電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【母と歩けば犬に当たる……117】
117|終わりのない夏の手帳 02 ─イビとの別れ
落語で聞いたのか漫画で読んだのかは忘れた。
貧しい家族が夕食のおかずに困り、卓袱台の真ん中にしょっぱい梅干しをひとつ置いてじっと見つめ、唾がじわっと湧いてきたら急いでご飯をかっこむという切ない食事の話があった。梅干しを真ん中において家族がひとつのにぎり飯になっていたのである。
母は体力の限界が近いと悟ったのか、老人や病気になった人が飼い続けられなくなったペットを引き取って世話をしてくれるボランティア団体(★1)に連絡しろと言う。吠え癖、噛み癖があって、いまでもヘルパーさんに怪我をさせている犬だと言っても、預かってくれるというからそれがいいと母は言う。
電話したら、さっそく車でやってきた職員に連れられてイビは母のもとを去った。飼育に使っていた道具類も不要ならいただきたいと言い、
「安心してご養生ください」
と声をかけられ
「よろしくお願いします」
と頭を下げて母はイビにさよならをした。
訪問介護のヘルパーさんが入っている間じゅう吠え通しだったイビの鳴き声が消えた家で、母は久しぶりによく眠れたと言う。
睡眠が足りて少しは元気になったのか、母は農家の嫁でもあるケアマネに、
「梅干しを作りたいから梅の実をすこし分けて」
と頼んだ。
さっそく梅の実が届き、ふらつく母を汗だくになって支えながら、梅干しづくりが始まった。
「これが最後の梅干し漬けになるかもしれない。いま教えておかなかったら、あんたも困るだろうから覚えておきなさい」
などと言う。困らないような気もするけれど困ることにして真剣につき合うのは、十年間連れ添った愛犬と別れたつらさを少しでも紛らわしたいからかもしれないからだ。母とふたりきりになって向き合う真ん中に、いまは酸っぱい梅の実がある。
(2005年7月11日の日記に加筆訂正)
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★1 飼い続けられなくなったペットを引き取って世話をしてくれるボランティア団体
イビには吠え癖や噛み癖があって、警察犬訓練士に頼んで学校に通わせたこともあった。通りがかりの人や介護に入ったヘルパーさんに怪我をさせたこともあり、母は自分が死んだらこの犬はどうなるのだろうと悩んでいた。その頃、テレビや新聞で取り上げられていたこの団体の存在を知って、母はこれで自分の死後の心配がなくなったと喜んでいた。
【写真】 引き取り前、イビの首輪を外す母。
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