◉原因と結果と黄色いボール

2018年1月31日
僕の寄り道――◉原因と結果と黄色いボール

年明け早々風邪にかかり、一週間ほど熱が続いて食欲がなく、毎日梅干しでお粥ばかり食べていたらげっそり痩せた。とくに臀部の肉が削げた気がし、硬い座面の椅子に座るとお尻が痛いので、低反発のクッションを敷いた上に腰掛けて仕事をした。そうしたら姿勢のバランスが崩れたらしく、左股関節横の大臀筋や大腿筋が痛くなった。

長時間腰掛けていて立ち上がる際、「あいてててて…」と声が出るほど痛い。痛いのをだましだまし生活していたら、股関節脇の痛みがだんだん背中側に回って行き、真ん中まで到達したら背骨を中心に左右均等に痛い。整骨院が公開しているページを検索したら、そもそもそういう部位から痛くなる人は、歩く姿勢のバランスが崩れていて、ガニ股で、靴の底が片減りして…と身に覚えがあり耳の痛いことが列挙されている。

どうやら風邪を引いたことも、粗食で痩せたことも、座面の硬さも、クッションの敷き方が悪かったことも、なーんの根拠もない思い過ごしかもしれない。ともかく痛くなるべくして痛くなったように思えてきた。原因と結果からは、しばらく時を置いて冷静になってからでないと、正しい結論が導き出しにくい。原因の疑いをかけた者たちはいったん無罪放免し、痛みが癒えたら日々の矯正運動でもしよう。

「テニスボール」の検索結果

と、ここまで日記を書きながら布団の中で痛い箇所を指圧すると、気持ちが良くて思わず声が出そうになる。横になったままだと背中の方が押しにくく、そういえば件(くだん)の整骨院サイトでは硬式テニスボールを使えと書いてあったのを思い出し「なーる」と思う。

室内で犬を飼っていた頃は、寝床の中に犬が持ち込んだボールがいくつも転がっていたが、もう愛犬が好きだった黄色いテニスボールはないので amazon で買おうと検索してみた。

高いのもあれば安いのもあり、こんな安いのを身体と布団のあいだに挟んで大丈夫なんだろうかとレビューを読んだら、ストレッチやマッサージにはこれで充分と書かれていて笑った。みんな同じことを考えてるんだなと嬉しくて尻尾を振りながら注文した。



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◉冬の夜空と昇天

2018年1月30日
僕の寄り道――◉冬の夜空と昇天

凍える夜に後架(漱石はよく厠のことをそう書いている)に行き、身震いしながらもどって温かい布団に潜り込むと
「ああ、あったかーい!もうこのまま死んじゃってもいい!」
などとオンナコドモは言い、男は黙って心の中でそう思う。

湯に浸かって手足を伸ばし「あーーっ極楽極楽」と声が出るのが男で、オンナコドモは「あーーっ極楽極楽」とはあまり言わない。極楽は親父臭いので、オンナコドモはただ黙って気持ちがいいのだろう。

かつて我が家で飼っていたミニチュアダックスフントは、夜が更けて布団敷きが始まるとピョンピョン飛び跳ねて喜び、飼い主が横になった布団の脇に潜り込み、気持ちがいいのかふーんと小さな吐息を漏らし、人の言葉に翻訳すれば
「ああ、あったかーい!もうこのまま死んじゃってもいい!」
だったのだと思う。

冬の夜は暖かい寝床に入るのが気持ちよく、あまりに気持ちよくて真上に光る人生の北極星が思い浮かぶ。昇天とは生き物にとってほんらい気持ちの良いものだったのかもしれない。


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◉一週間の間違い探し

2018年1月29日
僕の寄り道――◉一週間の間違い探し

1月20日は土曜日で老人ホーム訪問をした。翌21日日曜日はマンションの住民交流会で、体調を崩したお年寄りの参加者を抱えるようにして休日診療当番医の受診付き添いをした。そして22日月曜日は朝から白いものが舞い出して大雪になった。

1月28日日曜日。一週間ぶりの老人ホーム訪問。記録的な寒波がやってきているので、さいたま市も日陰は雪が融けずに銀世界状態のままでいる。農家は冬野菜の収穫ができなくて大変らしい。義母の居室のベランダに出たら、老人ホーム裏手の庭もまだ雪に覆われている。

先週の病院付き添いでは、子どもたちが小さな咳をする診察室で三時間以上待たされた。壁に製薬メーカーのポスターが貼られていてイラストの間違い探しゲームになっている。幼児向けなのであざとさがなく、ふたつの風景を交互に見比べて相違点が見つけやすい。

絵ではなく実際の風景による間違い探しは、いま目の前にある景色と比べるのが過去の記憶になる。記憶の間違い探しは、見慣れた人ほど相違点を見つけにくい。
「柚子の木がなくなっているね」
と言ったら、毎日のように窓の景色を眺めている妻が気づかなかったと驚いていた。

今年は例年より実がつかず、裏年というより樹勢が衰えたように思っていたけれど、もともと傷んでいた幹が雪の重みで折れたらしい。毎年冬になると黄色い実をたわわにつけて、お年寄りに柚子湯の楽しみを提供してくれた柚子とも、どうやらこの冬でお別れらしい。


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◉空

2018年1月28日
僕の寄り道――◉空

心地(ここち)を空と書いたものを初めて読んだ。「生きた心地がしない」ことを「生きた空もない」と言うらしい。空が心地、心の状態を指すことを初めて知った。

初めて読む江戸川乱歩『鏡地獄』に出てきたのだけれど、二葉亭四迷の『浮雲』には「観菊などという空は無い」とあって、こちらの空は心の余裕を言う。菊を観に行くような心の余裕はないのだと。

「そら」と読むだけでなく「くう」と読む「空」の字は「穴」と「工」を併せてできており、音を表す「工(くう)」を取り去ると「穴」が残る。そんなわけで空は「内容がない」「口から出まかせ」「からっぽ」の穴であって、心とはそういう実体がないものであることを表している。

なるほどと見上げる空に色はなし(一切皆空)


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◉温暖化ぼけ

2018年1月27日
僕の寄り道――◉温暖化ぼけ

子どもの頃の冬は今よりずっと寒かった。記憶にあるものだけが残って自分の歴史を作っているので「子どもの頃の冬は今よりずっと寒かった」ということになっている。

ほんとうはどうだったのだろうと地球温暖化のグラフを見ると右肩上がりで気温が上昇している。確かに半世紀前はもっと寒かったのだ。

通学路沿いにある不要になった火鉢を利用した金魚鉢や、コンクリート製の防火水槽には厚い氷が張っていた。雪が降って屋根の上に積もり、融けかけると翌朝には氷柱(つらら)になって軒先にぶら下がっていた。

大人たちは戸外に露出した水道管に荒縄やボロ切れを巻き、自動車のボンネットには古毛布を載せ、抜ける水は抜いて冷え込みに備えていた。

それでも翌朝、水が出なかったり自動車のエンジンがかからなかったりすると、大人たちは大きなヤカンに湯を沸かして持ち寄り、油断するからこうなるのだと笑いながら助け合っていた。

記録的な寒波が日本列島を覆い、テレビのニュースを観ていると凍結による被害が報じられている。みんな温暖化ぼけしたのだなあと思う。

わが世代がそう言って笑えるのは、凍るか凍らないかの境界線を地球温暖化グラフが通過するちょうどその頃を体験し、歴史として記憶しているからだろう。境界線を越えたのちは凍結を見る機会も減り、それが若い世代の歴史になりつつある。


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◉我慢と我鰻

2018年1月26日
僕の寄り道――◉我慢と我鰻

我が家はものもちが良いようで、古い家財道具がまだたくさんある。壊れて買い換えるものが少ない。電気製品など結婚当初に買っていまだに使い続けているものも多い。

どうして壊れないかというと、子どものいない夫婦二人暮らしであるがゆえに、道具に触れる頻度が少ないからかもしれない。ものもちが良いので、たまに電気製品などが壊れ、買い替えの必要が生じて代替品を買いに行くと浦島太郎になっていてびっくりする。

所帯を持つとき大枚叩いて買った道具が驚くほど安い。とうとう電子レンジが壊れたので使い慣れたシンプルな機種を探したら、「夢の電子レンジ」が桁違いとは言わないまでもとんでもない低価格になっている。

電気製品に限らず、大衆化を目指して価格破壊が進み、こんな価格設定で、作る者から販売に携わる者まで、はたして利益が出ているのだろうかと疑わしいものが溢れている。労働的尺度を超えて安くなったぶん、どこかで泣いたり首をくくったりする人間がいるに違いない。

大衆化を大義名分に行われる価格破壊に歯止めをかけるのは難しい。たとえ絶滅が危惧される生物資源でも、自分は食べられるうちに食べておこうという大衆心理は抑えられない。

鰻にしても小学生時代は食べたことがないし、鰻屋の存在も知らなかった。郷里静岡に引っ越したら、養殖の本場だけあって鰻料理屋も多く、高度成長期の終わりに至って親の懐もようやく潤い、「たまには鰻でも食べて精をつけよう」などという生活を体験した。

そんなわけで鰻など食べられなくても我慢できる、我慢できる人は鰻の乱消費低減に一役買って絶滅抑止に協力しましょう、という正論は言えても実行は難しい。所詮やせ我慢なので、お互いさまのつもりが、漱石風に言えば
「僕は食わなくても構わないが、君には食わせたくない」
という浅ましい自分本位の葛藤に勝てない。

池田勇人はかつて「貧乏人は麦を食え」と言った。それが正論なら「貧乏人は鰻など食うな」も正論だが、他人はそうするべきだが自分は米の上に鰻をのせて食べたいわけで、いよいよ絶滅寸前になって目の玉が飛び出すような状態になるまで抑止は難しいだろう。


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◉発達と芸術

2018年1月25日
僕の寄り道――◉発達と芸術

日曜日の昼間、マンション一階の集会室に住民有志が集まって新年会をした。
「この中に12月、1月生まれの方はいますか?」
と聞いたら女性三人の手が挙がったので、妻が作成した「Happy Birthday to You」の手回し式オルゴール伴奏で、三回合唱して誕生日を祝った。オルゴールを演奏し始めたら、若いご夫婦が連れてきたまだ言葉を話さない幼児が、手をたたきながら満面の笑顔で喜ぶので、妻が「なんて良い子でしょう!」と感動していた。

翌22日は朝から雪になり夕方には一面の銀世界になった。翌23日は決算報告に税理士さんが来られ、本郷通りの歩道はよく雪かきされていると感心されていた。気温が上がらず記録的な冷え込みになったので早朝の雪かきに参加しておいてよかったと思う。

24日水曜日になってもまだ雪は融けず、近所の出版社に打ち合わせに行ったら玄関前に雪だるまがある。社員が作ったのかと聞いたら、そうではなくて近所の人が作ったらしいと言う。乳母車にのせられて前を通りかかった幼児がそれを見て、足をバタバタさせ手を叩いてウケている。

となりの出版社前にはアンパンマンのブロンズ像があり、歩いて通りかかった幼児が駆け寄り、ペタペタ触りながら「わーアンパンマンだ」「アンパンマーン、アンパンマーン」と絶叫する声が聞こえてくる。彼らはもう言葉を話すのでアンパンマンの物語に沿った思考をして感動している。

まだ言葉を持たない幼児が手をたたき、足をバタバタさせ、満面の笑顔で表現する感動は芸術の原点に発露するもので、こういう喜びについて

この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑(せっけん)なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆(きはん)を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。

と漱石が草枕で書いている。超訳すれば人はだれもみな生まれながらに詩人や画家という芸術家なのであって、ひとつも詩を書かず、一枚の絵も描かなくとも、世界を見て感動する瞬間一人ひとりに芸術は達成されている。

その先の煩悩によって芸術は堕落して台無しになる。「アンパンマーン、アンパンマーン」と絶叫するようになるのが衰退の始まりである。生まれながらの芸術家は、成長して俗塵にまみれることで凡庸になっていく。

人間の成長過程だけでなく、芸術の鑑賞行為もまた心の中でそういう成長過程を短時間に体験するのではないか。詩でも絵画でも読んだ瞬間、観た瞬間、思考に先行して沸き起こる感動は清らかに尊い。しばらく味わっているうちに、「まあそれほどでもないか」と思い「ふむ」とつぶやいて他所へ移って行く。本郷通りの雪だるまも、言葉を持たない幼児は足をバタバタさせ手を叩いてウケ、おとなはちらっと観て「ふむ」という顔をして通り過ぎる。


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◉明治五年の鰻

2018年1月24日
僕の寄り道――◉明治五年の鰻

大宮通いが始まって足掛け八年目になる。大宮駅東口にある老人ホーム行きバス乗り場近くに古い鰻屋があって、創業明治五年と赤い暖簾に染め抜かれている。

こころや身体が疲れたとき、ちょっと贅沢な昼食で立ち寄ると、なんだか元気になった気がすると妻が言う。老人ホーム近くの斎場で義父のささやかな家族葬を終えたあとも、やはりこの店のお世話になった。

鉄道のターミナル駅として栄えた大宮駅とともに歩んできた老舗のように思うけれどそうでもないらしい。この店の創業が明治五年なのに対して、大宮駅開業は意外に遅くて明治十八年まで待たなくてはならない。

東京・熊谷間に鉄道が開通したのは明治十六年のことで、開通当時、県庁所在地である浦和駅の次は上尾駅で大宮駅はなかった。それでは鰻屋創業当時の大宮はどんな町だったのだろう。

新橋・横浜間にはじめての鉄道が開通したのが明治五年であり、江戸時代の伝馬制度が同年廃止されたことにより、中山道大宮宿の宿場機能は低下し人口減少が始まる。鉄道が通過するだけだった当時の大宮宿には民家が 243 戸しかなかったという。

そんな大宮宿の支えとなったのは武蔵一宮氷川神社の存在だろう。明治元年十月二十八日、明治天皇の氷川神社僥倖があり埼玉県誕生は明治四年。明治四年には「断髪・廃刀は勝手」という布告があり、明治六年になると埼玉県で男女混浴が禁止になっている。町の衰退の裏で文明開化は進む。

明治四年氷川神社神官が人力車所有の許可願いを出している。明治九年になると大宮宿には 98 台の人力車があったと記録にある。明治五年横浜居留地にわが国初のガス灯がともり、同年全国一般郵便制度が施行され、大宮にも郵便取扱所ができた。明治六年には奥州街道に沿って東京・青森間の電信線が開通している。

創業明治五年の鰻屋は「う匠山家膳兵衞」といい駅ビル内にルミネ大宮店もある。大宮駅近くで鰻を食べるなら埼玉県さいたま市大宮区宮町 5-27 にある「小室屋」も好きだ。駅前からちょっと歩く分だけ閑静で、こころと身体に「待つ余裕「歩く余裕」があれば、時と場所を忘れてのんびりできる。

引き寄せて結べば草の庵にて解くればもとの野原なりけり
(慈鎮。1155~1225、鎌倉初期の天台宗の僧)


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◉おうむしょじゅうにしょうごしん

2018年1月23日
僕の寄り道――◉おうむしょじゅうにしょうごしん

漱石の猫に金剛経の「応無所住而生其心」が出てきて「おうむしょじゅうにしょうごしん」と読む。「まさにじゅうするところなくしてそのこころをしょうずべし」と読みくだしても、その言わんとするところがわかりにくい。

日曜日は一日中住民交流会の準備と後始末に明け暮れたので、午前午後にわけて生中継された全日本卓球選手権は録画しておき、夜になって早送りしながら観戦した。

卓球でもサッカーでも、スポーツに限らず古典芸能でもなんでも、解説をする人は実にうまく的確に選手や演者を批評する。元選手や職業解説者はもちろんのこと、素人でも批評好きな人は見事に選手や演者の至らぬ点を指摘する。名解説に感心しつつ、どうしてこの人は自分の現人生にそれを活かせないのだろうと、あいた口をふさぐのを忘れてしまう。

2018年1月23日早朝。昨日来の雪が積もった六義園正門前。1時間ほど雪かきした。

こんなに沢山の正論の人たちがいたら無敵の選手やチームが育てられそうな気がするけれどそうも行かないのは、言うは易くて行うが難いからだ。難い「行い」を離れて易い「言う」だけを演ずるのは、口だけ達者であることを恥じなければ誰でもできて、そういう自分には「身体」がない。身体なしで生きられるなら人は自由である。

気に入っている若手講談師が、真のファンを自称する人々はどうしてああ上から目線でものを言ってくるのだろうと本音を漏らしていたが、お客様でいるとき人は「難い」「行い」を離れた、「易い」「言う」だけの神様もどきだからだ。

漱石によく出てくる禅語は好きだけれど、インドの身体的な座禅中心主義以降、中国の智慧第一主義的な金剛経あたりになると、「難い」「行い」を離れた「易い」「言う」だけと感じてあまり好きではない。評論など身体を捨象した神様もどきでやる、勝手な気晴らしに過ぎないと思うからだ。


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◉語り口と生き方

2018年1月21日
僕の寄り道――◉語り口と生き方

マンションの住民交流会ということで一階コミュニティルームに集まり、人形町今半から料理を取り寄せて新年昼食会をした。一番楽しみにしていたはずのご老人の姿が見えず、部屋を覗いたらインフルエンザにやられたらしい。明日の朝、日本医大に定期検査予約があるので、なんとか明日まで頑張ると言う。

本人が頑張ると言っても病気の年寄りを放っておくわけにはいかないと、参加者の女性が電話して一番近い休日診療当番医を見つけ、別の参加者がタクシーを拾って通用口まで誘導してくれたので、病人を抱えるようにして付き添いをした。住民交流の大切さを確認した。

都内はインフルエンザ大流行らしく、幼い子どもを連れた親たちで立錐の余地もないほど込み合っていた。結局3時間ほど待って診察をしてもらい、調剤薬局で薬をもらい、居住区画まで送り届けたら17時を過ぎていた。診察を待つ間スマホをいじっていたら西部邁が亡くなったという知らせが届いていて悲しい。とうとうやっちまったかと思う。

マンション管理組合の理事長を押し付けられてしまい、一番苦手な人付き合いに悩んだとき、いつも心の支えにしていたのが西部邁であり、彼の思想というより、彼の語り口を手本として修羅場を乗り切ってきた、もっともっと彼の「語り口」を学びたいと買い漁った本を、全て読み終えないうちに奥さんのそばに行ってしまわれた。黙祷。


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◉自分を割る

2018年1月20日
僕の寄り道――◉自分を割る

気になることに拘泥(こだわ)る哲学者の存在は気になるので、やさしそうな本を数冊買ってみたけれどよくわからない。昨日もマインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想について話しておられるのを見かけたが、書いたものも言っていることもよくわからない。けれど気になる。悪い人ではないらしい。ときどき政治的な話題に触れると抜けている。

哲学者は掘る穴の口径が狭くて深いほどよくわからない言葉の土くれを掘り出す。それが本になる。何を掘っているのか気になる野次馬がそれを買う。読んでもよくわからない。わからないので古本屋に売ると意外に高い値がつく。
「わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである 」
と漱石先生も言っており、そういう需要が常にあるのだろう。

昔の猫は鮑の貝殻で餌をもらっていた。仕事場の植木鉢のトコブシ。

ヴィパッサナー瞑想はブッダが修行でつかんだ究極の瞑想でパーリ語、マインドフルネス瞑想は 1970 年代ジョン・カバット・ジン教授によるその英訳だそうで、要するに同じことを言っている。

ヴィパッサナー瞑想はいまの自分の身体の状態、具体的には吸ったり吐いたりの呼吸運動に集中し、無意識の運動に集中することでもう一方に分離して感じる「自分が考えていること」すなわち「文的に考える自分」すなわち「余計な想念に勝手に悩む人」を第三者的に監視すること、と勝手に解釈している。

いま「自分が考えていること=余計なことを文的に考える自分=やっかいな私」を分離できたら、この「第三者的に監視する」ことを可能にしている呼吸運動の方に集中して瞑想状態に入ること、とさらに勝手に解釈している。勝手を重ねているので間違っていると言われれば勝手に間違っているだろう。

分かりにくいけれど森田療法について学んだことがあれば似ていると感じることで、わかった気がするのではないか。森田療法のように実地の作業という身体運動をせず、瞑想による悟りだと言って座ったまま行う森田療法もどきのような気がする。

身体を使わず頭の中だけでズボラにやろうとするので、自分を二つに割ったつもりが、それを「確かに二つに割れた」と思っているところの、落語で言ったら粗忽長屋の八五郎のような第三のやっかいな自分が出てきてしまっているんじゃないだろうか。

こりゃわかりにくいわけだ、と勝手にわかったつもりになっている。野次馬にも時間がないのだ。漱石先生も
「人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である」
と猫に言わせているくらいである。


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◉寝起きの良し悪し

2018年1月19日
僕の寄り道――◉寝起きの良し悪し

寝起きの悪い人が寝起きの悪い朝の葛藤を描いた様子(漱石の猫の苦沙味先生)を読んでいたら、自分にもかつて寝起きが悪い頃があったのを思い出した。

寝起きがとても良くて、起きた瞬間が最もしゃっきりしていて、座り机の下に足を突っ込んで寝たら、目が覚めた途端ガバと90度跳ね起きて即仕事ができる!というのを、寝起きの悪い妻への当てつけも兼ねた自慢にして来た。

自分が生まれつき寝起きの良い体質のように思い込んで生きて来たけれど、他人の寝起きの悪さについて読んでいたら、自分にも寝起きの悪い頃があったことを思い出した。

子どもの頃は起きたくなくて布団かぶって唸っていたし、大人になってからも目が覚めて現実に戻った途端うつうつとして瞼が重くなったものだった。今になってやっとわかった。自分もまた寝起きの悪い人だった。

だが、三十歳で脱サラして自由業になったとたん朝起きるのが楽しくなり、毎朝元気に飛び起きては嬉々として仕事ができるようになった。自分は三十の春をもって寝起きの良い人に生まれ変わったのだ。

今朝の六義園

民俗学者が山の暮らしについて書いた本を読んでいたら、山に暮らす人々の貧しさについて述べたあと「それほどまで貧乏して山の中に住まねばならぬことはないはずであるが」(宮本常一)と書いていた。

雑誌編集の手伝いをして昨夏は山歩きをしたが、どうしてこんな山中を選んで暮らし続けた人たちがいるのだろうということはたびたび考えさせられた。

山奥の集落に伝わる伝承を読んでいると、生きるか死ぬかに直面して暮らす戦国の世に武士として生まれ、そういう境遇につくづく嫌気がさした主従が、山奥に入って一所を定め、武具を捨てて帰農したという話をいくつも読んだ。

山はそういう鬱する気持ちを忘れさせ、人を生かす場所でもあったのだと思う。彼らは貧しくとも寝起きの良い山の朝に目覚め、少しずつ懸命に土地を耕し暮らしをひらいて行ったのだろう。

今朝の六義園

定年退職して会社に行かなくなったとたん、早起きになって煩わしいと妻に嫌がられる男性がいるらしい。夫が毎日在宅だと思っただけで気が塞いで、瞼が重くて持ち上がらなくなる女性もいるらしい。寝起きが悪いという現象は、他人や社会に対する一種の「うつ」なのだろう。


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◉山を焼く

2018年1月18日
僕の寄り道――◉山を焼く

大分県出身の出版社社長が
「たまにはこちらから打ち合わせに伺います」
と言うので来ていただいたら手土産に郷里のワインをいただいた。ドイツのバートクロツィンゲン市と国際交流をしており、大分の郷里でしか手に入らない「わが町の」ドイツワインだと言う。

郷里は大分県竹田市だと言うので
「山の中ですか」
と聞いたら
「山の中です」
と言う。
「焼畑はしますか」
と聞いたら
「焼畑はしませんが山は焼きます。雑草駆除です」
と言う。

昨夏は編集委員をしている郷土誌の取材を手伝って静岡の山村を歩いた。その興味がその後もずっとあとをひいて、山の暮らしに関わる本を手当たり次第に読んでいる。

今朝は静岡の焼畑や出作(でづくり)小屋や猪(しし)小屋について調べていて、静岡新聞社から研究成果をまとめて出版された方がいるので注文した。著者は高齢のはずだがご健在だろうか。

高校時代(1970年)に分け入った旧静岡市の山峡にて

いま照葉樹林文化について論じた佐々木高明氏の本を読んでいて、妻とエッソのエナジー対話がらみで中尾佐助氏の話になり
「そういえば高田宏さんはお元気かしら」
と言うので調べたら先年亡くなられていた。小山勝清伝『われ山に帰る』を再読してみよう。

岡正雄氏の、弥生以前、縄文の時代にツングース系の農耕文化が日本に存在したという論考が面白く、夕方マンション管理組合の会議で故岡田英弘夫人に会ったので、ひょっとして岡正雄先生と知り合いだったのではないかと聞いたら、やはり外語大時代にご夫婦で懇意にされていたらしい。

焼畑農耕といえば草木を焼いた灰を肥料として云々という話になるけれど、広い視野で総合的に判断すれば、施肥の手間を省くというより効率のよい除草の意味合いが大きいらしい。

あれやこれや我が意を得たりの収穫が沢山あり、山をめぐって満足の一日だった。


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◉小さい人

2018年1月17日
僕の寄り道――◉小さい人

テレビドラマの主人公が入った女子寄宿舎の舎監が、新入生たちに「小さい人たち」と呼びかけていて「(いいなあ)」と思ったことがある。未成年の時代に出会う年下の者たちはほんとうに小さい。大きい者は小さい人を守らなくてはいけないという、大切なことが言葉に含まれているような気がする。

社会的地位が上であるとか、お金をたくさん持っているとか、体格や体力が優っているとかではなく、同じ人間として対等に接すべき相手が、ただ自分より「小さい」ということがある。世の中を広い視野から見ると姿形ではなく存在の仕方が小さな人が増えているように思う。

郷里で暮らす従兄に法事の席で会ったら、地域で暮らす若者たちがひらく小さな手づくりイベントのチラシをくれた。こんなことをしている若者たちがいるよと。

面白いのでもらって帰り眺めていたら出店者たちがとても小さい。小さな手づくりの品をそれぞれが持ち寄るのだけれど商(あきな)いの体(てい)をなさないほどに小さい。いちにち店を開いて数個売れ、そのうちひとつは去年も買ってくれた人が今年も覚えていてリピーターになってくれたなどと喜んでいる。

明治維新以来、少なくとも戦後復興期や高度成長期を生きた世代は、競争に基づく自由経済という、たくさんの歪みを生み出している仕組みから自由ではない。すぐに競争を始めたがる。競争せずにはいられない。商売は常に大きくしていかなくちゃダメだなどと言いたがる。合理主義、科学主義、拡張主義、進歩主義のような、始めてしまったら歯止めが効かなくなり人間が人間自身を踏みつけにしてしまった失敗の軛(くびき)からなかなか抜け出せない。

おそらく今この世に暮らす人たちが何世代か総入れ替えされるような時の経過の先に、小さい人たちが暮らす小さな世界が到来するような気がする。そうでなければ人類の未来はない。

町おこしや地域活性化などというていの良い欲の皮がはがれ始め、今を生きる経済の亡者たちも少しずつ「小さな人」化の流れに巻き込まれつつあるように見え、内心「いいぞいいぞ」と思う。社会は暴走を続けつつ必要以上に大きい人たちは次第に失速して柔らかく消えていくだろう。恐竜たちが滅亡したように。


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◉しょぐる

2018年1月16日
僕の寄り道――◉しょぐる

漱石の猫を読んでいたら「しょぐる」という言葉があり、猫が木に登ってとろうとした蝉が、飛んで逃げる瞬間に排出する小便が、「眼を覘(ねら)ってしょぐってくるようだ」という。

「しょぐる」という聞きなれない言葉を辞書引きしても見つからないので、本文の「しょぐって」をコピーして検索したら、漱石の猫を解説しながら「しょぐる」は「ひょぐる」であると書いておられる人がいた。ああそうかと辞書引きしたら「小便などを勢いよく出す」ことであると辞書にあり、しょぐるは漱石の江戸っ子訛りだった。

蝉の種類として漱石は「油蝉」「みんみん」「おしいつくつく」を挙げているが、郷里清水や箱根以西でおなじみの「くま」の名がない。最近では温暖化により箱根の峠を越えて関東地方にも進出しているという話も聞くけれど、漱石の時代の東京ではやはり「くま」の声を聞かなかったものと思う。

正月用に妻が活けた金柳から根が生えて芽が吹き出している。そうだった、柳は強かったのだと昔を思い出した。

蟷螂(かまきり)はうまいものではないと猫談にあるけれど、蝉の味に関する猫の評価はない。テレビを見ていたら具志堅用高氏が、蝉はよく食べたが軽く炙って食べるとうまい言っていた。漫才のゴリ氏も「よく」ではないが食べたと言うので、沖縄では昆虫食としての蝉はポピュラーらしい。

蝉の味で思い出したけれど、具志堅用高氏の昔話には飄々とした味わいがある。別のインタビュー番組で、子どもの頃は日が暮れると提灯に灯(あかり)をともして運動をしたと言う。ロウソクを灯した提灯を持ったままできる運動ってなんだろうと思い、インタビュアー氏も同じ疑問を抱いたらしく「どんな運動をされたんですか?」と聞いたら、「本土復帰運動ですよ」と言うのでしみじみとした。

 

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