◉身構える

2018年9月30日(日)
僕の寄り道――◉身構える

不安には危険を回避しようとする「身構え力」というたいせつな面がある。逃げなければという恐怖心が人を救うことがあるので、自然災害に対する不安は持ち続けたほうがいい。

戦争に対する不安も同様だけれど、戦後生まれ世代はもちろん、戦争を体験した世代でも不安を維持し続けるのは難しい。地震や津波に対する不安も次第に薄れていく。原発の存在に対する不安も同様である。不安を維持することは大切だと言いながら、不安を持つことを「風評被害」などと呼んで報じる「マスコミ」という仕組みを「われわれ」は持っている。

不安とは「てんでんこ」でまちまちな個個人の都合でできている。自分の都合が大切で他人の都合が不都合である現実がいくらでも社会にはある。都合の良い不安と不都合な不安がある。

社会ではなく自分の中でも不安は思いもよらないことで生じ、我が身可愛さとはいえ、それは不都合な不安だったり、いわば自縄自縛の「風評」的不安だったりする。不安を持つまいと自分を抑制しようとするけれど、どうしても制御できない不安な自分がある。過剰な「身構え力」と言えるかもしれない。

劇場やスタジアムの二階席前列近くが苦手だ。運良くというか悪くというか、そういう席に座ってしまうと、次第に不安が湧いてきて声をあげて逃げ出したくなる。声をあげて逃げ出す自分が、後方ではなく前方に向かって走り出して真っ逆さまに落ちてしまうのではないかと思うような不安を抑えられない。しかたなしに不安を感じないよう身体を痛いほどつねったりして気を散らし、なんとか終わるまで耐えるようにしている。

むかし著名なお笑い芸人がインタビュー番組で自身の高所恐怖について話すとき、高い場所から見下ろすと眼下の世界へすすんで吸い込まれる自分がいそうな恐怖感があるんですと自嘲的に笑い、聴き手も「おやまぁそれはたいへん」と笑っていたが、わかる!それだ!と思った。たぶん本当に身についている不安、恐怖心、自己保身の身構え力は理屈で統御できない深い場所から発動する。あとで気づくとそれが自分を救っていることも多いし、命を落とせばあとで気づけない。

あのお笑い芸人も自分も、自意識が強く、心配性で、身構え力が過剰なのだ。森田正馬(まさたけ)の思い出話しを書いている精神科医のブログを読んでいてふと思った。台風の影響で雨音が心持ち大きくなった気がする朝である。

(2018/09/30)


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◉窓ガラスと昆虫

2018年9月29日(土)
僕の寄り道――◉窓ガラスと昆虫

雨の土曜の病院面会。
義母が入院中の病棟窓に虫がとまっている。ある種の昆虫はスベスベの窓ガラスや瓶やコップの垂直面にとまったり歩き回ったりすることができる。なぜだと思うかと言うので、「すべすべに見えるガラス面も拡大していくとザラザラしてるからじゃないかな」と答えると、「そんんなことはないでしょう」と妻が言う。じゃあなぜだと思うかと聞くと「きれいに見えて窓ガラスは汚れてるから」と言うので「それもあるかもしれない」と答える。

 

電子顕微鏡という道具の力を借りて昆虫の手足の先とガラス面を拡大していくと毛が生えたりデコボコしていたりする。さらに拡大して分子レベルの世界に入っていくと、昆虫の手足の先とガラス面の分子が互いに吸着しようとする仕組みを持っていることがわかる。

昆虫が窓ガラスにとまることも、分子レベルまで枠組みを変えると実は対等で相互的な関係で成し遂げられているということを知るのは楽しい。

(2018/09/29)


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◉秋をめぐる会話

2018年9月29日(土)
僕の寄り道――◉秋をめぐる会話

この夏の猛暑以来、出不精を不安定な気象のせいと託(かこ)つけたまま夏痩せもしないで秋になっている。去年はずいぶん歩いたので「見るからに痩せて締まって見えて非常にいい。脳溢血のリスクが半分になるから続けろ」とかかりつけ医に褒められたと日記にある。

仕事のメールに「寒さで死に絶えたと思った蝉どもがまた啼き始めました。たいしたもんです」と書き添えたら「金木犀が香り始めた中で、六義園のセミ、すごい!」と編集者から返信があった。そうか、街を歩けばもうキンモクセイが匂っているのだ。

郷里静岡県の花は富士山麓に多いツツジということになっている。県の鳥はサンコウチョウで、富士山麓で「ツキヒーホシ、ホイホイホイ(ポイポイ)」と鳴いている。月日星で三光鳥である。

県の木は木犀で富士山の裾野、三嶋大社に樹高 13 メートル 50 センチ・推定樹齢 1200 年以上という国指定天然記念物(昭和 9 年 5 月 1 日指定)のキンモクセイがある。

秋をめぐるやりとりを日記に書いていたら、「昨日まで、猛暑が恋しいなどと会話を交わしていました」と男子から合いの手が入る。

成人男子は「あの夏の日が恋しい」などとは、思っても口に出して言わないものだと書いたからだろう。彼はこの夏、神話の世界を天駆け、出雲山中で転んで昇天し損なうという、思い出深い夏を過ごしたため、不覚にも秋の感傷がそのまま口をついて出たのだろう。

日 記 書 き 終 え て 高 ま る 虫 の 声

(2018/09/29)


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◉しんがりを啼く

2018年9月28日(金)
僕の寄り道――◉しんがりを啼く

「肌寒くなりました…。あの猛暑が恋しいです」とメールに書き添えて来た編集者に朝一番で校正を送ったので「寒さで死に絶えたと思った蝉どもがまた啼き始めました。たいしたもんです」と書いておいた。

六義園では雨の晴れ間になった 2018 年 9 月 28 日、朝からツクツクボウシたちが啼いている。晩夏から初秋にあらわれる奥手の蝉なので秋が深まっても粘り強いのだろう。「九州などの西南日本では 10 月上旬に鳴き声が聞かれることがある」とウィキペディアにある。

明日からの週末、台風に刺激された秋雨前線がまた雨を降らせるというので、「東日本でも 10 月上旬に鳴き声が聞かれることがある」という事例になるかは心細い。2018 年夏のしんがりが元気よく啼いている。

(2018/09/28)


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◉壊れたエスカレーターに乗りに行く

2018年9月28日(金)
僕の寄り道――◉壊れたエスカレーターに乗りに行く

「人には言葉でいじれないけれど身体で覚えている記憶がある。」と日記に書いた(「◉いんぷりしっと・めもりぃ」)。

書き方を変えれば、どこか深い場所に記憶されたように、一度覚えてしまったら意識して訂正しよう(「言葉でいじろう」)としても訂正できない記憶があるということ。身体が覚えてしまって言うことを聞かない、などとも言う。

近所のスーパーのエスカレーターが壊れたままになっている。そのスーパーは学生時代、衣料品の量販店だった。その建物を居抜きで使っているので、地階から一階へ戻るエスカレーターが残っている。相当古いのでもう修理がきかないのかもしれない。

人は止まったエスカレーターに乗った瞬間、前につんのめるような目眩を感じ、そういう現象を Broken Escalator Phenomenon(壊れたエスカレーター現象)という。階段自体が動くという異様な体験を繰り返し経験して身体が覚えてしまうと、これは止まっているのでエスカレーターではない、ただの階段だと意識しても身体がエスカレーターに対するように反応してしまうことを人は止められない。

予測と実際の感覚フィードバックの不一致のために生じる違和感という説明もできる。予測が身体で覚えた記憶によって生じているので、いま実際に体験しているのはエスカレーターではないと強く念じても目眩のような慄きを止められない。

最初のステップから段差が斬増する変な階段であることが目眩の原因とも考えられるけれど、同じ状態の木製階段をつくって検証しても止まったエスカレーターの目眩が生じないことを実証した論文もある。金属製エスカレーターの見た目も影響しているのではないか。

エスカレーターに見えるけれど実は単なる階段に過ぎないと身体が覚えたら目眩がなくなるだろうかと、そばを通りかかるたびに地階売り場に降りて壊れたエスカレーターを登っている。

(2018/09/28)


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◉恋する夏の日

2018年9月27日(木)
僕の寄り道――◉恋する夏の日

ここ数日の間に編集者から届いたメールを読み返して仕事のチェックをしていたら、「肌寒くなりました…。あの猛暑が恋しいです」などという要件のはずれに置かれたひとことに改めて気づく。身近な女性で猛暑を恋しがるタイプは珍しい。

あれほど喧しかった蝉の声もとうとう聞こえなくなり、「もう夏を思わせるような陽気には戻らないかもしれないね」と言うと、わが妻など「ああ嬉しい」とさばさばしたように言い、「そろそろセーターを出さなくちゃ」などと思う頃が一年のうちでいちばん好きだと言う。そういう女性が多そうに思う。

灼熱の夏好きは女より男に多いかもしれない。けれど男で「猛暑が恋しいです」などとメールに書きそえてくる男性は少なくとも身近にいない。ああ今年も蝉どもが死に絶えたか、などと心の中で思うだけだ。

男はいまも思い浮かぶ夏の草いきれが懐かしいと言い、女は見知らぬ人とのすれ違いざまに、ふっと匂うナフタリンの香りが懐かしいなどと言う。

(2018/09/27)


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◉上野発沼津行き

2018年9月27日(木)
僕の寄り道――◉上野発沼津行き

清水から友人夫婦が上京し、雨が降っているので駒込まで来てもらい、駅前の居酒屋で明るいうちから飲んだ。帰りは東海道本線で帰ると言い、最近は電車が意外に早くなくなるので 20 時前にお開きにした…ような気がする。

無事に帰り着いたかと朝になってメールしたら、上野から沼津行きに乗ってスムーズに帰り着いたという。下り東海道本線に乗るのは早朝ばかりで、沼津行きの存在は知らなかった。時刻表を見たら上野東京ライン沼津行きは 15:27 から登場し、 16:27、19:17、20:02、21:24 と何本か出ている。

おそらく 20:02 発に乗れたような気がするけれど、いつもは早起きの旦那が「 8 時近くに起きてきました(めずらしいです)」とのことだった。ということは 20:02 発に間に合わず 21:24 に乗ったのだろうかと調べたら、その列車は 00:37 沼津着でそのさき清水までがない。危機一髪のお開きだったわけだ。

(2018/09/27)


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◉いんぷりしっと・めもりぃ

2018年9月26日(水)
僕の寄り道――◉いんぷりしっと・めもりぃ

司馬遼太郎は手書き原稿のひらがなの脇に「辞書を引く」と書き添えていたそうで、編集者に「辞書をひいて漢字になおせ」という指示だったという。辞書を持っていなかったからだそうで、自分でそう書いていた。

読んでいる本に Implicit Memory という言葉が出てきてインプリシットなんていう言葉は知らない。知らない単語を他人に辞書引きしろとは司馬遼太郎も書かないので辞書を引いたら「暗黙」と書いてある。考えなくてもできてしまうようになる手続き的な記憶のことを言うらしい。

身体で覚える。身体で覚えてしまうと動作を逐一意識しなくてもそれができるようになる。不思議だ。突然自転車に乗れるようになり、自分は自転車に乗れるとわかったとたん、並走する友だちとの話に心を奪われながらでも、無心に自転車を漕いで転ぶことがなくなる。

そういう言葉によっていじれない知識のことを Implicit Memory というらしい。人には言葉でいじれないけれど身体で覚えている記憶がある。ある分野の師匠は自分の技術を言葉で弟子に説明できない。逆に言えば、弟子に言葉で伝えることはできないけれど、別の方法で伝わる技術が親方にはちゃんとある。

そういう分野の人たちが内輪で揉め始めると大変なことになる。話を聞くのも意見を言うのも苦手な技能者たちである。

(2018/09/26)


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◉ほぼほぼ

2018年9月26日(水)
僕の寄り道――◉ほぼほぼ

病院入院中の義母は誤嚥による肺炎治療なので、昼食時に面会しても家族による食事介助はできない。ときおり ST が聴診器をあてながら食事介助をしている。

手持ち無沙汰なので専門家の昼食介助終了後に面会することにした妻が、ナースステーションで担当女性看護師に
「母は昼食を残さず食べられたでしょうか」
と聴いたら
「ほぼほぼ、めしあがられました」
と答え、初めて聞く珍しい言葉なので驚いたという。

今朝の新聞によると文化庁が 25 日に発表した 2017 年度「国語に関する世論調査」では、20 歳代の 60.5% が「ほぼほぼ」を「使うことがある」と答えたという。

(2018/09/26)


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◉タクシー

2018年9月26日(水)
僕の寄り道――◉タクシー

住まいの近くでタクシーが拾いにくい。かつては頻繁に空車がやってきた大通り沿いに立っていても流しているタクシーを見かけなくなった。

義母が入院している埼玉の病院は路線バスによるアクセス手段がないのでタクシーを利用することが多い。自家用車による通院が多く、まわりに施設も少ない場所なので、病院がひとつ建っただけではバス事業者にとって路線をひらく旨味がないのだろう。

タクシーが気軽に利用しにくくなったと感じる。景気低迷で利用者が減り、減った利用者を探して走り回っていたのでは燃料代だけがかさむので、街を流すことの旨味がない、そのためますます拾いにくくなって利用者が減るという悪循環だろうか。

埼玉のタクシー内で妻と話していたら「車が拾えない」という言葉尻をとらえた  “松井さん” みたいな運転手が
「拾えませんよ。いまはみんな呼ぶようになりましたから」
と言う。

そういえば先日、障害がある人のサポートでタクシーを拾うのに苦労し、ふと思いついてスマホのタクシー呼び寄せアプリを使ってみたら、ひどく簡単便利なのに驚いた。「拾えませんよ。みんな呼ぶようになりましたから」がスマホのアプリ利用者増加の結果かどうかはわからない。

(2018/09/26)


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◉闇の中の声

2018年9月25日(火)
僕の寄り道――◉闇の中の声

むかしは夜の街をひとりで歩きながら、誰もいない闇に向かって熱心に話しかけている人を見ると、きっと心の中に闇を抱えた人なのだろうと理解しつつ慄(おのの)いた。

最近はそういう人が、手のひらに携帯電話を持っているとわかると安心する。なんだ、電話してたのか…。

だがひとりで話しながら闇の中から現れ、こちらに向かってくる人が手ぶらだと、ちょっとふつうじゃないのかもしれないと理解しながら慄く。

すれ違いざまにイヤーレシーバーが見えると安心する。なんだ、ハンズフリー通話してたのか…。

そして理解しながら決まって思う。気味が悪いから夜の歩き電話はやめませんかと。

(2018/09/25)


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◉奥深い明るさ

2018年9月25日(火)
僕の寄り道――◉奥深い明るさ

読んでいる本に「奥深い明るさ」という言葉があって、著者もわざわざ括弧付きで書いているので、気に入りの言葉、強調したい言葉なのだろう。まさに本当の明るさとは奥深い場所で生まれるものだ。

著者が「奥深い明るさ」と括弧付きで讃えるヨーヨー・マの思い出話の中に、同じチェロ奏者でロシア出身のアレクサンドル・クニャーゼフが出てきた。

クニャーゼフを初めて知ったのは NHK クラシック倶楽部で何年か前「レーピン with クニャーゼフ & コロベイニコフ トリオ・リサイタル」という収録番組を観たからで、そんな波乱万丈の経歴を持つ人だったのかと驚いた。まさに「奥深い明るさ」にふさわしい。

上記の演奏ではクニャーゼフも良かったけれどコロベイニコフのピアノが素晴らしかった。なんどもその演奏の話をしたので印象深いはずの妻と、クニャーゼフを夕食時の話題にした。

そんな話をしながら毎朝予約録画している NHK クラシック倶楽部を観たら、とりためたうちの 9 月 21 日放送分は「レーピン ヴァイオリンリサイタル」でピアノをコロベイニコフが弾いていた。

なんだか奇遇だねと話し、今回はそこにいないクニャーゼフの演奏を思い出しながら、最後のチャイコフスキー「ワルツ・スケルツォ」まで味わい深く聴いた。

(2018/09/24)


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◉車内アナウンスと鼻づまり

2018年9月23日
僕の寄り道――◉車内アナウンスと鼻づまり

埼玉の老人ホーム訪問帰り、JR 田端駅で京浜東北線を降り、となりホームから山手線内回り電車に乗ると、駒込駅到着前に英語の車内放送がある。

「この英語アナウンスの最後で女性が鼻づまりになって可笑しいからよく聴いてみ」

と言っても、妻には鼻づまりに聞こえないらしい。

There are priority seats in most cars. 
Please offer your seat to those who may need it.

この最後の「とぅどーずふーめいにーでぃっ(to those who may need it.)」の部分が、なんど聴いてもはだがづばってる(鼻が詰まっている)ように聞こえるのだが誰でもそうではないらしい。

(2018/09/24)


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◉ヒトと速度

2018年9月23日
僕の寄り道――◉ヒトと速度

同時通訳者が書いた本を読んでいたら、発言者(スピーカー)にゆっくり話して欲しいと頼んでおいても話に熱が入ると早口に戻ってしまい、どうやら個々の話す速度は深い場所で機能しているので、意図的にコントロールできても無意識で維持し続けるのが難しいのではないかという。子どもの頃から早口を改めろと言われ続けているのでやはりそうかと思う。安倍晋三もそこで早口にならなければいいのにと思うけれど、わかっていても制御が効かないのだろう。

人間がもつ固有の速度や拍(はく)も似たところがあるかもしれない。子どもの頃から歩く速度が速い。母親もそういう人で「あの人は歩くのが遅いからもう一緒に旅行するのはいやだ」などと言っていた。親たちが年をとってからは「早く歩きすぎる、もっとゆっくり歩いて」と文句を言われた。後ろからついてくる親たちのことが念頭から消えると早歩きになってしまうので、散歩時はいつも最後尾を歩くようにしていた。

わが家で飼っていたミニチュアダックスフントも早足で、妻がリードを持つと歩きづらそうで、仕方なしにときおり空足(からあし)を意図的に踏むというかスキップするというか、そういう歩き方の工夫でうまいこと加速する自分を制御していた。

小学生時代に吃音の親友がおり、陽気な吃音者だったので、終日一緒に遊んで吃音がうつる現象が出ると一緒に面白がっていた。とっとっと歩きで発語が加速するような感じだった。

義父がパーキンソン病だったのですくみ足や小刻み歩行も暮らしの中でよく見た。床にテープで横線を描いただけで足がすくみ、縦に導線が描かれているだけでスムーズに歩け、スムーズすぎるととっとっと歩きになって転びそうになるなど、速度の制御機能の大切さを垣間見た気がした。

読書途中でこんなことを考えた。

(2018/09/24)


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◉いいおとな

2018年9月23日
僕の寄り道――◉いいおとな

大相撲秋場所が終わりまた寂寞(せきばく)とした世界が訪れた。

幼い頃からテレビの大相撲中継が好きだった。大相撲そのものよりも、明るいうちからテレビに見入っているおとなたちがいる茶の間の安定感が好きだった。

裸にふんどしいっぽん締めて本気を出しているおとなたちが好きだった。幕内力士が土俵入りで輪になってやる不思議な儀式が好きだった。西と東で扇の要(かなめ)が変わる三役揃い踏みが好きだった。雲龍型と不知火型、横綱土俵入りの露払いと太刀持ちが好きだった。最後の弓取り式を見て「よいしょ〜」と叫んでいるおとなたちも好きだった。

雲龍型土俵入り

子どもの遊びにもちゃんと「ほんき」と「うそんき」があって、ほんきをだすとルール違反という決まりごともあったし、うそんきだと「ほんきだせよな」と咎(とが)められることもあった。遊びやスポーツや芸能を通じて「ほんき」と「うそんき」の呼吸を学びながら子どもはおとなになる。

寄せ太鼓で集まり、跳ね太鼓で散りじりになる人びとをズームアウトしてプツッと切れるテレビ中継終了画面の寂寥感(せきりょうかん)が好きだった。みんな。いいおとなだった。

(2018/09/24)


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