【道のできかた】

【道のできかた】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 4 月 28 日の日記再掲)

街には風の流れる道がある。

静岡県清水入江南町、生家前の露地に黄色い花の吹きだまりができるのが面白い。
向かいにある床屋さんの壁際に植えられたキソケイ・黄素馨(黄色いジャスミン)がたくさんの花を落とし、働き者の奥さんが店先に出てはホウキで掃きチリ取りで受ける作業を日に何度もくり返すのだけれど、客の散髪で忙しいと、あっという間に店先を黄色い花が転がり、反対側の露地に吹きだまりができるのである。

赤白青、トリコロールの円柱看板がくるくる回り、黄色い花がコロコロと転がっていく。こんなのどかな光景を、失明前の愛犬イビは窓際に腹這いになり、通りに向かって鼻先を突き出し、うとうとしながら眺めていたのだろうなぁとしみじみ思う。

清水に帰省するとアゲハチョウを目にすることが多い。
柑橘類の樹木が街中、あちこちに植えられているので暮らしやすいのだろう。生家前にはチョウ道(アゲハチョウが習性として飛ぶ一定のコース)があり、春から夏にかけて見事な飛翔を目にする。
 
激しい風雨の夜が明け、路上に千切れた山椒の葉が落ちていたりして、辺りを見回しても元の木が見当たらない時には露地に折れてみる。そうすると奥まった先にある家の玄関脇にひっそりと植えられた山椒の木があったりし、その露地は風の道であるとともにチョウの道であったりもする。
 
道は作るものではなくて自然や人の営みを通じてできるものだと思う。作られた道よりできた道の方が心地よく、散歩の達人が愛好する道は踏み分け道であり、生活道であり、古道であることが多い。

黄色い花とともに吹きだまりに吸い寄せられるように、幼い頃何度駆け抜けたかしれない露地を歩く。今でもこの露地を歩く人は驚くほど多く、大晦日の夜はすれ違う人が多くて歩くのに苦労したりする。露地の奥には厄除八幡神社があり、便利な近道なのである。境内には清水市保存樹木第 2 号の大銀杏が今年も沢山の実をつける。

清水駅の海側に作られた巨大通路、歩く人が少ないと聞いていたけれどその通り閑散としており、駅前銀座のアーケードを歩き、はずれを左折して小さな抜け道、通称「漁師の踏切」に向かうと大勢の人が、談笑したり、ぼんやり煙草をふかしながら、東海道本線を行く列車の通過待ちをしていた。
 
道にも慕われる道とそうでないものがあり、作られた道とできた道の出自の差が如実に表れている。

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【雪ん子納豆】

【雪ん子納豆】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 4 月 26 日の日記再掲)

『地産地消』、地元でとれた魚や野菜を地元で消費することの良さというのは誰にでもわかりやすいけれど、地元の商家が仕入れた商品を地元民が買って消費することは地産地消とは言わないのだろうか。

親が飲み屋をやっていてくれたおかげでためになったなぁと思うことの一つは、客というのは一人ひとりが小さな店の財布に直結しているということ、大げさにいえば店主とその家族が首にかけた命の綱を握っているとも言えることを、身をもって痛感したことである。

たとえば毎晩部下を連れて飲みに来る上司がいて、1 日に 1 万円ほど飲食し、週 5 日 1 ヶ月 4 セットで来店したら、月 20 万円の売り上げになる。この店は飽きたといってご無沙汰すれば、その飲み屋は途端に月 20 万円収入が減るのである。

小さな店ほど客と店主は顔馴染みになりやすく、互いに厚いサービスを受けることによって抜き差しならない関係になるわけで、小さな店のそれは互酬互助の関係に近いかもしれない。

郷里清水に帰省する前日に風邪を引き、取りあえず風邪薬でも飲まなくてはと思うと実家近くの薬屋が目に浮かんでしまい、新幹線と静鉄を乗り継いで清水に辿り着くまで我慢してしまう。馬鹿げたことのようにも思えるけれど、「馬鹿げてるなぁ、薬なんて大した額じゃないし何処で買っても同じだし……」という考えはゴキブリのようなもので、一人がそう考えれば十人がそう考えていると思った方が良いわけで、「まぁ、一人くらい客が減ってもこの店は潰れるわけではないし……」と思った途端、不思議にそう思われた店が潰れたりすることもあるのだ。

互酬互助の関係が好きだという人間は、都会より村暮らしに向いているのかもしれない。
郷里清水に戻っても、近所に大型スーパーができたと聞けばとんでいって写真は撮るものの、意地になって近所の個人商店や弱小スーパーで買い物をしたりする。

大きなスーパーになくて小さなスーパーにあるものが楽しいのだ。大きなスーパーには水戸納豆しかないけれど、小さなスーパーには地元清水辻町で作られている納豆があるし、豆乳だって紙パック入りのナショナルブランドのじゃなくて三保で作られている瓶詰めのがあるのである。

小さなスーパーや個人商店というのは地元製造者と抜き差しならない互酬互助の関係をもっているのであり、それを買うことによって関係に一枚噛むというのは地産地消の気持ちよさと同じくらいに楽しいことであり、やっぱり互酬互助と地産地消は似ている。

写真上:フジマキ醗酵(清水辻町 4 - 10 -3 )さんの『雪ん子納豆』。
写真下:ラテン系といわれる清水育ちの納豆はメキシコ産のアボカドとも良く合う。

 
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【ブーフーウー】

【ブーフーウー】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 4 月 25 日の日記再掲)

子どもの頃、学校が終わると走って帰り、誰もいないアパートの部屋の鍵を開け、ランドセルを放り出し、真空管式白黒テレビのスイッチを入れ、3 時のニュースに続いて放送される『ブーフーウー』を見た。
 
進行役のお姉さんがトランクから小さな三匹の子豚を取り出し、テーブル上のセットに並べ、壁にあるネジを巻き、スイッチを入れると人間が入った着ぐるみの「三匹の子豚」の映像に上手に差し替えられて動き出す、テレビ放送初期の素朴で可愛らしい特撮で、種はわかっているのにワクワクしたものだったし、番組の最後に動いていた三匹が人形に戻って動かなくなるシーンは何とももの悲しかった。
 
どんな番組でも『三匹の子豚』ではウー君がいつも優等生であり、それは高度成長時代の模範的少年像だったのかもしれない。ブーブー不平不満を言い、フーフーくたびれてばかりいてはいけない、ウーウーといつも頑張り、家だって木や草では駄目で、石やレンガやコンクリートの家がいいんだぞ、と僕の世代は教え込まれた。

木や草など使わないコンクリートの建物は永遠に不滅だと思ったし、コンクリート建築にも寿命があると知るようになってからも、コンクリート建築の寿命はちっぽけな人間の寿命より遙かに長いのだから、その尽きるところを見ることが難しい分、やはりコンクリート建築は長嶋茂雄にとっての読売巨人軍同様、永遠に不滅だと思ったのである。

まさに高度成長のど真ん中の時代に育ったせいか、小学校も中学校も、木造校舎の建て替え時期に当たり、僕は義務教育期間の間、木造とコンクリート、どちらの校舎も体験している。後輩たちはいいなぁ、小学校入学から中学卒業まで、一貫してコンクリートの新校舎で過ごせるんだもんなぁ、小汚い木の廊下をワックスをつけた黒い古雑巾で拭かされる、屈辱的な作業もしなくていいんだもんなぁ、風が吹くとがたぴし鳴る窓ガラスの隙間から吹き込む風に、震え上がることもないんだもんなぁ、と羨ましく思ったものである。

懐かしい街を訪ね、唖然とするのは当時真新しかったコンクリート建築の校舎すら老朽化し、災害時の危険をも指摘される厄介者と化し、早々に解体されて跡形もなかったりするのである。跡形もないならまだましで、誰も引き取り手がなく、解体の費用も捻出できないまま、哀れな姿をさらしているコンクリート建築も多いのである。

それに引きかえ、ちっとも暮らし向きが良くならないとブツブツ文句を言い、貧乏暇なしでいつも飛び回り、汗を流し、くたくたになって生きてきたブー君やフー君の家が根強く残っているのは感動的でもある。そういう真っ当な現実に感動することができず木や草の家は後進性の現れだと思いたい一部の人々から担がれた田舎政治家が、今だにウー君役を引き受けて欲という外壁材で覆われたコンクリートの箱物建築に血道を上げているのである。

写真上:清水に初めてできたデパートの今。
写真下:良くコーヒーを飲んだ店。その向こうの清水商工会議所のモダンな建築もすでにない。
写真小:清水『新世界』入口。ドボルザークを口ずさみながら歩けば、この先に必ず新世界はある。

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【玉泉寺再訪】

【玉泉寺再訪】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 4 月 23 日の日記再掲)

静岡県清水船越町。
日本平丘陵の日当たりの良い東南斜面に曹洞宗玉泉寺がある。54 歳の若さで亡くなった友人にお別れするために帰省し、一度も訪ねたことのなかった友人宅が、その門前にあったことに驚く。

母がガンに罹ったことを知り、毎週末帰省していた昨秋の朝、気分転換に自転車を漕いでの散歩で偶然訪れ、その眺望の良さに驚いたお寺である。あらためて墓所を歩くと友人と同じ姓の墓が多いのに気付く。

馬走(まばせ)、今泉、船越、矢部といった地名の続くこの地域、かつて静岡が徳川領となって駿府城が築城された際、三河より連れて来られた石工などの職人が、城の完成後、好きな場所に土地を与えるから住めといわれ、この地を所望して入植したのだという。そういえば昨年、この辺りに住む母の友人が亡くなり、その旧家から夥しい江戸時代の漆器や刀剣が出てきて我が家にも少し形見分けをいただいたが、旧家の多い地域なのかもしれない。

船越堤公園より流れ出る清流沿いに細道を登るともなく登り、寺のちょっとした石段を駆け上がると市街地から駿河湾、そして富士山が見える絶景が広がる。徳川家より永住のための土地が貰えるとしたら、自分もこの場所を選んだかもしれない。少し南下した斜面、県道駒越富士見線沿いにある天王山遺跡からも各時代が重層した住居跡が見つかり、日本平山麓は太古から現在に至るまで一貫して住みやすい土地なのである。

境内に巨大な銀杏が一本あり、見上げると見事な雄花をつけていた。
六義園内でも雄花をつける巨木があるけれど、これ程に勢いのある雄の銀杏は見たことがない。母は、生気を貰うのだと言って太い幹に両手をあてていた。

友人はこの銀杏の根方に永眠する。
ぐるっと清水市街を見渡すと、自分の墓も含めて、郷里の友人たちが将来永眠するであろうそれぞれの菩提寺の場所もたいがい察しがつくわけで、重層する時の流れの中、みんな揃って日当たりが良く住みやすい海辺の街で、枕を並べて眠ると思うと少しだけ愉快な気もしてくる。

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