▼六義園早朝ランニングコース

 


六義園外周は「六義園早朝ランニングコース」になっていて一周が1,200メートルある。文京区教育委員会によると、なるべく早朝の午前5時から7時の間を選び、時計反対回りに、近隣住民の迷惑にならぬよう静かに走れということになっている。とても良いランニングコースなのだけれど走っている人はそう多くない。



六義園正門前からの300メートルは本郷通り沿い。



日が長くなって早起きすると明るいので、録音したものを再生しながらラジオ体操を始めたのだけれど、寝起きは身体が硬くて痛い。身体をほぐすために朝風呂やシャワーを先にしてその後体操してみたら、せっかくさっぱりしたのに衣類まで汗だくになってちょっと都合が悪い。



六義園染井門前からの300メートル。



今朝も早起きしたので無人になった義父母の住まいに行き、カーテンを開け、窓を開け、空気を入れ換えた。外を見たら小雨まじりだけれど傘をさすほどでもないので、六義園早朝ランニングコースを早足で周回してみた。血圧の薬を飲み続けており、医者から歩くのは健康によいけれど激しいランニングは気を付けろと言われているので大股早歩きで回ってみた。1周では汗もかかないので2周回ったところで雨が降り出したのでやめたけれど、少なくとも3周くらい回ると良い運動になりそうな気がする。



文京グリーンコート方向への300メートル。



1周目ですれ違ったご婦人から「おはようございます」と声をかけられ、とっさに声が出なくて会釈しただけだったので、2周目にすれ違った際にこちらから「おはようございます」と声をかけてみた。毎朝の習慣にして声を掛け合う顔見知りができたら、それが張り合いになって楽しいんだろうなと思う。



六義園正門前へと戻る300メートル。



とはいうもののご婦人は時計回りに歩かれていたのであり、顔見知りがやってくるのを楽しみに毎朝回っていると、顔を確認しやすいよう皆と逆に回るようになるのかもしれない。

 
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▼往路復路

 


「行ってきま~す」を言った場所が「ただいま~」を言う場所であり、往路がそのまま復路であるような、ごく当たり前のことに子どもの頃から感傷的になる癖がある。



往路にて。



例えば楽しみにしていた旅行に出掛け、行きに通った道を帰りに引き返す際、数十時間前楽しそうにこの道を通った自分がいることを思い浮かべて過度に感慨深かったりするのだ。



復路にて。



おとなになったらそういう不思議な心の動きがもうちょっと高度になり、楽しく出掛ける往路で既に、同じ道を引き返して現実に戻っていく復路の自分を思い浮かべて感慨に耽ってみたりする。やっかいな性癖の分析が自分でできずにいるのは、おそらくそういう心の動かし方が嫌いじゃないのだ。

 
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▼人の内外

 


毎週末、義父母が暮らす特別養護老人ホームに面会に出掛けるが、それ以前から仕事がらみで各種老人施設等を訪問し、入所者である高齢者と会話をする機会が多かった。そして後になって、あの方は痴呆があり在宅介護が無理だということになって入所されたのだなどと聞かなければ、ごく普通のおじいさん、おばあさんであることに驚くことが多かった。



6月26日、東京オペラシティにて。



自分の親がそうなって実感としてわかるようになったのだけれど、人としての家族、場としての家庭に対してのみ呆けるということが年老いた人には起こりえるのかもしれない。年のわりに明晰で、穏やかな気性で、他人を思いやることもできるよいお年寄りだと思える人が、家庭では家族を悩ませ、これ以上の在宅介護では家族が共倒れになると苦渋の選択を選ばせるような人であることが、あり得るのだと思う。



6月26日、東京オペラシティにて。



世間ではごく常識的な良い人だと思われている人が、人としての家族、場としての家庭に対するとき別人のような一面を持っていることを知って驚くことがある。呆けて入所している人が家庭を出て家族以外の他人に接するときにはちっとも呆けていないように見えて驚くのと逆に、まだ若くてごく普通の社会生活をおくっている人が、家庭に戻って家族に対するときだけ異様な一面を露わにすることを知って驚くこともある。それも一種の呆けなんじゃないかと思うとき、他人にも家族にも良かれ悪しかれ同じような態度で接することができるか否かが、自分の呆け予報のための尺度になるんじゃないかと思う。

 
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▼軒先のかみさま

 

昔何度か行ったことのある池袋の定食屋前を通りかかったら、蘇民将来子孫家門と書かれた蘇民将来の注連縄(しめなわ)が掲げられているのに気づいた。



豊島区内にて。



子どもの頃は民家の軒先にてるてる坊主が吊されているのをよく見たが、最近は余り見かけない。小学校低学年の頃は、白いハンカチに脱脂綿をくるんで手作りし、遠足の前夜軒下に吊したりしたが、あとでまたハンカチとして使うので顔は描かなかったような気がする。



文京区内にて。



軒下を借りている程度の佇まいが、現代では祈りの対象の居場所として相応しい気がするし、ここになら本当にかみさまがいるかも知れないなどと、ふと思ったりする。

 
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▼立教大学

 


仕事で外出して時間潰しの必要があるとき、喫茶店などに入るのがあまり好きではなく、公園のベンチに腰掛けているのも侘びしい気がして、大学が近くにあるとキャンパス内を歩いたり、学食で食事するのも好きだ。



クリスマスには飾り付けが施される大きなモミノキ。



曲がりなりにも学問修得の場ということになっているので、公立私立に関係なく、大学構内というのは公共財であるという気分があることも、妙に居心地よく感じる理由のひとつだと思う。



本館(別名モリス館)脇に咲いていた紫陽花。



東京都豊島区西池袋、池袋の編集事務所で2時から打ち合わせがあり、1時間近く時間が余っていたので立教大学構内を散歩してみた。東京都選定歴史的建造物が数多く存在し、図書館本館は丹下健三の設計によるものだというので見たかったのだけれど、さほど時間がないので次回の楽しみにした。



立教大学構内にて。



蔦に覆われた本館(別名モリス館)前のベンチに腰掛けていたら、芝刈り機と手動ハサミで芝の手入れが行われており、語らう学生達の声が聞こえる中で、若い夏の匂いがした。

 
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▼氷山の一角

 


静岡県清水で母がやっていた飲み屋の常連にべんちゃんと呼ばれる若者がおり、当時は社会全体の羽振りが良かったので、学生として帰省するたびに飲みに連れ出されては可愛がって貰った。べんちゃんは「便」ではなく「勉」を音読みしてべんちゃんと仲間に呼ばれていたのだけれど、商売が水道屋だと知ってからはべんちゃんと呼ぶ際に水道弁の「弁」を思い浮かべていた。



近所の坂道にあった貼り紙。



ほんの一部分が海面上に現われ、大部分海中に隠れていることから「氷山の一角」という言葉があるが、道路でよく見かける水道弁の蓋を地中からそっくり掘りだしたものが近所にある水道屋の資材置き場に置かれていた。水道工事の際に作業員が開栓棒を突っ込んで操作しているのを見かけ、おそらく地中に埋設された水道管までの縦穴があって、その穴に蓋をつけたものにすぎないと思っていたのだけれど、意外に大きなものが蓋と一体化した構造物として埋設されていることを知ってびっくりした。



近所の水道屋資材置き場にて。



母親が他界して無人になった実家を片付けていたら、ガスの点検に来た人が
「この家どうする?」
と聞くので
「片づけが済んだら解体して更地にします」
と答えたら
「うちもオヤジが数年前に他界したんですよ。解体が決まったらガスの元栓を停めるから電話してくださいね」
と言う。妙に親しげな物言いだったのでおかしいなと思い、帰ったあと貰った名刺をぼんやり見つめていたら30年以上前のことを思い出した。

水道屋のべんちゃんにはひとし君という弟がいて、家を出て独立し、たしかガス関係の仕事をしていると言っていた。そうかそうか、母と僕のことを覚えていてくれて心配してくれたのか、だったらそう言ってくれればちゃんと挨拶したのに、と残念な思いをした。数年後、実家の解体が決まったので電話したら本人が留守で、奥さんのような方が電話に出られた。思えばその女性の応対も妙に親切で、彼女も母のことを知っていたのかしらなどと思ったけれど、そんなすれ違いも少しずつ過去の思い出として記憶の海面下に遠ざかりつつある。

 
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▼坂道の亀の湯

 

人は誰でも性格の傾きを持っているけれど、物理的な傾き知覚能力にもまた傾きがあるようで、撮影した写真の水平線が狂う癖がある自分が、昔から気になっている。

幸いなことにデジタルの時代になり、RICOH のカメラは電子的な水準器が内蔵されていて画面で傾き調整ができる。そうでない機種では液晶画面に方眼線が表示できる機種だと、水平垂直を正確に出して撮影しやすいので重宝する。



東京都北区中里2丁目の「殿上の湯」。最近はこういう小さな手足浴の店が増えている。



駒込駅前から霜降橋交差点まで続く坂道、その本郷通り沿いに銭湯亀の湯がある。路面電車で前を何度も通りかかった小学生時代からすでにこの場所にあったが、残念ながら一度も入浴したことがない。銭湯を利用したデイサービスに通っていた義父母を見ていて、地域に公衆施設があることのありがたさを痛感したので、いつまでもこの場所にあり続けて欲しいと願わずにいられない。



東京都北区西ケ原1丁目。本郷通りに面した「亀の湯」。



坂道に立っていることがちゃんと写真でわかるよう、水平垂直の線を想定しながら何枚もシャッターを押して一番正確そうな写真を選んだ。電信柱は垂直に立っているとは限らないので当てにならず、アーケードの柱なども意外にいい加減なのがわかる。人は坂道では垂直ではなく上の方向へと前屈みにのぼっていくこともわかり、一枚の写真の中に正しい垂直と垂直もどきがたくさん混在している。

 
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▼焼鳥屋のそろばん

子どもの頃から母親に
「あんたは物を粗末に扱う、ものの有り難みを知らない」
と始終小言を言われて育ったが、それでもひとつやふたつは大切に使い続けて、
「良く使ったね、いかんせんボロだからもう捨てようね」
と家人に言われる物があり、どこの家でも、どんな人にでも、他人が見たらあっけにとられるくらい、大切に使い込まれた物がひとつくらいはあるのだと思う。


人も物も建物も年をとる。



近所の商店街に焼鳥屋があり、夕暮れ近くの買い物時になると、串を並べて焼いて良い匂いを立てている。
昔は店内で食べさせ、酒を呑ませる店だったようで、くすんだカウンター席が奥に見えるけれど、事情により夕方だけ持ち帰り専門にして営業を続けているらしい。



いつも気になるそろばん。



客が買った焼き鳥を懐かしい色のついた包装紙でくるみ、合計金額をそろばんで計算してくれるのだけれど、その木製そろばんが使い込まれて角が丸くなっている。油汚れするのでときどきゴシゴシ洗っているのだろう。その古び具合が宝物のように見え、一度写真に撮らせて貰いたいと思っていたのだけれど、ちょうど休憩時間らしく無人だったので失礼して写真に記録した。

何度見ても溜息が出る美しい仕事の道具。

 
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【北街道とバスとタクシー】

【北街道とバスとタクシー】
 
 
久しぶりに帰省すると、東京に比べて清水はなんて広いんだろうと思うことが多い。


大内の保蟹寺で墓参りを終え、北街道に出てしずてつジャストラインのバス停まで歩き、1時間に2本しかないバスが通過した直後だったりすると、道端に立ったままバス待ちをすることになる。待った挙げ句に、やって来たバスに乗って清水駅や静岡駅に出るとバス料金が驚くほど高い。本数が多く、どこまで乗っても200円の都営バスに慣れていると、公共の足が弱いという意味で地域を広く感じるのだと思う。



6月19日、港橋たもとにて。前夜大雨警報が出たので川の水が濁って大増水。



炎天下でバス待ちをする家人がふらふらしているので、困ったなと思っていたら鳥坂方面で客を降ろしたらしい空のタクシーがやってきたので手をあげて停め、清水駅まで乗車した。
エアコンの効いた車内で滝のような汗をぬぐいながら、家人が
「ああ、タクシーが来て良かった」
と言ったら運転手が得意げに
「へっへっへ、まさか空のタクシーが通りかかるなんて思わなかったでしょう」
と笑う。



6月19日、清水駅前にて。



手柄を自慢したいタイプの運転手だとわかったので、清水駅前ロータリーにさしかかるタイミングを見計らい、
「あっ、駅前の大和屋も桃園もみーんななくなって更地になってる!」
と、さも知らなかったように言ってみたら
「ここは再開発されて大きなバスターミナルになるんです!」
と、予想通り得意げな返事が返ってきたので心の中で「(へっへっへ)」と笑った。

新しいバスターミナルはいいけれど、壊滅的な本数の清水駅発着バス路線に利用者が増えることにより運行本数が増える、などという嬉しい事態が起こり得るだろうか。

 
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【街のにおい】

【街のにおい】
 

戸田書店発行『季刊清水』編集会議のため一泊で帰省した。
正午ちょっと前、静岡駅に降り立って南口に出たら待ちかねたように雨が降り出した。傘もささずに駆けだし、駅近くの『清見そば』に入って大好きなカレー南蛮を食べた。

カレー南蛮はそもそもゲテな料理なので、料理自体を認めたがらない人もいるし、家庭料理であるカレーの好みは十人十色それぞれがうるさいので、別に他人に薦めるわけではないけれど、僕はこの店のカレー南蛮が好きで静岡駅前に出るたびに食べたくなる。



6月18日、静岡市駿河区南町『清見そば』本店のカレー南蛮。



腸内細菌に関する本を装丁したら、その本の注文書に「町内細菌」と誤記したものがあり、町内に住み着いた細菌は怖いと出版社担当が笑っていた。街には街固有の匂いというものがあり、蒸し暑い日に突然雨が降り出したりすると、ムッと沸き立つようにそれが薫ることがある。



『清見そば』本店向かいで雨宿りしながら懐かしい故郷の匂いを嗅ぐ。



『清見そば』を出たら妙に懐かしい街の匂いがし、それは幼い頃に慣れ親しんだ旧清水市で嗅いだのと同じ匂いであることに気づいた。酒や醤油などの蔵に固有の酵母が根付くように、地域には地域固有の生活文化を醸成する酵母のようなものが根付いていて、気象状況により、ふと独特な匂いを生成することがあるような気がする。

 
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▼本郷通りのあじさい

twitterで、会ったこともなければどこの誰とも知らない人が、文京区白山にある白山神社で毎年行われるあじさい祭りも終わり、街が静かになったとつぶやいていた。

 



6月16日、本郷通り歩道脇のあじさい。



本郷通り沿いで色づき始めたあじさいを見て、今年もそんな季節になったなと思っていたけれど、見物にも出掛けないうちにあじさいの季節は終わりが近いらしい。



6月16日、本郷通り歩道脇のあじさい。



夕方になって買い物に出る際にカメラを持って出たら、わが家から一番近いところにある、本郷通り沿いのあじさいはまだ綺麗に咲いていた。あじさいの写真をカメラに収めて帰宅した途端に激しい夕立となった。

 
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▼電気機関車

子どもの頃地図を見るのが好きで、日本地図上に描かれた鉄道路線上を眼で辿るとき、その膨大な路線同士が孤立しているのではなく互いにつながっていることを、すごい事だと感心していた。


そしてもしできるなら多くの車両を引っ張ってではなく、たった一台の電気機関車を自分で運転し、好きな路線を選んで旅に出られたらどんなに楽しいだろうと夢想した。



6月15日、JR新大久保駅ホームにて。



想像もしなかったような年齢のおとなになってしまったが、今でも駅のホームで電車待ちをする際に、多くの車両を引っ張ってではなく、たった一台の電気機関車がいかにも自由なひとり旅をしているように通過していくのを見かけると、子ども時代の憧れを思い出してうらやましく思う。



6月15日、高橋是清翁記念公園前にて。



もう子どもではないので、たった一台の電気機関車が自由気ままに走っているわけではなく、運行ダイヤで決められた時刻に決められた線を通って回送されていくのだということはわかる。わかるけれど、たとえ決められた時刻の決められた線であったとしても、決められた通りしっかり走って行くことが、やっぱりすごいことだと思っている自分がいて、そういう感心の仕方ができるようになることが、おとなになるということなのだなと思う。

 
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▼氷川参道ケヤキ並木

 


東京都北区王子の小学校では、低学年の遠足は埼玉県さいたま市にある大宮公園に出掛けていた。そのせいか、口のまわりにご飯粒をつけたまま歩いていると
「おべんとつけて どこいくの~ おおみやこうえん ひとまわり~」
などと囃されたものだった。

この囃し言葉は大宮公園を中心にした広汎な地域で、広い世代にわたって用いられていたらしく、今もインターネットで検索するとたくさんヒットするし、仕事などで会う人々と大宮の話題になるたびに、知っている人が多いことに驚く。はたして北区王子より大宮から離れた地域でも、この囃し言葉を覚えている人はいるのだろうかと、分布範囲の実態が気になっている。



6月12日、氷川参道にて。



JR大宮駅前からバスに乗って義父母が入所中の特別養護老人ホームに向かう道すがら、車窓から見事なケヤキ並木が見え、それは旧中山道からおよそ2kmにわたって南北に延びた、大宮氷川神社に参るための道になっている。明治時代、大宮氷川神社の社有林を開いて設置された公園が大宮公園であり、遠足の際には一体である神社にも詣でたはずなのに、生まれて初めて見たクジャクの記憶は鮮明でも氷川神社自体の記憶がない。



氷川参道一の鳥居。ここが参道入口になる。



大宮区吉敷町、旧中山道との分岐点に大宮氷川神社一の鳥居がある。その場所からケヤキ並木を振り返ると、歩いてきた道の延長上、突き当たりに氷川神社と大宮公園がある。



氷川参道一の鳥居を出るとJRさいたま新都心駅になる。



1995年に義父母が富山から上京して以来、新年は近所にある駒込吉祥寺、天祖神社、富士神社に家族揃って参っていたけれど、来年の正月は義父母とも大宮で迎えることになる。人出が毎年全国十位以内に入るという大宮氷川神社に、来年は初詣ということになるかなと思い、それは半世紀近くまえ遠足で訪れた大宮公園再訪となる。

 
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▼産業余話

 

戸田書店発行『季刊清水』に「戦後復興を支えた清水の瓦」と題して今は跡形もない祖父の瓦工場のことを書いた。

 職場の端には大きなモートル(モーターをそう呼んだ)があり、そのモートルがベルトで天井にある長いシャフトを回し、シャフトにベルトを付け替えることでさまざまな瓦製造機械を動かしていた。子ども心に、なんて良くできた機械だろうと感心し、こんな機械まで祖父が作ったのかと感心していたが、かつて清水にはそういう瓦製造用重機を作る会社もあったという。
(中略)
 養生を終えた粘土は瓦の原型になる弧を描いた板として押し出す機械に入れられ、押しだされた板は玩具のような瓦大の木製トロッコに乗り、針金のような器具で一枚一枚切られてレールを滑り降りてくる。粘土を供給する係、一枚一枚切断する係、トロッコから瓦の原型を剥がして運ぶ係と、女たちも一緒になって仕事を手分けし、空になったトロッコを押し出し口までもどす係を子どもたちが手伝った。トロッコに粘土が張り付かないように土の粉を吹きかけたり、その粉を作るための作業も必要なのでとても人手が足りないのだけれど、そういう作業の機械仕掛けまでちゃんとついていて工場の隅で動いていた。家族も働き者だが、たった一台のモートルもまた働き者だった。(戸田書店『季刊清水』42号・特集「戦争直後の清水を生きる」より)



織物参考館「紫(ゆかり)」の鋸型屋根。



6月5日、群馬県桐生市にある森秀織物株式会社の織物参考館「紫(ゆかり)」を見学した。
桐生市内には鋸型屋根の紡績工場がたくさん保存されている。鋸型屋根は工場内で機械がたてる騒音を低減させ、光量が極端に変わらない北側から採光することで工場内の明るさを一定に保つ工夫だという。



工場天井のシャフト。



瓦工場と織物工場に共通するものがないかと天井を見上げたら、祖父の工場にあったのと同じモートルで駆動する万能シャフトがあった。シャフトに取り付けられた輪と機械をベルトでつなぐことで、必要に応じてさまざまな機械を動かしていた。



シャフトを回転させてさまざまな機械を動かすモートル。



中学時代の恩師から、大量生産による廉売で清水の瓦産業を駆逐した愛知県三河の瓦製造工場を取材したビデオをいただいたが、家族総出で何日もかけた製造工程を、大型機械が全自動で短時間に済ませてしまう様子に驚嘆した。



国の登録有形文化財に指定されている工場の建物群。



最後の瓦製造工場が消えて久しい清水の街を歩いていたら、港の倉庫街に東南アジアから輸入された瓦が山積みされていたが、そういう利潤なき価格競争の果てにあるものは、人々の叡智に付け加えられる余話に過ぎない気がする。

 
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▼雀の巣立ち

 

このところ、雀の巣立ちが真っ盛りのようで、朝から雀たちがマンションベランダにやってきて賑やかしい。
巣を離れ、もう親から口移しで餌を貰うことがなくなっても、親が恋しいのか甘えるように断続的に空を見上げて呼んでいる。



ベランダでぼんやりしている子雀。



もう親はやって来そうにもなく、鳴き疲れると羽繕いなどをしており、人間ならば
「親を頼りにして暮らすのもここまで、これからは自分の力で自立して行かなくちゃ」
などと心細い中にもそんな決意を胸に描いて身震いするところかもしれない。子雀はどんな思いで街を眺めているのだろうなどと想像してみるけれど、雀の一生は1年ちょっとと哀しいほど短い

 
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