日の丸弁当の味わい

 ひとり仕事場で昼食をとる時は、朝自分で小さな日の丸弁当をつくっている。世の中で一番好きな食べ物は何かと聞かれたら白いご飯であり、それを最も引き立てるのが梅干しとごま塩だと思うことが日の丸弁当をつくる理由になっている。インスタントのわかめスープをカップで作り、パソコン前で仕事の手を休めて食べると、おいしくて声が出そうになる。
 梅干しで白いご飯を食べると「ああ、うまい!」と宮川大輔のように叫びたくなるのだけれど、そういう日の丸弁当好きは世の中にどれくらいいるのだろう。昔はおにぎりというと梅干し入りと相場が決まっていて、そういう時代の人達も「ああ、うまい!」と言っていたので、ご飯プラス梅干しがおいしいのは多くが支持するところと思う。

 某出版社に電話をし、それが昼食時間終了間際だと、隣席の人が電話に出て
「ああ、すみません○○は弁当箱洗いに行っちゃってますねぇ」
などと言うので良い職場だなぁとほのぼのとした気分になる。自分もまた昼食を終えると弁当箱を洗うのだけれど、会社勤めで弁当持ちの人たちは皆、昼食を終えると弁当箱を洗うのだろうか。

 自分で作った弁当の弁当箱は自分が洗うことになるので、昼食を終えたらすぐ洗うのが当然と思っている。すぐ洗わず蓋をしておいて、時間経過とともに雑菌が繁殖したら、洗って使うにせよ気持ちが悪いことも理由のひとつだし、他人が作ってくれた場合には、感謝を示す方法のひとつが弁当箱を洗って返すことだとも思う。
 道具を不潔にしたくないから、作った人に感謝したいからなどの理由で弁当箱を洗うという動機には自分で大いに合点がいくのだけれど、弁当持ちだった中学高校時代、どうして弁当箱を洗って帰らなかったのかなぁと不思議で、今さらながら母親に申し訳ない気持ちになり、そのことがまた日の丸弁当に、もう一段酸っぱい味わいを加えている事も確かなのだ。

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ミャンマーの弁当箱

 昔、テレビの旅番組かクイズ番組でミャンマーの弁当箱を見て感動したことがある。清水の友人が仕事でミャンマーに行き、その土産に貰ったと栗林デンキ店長がつぶやいていたので羨ましいなぁと思った。義父の三周忌法要で帰京したので帰りに寄ったら「石原さんの分も預かっています」と言うので驚いた。

 テレビで見たのは古びたアルミ製だったような気もするのだけれど、いただいたのはステンレス製のしっかりしたもので、アルミ製の時代があったのかどうかはわからない。もちろんステンレス製の方が良いと思うし、ネット検索で調べると、いまミャンマーの人達が使っているところを写した写真はみなステンレス製に見える。

 大がふたつ、小が一つの三段重ね。現地を旅した人のブログを見ると大二つはご飯とカレー、小はおかずかデザートが入るらしい。カレーは漏れるから入れるなと送り主からメールが入っており、おかしいなぁ、現地の人は入れているけど…と思ってメールをよく見たら「カレー南蛮」と書かれていた。あはは。

 ひとつ疑問なのは、ミャンマーたとえばヤンゴンの人々は冷やご飯に冷やカレーをかけて食べるのかしらということで、調べてみたら月別平均気温が最も低い月で29.6度もあり、冷やご飯に冷やカレーこそがご馳走なのかもしれない。冬の日本でこの弁当箱は辛いけれど、暖かい清水ならいいかもしれない。

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カレー南蛮百連発:039

 仕事で根津に出て昼食時だったので、不忍通り沿いにある蕎麦屋に入ってみた。カレー南蛮を注文したら「お時間いただきますけどいいですか?」と言う。「いいです」と答えてお茶を飲んだら渋くておいしい。静岡県出身者としては消費拡大のため、お茶は味がしない出涸らしより、濃いお茶の方が嬉しい。

 お茶を飲んでいたら、今度は高齢の男性店員が金属製の急須を持って来て置いて行き、注文を取った女性とご夫婦なのかもしれない。カレー南蛮の時間がかかることへの気遣いかなと思ったら、どの客にもそうするようで、お茶を出して注文を聞き、客が一服する頃合いを見計らって急須のお茶を出すらしい。

 

 ずいぶん年季の入った急須だなぁと感心してよく見たら「KINTARO」とメーカー名があり、子ども時代のわが家で使っていた、片方に持ち手のあるアルミ製急須が、このメーカー製だったのを思い出した。そう思ってテーブル上の箸入れを見ると、古びていても作りの良い漆塗りで、昭和の香りがした。

|文京区根津1丁目『田毎』のカレー南蛮|2012年10月25日| 

 カレー南蛮が出てきて驚いたことがふたつ。ひとつめはつゆ物の蕎麦に蕎麦湯が付いてきたことで、頼まなくても出してくれる店は神田やぶ以来の体験。ふたつめは生わかめがのってきたことでカレー南蛮では初めて。沖縄なら「豚肉に海藻はよく合うサー」と言われそうで、確かにヘルシーだという意味で合わないこともない。

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あてずっぽうの介護

装丁者のひとりごと
「秋の夜長のお便りコーナー、またはずぼらなお返事にかえて」

 長いことこの表紙裏につたない日記を書いていると、時折お便りをいただくことがあって嬉しい。返事を書き損ねたり、連絡先がわからなかったりでご無礼ばかりしているので、この秋届いた2通を紹介し、お返事を兼ねて初めてのお便りコーナーにしてみた。

   ***

 ファックスでいただいたお便りの主は女性で、お母さんお兄さんを介護して看取られたという。
 「さて、リハビリびっくりしたでしょう。私も母(92才)兄(66才)二人にがんばってやりました。足の方はなかなか、うまくいきませんでしたが、手、うで、毎日がんばったら筋肉もつき、最期、きちんと指を組むことができ、ほっとしました。」
 最期のお別れのとき、棺の中でちゃんと指を組ませてあげたいという思いは、老いて拘縮がひどくなるばかりの親を、それでもさすりたいと思い続けることの、大きな動機づけになると思う。それだけでも良かったですねという言葉を思い浮かべただけで胸がつまる。
 この方は親兄弟の介護をされるなか、Bricolageを読んで勉強され、介護福祉士の資格も取られたという。
 「今64才で通信大の1年生をやっています。精神保健福祉士を学んでいますが、本当はPTになりたいのですが…何しろ年が年で…」 というので感動し、ツィッターでつぶやいたら、ケアワーカーらしき人から
「突然失礼。80歳超えても臨床現場で汗を流している女性理学療法士を知ってるよ!」
という応援メッセージが届いた。

   ***

 もう一通は小包に添えられて妻宛に届き、お母さんの介護を通じて気づいたことが綴られていた。
 肩から腕にかけての内側をさすってあげると手首の力が抜けて指が開くことを服の着替え介助で見つけた。肩甲骨を内側に寄せたり、肩甲骨を回すつもりで腕を動かしてあげると、口の運動もさることながら、嚥下の改善に役立った。おっぱいのあたりの筋肉をさすったり、首をゆっくり左右に動かしてあげるのも嚥下が悪いときに効果があった。肩甲骨あたりに緩みをもたせることで肺機能も改善すると思った。手首から先をさすったり、おっぱいの脇から腰にかけてをゆっくりさすると少しだけれど腕も上がるようになった。腰から太ももにかけての外側をさすると股が開き、内側をさすると閉じる。外側をさすって少し開いたところで自分の両膝を入れて一緒に開く、自分はそうやって母をおんぶしていた。人というのは体の外側の線をさすってやると緩むものだということ、動かしてやりたいと思う場所から二つくらい離れた関節をさすってやると動かしたい箇所が緩むということを見つけた。緩んでくれれば、できないことは補ってあげられるので、車のシートに座らせることも、入浴させることも自分一人でできた。
 母親を在宅で介護された経験の中で見つけた小さな工夫が丹念に書かれており、最後に
「ぜんぶ私のあてずっぽうです」
と書かれていてしみじみとした。在宅介護は手探りであてずっぽうに、親を背負って夜の野道を行くようだったことを思い出す。

 二人の方に共通点が多いのが不思議で、在宅介護の過程でBricolageの読者になられたこと、その体験の中で介護知識を蓄え資格を取られたこと、ともに広島在住の方であること、長い介護を経て看取りを終えられたことなど。自分が実際に在宅介護をしてみて、そのなかで感じたことを伝える言葉の重みに感動したので紹介させていただいた。

(雑誌Bricolage 212 号のために書いた原稿より)


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赤備えと USB

 戦国時代、あらゆる武具を赤く塗った兵団を「赤備え」といい、武田の武将が起源ということで「武田の赤備え」が名高く、その流れで真田や井伊の赤備えも知られている。「備え」とは準備の意でもとくに兵の配置を言い、布陣を整えて敵の来襲に備えることを「備えたて」と言う。赤い武具を身につけて戦場に立つ事態を我が身に当てはめてみると、赤い色は目立って仕方ないので、よほど強くて敏捷に動かないと命がいくつあっても足りない。一方そういう命知らずの一団を指図して動かす者の立場に立ってみると、用兵上さまざまな戦略を立てる上で役に立つ。われこそはお役に立ちまするという心意気を示すものが赤備えだったのだろう。

 手軽に電子機器を組み合わせて使うのに USB ケーブルは便利なので、コンピュータを使って仕事をしているとどんどんケーブルが溜まっていく。USB コネクタ(端子)にはいくつかの規格があり、USB Aプラグとソケット、USB Bプラグとソケット、ミニAプラグとソケット、ミニBプラグとソケット、マイクロAプラグとソケット、マイクロBプラグとソケットなどが混在しているので探しにくい。咄嗟の時に困らないよう USB 変換アダプタというものもあるが、それらも含めてほとんどが黒ずくめなので絶望的に探しにくい。

 秋葉原のジャンクショップを覗いたら、ケーブルに赤を使った USB 変換アダプタを見つけたので、使えそうなものをみつくろって買ってきた。敵味方が入り交じって混戦状態になっている引き出しの中で、われこそはお役に立ちまするという心意気を示しているようで見つけやすく、どうしてこういうものが当たり前にならないんだろうと不思議に思う。
 備えあれば憂いなし、咄嗟の役に立つものはなるべく赤いものを探して、有事の役に立てたいと思う。

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トンボはなぜ木の枝の先端にとまるのか。

 義母が暮らす特養ホームの窓は南西に向いており、隣接する諏訪神社拝殿から鳥居までの参道が真南に向いているので、南北に対し45度の角度で老人ホームは建っている。南西側には小さな庭があり、柚子、葡萄、花梨など、実のなる木が植えられている。午後から日当たりのよいベランダに出てみると、蝶やトンボやメジロの群れがかわるがわるやって来ては枝にとまっている。
 三木露風作詞、山田耕筰作曲の「赤とんぼ」で、トンボがとまっていたのは竿の先だったが、確かにトンボは地上から離れて休んでいる時、ものの先端にとまっていることが多い。木の枝にとまっているトンボの写真を撮りながら、トンボはなぜ木の枝の先端にとまるのかを考えた。

 まず最初に思いついたこと。そのいち。トンボのオスは縄張りをもっているので、他のオスが縄張りに侵入した際、攻撃のためスクランブル発進しやすいからではないか。ときどき他のトンボを追い払うように飛び立つが、意地悪に飽きるとまた元の枝にやって来て休んでいる。
 その二。トンボは動体視力は良いけれど動かない物に対する視力が弱いので、ゆらゆら揺れるもの、それは物が静止していて自分が動いているという相対的な状態も含んでだけれど、空中にある枝は、風で揺れていることの多い先端部分がとまりやすいのではないかということ。トンボの目の前で指をくるくる回すと指の先に飛び移ってきたり、手を上げて人差し指で天を指し、ゆらゆらさせているとトンボがとまるのと同じ原理。

 その三は、トンボが変温動物であること。ひなたぼっこをすることで体温を調節し、飛翔に費やすエネルギーとのバランスをとる必要があり、宙にある物の先端が一番日当たりのよい場所だからということ。
 おそらく答えは一つでなくて、そういうことが重なり合った結果として、トンボは木の枝の先端にとまりたがるのだと思う。
 そんなことを考えていたら、正午を過ぎて日当たりがよくなるベランダに、隣室のご婦人が自分の寝具を干されており、「十五で姐(ねえ)やは嫁にゆきお里のたよりもたえはてた」の歌詞を思い出した。

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のどとスプーン

 本のカットされた断面を小口と言うけれど、綴じてある背の方をなぜ「のど」と呼ぶのかと聞かれてう~んと唸る。口の反対だから喉と答えれば簡単だけれど、紙を束ねたものが本であるためには綴じられていることが大切なので、本の急所という意味で喉と呼ぶと考えるとしっくりくる。


|東洋文庫|2012年10月17日|

  来客があったので昼食を兼ね、通りを渡った向かいにある東洋文庫に出かけた。東洋文庫併設のオリエント・カフェでカレーを頼んだら、ムール貝の殻のような形の食器に入って、エビのカレーが出てきた。


|オリエント・カフェのカレー|2012年10月17日|

 家庭用の食器としては奇をてらいすぎているように見えるこの皿が、使ってみるとなかなか面白くて、左端、貝殻にたとえるなら綴じ部分である蝶番(ちょうつがい)にあたる箇所に、スプーンでご飯粒を追っていくと、たった一粒でも上手に掬い取ることができる。蝶番の部分に近づくにつれて皿の曲率がスプーンのそれと近くなり、さらに側壁の角度が垂直に近づくので、スプーンで食べ物をその場所に追い込んでいくだけでちゃんと中に入る。これは面白いと思い、何度も何度もやっているうちに、カレー皿の中にスプーンの軌跡が描かれた。


|のどまでの軌跡|2012年10月17日|

 年寄りはだんだん箸が使えなくなり、スプーンで掬って食べるのが楽になるのだけれど、最後のわずかな食べ物が掬いづらいのをかわいそうに思っていた。スプーンを使う食器に必ず、デザインの一部としてこういう食べ物の追い込み場所である「のど」を作っておいたら、使いやすいのではないかと思う。

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振りあげた鎌

 病院で定期検査を受ける義母に付き添うときは、診察が終わって会計待ちに入るタイミングで介護タクシーを手配する。そうすると会計が終わる頃にはやって来るので都合がよいのだけれど、会計でかなり待たされたうえに薬の調剤待ちがあると、さらに30分くらい待たされることになって、タクシー運転手も待たせてしまう。
 ようやく薬を受け取り、ドアを開けて待っていた介護タクシーに乗り込もうとしたら、乗降用ステップにカマキリが居座っていた。若い運転手が尻込みしているので、子ども時代昆虫採集をしていた妻がつまみ上げ、病院脇の植え込みに戻してやった。戻しながら
「痛い!こいつ助けてもらってるのに鎌で攻撃するんだよ!」
と笑いながら言う。

|病院玄関前にいたカマキリ|2012年10月15日|

 義母と妻を乗せた介護タクシーが走り去った後、植え込みのカマキリを見たらまだ怒っているようでおかしい。人間のような感情があって、
「腹が立って腹が立ってなかなか怒りが収まらないんだっ!」
などと思っているわけではなく、危険だから臨戦態勢を崩すなという指令が、長いこと持続する昆虫なのだろう。
 蝶などのように、おっとりして平和的な昆虫は、捕まえて放すとすぐパタパタと花に戻って蜜を吸っていたりするが、戦って相手を捕食する生き物は、たとえ虫であってもひどくナーバスなのだろう。人間もなまじ武器など持つから過剰に興奮して生きづらいのだ。

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普通の店で普通においしい話

 東大宮の病院まで義母の定期検診付き添いをする妻の付き添いをした。
 定期検診が終わり、介護タクシーに乗って特養に戻る義母と妻を病院前で見送り、駅前まで歩く途中でなるべく普通のラーメン屋を探して入ってみた。
 最近は若者に人気の濃厚な麺店と、中国人がやっている脂っこい飯店ばかりが増え、昔ながら普通のラーメン屋が次々に店を畳んでしまうので、なるべくそういう店を応援したくて選んでいる。

|東大宮駅前『らーめんランド壱番館』のチャーシュー麺|2012年10月15日|


 普通そうなラーメン屋に入ってみたら、なぜかジーンズ姿の女性がたった一人で中華鍋をふっていた。
 スープを煮立たせないよう、注文を受けた分だけ寸胴鍋から中華鍋に移して加熱し、自家製だという卵つなぎ麺をゆで、厚切り焼き豚を丁寧に並べたチャーシューメンが出てきて、食べてみると普通においしい。自家製だという麺のゆで時間が短いので、屋台から始めて店を持ったのかもしれないなと思う。
「(ああ、こういう普通のラーメンが食べたかった)」
と心の中で思うのは、オジサンにとって普通以下のラーメンばかりになって、
「なんだよ!これって普通のラーメンじゃん!」
というのが、若者の酷評の決まり文句であるような世の中になっているからだ。

 

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小さな携帯用粘着テープ

 親たちの看護・介護が始まって付き添いが日常化すると、持っていることが必要だったり、持っていると便利な小物が増えていく。そういう小物のひとつが小さなセロハンテープで、意外に出番が多い。鞄にひとつ入っていると便利なのだけれど、文具店で売られているプラスチックディスペンサーでは何かと不都合が多い。カットするギザギザの部分まで引き出された粘着面にゴミがつきやすいし、あやまってテープが引き出されてしまうことがあるし、ギザギザが手や物を傷つけたりするからだ。

 もっと携帯に便利な密閉式ディスペンサーがあればいいのにと探したけれど見つからずに諦めていたが、久しぶりに新宿の東急ハンズへ行ったついでに売り場を見たら、複数の会社から密閉型で携帯を考慮したディスペンサーが登場していたので買ってきた。

 ドーナツ型の物は大きさより見た目の面白さが優先されていて、角がないので鞄内に多少乱暴に突っ込んでも、コロコロとして収まりは悪くない。見た目に愛嬌があって明るい気持ちになるのも良い。
 四角い方はテープを収納するただの箱のように見えて、側面が回転するギミックがなかなか良くできている。甲乙つけがたいので二つとも買ってきたが、それぞれ294円と252円だった。

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カメラ

 眼はレンズそのものであり、記憶はフィルム、手は引き延ばし機、紙は印画紙だと考えると、人間の身体はまるでカメラそのものだ。そうか、人は常に世界を写真に撮りながら生きているんだなと思う。
 見て認識するところまではカメラそのもののようになって暮らしているけれど、そこから先、手を動かし紙に描いて再現定着する人は少ない。カメラを使わず絵を描いて記録する研究者や、そうやって記録された絵を見ると「いいなぁ」と思う。

|テーブルの上にあった文庫本、J・P・トゥーサン『カメラ』集英社文庫|2012年10月2日|

 カメラは持っているけれど、ここはひとつ絵に描いて記録しておこうと思う場面もたまにはある。仕事の打ち合わせ中にとるメモがそれで、写真を撮ることができないか、写真に撮っても説明の役に立たないと思われるときに、絵というものは役に立つ。
 自分で描いた絵を眺めてみると、写真より絵に描いた方が見方や感じ方がより表現されていると感じることも多い。とくに打ち合わせ中に描いた絵などは、たとえ下手くそであっても説明の役に立っていれば、ちゃんと良い絵と思えるのが面白い。正確無比な複写機械としてのカメラも大したものだけれど、いい加減で情念的な人体カメラも大したものなので、少しずつ活用範囲を広げていきたい。

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劣化する白いご飯

 若い世代との間で、食の好みにおける断絶を感じる年齢になってきたように思う。
 ラーメンなどはその典型で、若者が興した流行りの店に行くと、味の足し算が度を過ぎていて、少し食べただけでげんなりとしてしまう。
 ラーメン店以外ならば若々しい創意工夫のある料理に感心することもあるけれど、不思議なことに白いご飯については
「(こりゃあひどい!)」
と思う場面が増えてきた。
 先日も代替わりしてから頑張っているらしい人気の鰻屋に行ったら、鰻はおいしいのに
「ご飯が変わってる…」
と妻が言う。確かに妙なご飯で、米粒が小さくて粘りけがなく、まとまりがなくパラパラしていてお箸でつかみにくい。店の者が気づかないはずはないと思うのだけれど、料理に丹誠込めてもご飯には頓着しないのだろう。

|青山一丁目の白い雲|2012年10月1日|

 また別の日に、品種の違う産みたて卵を自由に選んで、卵かけご飯が食べられる店に行ったら、卵は確かにおいしいのだけれど、ご飯がまずくてがっかりした。食事を供する店は、まず上手に炊けた真っ白なご飯が基本にあるという考えが、次第に過去のものになりつつあるのだろうか。
 面白いことに、本部から送られてきた食材をロボットのような店員がマニュアル通りに調理しているような店が、、意外にもおいしいご飯を出してくることが多く、個人経営やそれに近い経営の店の方がかえってご飯の品質劣化が激しい。そういえばご飯に限らず、劣化がついに個人のレベルにまで到達してしまい、最近は大手フランチャイズはだめで個人商店の方が品質が良いと言えないような逆転現象が多い。

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