【母と歩けば犬に当たる……46】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……46】
 

46|サトウハチローとおかあさん

 母はサトウハチロー(★1)の『おかあさん』という詩集が大好きだった。
 小学校何年生の時だったか忘れたけれど、母が突然『おかあさん』と題した詩集を買ってきて読めと言う。三冊の上製本がひとつの箱に収まった立派なやつで、母親への思慕を綴った甘酸っぱい詩集だった。詩集『おかあさん』が好きだったのは母の方で、時折取り出しては読み、読みかけのページを開いたまま手渡して、お前も読めと言うのだった。
 母はどうして、こんなにしつこく詩集『おかあさん』を読めと言うのだろうと考え、きっとサトウハチローのように自分のことを深く慕って欲しいのだろうと思いつつしみじみと読んだが、中学生になる頃には、そういう母の押しつけが疎ましく感じられるようになり、詩集『おかあさん』を手に取ることはなくなっていた。
 中学に上がると同時に母が始めた居酒屋に、常連として通う地元信用金庫の社員が、客への景品として用意した洋食器を手みやげに持ってくることがあり、それは母をひどく喜ばせた。茶碗や皿、湯呑みやコーヒーカップなどのすべてに、サトウハチローの詩集『おかあさん』から選び出された、切々たる母への思慕が、イラスト入りで書かれていたからである。
 お茶を飲むにも、お菓子をつまむにも、母はサトウハチローの詩集『おかあさん』入りの食器を好んで使い、夕方の開店直前、三面鏡の前に座って厚化粧する時も、湯呑みのお茶を飲みながら、
「何度読んでもしみじみするねぇ」
などと感慨深げに同意を求めたものだった。詩集を読まなくなった替わりに、手に取る器で『おかあさん』を読まされたのである。
 高校を卒業して親元を離れ、大学卒業後はそのまま東京で就職し、二十五歳の時、かつての同級生と結婚した。郷里清水市の教会で結婚式をあげ、披露宴の司会進行は大学時代の同級生に任せたのだけれど、母が直前になってこっそり手を回し、宴の最中に詩集『おかあさん』朗読が始まった時には、赤面するほどびっくりした。それは詩集『おかあさん』をめぐる母と息子の暮らし総仕上げだったのである。
 義父母を含む親三人と同居しての看護・介護が始まり、他人から
「えらいですね、なかなかできないことですね」
などと褒められることがあるけれど、そのたびにとまどう。
 ひとりっ子同士の夫婦にとって親の看護・介護は、えらいもえらくないも、できるもできないもなくて、そうせざるをえなかったのであり、三人の親は病いが重いとはいえ、十分に子ども夫婦と一緒に暮らせたのである。
 世の中によくある家と施設のあいだを行き来しながらの要領のよい介護は、夫婦に兄弟姉妹がいて助け合えるからこそ、成り立つのであり、ひとりっ子夫婦から見れば兄弟姉妹というのはありがたく、羨ましいものなのである。
 「ああめんどくさい、煩わしい兄弟姉妹のいない一人っ子が羨ましい!」
などと言われることもある。わが母のように兄弟姉妹が十人以上もいたりすると、自分たちの親の世話ひとつ取ってもひとりっ子から見るとまどろっこしく感じられる。兄弟姉妹あつまって親の世話についての話し合いの中で、
「お前にとっておふくろは何パーセントだ?」
などという会話が出てきたと聞かされてびっくりしたこともある。
 母親の愛を自分は何パーセントくらい分け与えられていると感じて育ったか、などという驚くべき話なのであり、それは兄弟姉妹が親の世話に伴うさまざまな負担をどのように担い合うか、という問題に繋がっていたのだった。
 残念ながらひとりっ子には、
「お前にとっておふくろは何パーセントだ?」
などと聞いてくれる兄弟姉妹はおらず、あえて自問自答すれば100パーセントになってしまうのだ。
 そうか、母はこういう兄弟姉妹の葛藤の中で生きてきたのかと改めて理解する時、たった一人の私とたった一人のおかあさんが100パーセントの愛で向き合って生きること、平たく言えば『おかあさん』の愛を独占することこそが母の夢だったのかもしれず、息子との間にあった詩集『おかあさん』は、願っても手に入れられなかった母の夢の代償だったのかもしれない。
 母が大好きだった詩集『おかあさん』の湯呑みは今、実家にある亡くなった祖母の写真の前に供えられており、母にとっての詩集『おかあさん』は、息子に対する『おかあさん』の押しつけではなかったのかもしれないと今では思う。そして、仕事帰りに文京区弥生の坂を上って偶然見つけた『おかあさん』の碑は、亡き祖母を思慕する年老いた母の背中を見るようで、息子にとっては改めて味わい深い。

(2004年6月5日の日記に加筆訂正)

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★1 サトウハチロー(一九〇三〜一九七三)
詩人、童謡作詞家、作家。旧居跡は東京都文京区弥生一−一六−一。

【写真】 サトウハチロー旧居跡の顕彰碑。

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