▼お~い、どこだ!

 

 携帯電話が見つからなくて落としたのではないかと思う。
 別の電話機から携帯電話に電話をかけてみたのだけれど、いつもマナーモードにしてあるので着信音が聞こえない。ただし呼び出し音が聞こえるので電波が届く場所にあって壊れてはいないらしい。
 友だちのキャリアでは、携帯電話がある場所を位置探知してくれるサービスがあると聞いたのでウェブ検索してみたけれどそういう機能はないし、紛失・盗難時にネット経由で使用停止にする機能もあると聞いたけれど、僕のキャリアにはそれもなくて、つながりにくいコールセンターに電話して手続きをしなくてはならないという。
 人に見られてはいけない情報もないし、パソコンにつないで使ってもパケット定額の携帯電話なので、明日になったら手続きすればいいと思うのだけれど、気になって仕事が手につかない。




左から出版社受け付けの手指消毒剤、
清水の友だちに貰った由比缶詰所のツナ缶、
港区赤坂の防犯ステッカー



 携帯電話に電話して呼び出し音を聞いていたら留守番電話サービスにつながるので
「お~い、どこだ!」
と呼びかけて「♯」を押して電話を切った。持ち主の声で
「お~い、どこだ!」
と呼びかけると、自分でマナーモードを解除して
「ここです!ここです!」
と答える機能があったらいいなと思う。




田植えの終わった港区赤坂のバケツ田んぼ



 夕暮れ時になり、ふと携帯電話のBluetoothがオンにしてあったことを思い出し、手元にあったノートパソコンでネット通信を試みたらちゃんとBluetoothでネットにつながる。ということはBluetoothの届く範囲にちゃんとあることになる。
 昔「マーフィーの法則」という本がブームになり、その本の中に“探し物は最初に探す場所にかならずあるが、最初に探したときには見つけられない”という至言があったのを思い出し、最初に探したバッグを落ち着いて隅から隅まで探したら、ちゃんとそこにあった。
 着信ランプがついているのでメッセージを再生したら
「お~い、どこだ!」
と呼びかける間抜けな声が録音されていた。

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【鰹と紅生姜】

【鰹と紅生姜】
 

 最近になって妙に吉野家の牛丼が好きになり、ひとりの昼食時は「(ああヨシギューがたべたい…)」などと思ったりする。
 吉野家の牛丼が好きな理由の50%はカウンターにどっさり置かれていて、好きなだけたっぷりのせられる紅生姜が好きなのであり、ヨシギュー50%と紅生姜50%のうま味が合わさって、吉野家の牛丼に100%の満足が生まれる。
 実は子どもの頃から、甘じょっばい味の煮物が他人の50%くらいしか好きではなく、どうして50%かというと他人の半分くらいしか食べられないからだ。残してはいけないと思うときは、食事や酒のツマミとして出てきた煮物はまず最初のうちに食べてしまうことにしている。そうしないと途中で飽きてしまって食べられなくなるからだ。そういう意味で、牛丼の紅生姜や、魚照り焼きのハジカミや、鰻蒲焼きに添えられる漬け物は、食欲を低下させないための上手な触媒になっていると思う。



静岡県清水の紅生姜的風景

 静岡県清水の魚屋店頭で、食べ物についてとくに五月蠅(うるさ)い友だちと酒のツマミを買っていたら土佐風鰹タタキの作り方講釈が始まり、横で聞いていた常連風奥さんが
「ふーん、それで紅生姜で食べればいいの?」
と聞き、友だちがすかさず
「紅生姜じゃない、ねぎ生姜」
と訂正した。奥さんは「ねぎ生姜」を「紅生姜」と聞き間違えたのだった。



巴川と観覧車とハトのいる風景

 この会話を聞いていて、昔、料理コピーライターの友だちに、土佐では漁師が鰹をすき焼きにして食べると聞いたのを思いだした。当時は、関東風の割り下を使って煮込むようなすき焼きを思い浮かべてしまったので、せっかくの新鮮な鰹なのにどうしてそんな食べ方をするのだろう、と思っただけだった。
 けれど、鰹を紅生姜で食べるという勘違いを立ち聞きし、考えてみたら土佐は愛知県以西の文化圏であることに思い至った。鉄鍋の上でさっと両面を焼いて砂糖・酒・醤油で手早く香ばしい味をからめる関西風なら、とても理にかなっているし美味しいんじゃないかと思う。ただ体質的にすぐに飽きそうなので、鰹を関西風にさっと焼き付けたものを、あつあつご飯の上に並べ、紅生姜をどっさりのせて食べたら美味しいだろうなと思う。
 土佐の鰹すき焼きの実態を知りたくてネット検索したが見つからず、NHKアーカイブスでかつて三重県の郷土料理として紹介されたことがあるらしいことだけはわかった。黒潮にのって漁をする地域の漁師料理なのだろうが、たとえ高知が生姜の名産地であっても、紅生姜を一緒に合わせるなどというレシピじゃないだろうな、とは思う。

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▼ギターがなけりゃ

 アメリカのエレキバンド、ザ・ベンチャーズが初来日したのが1962年、エレキブームに火をつけた二度目の来日が1964年、そして英国からザ・ビートルズが日本にやってきたのが1966年のことだった。

 おそらくその頃のことだけれど、親戚の家に遊びに行くと、年上のいとこたちが家の隅に新聞紙を敷き、あぐらをかいて一心不乱に木を削っている姿に何度も遭遇した。何を作っているのかと聞くと
「エレキギターを作ってるんだ」
と答え、思いもかけないものを作っていることに感心したものだった。
 その頃は、エレキギターなど不良の楽器だと言われていたし、たとえ健全な青少年育成に役立つ楽器だったとしても、まだまだ貧しかった当時の家庭では買って貰えるはずもなく、自分で作るしかないと決心して、寸暇を惜しんで木を削っていたのだと思う。
 エレキブームのまっただ中だったので、何かの雑誌に素人でもできるというふれこみで、本体が空洞状でないソリッドタイプ・エレキギターの作り方が掲載されていた可能性もある。それで立て続けにギターを作るにわか木工エレキ少年を目撃したのかもしれない。
 遊びに行くたびに、少しずつ厚手のラワン材がギターらしい形になっていき、これが胴体になり、これがネックになり、ここに弦を張り、ここにピックアップマイクをつけるんだと、木片を片手に夢中で説明してくれた。それでも遅々として進まない工作に青春の日々を費やす姿を見て、どうしても作らなくてはいけないのかと聞くと、
「絶対作る、ギターがなけりゃダメなんだ」
と答えたものだった。




隔月刊『Juntos(ふんとす)』48号



 やがて僕は中学校に上がって勉強が忙しくなり、いとこたちは高校を卒業し就職も決まって忙しくなったので会う機会もなくなり、あのエレキギターが完成し、塗装を施され、ちゃんと演奏できる楽器になったかを見届けることなく想い出は終わっている。
 見事、音の出るエレキギターができあがったとして、彼らの家にアンプやスピーカーはあったのかしら、あったとして彼らはそもそもギター演奏法を身につけていたんだろうか、弾けたとして毎日の残業仕事を終え疲れ果ててから、はたして演奏を楽しむ時間があったのだろうかということも気になる。
 木工エレキ少年たちも親となり、孫のできた者もいるけれど、不祝儀などで数年に一度顔を合わせても、あのエレキギターは結局どうなったのかと聞けずにいる。あえて聞いてみたい衝動が抑制されているのは、自分にも少年時代
「欲しい、あれがなくちゃダメなんだ」
と親に哀願し、だますようにして買って貰った贅沢品がいくつかあったからだ。そして、ものになってもならなくても、そんなものを忘れて日々の仕事に追われつつ、ちっともダメじゃなかった嘘つきの自分がここにいるからだ。


全国コミュニティライフサポートセンター(CLC)発行
『Juntos(ふんとす)』に連載中の
「打てば響くか」第5回用に書いた原稿より。
 
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【運転士はキューピー】

【運転士はキューピー】
 

 駿府城お堀端から清水みなとまで、11キロメートルをのんびり走る静鉄電車が可愛い。
 子どもの頃に比べて利用客が減っているのでなおさら可愛く、応援するようになるべく静鉄電車を利用している。
 思いがけず1万円のパサールカードをいただいてしまったので、帰省して乗車するごとに裏面に印字されていく乗車日と乗車区間一覧が良い記念になっている。いよいよ生家の解体取り壊し時期が迫ってきた。



静岡鉄道制服キューピー

 ご当地限定グッズとしての小さなコスチュームキューピーが人気だそうで、郷里静岡県には次郎長キューピーまである。数ある静岡限定コスチュームキューピーに静鉄運転士キューピーが登場し、静鉄電車が可愛いせいか運転士キューピーまで可愛い。
「運転士キューピーをください」
と元気良く言ったら、駅窓口のお姉さんが
「(好きですね?)」
と言いたげに笑っていた。

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▼ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』

 関係者以外、謎のマンドリンとリコーダーユニット『TJ』の初オリジナル曲公開。

 




『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』楽譜


ManReco『TJの回文的かつ逆行可能なカノン』
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▼質問と答え――聖マリアンナ再訪

 病人に付き添い、医者との対話を聞いていて、辛い人が「辛いですか?」、痛い人が「痛いですか?」と聞かれるのはたまらないだろうなと思う。大相撲の力士が取り組み後のインタビュールームで「今の気持ちは?」と聞かれながらマイクを向けられ、肩で息をしながら「うれしいです…」と言わされるのを見て、いたたまれない気持ちになるのにも似ている。

「ほかに聞くことがないんですか?」




聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院に近い
相鉄鶴ヶ峰駅にて



 心臓病の持病を持っていた伯父が入院し、危篤になっていると聞いてもう40日になる。
 ほとんど意識がないから見舞いは慌てなくてもいいと言われ、川崎の聖マリアンナ医科大学病院を訪ねたら横浜の聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院の間違いだったので、一週間後の21日に再訪した。
 一昨日あたりから少し容態がいいというので、集中治療室に入ったら、さまざまな医療用チューブをつけた伯父がベッドに横たわっていた。
「光代さんの息子の雅彦さんが来てくれたのよ、わかる?」
と従姉が聞くと、ぼんやりまぶたを開けてこちらを見る。
「おとうさん、目をとじちゃダメ、ねぇ、わかる?」
と聞いたら小さくこっくりと頷いたので
「よかった、わかるって返事した」
と従姉が笑う。




聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院



 「ねえ、雅彦さんよ、わかるよね」
と同じ事を話しかけるので、伯父の膝に手を置き
「おじさん、今日は5月21日です。おじさんが入院して40日になるそうです。来月はもう六月、ビールが美味しい季節になります。僕のことがわかるんだからもう大丈夫、良くなって退院したら大好きなビールで乾杯して快気祝いをしましょう」
と言ったらニッコリ笑いが出た。
「すごい、笑った!」
と従姉が喜ぶ。
「おじさん、お酒大好きだもんね」
と言ったら、笑いながら手をあげ、チューブを外してしまわないよう拘束するためにつけられた、手袋と紐を外してくれという素振りをする。ナースに頼んで外して貰い、温かいおしぼりを貰ってみんなで伯父の手足を拭いてやったら、両手のひらを目の前でニギニギして、ちゃんと手も動くことを見せてくれる。
「すごいね、おじさん頭の中で出血もあったらしいけど、麻痺もなくちゃんと手も動くなんて、とてもラッキーだよ。大丈夫、元気になれるよ」
と言ったらまた笑う。従姉が
「おとうさんすごい、じゃあじゃんけんしよう」
と言ったらパーを出してあいこになり、
「あいこでほい」
と言ったらグーを出して伯父の負け。
「ひどい娘だね、病人に勝っちゃうなんて」
と言ったら、また笑顔になる。




この病院駐車場にも新型インフルエンザのための
発熱外来テントが設置されていた



 伯父が質問に笑顔で答えたくなるような話題を選んで話しかけていたら、従姉が
「おとうさん、良かったね、お礼を言おう、ありがとうって」
と言う。少しずつ口元が動いて
「あ…」
という言葉が出た。
「『あ』の次は?おとうさん『あ』の次」
という従姉の言葉を引き取って、
「すごい、言葉の方も大丈夫。ちゃんと『あ』って聞こえたから今日はじゅうぶん。次は『あり』まで聞かせてね」
と言ったらまた笑顔になる。
 ベッドから身体を起こしたがる伯父の手を握って小一時間で退室した。伯父は昔から人恋しい人だった。人恋しい人には、疲れていても辛くても交わしたい人恋しい会話があり、それが人の気力を奮い起こさせるのだと思う。

 
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▼父と息子と母親と

 

 50歳を過ぎたらものの見え方、感じられ方が自分でも驚くほど変わってきたのを感じる。
 五感すべてが変化しているのを感じるので、鋭敏になった部分もあれは鈍感になった部分もある。そして年老いた親たちを見ていると、それらのすべてが老人になればみな鈍感になっていく気もするのだけれど、どれかひとつくらい老いてなお右肩あがりで鋭敏になっていくものが残っていないかなどと、ちょっと期待薄な老後の楽しみも捨てていない。

 ものの見え方、感じられ方が変化していくこと自体はそれでいいのだけれど、ちょっと困ったなぁと思うのがひどく涙もろくなったことで、同年配の男友だちと話すと、確かに涙もろくなったと笑ってうち明けてくれる者が多い。女性も涙もろくなるのだろうか。



 昨夜も年寄りの食事の世話を終え、本郷三丁目の居酒屋で飲みながら雑談をし、人間にとってありがちな父親と息子の確執という普遍的テーマについて話しがおよんだら、父親と息子の諍(いさか)いを母親はどのように見たり感じたりしているのだろう、ということについて思い出した事を話したくなった。



 諍(いさか)う夫と息子というものは妻から見たらひとかたまりのやっかいごとに過ぎないかもしれない。諍(いさか)う父親と息子というのは、きっと家族の中で最も良く似たもの同士であり、少なくとも諍(いさか)いの間は夫でも息子でもなく、良く似たオス同士の争いに過ぎないと、母親からはそう見えている気がする。良く似たオスは諍(いさか)いながら同じ女に甘えつつ、家庭を居心地の悪い場所にすることによって、結果として母親をメスに貶(おとし)めているのだと思う。

 祖父と伯父の諍(いさか)いがあるたびに、小さな身体でどうするすべもなく、ただおろおろしていたわが祖母の姿を思い出す。甘ったれたオスの諍(いさか)いは家庭の外でやってくれ、と女は言えないのだ。そんな家族の想い出を話そうとするのだけれど、涙が出て、声がうわずってまともに話せない。「(お前が泣いてどうする)」と心の中で声がするのに、身体が言うことを聞かないので、年をとって分別くさいことを言いたくなるにつれ涙もろくなる、ということは極めてやっかいな心身の変化である。

 
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【村上春樹だもんで】

【村上春樹だもんで】
 
 
 雑誌の編集会議が午後7時45分から市ヶ谷箪笥町であるので、その前に新宿区西五軒町の出版社に寄って打ち合わせをし、編集者と一緒に貸会議場まで移動すればよいと思っていたら、会議が始まる時刻より1時間ほど早く用件が片付いてしまった。

「……早く終わっちゃいましたね」
と女性編集者がきまり悪そうに言う。
 時間をもてあまして他人の仕事場でうろうろしていると、お茶をいれさせたり、会話の接ぎ穂を探させたりして、相手もこちらも息が詰まるので、早めに外に出て自分らしい呼吸をしながら時間つぶしすることにした。
 こういうときに便利なのが
「ちょっと本屋に寄りたいので先に出ます」
という口実で、中学生時代から、
「ちょっと本屋に行ってくる」
というのが遊びに出るときの口実だったし、今でも用のない外出時は同じことを家人に言っている。



神楽坂暮色。

 灯ともし頃になった神楽坂に出たら、本屋に寄りたいことを口実にあえてひとりを選んだことを思い出し、はて言ってみたものの神楽坂に本屋などあったかしらと歩き出したら、たった今この瞬間に出現したように、小さな本屋が明かりをともしてそこにあった。
 雑誌の編集会議前に雑誌を立ち読みするのは妙に疲れる気がして単行本の棚を眺め、最初に目についた村上春樹の短編集を買ってみた。
 村上春樹は、編集者だった友だちから翻訳本をもらって読んで感心したことがあり、彼の訳したものをもっと読んでみたいと思いつつそのままになっている。ノーベル文学賞候補と取りざたされる世界的に評価の高い人気作家の、小説の方も読んでみたいと思ってそのままになっていたので、偶然の成り行きに沿う気安さを楽しみつつ会議前の時間つぶしに読んでみた。
 なるほど、こういう自前の形式世界をつくりあげて自在に世界との接点をもてたら創作活動も楽しかろうと思いつつ、居心地の悪さを感じて足早に通り抜けてしまいたい路地もその世界にはあり、村上春樹嫌いの人たちはこういう場所に対して受け容れがたい甘美さを感じて突っかかっているんだろうな、と思う。



神楽坂で本屋を探して。

 郷里静岡では『だもんで』という言葉を日常会話でよく用い
「水曜日は魚屋が休みだもんで予定を変更したっけ」
と間に挟んで原因と結果をつないだり、
だもんで手巻き寿司は明日の夜にしただよ」
などと文頭において英語の『So』のように用いる。その逆の言葉としては
「魚屋に寄ってみただけん水曜日は定休日だっけ」
と間に挟んだり、『But』のように文頭において
だけん手巻き寿司をたべたいっけやぁ」
などと用いる『だけん』もある。
 富山で生まれ育った家人にとって、『だもんで』という言葉は耳についてくすぐったくてたまらないらしく、人々が互いに話の腰を揉んでいるようでおかしくてたまらないという。
 血が通わず土臭さもないと言われる端正な言葉遣いの村上春樹に、突然『だもんで』の四文字が『So』として登場してびっくりした箇所がある。

「君はいくつ?」
「十六」と娘は言った。「十六になったばかりよ。高校の一年生」
「学校は休んでるの?」
「長く歩くとまだ足が痛むのよ。目のわきに傷もついちゃったし。けっこううるさい学校なんだ。バイクから落ちて怪我したなんてわかったらどんな目にあわされるかわかんないし……だもんで病欠ってことにしてあるの。べつに一年休学したっていいのよ。急いで高校二年生になりたいわけじゃないから」
「ふうん」と僕は言った。
(村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」新潮社『象の消滅』より)


 郷里静岡に帰省して『だもんで』が飛び交う会話の中に身をおいて、心地よさを感じることはあっても何の違和感も感じないのに、突然登場した『だもんで』に驚いてしまうことを郷里の言葉で表現すれば、京都生まれで神戸育ちの村上春樹だもんで意外だっけ、ということになる。

 
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▼雨のブナ林

 一度照葉樹林の中を歩いてみたい、しかも雨の降る日に……などと注文の多い旅人になると、その実現はとても難しい。

 青木ヶ原樹海は標高920から1300メートル付近にあたるので、植物の垂直分布からいえば広葉樹林に覆われているはずなのだけれど、噴火によって流れ出た溶岩に覆われることにより、水はけが良く養分の少ない地盤になってしまい、その多くが針葉樹林帯になっている。




富士山麓の立体模型地図。
ペンで指示しているオレンジ色の部分が溶岩流に覆われた青木ヶ原。
ペンの左脇、青木ヶ原の中でちょっと小高いのが大室山。



 噴火によって流出した溶岩は標高1468メートルの大室山に遮られ、両側を回るようにして下へ流れ下ったため、大室山は青木ヶ原の中でもブナやミズナラなど落葉広葉樹に覆われた植生になっている。




大室山ブナ林にて。



 落葉広葉樹が落とした枯れ葉が深く堆積しており、落葉広葉樹林がもつ保水機能の力強さを踏みしめながら確認する。ブナ林の中にミズナラの古木があり、見上げる人間はとても小さい。




大室山のミズナラ。




 樹上をゴオーーッと音を立てて風が渡ると、ザーーッと激しく雨粒が落ちてきて人を叩く。雨脚が激しくなったわけではなく、広葉樹林は樹上にもまた保水力を持っており、風がなければゆっくりと時間をかけてしずくを滴らせるのだろう。

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▼青木ヶ原樹海

 5月17日。雑誌『RikaTan』編集委員たちと行く「わいわい探検隊―青木ヶ原樹海ツアー―」に参加した。

 青木ヶ原樹海は迷い込むと出られない…などという俗説の中で死にたい人の名所になって迷惑千万な反面、そのおかげもあってか、あまり人間の手が入っていない豊かな自然が残された場所になっている。理科大好き人間たちに混じって参加する機会など滅多にあるものでもなく、低気圧通過に伴う雨という好条件にも恵まれて得難い有意義な体験となった。




青木ヶ原樹海内にて。



 ガイドの説明を聞きながらで樹海内を歩いたら、風穴と呼ばれる洞穴がたくさんあることにびっくりした。そのうちの二つに入ってみたけれど、人がかろうじて這って入れるような洞穴が延々続いており、ひとりで来られる場所ではないので来て良かったと思う。




風穴内にて。



 風穴内の気温は氷点下近くに達している場所もあり、肌寒い雨の降る日なのに、風穴内から外に出ると生暖かい湿気に包まれてびっくりする。




風穴入り口のひとつ。



 人ひとりがようやく通れるような洞窟なので、先客がいたら全員地上に這い出すまで待たなくてはならない。
 元気のよい若者のグループに2箇所で遭遇し、郷里静岡の静岡大学探検部と東海大学海洋学部探検部のグループだった。

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▼梅の実の頃

 


 野菜や果物から次々に季節感が失われていくなか、八百屋の店先に青い梅の実が並び、氷砂糖や、ホワイトリカーや、ガラス製ジャーなどを抱えた買い物客を見るようになると、日本が季節ごとの行事に彩られて暮らしが巡りめぐる、走馬燈のような風景として日々が過ぎていく島国だったことを、あらためて思い出す。




膨らんだ梅の実。
真ん中のは葉も実も小さいので小梅だろうか。



 母は、梅酒や梅ジュースや梅干しを毎年漬け込む人だったので、郷里静岡県清水に帰ると、大きなガラス製ジャーごと土産に持たされ、空になったら返せと言われて、次の帰省の際に持ち帰ったものだった。そうやって実家に母がのこした梅酒も、あと二瓶だけになった。




神奈川県川崎市宮前区長沢の梅畑。



 母が他界する直前に梅干しづくりをみっちり仕込まれたので、いつかは梅干しも梅酒も自分で漬け込むようになろうと思っていたけれど、実家片付けと処分が終わるこの初夏から、とりあえず梅酒づくりを始めてみようかなと思う。

 
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▼好きなこと

 

 神奈川県川崎市宮前区長沢。この辺りは浄水場やポンプ場がとても多い。
 名前を知らない小さな川沿いで、空き地を利用して花が育てられており、花好きが集まってよしずの下で楽しい集いもあるらしい。




小川沿いの花畑。



 最近は、花好きが花を育てたり、車好きが愛車のワックス掛けをしたり、酒好きが嬉しそうに酒を飲んでいたりという、好きな人が好きなことを楽しそうにやっている姿を見ると心が和む。




和みの花園。



 好きでもないことを嫌々やっている若者の姿や、生きていることすら楽しめなくなった年寄りの姿ばかり、目にしているからかもしれない。

 
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▼聖マリアンナをたずねて

 一緒の中学校で義務教育を終了した同級生のうち、いったい何人が生まれ故郷清水に残っているのだろう、などとふと考えることがある。

 女子二名は清水の商家にお嫁に行ったと風の便りで聞いたので今でも清水で暮らしている可能性が高いけれど、男子で清水静岡地域に根をおろした者はいるのだろうかと。
 母のすぐ上の兄である伯父が持病の心臓病で倒れて入院した。母の兄弟姉妹の中で、僕にとって最も縁の薄かった伯父であり、物心ついたときは「和歌山のおじさん」と呼ばれており、仕事の関係で関東地方に移ってからは「横浜のおじさん」と呼ばれていた。
 祖父母が他界する頃から不祝儀があるたびに清水で顔を合わすことが多くなり、そのたびに酒に酔うと
「俺はほんの一時期しか清水にいなかったから、他のみんなほど清水に愛着がない……」
と寂しそうに言い、そう言われてみれば伯父一家はふるさとなまりのない標準語を話す親戚だった。
 瓦を焼きながら伊豆を転々とした祖父母に連れられて清水に戻ったとき、我が母は子どもだったけれどその伯父は高校生くらいの年頃になっており、横浜の会社に就職した後、一時期和歌山に転勤し、本社に戻ったまま清水に戻ることはなかった。そうやって家族の中から都会に出た者がいることによって、我が父もそうだし、叔父たちもずいぶんこの兄に助けられたと聞いている。




聖マリアンナ医科大学病院バスターミナルの正午。



 神奈川県川崎市宮前区菅生にある聖マリアンナ医科大学病院。この病院は神奈川県初の救命救急センターであり、アジア初のFIFA国際サッカー連盟メディカルセンターになっている。
 親戚の者が倒れたというと、駆けつけるのは清水の市立病院、桜ヶ丘病院、厚生病院や、旧静岡市の病院なのだけれど、
「(そうか、横浜のおじさんが倒れるとこういう場所に来るのだな…)」
と、複雑な思いが胸に満ちて感慨深い。昼食時にかかってしまったので、病院の周りを散歩したり、外来受付のあるホールのベンチに腰掛けていたら、訪れる人々の横顔に同じようなかげりがある。
「(そうだったそうだった、病院というのは困っている人が集まる場所だったな…)」
と、母親に付き添って病院通いしていた頃の憂いを思い出す。




聖マリアンナ医科大学病院見取り図。



 面会受付で申し込みをしたら入院患者に伯父の名前がなく、入退院窓口で聞いてもそういう患者はいないといわれ、面会できないまま帰宅した。
 奇妙なこともあるものだと思い、夕方になって帰宅する頃を見計らって伯母に電話したら、
「ああ、川崎の方に行っちゃった?」
と驚かれ、聖マリアンナでも神奈川県横浜市旭区矢指町にある横浜市西部病院の方に入院したのだという。ちょっと取り乱しての勘違いだったけれど、入院は長引きそうなので伯母と一緒の面会は来週にしようということになった。

「(そうか、横浜のおじさんが倒れると、聖マリアンナでも横浜市に入院するのか……)」

 
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【久能道のモチノキからもう一度】

【久能道のモチノキからもう一度】
 

 自動車がスピードを上げたまま進入して左折していく危ない交差点が多い。
 住まいがある本郷通りと不忍通りが交差する上富士交差点も、千石方向からやってきた車がスピードを上げたまま駒込駅方向に左折していくので、大人でも横断中急接近してくる車に危険を感じることが多い。昨春もそこで小学生が車に轢かれて命を落とし、現場となった横断歩道脇には一年以上経った今でも花束が絶えない。その歩道で信号待ちをしていると、左折車が歩道の端を踏んで左折していくことも多いので、道路際で信号待ちをしているだけでも危険であり、分析すれば交差点の構造自体に改良すべき点があるのだと思う。



実家近くのモチノキ

 静岡県清水。実家近くの久能道沿いに一本のモチノキがあり、物心ついた頃からそこにあるので半世紀以上前から生えていることになる……という書き出しで始めた日記が昨日は脇道にそれた。
 現在は駐車場の出入り口に立ちはだかるように残っているモチノキがそのままなので、持ち主に
「大切にされていますね」
と言ったら、モチノキがあるおかげで駐車場に出入りする車がいったん減速するので、安全上も都合がよいのだという。



麻機街道、長谷通り丁字路の鳥居

 静岡市葵区。西草深公園の角、麻機街道と長谷通りが交差する丁字路に大きな石の鳥居があり、おもしろい場所にあるな、と思う。
 おもしろいので信号が変わるたびに横断歩道を渡り、うろうろと角度を変えて撮影してまわっていても、あまり危険を感じない理由のひとつは、道路にはみ出して石の鳥居があるおかげで、曲がっていく車が必ず減速して通り過ぎるからだ。



麻機街道、長谷通り丁字路の鳥居

 猪瀬直樹が『ミカドの肖像』で和光ビルのある東京都中央区銀座四丁目交差点の角が丸まった理由を書いていたけれど、角の丸まった見通しのきく交差点というのは、車が減速せずに曲がろうとするので、かえって歩行者が事故に巻き込まれやすいかもしれない。

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【久能道のモチノキから】

【久能道のモチノキから】
 

 静岡県清水。実家近くの久能道沿いに一本のモチノキがあり、物心ついた頃からそこにあるので半世紀以上前から生えていることになる。
 半世紀前からちゃんとした木だったので、50年どころかもっともっと前からそこに植えられていたのかもしれないのだけれど、モチノキというのは他の高木ほど急激に大きくならないのかもしれない。このところ葉っぱに病気がひろがっているなと思っていたら、植木屋に頼んで剪定をしてもらったらしい。幼なじみなので、また元気になってほしい。
 モチノキの向こう側はいま駐車場になっているけれど、僕が小学生の頃は、ちょうどモチノキのところに小さな肉屋があり、伯母がカレーライスを作るというと肉とカレー粉を買いにいった。駐車場の持ち主はかつての肉屋のご主人でもあるので、
「昔はモチノキのところで肉屋をされてましたよね」
と聴いたら、肉屋の前は古くからの紙問屋で、紙問屋が立ちゆかなくなったので肉屋を始め、肉屋が立ちゆかなくなったので駐車場を始めたのだと笑顔で話してくれた。



久能道沿いのモチノキ

 確か清水は昔から和紙の産地であり、両河内あたりで盛んに作られ、国内はもとより海外への重要な輸出品でもあったと記憶している。
 和紙の名産地であることと関係あるかどうかはわからないけれど、清水は昔から書道が盛んで著名な書家をおおぜい出しているという。とくに高部地区で書道が盛んだった時代があり、書の全国大会で入賞作の半数を高部の小学生が占めてしまったことがあるという。ちょっとおかしいと思ったのか、文部省から視察に来たので全校生徒を講堂に集めて一斉に書を書かせたら、あまりにうまいので驚いて帰って行った、と郷土史の本に自慢げにあった。
 モチノキに関して別の話を書こうと思ったのに郷里の自慢話になってしまったけれど、庶民のための郷土史というのは気持ちのよい自慢話集でよいと思う。

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