MobisleNotes

 Android で古くからあった MobisleNotes の iOS 版があることを知ったのでインストールしてみた。ネットで検索してみると iOS でお馴染みの MobisleNotes に Android 版もあるなどと書いている人もいるので、どちらが先にあったのかはわからないスウェーデン製のメモ帳アプリだ。突出した特徴のないミニマムな機能のクラウドメモ帳なのだけれど、アマガエル色の見た目がほのぼのとして悪くないので、カエルメモと呼んで使ってみようと思う。春の田んぼみたいだ。

 Mac や Windows 版の単独アプリはないので、パソコンからはウェブブラウザを使ってアクセスすることになり、いま使っている Chrome がワープロがわりになる。


 パソコンのウェブブラウザから Evernote にサインインして書き込みするのと違い、MobisleNotes は低機能、よい意味でシンプルなので静謐で落ち着いた感じがする。複数の機能を使っても、立ち上がっているソフトがウェブブラウザだけというのは良いものだなと初めて思う。メイン画面とは別にタブで検索ウィンドウ開いておけば調べ物をしながら原稿が書けるし、別のタブではメールチェックもできるわけだ。

 パソコンから機能別にソフトウェアを立ち上げるのではなく、ウェブに接続してクラウドスペースで仕事をするというのはこういうことなのかと初めて理解できた気がし、こういうごちゃごちゃしていない状態で作業できるなら悪くないなと思う。これでブラウザさえ安定していてくれればグラフィック用アプリ以外はウェブブラウザだけで代用できてしまうかもしれない。

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葱と饂飩

 東京のことはさておき、どの県にも必ず他県より安くておいしい特産品がある。
 義父母が埼玉の特養ホームで暮らすようになって丸四年が経過した。徒歩と電車とバスで一時間ちょっとの大宮通いにもすっかり慣れてきて、他地域遠征のついでになにを買い物して帰れば得かがだんだんわかってきた。特養訪問帰りにスーパーマーケットに寄ると、どの店にもたいがい地場野菜コーナーがあり、深谷ネギというブランド野菜があるせいかネギのレベルが高くて、驚くほど品質の良いものが信じられないほど安い。地質が葱栽培に向いているということもあるかも知れない。

|大宮駅近くで買った埼玉産の葱(帰りの京浜東北線車内にて)|

 そしてもうひとつは饂飩玉で、いかにも手打ちの生地を手で切ったような素朴な饂飩が、麺コーナーに並んでいる。ナショナルブランドではなく、聞いたことのない製造者の饂飩が、工場大量生産の商品とほとんど変わらない値段で並んでいるので嬉しくなる。埼玉の人は饂飩をよく食べて舌が肥えているらしい。
 鴨が葱を背負ってくるというけれど、埼玉ではおいしい饂飩が安い葱を背負って売られているので、この季節になるとうどんすきが食べたくなる。

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コップ酒と原発

 母子ふたりになって故郷の港町に戻った母は、素人の見よう見まねで居酒屋を始めたが、開業当時は息子に向かって愚痴をこぼすことが多かった。当時の港町にはアルコール依存症かその予備軍と言えそうにすさんだ暮らしをしている人が多く、夕方仕事が引けるのを待ちかねたようにそわそわとやって来ては開店前の玄関をたたき、
「開店前なのはわかっている、コップに冷や酒をついでくれるだけでいいから飲ませてくれ」
とすがるように懇願するのだった。

 店舗兼用住宅なので、開店前のカウンターに座って夕食をとるのだけれど、そのつましい団らんにコップ酒の男が入り込むのが嫌でたまらなかった。冷や酒をちびちびと飲み終え、小銭で支払いをして男が出ていくと、母は
「ああ、いやだ、いやだ…」
と愚痴をこぼすのだった。
「そんなにいやなら来るなと断ればいいじゃないか」
と言うと、母は怒って
「そんなことを言うもんじゃない、誰のおかげで食べていけると思っている」
と叱られた。誰のおかげで食べていけるのかという問いは、誰のおかげで生まれてこられたのかと問われるくらい、中学生には痛いところをついている。
「わかりました、中学を卒業したら僕が働きに出て家計を助けますから、開店前にやってくる酒浸りの人たちのためにもお酒を売るのは止めてください」
と言えたらちょっとカッコよかったのだけれど、とうとう母親にそれは言ってやれなかった。

 大学を卒業して働くようになり付き合う女性もできたが、毎晩終電車ぎりぎりまで働かされてくたくたになって帰ってくるので、
「好きでそんな仕事をしているのか、それとも食べるお金を稼ぐためか」
と聞いたら後者だという。
「だったら僕が二人分稼ぐから結婚して家にいて欲しい」
と言ったのが一世一代のプロポーズだった。いまにして思えばちょっとカッコいいので言ってよかったと思う。

 大きな震災があって原子力発電所が事故を起こし、国民誰もが原発の危険性と根本的問題を理解しかけたいまこそが、
「だったら日本は原子力発電を止めましょう、決断するのはいまこのときしかありません」
とカッコよく言って実行したいところなのだけれど、国民の総意に基づいてとなるとなかなかそうもいかなくて、日本各地で原発というコップ酒の男たちがアルコール依存症めざして不摂生を重ねているのを指を咥えて見ているようで腹立たしい。

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機先(きせん)と気先(きさき)

 「機先を制する」という言葉があって、事が起ろうとする直前や、行おうとする矢先に先手をとることをいう。機先は「きせん」だけでなく「きさき」とも読み、同じ「きさき」の読みでは気先という言葉がある。「気先をくじく」などと用いて、他人に先回りして気勢をそいだり気力を奪ったりすることをいう。

 「機先」も「気先」もよく似ている。「機」は機織器(はたおりき)のことで「機転」や「機知」に用いると細かい心の動きをいい、「気」は目に見えないガス状のもののことで「気先」や「気運」に用いると、なんとなく感じられる心の勢いや動きのことをいう。どちらにしても「機」や「気」とは目に見えず掴み所のない不思議なものだ。

 子どものころ母親に
「口を動かす前に手を動かせ」
とよくしかられた。母親からすれば「口がすっぱくなるほど」、息子からすれば「耳にたこができるほど」聞き慣れた小言だけれど、最近になってようやく言わんとすることがわかる気がしてきた。


 年をとったせいか、億劫なことをしようとするとやりたくない言い訳が山ほどわいてくる。たとえば毎朝のラジオ体操がそうで、寝坊したことや仕事が忙しいことなどを理由に挙げて休みたくなる。そういう自分が休みたがったり楽をしたがったりする気配を察すると、さっさと音楽プレーヤーのスイッチを入れてラジオ体操を始めてしまう。考える前に体を動かしてしまうと消極的な考えは体に追いつけない。

 そうか「口を動かす前に手を動かせ」というのは、自分の消極的思考の機先を制して気先をくじくことであって、積極的であるとは心より先に体が動くことなのだなとようやく気づいた次第である。……次第であるという結びがいかにも爺臭いのでわざとそうしてみた。

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セキレイ

 熊本では麦藁でセキレイを模した玩具を作り、脚を持って尾羽を上下させ
「したたきたろじゃ、今日は石ゃないぞ、あした来て叩け」
と囃して遊んだという。

 子どもの頃、静岡県清水を流れる巴川沿いの土手にはショウリョウバッタがたくさんいて、祖母はそれを捕まえて後脚を持ち、逃れようとして体が上下するのを
「米搗きバッタ、米搗いておくれ」
とくりかえし囃す遊びを教えてくれた。同じことを繰り返す動作が子どもにはひどく滑稽に思えるのだが、鳥はショウリョウバッタのように簡単には捕まえることができないので、熊本の子どもたちはセキレイを藁でこしらえ、動作を真似て遊んだのだろう。

 虫を使った遊びでは、田畑の畦道でオケラをつかまえ、やわらかな胴体をつまんで少し力を加えながら
「おまえのちんちんど~れくらい」
と囃して言い、逃れようとしたオケラがモグラのような手を
「こ~れくらい」
と言うように拡げるのがおかしくてよく遊んだ。

 殺生をしたわけではないけれど、バッタもオケラも嫌がっていたわけで、虫を玩具にしたことが少しだけ苦々しい思い出になっている。思い出してみると、あのかわいそうなショウリョウバッタはまるで草から生まれ出たように若々しく、オケラは土から生まれ出たように質素な色合いをしていたのがしみじみと胸にしみる。そしてセキレイは、まるで河原の小石から生まれ出たような色合いをして、地面の上を転がるように走っては尾羽で地べたを叩いている。

 

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【港の横並び】

【港の横並び】

 子どもの頃はカモメとカゴメがごちゃ混ぜになっていて、カモメがケチャップだったり、カゴメが水兵さんだったりした。それはちょっと恥ずかしい思い出のひとつなのだけれど、灰褐色の羽毛で被われた幼鳥の斑紋が籠目(かごめ)に似ているのが名前の由来だそうで、あながち間違いともいえない。

 郷里静岡県清水は港町なので、町なかでもカモメが多く、電線や橋の欄干でよく横並びになっている姿を見かける。そんな景色を見慣れたので、横浜とか横須賀とか横砂などの横が付く地名を見ると、カモメが横並びになった港町を連想する。

|静岡県清水にて|

 学生時代に休みで帰省すると決まって酒飲み相手のアルバイトをさせられた。
 港のそばで飲み屋をやっていた母親は、
「酒は売るほどあるから金を払って外に飲みに出ることはない、店のカウンターに座って客の相手をしろ」
とよく言った。カウンターに腰掛けて飲んでいると常連が、
「おお息子!帰ってきたか!ビールでも飲め!」
などと言って次々にビールを奢ってくれるので、息子はただ酒を飲めるし母親は売り上げで懐が潤うという、カモメの親子らしいうまい仕組みになっていた。

 インターネットの時代になったので今では都会も地方も均質化し、郷里の居酒屋で飲んでいても、客の服装や話題が都会のそれと大して変わりはないけれど、昭和の時代の地方都市はひどく田舎じみていて、話題といえばプロ野球と流行歌手のことばかりだった。カウンターに腰掛けてテレビを見ながら毎晩毎晩同じような話に相づち打っていると、なんだか横並びのカモメになったような気がして、このままだと自分がだめになる、早く東京へ帰りたいと思ったものだった。

|静岡県清水にて|

 自分も時代も年をとったせいか、人の良い酔っぱらいたちが顔を揃えてカウンターに腰掛け、他愛のない話に毎晩飽きもせず相づちを打っているあの懐かしい港町で、もう一度横並びになって飲みたいなぁとときどき思う。

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階段怪談

 近所に石の階段があって、上りはともかく下りがちょっと怖い。二十年ほど前に越してきた頃はそうでもなかったけれど、歳をとったせいか足元がおぼつかない気がして、転げ落ちたらただ事では済まないと思うとちょっと足がすくむ。まさか、転げ落ちて命を落とした人の怨霊があたりを彷徨っているわけでもなさそうなのでちょっと調べてみた。

 階段の一段ごとに付けられた高さを蹴上げ寸法といい、足をのせる面の奥行きを踏み面(ふみづら)寸法という。階段の理想的な寸法というのは、

蹴上げ寸法×2+踏み面寸法=歩幅

となるのが好もしいらしい。歩幅の大雑把な計算法は、

身長×0.45 = 歩行時歩幅

なので、自分にとって理想的な階段とは

蹴上げ寸法×2+踏み面=歩幅約80cm(178cm×0.45)

となるわけだ。

 さっそく巻き尺を持って行って調べてみたら、左へ下るコンクリートの階段は

15cm×2+27cm=57cm

右へ下る大谷石の階段は

17cm×2+27cm=61cm

でどちらも80cmにはほど遠く、急な割に踏み面が小さい大のおとなにとっては基準以下の階段ということになる。

 こういう階段は、「怖い!」と注意書きしておかないと年寄りには危ない。

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心とは

 手から始まって次第に体が痺れるようになり、病院に通っているものの原因がわからないので、治療法も決まらずとても不安だという従妹に、上京して義父が世話になっている順天堂医院神経内科で精密検査を受けたらどうかと話し、一緒に ALS(筋萎縮性側索硬化症) の告知を聞いてから、早いものでもう十年が経つ。従妹はその二年後に他界したが、今でもときどき夢に出てきて、そのたびに Wikipedia 「心の哲学」項目を起点にしてあれこれ本を読んでいる。心とはいったいなんだろうという疑問、心と体というものが取り結ばれる関係の不思議が、“心”のどこかに引っかかっているのだろう。

 従妹とわが母親はほぼ同時に不治の病の宣告を受け、それ以来互いに励ましあっていたが、まるで手を取り合うようにして他界し、従妹逝去の知らせを受け取ったのは母の通夜の席だった。
 思い通りにならなくなっていく体と、命が失われる事への苦しみを抱いた心が一つになって、それぞれが従妹と母というヒトとしての姿をなしていたが、相次いで冷たい骸(むくろ)になってみると、死んでしまった身体はもう物質に過ぎないように見えた。そして火葬されて骨になってしまうとその思いはさらに強く、言葉にして歌われなくとも、お墓の下に従妹や母がいるわけはないし、ましてや眠っているなどとは思えない。

駒込駅北口から豊島区立駒込図書館脇を下る坂があり、小さな公園があって「区民ひろば駒込」という。坂道を下って買い物に行く途中、落ちていた桜の葉がきれいだったので、公園の手すりにおいて卒業写真を撮ってやった。卒業おめでとう。

 縁あって郷里静岡県清水を訪れ、侠客次郎長の自宅に招かれて親しく接待を受けたことを、自叙伝に書き残した幕末明治大正期の学者杉亨二(すぎこうじ)の墓が、よく散歩する染井霊園にあるというので、昨日は墓参りをしてきた。

 染井霊園は、文明開化ののち寺の所有でない墓地を造る必要にせまられた明治政府が、播州林田藩建部邸跡を利用して開いた近代墓苑なので、お墓の下に遺骨が収められている可能性はとても高い。墓の下の空間を占有して納骨する形式の墓はとても新しく、お墓の下で眠ってなんかいないなどと言われる以前に、墓の下に遺骨すら埋まっていないのが当たり前の時代がついちょっと前までの日本だったのだ。

 遺骨なんか物質に過ぎない、そもそも心と体ってなんだろうなどと考え込んでいるくせに、この墓の下には、郷里清水みなとの侠客次郎長を訪ね、質素な住まいで一緒に月を見上げ、幕末明治維新を生き、日本近代統計の祖と呼ばれた人の遺骨があると思うと、思わず手を合わせながら遥かな旅に思いを馳せ、「ご苦労さまです」などと言葉に出さずに言っている自分がいて不思議に思う。

 心とはそういう不思議なものだ。


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【杉亨二(すぎこうじ)と次郎長のこと】

【杉亨二(すぎこうじ)と次郎長のこと】

 調べ物があって「次郎長翁を知る会」の会報を読んでいたら、杉亨二(すぎこうじ)が次郎長に会った話が出てきて面白かった。

 杉亨二(1828年−1917年)は、長崎大村藩出身の武士で日本近代統計の祖と言われる人。適塾、中津藩江戸藩邸の蘭学校、慶應義塾、勝海舟私塾などに様々なかたちで関わりながら老中阿部正弘の侍講となり、蕃書調所の教授手伝を経て開成所教授という秀才然とした道を歩み、明治になってからは静岡藩に出仕している。

 徳川家達が駿府入りする前だから明治元年か二年、杉は清水で次郎長と会っている。自叙伝によれば静岡藩殖産興業のため、有度山麓の開墾候補地選定や三保での製塩事業の下調べに同行し、そのあとなんと次郎長宅に寄って接待を受けている。

 時候の挨拶もなく話し始める朴訥な人柄や、質素な暮らしぶりを見てすぐに好感を持ったらしく、次郎長と月を眺めながら、月の満ち欠けはどうして起こるか、潮の干満はどうして起こるか知っているかと尋ね、知らないというので解説してやったらいたく驚いて感動していたなどと書いている。

 酒も煙草もやらないというが何か楽しみはあるのかと聞いたら剣術を習っていると言い、剣術の先生でも酒に酔うと正体をなくして駕籠から転げ落ちるのを見たので、それをきっかけに酒を飲むのはよそうと思ったという。飲酒をよそうと思ったのは若い頃ちんぴらに袋叩きの目に遭わされたときじゃなかったのか、などと次郎長好きは笑ってしまうが、よほど興が乗ったのかあれこれ調子よくおしゃべりしたらしい。

 そのほかいろいろ面白い話が書かれているのだけれど、後日次郎長が訪ねてきて、二人ばかり人別帳から外れて困っている者がいるので何とかして欲しいと頼み込んで便宜を図ってもらったという。こういう物怖じせずぬけぬけとした大胆さと要領の良さが次郎長の面目躍如といったところで、次郎長は権力者の側から見ると“可愛げのある無学者”だったのだろう。人間、可愛げのない博学は可愛げのある無学に如かず、というのが凡庸な人間が人に立てられて生きる大切なポイントなのかもしれなくて、そういえば山岡鉄舟に対する次郎長の甘え方もまた、資料を読んでいると馬鹿がつくほどに可愛げがある。


 明治三年になると民部省出仕を命じられて静岡を離れてしまうが、可愛げのある男としての次郎長を自叙伝に書き残してくれた杉亨二の墓が、なんと近所の染井霊園にあるというので線香をもって墓参りに行ってみた。


(東京都豊島区染井霊園 区画 : 一種(イ)6号11)

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【次郎長開墾まで行ってきた話】

【次郎長開墾まで行ってきた話】

 郷里静岡県清水の侠客清水次郎長が開墾に携わった富士山麓の現場まで一度歩いてみたいと思っていたので、水曜日が定休日の魚屋さんを誘って吉原駅で落ち合い、ちょっとだけ歩いてみた。
 歩くと言っても吉原本町を経由して、江戸時代の登山者さながら、海抜0メートルから村山古道を使った登山にチャレンジというわけではないので、身延線の最寄り駅から歩くルートを探した。どうせ歩くなら古い道がいいので広域地図上の神社仏閣をハイライトさせたら、身延線源道寺から北上する古そうな道がある。

 歩き出したら途端に道祖神や道標や南無阿弥陀仏と彫られた石柱があって狙いどおりの古道だった。おそらく次郎長たちは吉原本町を経由して村山古道を一気に北上して開墾地をめざしたと思われるので、この道を歩くことはなかったのかなと思う。

 県道158大坂富士宮線の辻にもまた道標があり、そこから魚屋さんの知り合いで次郎長開墾にお住まいの友人が車で拾ってくれて、開墾が行われていたあたりを案内していただいた。

 大正時代になってこの地に入植した人たちが苦労して耕されたので、想像していたより青々とした風景なのでちょっと安心したが、土地が痩せて水はけがよすぎるので、農環境としては大変厳しいらしい。

 高原の畑は間もなく冬を迎える。お百姓がサツマイモを収穫されていた。

 静岡市でいちばん多い神社は白鬚神社なので、次郎長に因んで清水から勧請されたのかと思ったら、旧静岡市方面から入植された人々とともにこの地にやって来たのだという。

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鋳物師と五右衛門風呂

 町名で鋳物師と書いたとき「いものし」と「いものじ」ふた通りのの読み方があることは知っていたけれど、網野善彦「日本の歴史をよみなおす」ちくま学芸文庫を読んでいたら鋳物師に「いもじ」とルビが振られていた。そんな読みがあるのかと調べてみたら、福井県敦賀市鋳物師町、山口県防府市鋳物師町、福岡県北九州市小倉北区鋳物師町、兵庫県姫路市鋳物師町などはみな「いもじ」と読む。

 十二世紀以降、鋳物師は全国を自由に歩き回って生計を立てることが許されていた、という話は歴史小説などによく出てくる。どうしてそういう特権が与えられたのかというと、鋳物師は殿上で使う鉄の燈炉(とうろ)を天皇に献上することでそれを認められ、蔵人所燈炉供御人(くろうどどころとうろくごにん)と呼ばれていた。供御人というのは天皇直属民のことだ。

 この燈炉というのは燈籠と同じものをさすのだろうかと調べたけれどよくわからない。ネットで見つけた古文書の中に、風でも火が消えない燈炉のおかげで夜も明るく病が癒えたという話があるので、京都の寺などで見る金属製吊し燈籠のような物かなと思う。さらに検索していたら鋳物の五右衛門風呂がヒットし、まだ需要があるらしくて生産販売されているのに驚いた。

 小学生時代の交歓会で千葉県成東町の農家に泊めて貰ったら、十返舎一九「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんが大騒動を繰り広げたあの五右衛門風呂の本物があるので驚き、一回だけ釜ゆで体験をしたことがある。巨大な鋳物の釜に水を張り、下から火を焚いて湯を沸かし、当然釜の底は熱いので丸い簀の子板に乗って湯に浸かれという。その簀の子板が浮いているのを脚で踏んで押さえながら入るのだけれど、釜の縁で内股を火傷をしないだろうかと怖くて、生きた心地がしなかったのを生々しく覚えている。

 そうか五右衛門風呂はこういう構造をしていたのかとウェブページを眺めていたら、シンプルな構造に改めて感動した。
 ドラム缶を風呂桶がわりにして沸かすようなきわめて原始的な風呂なので、水漏れするような構造がなく長持ちしないはずがない。鍋で生きた蟹を茹でるような気軽さだ。一方、子どもの頃よく入った楕円形の木製風呂桶は火を焚く金属の釜と、湯が沸く木の桶が複合されており、その結合部分が劣化して水漏れしていたのを懐かしく思い出した。
 わが家も数年前に車が買えるほどのお金を払って風呂場を修理したけれど、家庭用の風呂は本当に進化しているのか疑わしく、マンション用にエコロジカルな五右衛門風呂があったら面白い。

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こまもの こまごま こまごめ日記[17]まな板とタブレット

「仕事をするとき寝ていて、おやすみするとき立っているもの、な~んだ」
「こたえは、まな板!」
などというなぞなぞはあるのだろうか。

 ノートパソコンの液晶画面はどうかというと、キーボード付き本体のふたを兼ねているのでまな板の逆になり、仕事をするときは立っていて、おやすみするときは寝ている。
 それではタブレットはどうかというと、働いているときは、立っているとも寝ているともつかない、ユーザーにとって都合のよい角度で覚醒している。そんなタブレットなので、膝の上に置かれたり持ち上げられたりしているとき以外、机の上で使うときには好みの角度で固定できるスタンドが欲しくなる。タブレットがノートパソコンの代わりをするようになってくると、デスクまわりではどうしてもスタンドが必要なので、よいスタンドを探し続けているのだけれど、これぞという商品がなかなか見つからない。
 机の上で場所をとらず、小さくてもしっかり固定でき、作業に合わせて何段階かに角度調整ができ、そのくせシンプルで壊れないものを条件に量販店をまわり、秋葉原電気街裏通りにあるPCパーツ店「ドスパラ」三階「上海問屋」に行ったら決定版と思えるものが売られていた。

 アルミとゴムで作られたシンプルなスタンドで三段階に角度調節ができ、場所もとらず、シンプルで壊れるような所がない。まさに角度が変えられるまな板立てであり、使うときに立っているタブレットには省スペースのまな板立てが良く似合う。素晴らしい製品なのにどこにもブランド名がなく、型名と型番らしき「DNSB-SPHO-TABSTAND SL」で検索してもまったくヒットしない。しいていえば Made in CHINA」ブランドの無印良品なのだけれど、2,500円という値段分の価値はあると思う。

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