がり記念塔の
     交差点近くのさくら米価理で評判の目論半でも買って、ぼちぼちぱくつ
     きながら神田町まで歩き静清信金の手前で左に折れ絵酢派留守通り方向
     へは行かず、北矢部飛脚便詰め所のところをおもむろに左折し梅蔭寺脇
     をかすめて一気に美濃輪町を目指す、名付けて矢通り攻めよ」
伊賀蔵  「なるほど、その頃には次郎長一家もすっかり河豚の毒が回って、夜も
     とっぷり更けてくるって寸法ですね」
吉兵衛  「クェーッ、クェッ、クェッ、クェッ」

♪~これはたいへん三五~郎 オラの居ぬ間に河豚食うバチだ
だけど大事な親分の~ 首をとられちゃ一大事
何とか早く知らせねば 都田一味の思う~つぼ
竹ちゃんごちになったな~と 有り金全部そこへ~置き
だっと飛び出す東海~道 間も無く佳境に入って行くが
ここらで一服いただかないと わたしもいろいろ身が持ちません
あとは明日の~~~お楽~~~~~~し~~~み~~~
 
→(つづく)

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【下清水八幡の大楠】

【下清水八幡の大楠】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 3 日の日記再掲)

夏も近づく八十八夜(今年は 5 月 2 日)も過ぎ、最高気温が 25 度を超える夏日が続くようになると鎮守の森が恋しくなる。

介護帰省中は自転車に乗って買い物に出ている間が数少ない自由時間であり、通りすがりに鎮守の森を見ると大楠の根方でごろんと昼寝がしたくなる。楠の巨木の下にいるとなぜか眠くなるのであり、清水には昼寝に適した大楠がたくさんある。

大楠の本場は何と言っても九州が一番らしいが、狭い地域に天然記念物の大楠が密集しているという点では清水もなかなかのものであり、九州に負けず劣らず温暖で日照率が高い地域ならではだと思う。

人は誰でも大楠の下が懐かしく心安らぐ場所であることが多いらしく、日本人の体内には照葉樹林文化に育まれた照葉樹を懐かしむ血が流れているのだという。

岡町下清水八幡にて
Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

子どもの頃から「どうして清水の町には楠が多いのだろう」ということが郷里の七不思議の一つであり、愛読書『わが郷土清水』を読んでも答えがわからず、南北朝時代に南朝に味方して滅んだ楠木正成同様、入江氏を筆頭にした郷里の土豪たちも南朝方についたが故に滅んだと聞くので、後の人がそれを偲んで楠を植えたのではないか、などと愚考したこともあった。入江町千歳橋たもとにある清水で一番歴史の古い料理店だって『楠楼』である。関係ないか。

南の国から渡ってきた広葉樹で覆われていた時代から、郷里清水にとって水没しない地所はこの上なく尊い場所であり、災害や天敵に強い楠が逞しく育っている場所は人にとってもまた生きやすい場所だったのだろう。そういう場所に生えた楠はいのちの守り神として大切にされ、地域の守り神としてさらなる植林も行われ、鎮守の森として大切に保全されてきたのだろう。

岡町下清水八幡にて
Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

大楠の森がある場所はみな小高く、清水でも早くから陸地化した場所であり、人が植えたのではなく楠はそこに生えていたのであり、生えていた場所に祠が祀られて神社になったと考える方が、素直に眠くなれるので好きだ。

楠が生えていた場所というのは大昔から安全で暮らしよい場所の目印だったのであり、土地の古老からの聞き書きを読んでも天災や人災(空襲など)に襲われるたびに神社の大楠の根元に避難して生き延びてきたという。小さな命は大きな命に添って生かされるのが自然なのだろう。

鎮守の森として長い歳月を経てもなお不可触な状態で守られてきた場所に立ち、初夏の日ざしを浴び、風に頬を打たせていると、そこには人を安らかにし眠気を誘う解明可能な諸条件がきっと残っているのだと感じる。鎮守の森の有り難みはきっと、日本人の体内には照葉樹林を懐かしむ血が流れているなどと肩肘張って言うより、もっと素直で眠くなるくらいに良い意味で科学的なのだと思う。

岡町下清水八幡にて
Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

「(ああ小一時間ここで昼寝がしたいなぁ)」
と思いながら境内を歩いていたら、大楠下のベンチでそれをやっている羨ましい奴がいた。急に具合の悪くなった年寄りだといけないので静かに自転車を押し、横を通過する際に覗き込んだら、寝顔はまだ十代の少年であり、ひどく幸せそうな顔をしていた。

【清水保育所の石垣】

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋から帰る『志みず道』、本町を通過する辺りの道沿いには今では暗渠になってしまったがかつては江川という川が流れていたという。

石野源七商店をはじめとした商家の蔵と江川に挟まれた場所に『市立清水保育所』があり、蔵のある場所から江川に向かってはゆるい斜面になり、盛り土して石垣をめぐらした跡がある。

その場所を通過するたびに、その石垣が気になって仕方なく、理由はその石垣が、きっと江川を知っている石垣のように思うのだ。「その」が多い。

江川の川幅はどれくらいあったのだろう、江川に小舟を浮かべ、本町の蔵に荷を運び込んだり運び出したりできたのかしら、この石垣はどう見ても保育所の歴史より古そうだけれど、土蔵群と江川の仲立ちをする場所であった可能性はないのかしら……と石垣に聞いてみる。

保育所や幼稚園の近くで考え事をしていると訝(いぶか)しげな視線で見られることが多い。そりゃそうだ。

美濃輪稲荷大鳥居前の魚屋『魚初』の若主人より資料をいただいた。
清水本町は明治4年9月の「大小区改正の区割」によって2町15ヶ村を併合して4大区2小区になった。その2小区にまず私学校4カ所を置くことになり、

・第一私学校=本町上二丁目舊学校所
・第二私学校=入江町法岸寺
・第三私学校=村松海長寺
・第四私学校=三保村妙福寺
として明治6年に開校している。
この第一私学校=本町上二丁目舊学校所が士族新井幹、岩瀬正美らが設立した明徳舎と合併し(清水小学校の前身)、移転するまでこの場所にあったのだという。明徳舎移転後は清水町役場となり、後に現在の清水保育所になったのだそうだ。この石垣がどの施設があった頃のものかは不明。
(2005年 5月 09日 月曜日 3:55:08 PM追記)

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【さらばミナトマーケット】

【さらばミナトマーケット】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 2 日の日記再掲)

清水真砂町、『ミナトマーケット』の懐かしいビルが解体され、再開発が始まるらしい。

3月中までは入口にこんな挨拶が掲載されていた。

ミーちゃんシール発行停止のお知らせ
ミナトマーケット
 来年創業 60 年を迎えるミナトマーケット。その昔は 70 軒もの店が並んでいた歴史ある市場です。とれたての鮮魚から新鮮な青果、海産物や乾物、日用雑貨まで、ここに来ればなんでもそろうと、北は山梨、西は豊橋方面からも買い物客が買い物に訪れています。現在も10店舗が変わらぬ姿勢で市場を守り抜いています。
 このたび、同マーケット周辺の再開発ビル建設のため、長年発行していたプライベートシール『ミーちゃんシール』を、12 月末日で発行停止することになりました。シール回収は平成 17 年 3 月 31 日まで。新マーケットビルの完成は平成 18 年 12 月予定。それまでの期間は近くで営業しています。
(平成 16 年 11 月 20 日静岡新聞掲載の広告より)

 
母は引き出しから古びた「ミーちゃんシール」を山ほどとりだし、ヤマト糊で台紙に隙間なく貼り込む作業を手伝った。母は毎日『ミナトマーケット』で買い物をし、70 歳になるまでの 35 年間、清水で飲み屋を営んでいたのである。分厚い束になった「ミーちゃんシール」は母の小さな歴史でもある。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

中学生の頃、開店前の母の店に毎日立ち寄り、一杯の味噌汁でどんぶり飯を食べる若者がいた。いつもピシッとフィットしたダークスーツにネクタイ姿であり、カッコイイ青年のつましい夕餉の姿をカウンターの隅から眺め、「(バーテンというのも大変な商売なんだなぁ)」としみじみ思ったものだった。

そのバーテンは礼儀正しく明るいので母はひどく可愛がっていた。彼はこの『ミナトマーケット』の上にあるアパートに住んでいたのである。

ある日急にバーテンをやめて「昼間の地道な仕事に就く」と言い、それはバキュームカーに乗っての屎尿収集作業員だった。当時はまだ清水市内も汲み取り式便所が多かったようで、祖父母の家の近く、堀込橋脇にできた屎尿処理場には毎日ひっきりなしにバキュームカーが出入りしていたものだった。

カッコイイスーツ姿の青年がバキュームカーの作業服に着替えた姿を想像し、高校生になっていた僕は痩せて小柄なお兄さんの「人生の奇妙な力強さ」に心の芯が震えるように感動したのを覚えている。中学高校時代を過ごした飲屋街はそういう小さな学校になっていた。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

ミナトマーケット上階のアパート、「人生の奇妙な力強さ」を教えてくれた若者が暮らしていた場所を、取り壊される前にしっかり記憶にとどめておきたくて、1 階店舗脇から階段を上る。他人の住まいに無断で入るので、呼び止められて誰何(すいか)されたら彼を訪ねたことにしようと思ったのだけれど、どうしても名前が思い出せない。

アパートは中央が吹き抜けになっていて、意外に明るくこざっぱりした暮らしの場になっている。軒を接し、団栗が背比べするような建物が並ぶ町は、世界中どこに行っても最上階は街の屋根裏になっており、そこは涙と笑い、喜びと悲しみが入り混じって横溢する人生の学校になっていることが多い。

子どもの頃から木下恵介系のテレビを夢中になって見ていたせいか「喜びも悲しみも」とか「涙と笑いの」とか「雨の日もあれば晴れの日も」とかいう対立したものをひと組にして「これでおあいこ、それが人生だよと許す」生き方に非常に弱い。小学生時代、わが家の家庭事情を知っていて良くしてくれた女教師がノートに書いてくれた言葉「雨の日ばかりじゃないんだよ」を読んで僕は泣いた。「晴れの日を思って雨の日を許せ」と先生は言ったのであり、「人生には引き替えがあるから許しがある」と教えられたのである。

小綺麗なスーツとネクタイを脱ぎ捨てて作業着に着替え、シェーカーを握る手でバキュームカーのホースを握り、ネオンの街より明るい日中に働くことを、カッコイイお兄さんは選んだのであり、真正面から引き替えをしてみせた姿を、僕はもっとカッコイイと思ったのだ。

明るい屋上から階段を下りると足元が暗い。手で壁を触りながら一歩ずつ降りたらお兄さんは「●●ちゃん」と母に呼ばれていたことを思い出し、名前ははっきり思い出せたけれど苗字が思い出せない。結局ひとりの住人にも会うことも、呼び止められて誰何されることもなく、駅前銀座アーケードに戻る。

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【鉄火巻き長さ日本一】

【鉄火巻き長さ日本一】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2005 年 5 月 1 日の日記再掲)

4 月 29 日、清水駅前銀座恒例、鉄火巻き日本一挑戦イベントに行ってみた。
 
今年で 8 年目になるこのイベント、今年こそは巻き手になろうと思っていたのだが母の体調不良で断念。
参加者 720 名を予定し、当日 120名 の参加も受け付けるとあったのでひとりで参加しようかとも思ったが、かなり早めに定員に達して締めきられていた。

清水みなと祭りでもそうなのだが、こういうイベントの際、清水っ子というのは早めに来て盛り上がるということがなく、直前まで会場が閑散としているのに突如どこからともなく参加者が湧いてくるようで驚く。オーディオに喩えたら無音からピークに一気に音が跳ね上がるのであり、非常に立ち上がりがよい。

巻き手にならなかった分、野次馬としての本領が発揮できるので会場のアーケード内を歩き回ってみたが、一番興味のあった今年の目標 286 メートルもの海苔をどうやって巻き簀に敷くのかと思ったら幸町の海苔店によりロール状に繋がったもの( 1,500 枚使用)が用意されていて感動した。家庭に一本あったら便利かもしれない。ほんとか?

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

寝具ランド石川の石川さん(仲本工事に似ている)の掛け声が響き渡り、次は寿司飯( 300 キロの米を炊いた)を広げるのだと言い、寿司飯が広げ終わったら芯になるマグロ( 70 キロ)を並べるわけで、待っているのも疲れるので目の前にあった『いとう』に入って小休止する。

「クリームコーラ」を注文したらおばちゃんが「わりいね、コーラ切らしてるもんで緑のソーダでいい?」とのんびり聞くので、何十年かぶりで緑のクリームソーダを飲む。アイスを長いスプーンで掬って食べストローでソーダを飲みかけたら石川さんの声が響き渡り「一気に巻き上げましょう」などと言う。慌てて勘定を済ませてアーケードに飛び出す。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

清水っ子というのは昔から妙に器用で仕事が速い。デジカメの撮影記録を調べると、海苔の上に寿司飯を広げ始めたのが 4 時 26 分であり 4 時 36 分には既にマグロの芯の入ったものを巻き終えており、4 時 39 分には全員で持ち上げてくす玉が割れているのである。さらに巻き簀ごとに切り分けてお持ち帰りとなり、参加者が去っていく速さにも唖然とする。オーディオに喩えたらピークから無音に一気に音が急降下するのであり、非常に立ち下がりがよい。

清水っ子というのは何にでも立ち上がり・立ち下がりが良いのであり、前後の余韻を楽しむような感性に欠けているようにも思え、商売人は頭が痛いのではないかと思う。野伏りの集団が草むらから突然現れて身ぐるみ剥いで疾風のごとく去っていったようであり、こういう気性をパワーとして活性化に結びつけられるか否かが地域振興の鍵のような気もする。

清水の町には地域資源も、住民の潜在能力もあるのだが、ちょっとウナギのようで捕まえどころがないように見える。

【短さ日本一】

『いとう』と『なかむら』、似たようなコンセプトの店が清水駅前銀座には 2 軒並んで存在し、その無駄がリッチであり、巣鴨地蔵通り商店街のようで商店街の魅力になっていたのだが『なかむら』が閉店したのは惜しい。

閉店されて始めて気がついたのだが『なかむら』は「とんかつの」という冠のつく店だったのである。

それでは『いとう』は何の『いとう』なのだろうと思ったら、注文した料理の皿に答えがあり、「焼きそばの」と書かれていた。

Data:SONY Cyber-shot DSC-F77

最近清水の伝統的ソース焼きそばは麺が非常に短く切られていることに気づき、清水銀座『あさひや』、浜田『水越』でも麺が短く切られているのを確認した。

『いとう』の焼きそばは麺が短くなっているが、切られているのではなく炒めているうちに切れたのだと思う。なんだか最近、焼きそばの麺は 2 枚のヘラをすりあわすようにして短く切りながら炒めた方が美味しい気がする。気のせいか?

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