【母と歩けば犬に当たる……48】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……48】
 

48|わが胸の底のここには

 久し振りに啄木(★1)の歌集が読みたくなって文庫本を買ってきた。
 母が生涯学習センターで習っているペン習字の教材に最適なのではと思いつき、かつて啄木が好きで小学生の息子に歌集を押しつけた母へ、三十年振りの恩返しのつもりで、
「毎日一ページずつでいいからしっかり読んで楷書体で書いてごらん」
とプレゼントしてみた。
 母は大喜びで写本を始めたのだけれど意外なことを言う。
 久し振りに啄木を読んでいたら、〝お前のお父さん〟が同じように私に歌集をくれたことを思い出し、〝お前のお父さん〟は啄木が好きだったなあと懐かしいのだという。
 父はリュックサックを背負って街に出て山ほど古本を買ってくる乱読家だったというが、生まれたばかりの息子がよく泣く赤ん坊で(嫌味を言っている)、母は
「本ばかり読んでいないで、食事の支度をする間くらい赤ん坊をあやして」
としばしば〝お前のお父さん〟を怒鳴りつけたものだという。
 〝お前のお父さん〟はなんでもモノで解決したがる人で、早速籐製のゆりかごを買ってきて息子を入れ、仰向けになって足で揺すりながら本を読んでいたと言う。なんだ、父は気の合いそうなずぼらで合理的な〝いい奴〟だったのではないかと嬉しくなる。
 で、母が肺結核で寝ていた少女時代に読んだ本は通俗小説など軽い読み物ばかりだったという。いかにも〝本〟然とした難しい〝本〟がそんなに面白いのかと〝お前のお父さん〟に聞いたら、まずこれを読めと啄木の歌集をくれたのだという。
 意外なことを聞いたついでに、父から教えて貰った〝本〟の楽しみのなかで、忘れられない作家や作品があるかと尋ねたら、一編の詩を堰が切られたように暗誦し始めて仰天した、

「わがむねのそこのここにはいいがたきひめごとすめりみをあげていける…」

 いったい誰の詩なのかと聞いたら啄木ではないかというので、青空文庫(★2)の啄木詩集を検索したが見つからず、青空文庫内の収録作品には無さそうなので、母が暗誦した言葉を適宜漢字混じりに変換してインターネット検索したら、ひとり日記に書いておられた方がいて作者と作品名を突き止めた。
 島崎藤村(★3)『落梅集』其五「吾胸の底のこゝには」と題した詩に、

吾(わが)胸の底のこゝには
言ひがたき秘密(ひめごと)住めり
身をあげて活(い)ける牲(にへ)とは
君ならで誰(たれ)かしらまし

というのがちゃんとあった。その詩はこのように続く。

もしやわれ鳥にありせば
君の住む窓に飛びかひ
羽(は)を振りて昼は終日(ひねもす)
深き音(ね)に鳴かましものを
もしやわれ梭(をさ)にありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思(おもひ)を
その糸に織らましものを
もしやわれ草にありせば
野辺(のべ)に萌(も)ひえ君に踏まれて
かつ靡(なび)きかつは微笑(ほゝゑ)み
その足に触れましものを
わがなげき衾(しとね)に溢(あふ)れ
わがうれひ枕(まくら)を浸(ひた)す
朝鳥(あさとり)に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ
口脣(くちびる)に言葉ありとも
このこゝろ何か写さむ
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ伝ふべきなれ
(島崎藤村 『落梅集』より)

 母は、父に勧められて読んだ島崎藤村の詩を今でも暗誦できるほどに覚えていたのであり、詩を諳んじろと言われたらユーミンの歌しか思い浮かばない息子としては恥ずかしい。
 母の良くないことのひとつは、父のことを〝お前のお父さん〟としか表現できないことで〝私の夫〟と呼ぶのを聞いたことがない。母はどうして夫であった父と向きあわないのか、ということが息子の小さな不満だったのである。
 そんな母が啄木の歌を清書しながら、
「他人の忠告ばかり聞いて自分で決断せずに離婚したのは間違いだったかもしれないね」
などと意外なことを口走ったのにも驚かされたし、安心もした。
 母もやはり燃えるような思いで父を愛し、教えられた歌を今も暗誦するのである。

吾(わが)胸の底のこゝには
言ひがたき秘密(ひめごと)住めり
身をあげて活(い)ける牲(にへ)とは
君ならで誰かしらまし

(2004年6月15日の日記に加筆訂正)

-----

★1 石川啄木(1886〜1912)
歌人、詩人。
★2 青空文庫
著作権が消滅した文学作品をボランティアが収集・公開しているインターネット上の電子図書館。
★3 島崎藤村(1872〜1943)
小説家。

【写真】 湯島、切通坂の啄木歌碑。
「二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな」

◀︎目次へ▶︎ 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 【母と歩けば... 【母と歩けば... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。