【北街道のツクシ】

【北街道のツクシ】

 編集委員をつとめている雑誌『季刊清水』の編集会議で帰省した。
 年度末仕事が忙しいので午前10時ぎりぎりまで仕事をし、代々木バスターミナル11時20分発の駿府ライナーに乗り、大内観音前入口バス停に降り立ったら14時40分だった。
 高部のフレッピーが閉店してしまったので、墓に供える仏花(ぶっか)を買う店がなくて困ったと書いたら、北街道沿いにあるセブンイレブンで売られていると教えていただいたので、さっそく行ってみたらちゃんと売られていた。生産者から直接仕入れているといった意味の張り紙もあり、これならフレッピーで買っていた頃と同じものが買えると喜び、寺の住職に話したら、フレッピー清水野菜村に品物を持って来ていた農家が野菜も売っているので重宝するという。

|北街道沿いのツクシ|2012年3月30日|

 忙しくて春の彼岸の墓参りがてきなかったけれど、供えていただいた花があったのでありがたく交換し、掃除を済ませ、線香をあげて墓参りを終えた。
 北街道に戻ったら道路際にたくさんのツクシがはえており、このあたりで子どもの頃ずいぶんツクシを摘んだなと懐かしく思い出した。編集会議のある草薙まで歩くことにし、祖父母が暮らしていた巴川沿いを歩いたら、やはりそこにも一面のツクシが昔のように風に揺れていた。過酷なほどに景色は変わっても、小さな植物の根強さは人の慰めになる。

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【しみづ道と藪下の道】

【しみづ道と藪下の道】

 打ち合わせで通う根津の出版社まで本駒込から徒歩で行くと、郷里静岡県清水入江南にあった生家から美濃輪町の魚初まで買い物に歩いた距離にほぼ等しいのが嬉しくて、天気のよい日は歩くことにしている。
 魚初のご主人に、帰りは昔の人が踏み分けた古道「しみづ道」を辿ると楽だと教えられて以来、必ずその道を歩いたものだが、平坦に見える清水も浜堤の連続した斜面なので、昔の人が選んだ道は歩く人にやさしくて疲れない。
 本駒込から根津までは富士神社前から駒込病院脇を通って動坂上、動坂上から本郷保健所前を通って団子坂上、団子坂上から根津神社までという本郷台地の縁を行くのが楽で、その道を藪下通りまたは藪下の道という。

このあたりも、”海”にむかって、急勾配をなしている。本郷千駄木の団子坂も、そうである。その坂の上(本郷駒込千駄木町二十一番地)に、森鴎外(1862~1922)が住んでいた。鴎外は、それより前、近所の本郷駒込千駄木町五十七番地にいたのだが、明治二十五年(1892)に越してきて、終生のすまいになった。ときに、満三十歳であった。(司馬遼太郎『藪下の道』)

|藪下の道に直交する石段|2012年3月27日|

 こうして辿る道を明治初め頃の地図で探すと、ちゃんと記載されているので江戸時代には既にあった古道なのだと思う。ここでも昔の人が踏み分けた道は歩く人を疲れさせずにやさしい。富士神社を過ぎて駒込病院(昔は避病院)脇に至るあたりの左側は雑木林とあり、由井正雪が乱の予行練習をしたという道灌山あたりは人目を忍ぶのに相応しい場所だったのだろう。
 観潮楼を過ぎて根津神社に向かう途中、右手から下りてくる石段があるので写真を撮り、この道もまた古道だろうと古地図を見たら、この石段が突き当たる藪下の道左手は、かつて大きな茶畑だったことがわかった。藪下の道あたりには大小の茶畑が点在していたのであり、それもまた郷里清水を思い出して懐かしい。

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夕日の記憶

 日が西に傾いて地平線近くになり、真正面から夕日を受けて眩しいという体験を、中学生になって初めてしたように記憶ができている。
 下町とはいえ東京は建物が建て込んでいて、夕日が地平線近くになる前に遮られるので、眩しさを我慢して夕日に向かって立つなどという体験はなかなかできなかったのだけれど、転校同様に引っ越した静岡県清水の学校は驚くほど校庭が広大で、夕暮れ時になると地平線近くまで夕日が落ちた。
 そういう広大な校庭があるので、休み時間に子どもたちがする遊びがサッカーなのにも驚き、サッカーなどやったことがないのでルールもよくわからないまま仲間に入り、ボールを追ってただ走り回る校庭の真正面に、眩しく赤い夕日があった記憶が鮮明に残っている。

|本郷通りにそって並ぶビル群がうける夕日|2012年3月26日|

 北西向きの窓を遮っていた六義園内の木々が切られ、日没間近の夕日が真横から差し込むようになったので仕事場のカーテンを閉める。カーテンを閉めると夕暮れ時なので義父母の住まいの戸締まりに行く、というのが晴れた日の日課になっている。
 北陸富山の家を引き払って上京した義父母が十数年間暮らした南東向きの窓辺に立ったら、地上の日照を遮るビル群が真正面から夕日をうけており、義父母はこういう光景を美しいと思ったことがあったのだろうかとふと思う。都会人的にねじれた感慨を別にすれば、やはり郷里静岡の夕日が記憶の中で美しいように、義父母もまた日本海に沈む夕日だけを、美しい風景として心の中に持っていたのかもしれない。

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黄色い花と赤い実

 六義園内にしだれ桜の咲き具合を見に行く気も起きないほど今年は肌寒く感じられ、ようやく暖かい午後になったので出かけてみたら、やはりまだ蕾の状態だった。それでも例年しだれ桜と一緒に咲くサンシュユは黄色い花を咲かせ、しだれ桜目当てに入園したらしい人たちも、黄色い花の存在に気づいてカメラを向けており、連れに
「これ何の花かしら」
と尋ねられ、慌てて表示板を探し、
「ええと、サンシュユ、そうサンシュユだったわ」
などと言い、しだれ桜見物のついでに見つかる花の立場に甘んじさせて申し訳ない。

|しだれ桜裏手のサンシュユ|2012年3月25日|

 サンシュユは別名山茱萸(ヤマグミ)なので、春に黄色い花を咲かせたのち、秋には小さな赤い実をつけるはずなのだけれど、考えてみたら赤い実をつけたところを見たことがない。しだれ桜が終わってしまえば秋の紅葉までまた園内も静かになるので、サンシュユが赤い実をつけたことに気づく人は少ないのかもしれない。今年こそは必ず見つけたい秋の風景をメモしておく。

|しだれ桜裏手のサンシュユ|2012年3月25日|

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ユズに降る雨

 老人ホーム裏手は南南東向きになっており、日当たりのよい民家との間にユズの木がある。
 三月に入っても寒い日が続いて雪が降ったりし、枝に残った柚子をヒヨドリが盛んにつついているので
「かわいそうに、春が遅いので食べるものがなくなり、とうとう酸っぱいユズの実を食べ始めたか」
などと思いながら、義母の昼食食事介助が終わるのを待っていた。

|特別養護老人ホーム裏手のユズ|2012年3月24日|

 3月24日は朝から雨で、それでも昼過ぎには上がるという予報だった。
 ふと窓の外を見たら、ヒヨドリたちが食べ散らかしていたユズの実がひとつ残らず消えてしまい、吹きだした新芽がやわらかな雨に濡れていた。郷里静岡では全国に先駆けて桜が咲いたという報せも飛び込んできて、遅い遅いと思うわりには、騒ぐほどの遅れもなく春が来たのだなと思う。
 そう思ってみると、枝に残って熟しすぎ今にも落ちようとする頃がユズの食べ頃なのかもしれなくて、待ってましたとばかりに掃除を兼ねて鳥たちがついばみ、春の雨に打たれてきれいに落下し、気持ちよくなったところで若葉が吹き出すという、非常によくできた仕組みで季節は着実に移ろっているのかなとも思う。
 季節の変わり目で心があたふたとするのは人間だけかもしれない。(2012年3月24日の日記)

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本村睦幸さんの「小さな室内楽の会」にでかけた話

 本村睦幸さんのリコーダー演奏好きな家内に連れられて、「小さな室内楽第6回『リコーダーと木琴による小さな室内楽』リコーダー本村睦幸、木琴通崎睦美」を千駄ヶ谷まで聴きに行った。小さな音楽室に20名限定で聴かせてくれるこのシリーズは二度目で、やっぱり至近距離で演奏を見聞きできるだけで、とくにリコーダーはお得だなと思う。

「オランダ出身のヤコブ・ファン・エイクはリコーダー(笛)のための曲をたくさん残しましたが教会でカリヨン(鐘)奏者だったわけで、その曲を笛ではなく鐘をつくように木琴(シロフォン)で演奏してくれたら意外にも素晴らしかったです。」

と twitter に呟いたら
「カリヨンは鍵盤で演奏するから手で鐘をついてたわけじゃないけどね」
と家内に突っ込まれ、「鐘がつかれるように」と書けばよかったかなと思う。一瞬のつぶやきも無限倍の時間をかけて読まれるので気軽じゃない。

|通崎睦美さんが演奏する木琴|2012年3月23日|

 会場に入ったらまず「ディーガン(Deagan)」と書かれた大きな木琴が目についたので、開演を待つ間にネット検索したら、これはなんとシロフォン奏者だった平岡養一さんのご家族から通崎睦美さんに贈られたものだった。
 Deagan 社の名前に並んで郷里の楽器メーカー YAMAHA とあるのが不思議で、通崎さんの「低音方向に音域が広げられた」という解説、ネットにある「平岡が自身で改造を重ね愛用していた」という文章から、改造に YAMAHA が関わったのかしら、などと想像してみたけれど直接うかがうほどのことでもないのでひかえた。

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打ち合わせ帰りに春の花散歩

 

 このところ根津の出版社での打ち合わせは昼食時を過ぎた午後二時と決めている。
 今年は寒い春になっているけれど、久しぶりに春らしい陽気になったので帰りは歩いてみたら、梅や木瓜に混じって桜も開花しており、うららかな午後の花散歩になった。
 不忍通り根津神社入り口で左折し、根津神社鳥居前から東大地震研究所脇の権現坂を登り、日本医大と漱石旧居間の道を向丘へ抜け、駒込大観音のある光源寺境内を散策し、本郷通りに出て仕事場に戻った。ネット上で距離を測ってみたら 2.8km ほどの散歩だった。

|光源寺境内にて|2012年3月22日|

|権現坂上聖テモテ教会の桜|2012年3月22日|

 2.8km は郷里静岡県清水ではどれくらいになるのだろうと地図上で測ったら、入江南にあった生家から久能道を進み、八千代町を過ぎ、美濃輪稲荷脇を通って魚初に寄り、次郎長通りを抜け、港橋を渡り、エスパルス通りを経てドリームプラザまで歩いたのと同じだった。帰省中はよくそのコースを歩いたなと懐かしく、これから根津で打ち合わせの時は、生まれ故郷にいるつもりで歩いてみようと思い、そういうことに適した季節になった。

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食生活と読書生活

 食生活というのは「口から食物を取り入れ」「消化器官で消化・吸収し」「肛門から排出する」という仕組みなのだけれど、「消化器官で消化・吸収し」という部分だけは意識してコントロールできない。コントロールできない部分を心配していてもしょうがないので、「口から食物を取り入れ」「肛門から排出する」「口から食物を取り入れ」「肛門から排出する」…という概日リズム(がいじつリズム、Circadian rhythm)的な繰り返しをていねいに意識して行うことだけが、健康な食生活をコントロールする根本的方法なのかもしれない。
 お日様が昇って明るくなったら起床し、お日様が沈んで暗くなったら就寝する、口からしっかり物を食べたら、お尻からしっかり排泄する、そういうことをていねいに繰り返せるよう支えることこそが、介護の基本なんだろうなと義母を見ていて思う。

|空いていた隣に引っ越しがあり、また新聞が配達され始めた|2012年3月22日|

 読書もまた食生活の仕組みと似ている。食生活の「消化器官で消化・吸収」するという行為に当たる部分も、実は意識してコントロールできない領域にあるのかもしれなくて、「口から食物を取り入れ」「肛門から排出する」ように、ていねいに「読んでは」次の読書に集中して「忘れていく」ことだけが大切で、立ち止まって内容を消化・吸収しようと意識して試みることは有効でないような気がする。
 ここしばらくの間、twitter や Facebook などに深入りし、ネット世界でオンライン状態になっていることが多かったので、オフでいることを心がけで読書をしたり日記を書いたりしている。読書は複数の本を同時並行して読み始め、気の向いたときに気の向いた場所で気の向いた本を読んでいる。しばらくそうしていたらおもしろいもので、読むスピードが速くなり、集中力が戻ってきて、読み飛ばして忘れているつもりでも、心に残るべきものはちゃんと記憶されて残っているのを感じるようになった。脳による情報の消化・吸収もていねいなリズムだけが肝要、食生活とそっくりなのではないかと思う所以だ。

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ティッシュの厚み

 郷里静岡県清水で母親が一人暮らしをしていた頃、街頭で配られているポケットティッシュを貰っては、段ボールいっぱい貯まると送っていた。飼っていた犬の散歩をさせるとき、糞の始末に使うのだそうで、清水ではティッシュ配りなどないので手に入らないと言うのだった。友人たちにも頼んでいたので段ボールひと箱など瞬く間にいっぱいになり、母は犬の糞を拾って尻を拭いてやる以外に、自分の洟もかんでいた。

|秋葉原で貰ったポケットティッシュ|2012年3月20日|

 最近またせっせとポケットティッシュを貰っているのは、毎日老人ホームに通っている家内が、母親の食事介助にティッシュペーパーを使うからで、お尻のかわりに口のまわりを拭いている。1日ひとパック使うので積極的に手を差し出しては貰っているが、不景気なので枚数の少ない薄っぺらなポケットティッシュも多く、大手不動産業者とサラ金が配っているものは厚い。秋葉原を歩いていたらアニメのコスプレをした少女がティッシュ配りをしていたので貰ってみたらこちらも厚かった。

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熨斗(のし)と水引(みずひき)

 マンションで隣り合った区画に新たな入居者があった。
 一つビルを挟んだ並びに、老朽化に伴い、間もなく建て替え工事にはいるマンションがあり、
「建て替えが終わるまで、二年間という短いおつきあいになりますがよろしくお願いいたします」
と年配の女性が挨拶に来られた。自分がそういう立場だったら、やはり「短いおつきあいになりますが」と言うだろうと思うけれど、二年間というのは想像するとずいぶん長い。マンション建て替えにはそれくらいの工期が必要なわけだ。

|蝶結びと宝づくし|2012年3月20日|

 手土産にいただいたタオルセットが入った箱に熨斗(のし)紙がかけられており、「蝶結び」の「水引」と「宝づくし」の「熨斗」が印刷されていた。
 日本古来の「結び切り」や「あわび結び」の「水引」は固くて解けにくいので、そういう出来事が再び繰り返されないようにという願いを込めて用いられるが、「蝶結び」は何度でも結び直せるので、こういった慶事の挨拶に用いられる。鶴亀はいないけれど松竹梅をあしらった「宝づくし」の「折り熨斗」が刷り込まれているが、こうやって「水引」にかかるように配置されるのは東日本式で、西日本に行くと「水引」と「熨斗」が離れているのだそうだ。

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シール剥がし

 シールは貼るより剥がしたい。たまに貼ってみることもあるけれど、すぐ嫌になって剥がしてしまうので非常にばからしい。
 電気製品などを買うとたくさん小さなシールが貼られていることが多いけれど、使い始める前にまずすべて剥がしてしまう。お金を払って買った物に宣伝用シールがペタペタ貼られているのを見るのが不快なのであり、接着剤が残らないようきれいに剥がすとすっきりして気持ちいい。それに貼ったままにしておくと、貼られていた部分とそうでない部分の境目に消せない跡がついてしまい、電子機器に膏薬の跡があるようで不快きわまりない。

|キャップに貼られたシール|2012年3月19日|

 飲み続けると高血圧抑制効果があるという、ゴマペブチド含有の清涼飲料水を毎日一本飲んでいる。常に数日分は買い置きしてあるが、このところキャップにシールが貼られていて「あたり」がでると何かが貰えるらしい。めくってもめくっても「はずれ」ばかりなので、当たることへの期待などとうに失せているのだけれど、コンビニでまとめ買いしてくるたびに、一気にめくって剥がしたくて仕方ない。
 ただしこの場合は、シールを剥がすのが好きだから一気に剥がさずにおられないのか、もしかしたら当たるかもしれないという射幸心が心の片隅にあって、それに抗うことができないので剥がしてしまうのかがわからない。はて、どちらなのだろうと考えてみるけれど、そういう些細なことほど自分ではわからないし、わかったところでシールくらいに小さなことだ。

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ドロイドくん体操

 毎朝するラジオ体操。清水の戸田書店でむかし買った NHK ラジオ体操のカセットテープが手元にあり、それを MP3 データにしたものをパソコンやスマートフォンに入れて再生している。もっと手軽にスイッチポン!で使える再生装置、いわば「ラジオ体操専用 MP3 プレーヤ」みたいなものがないかと長いあいだ探し続けており、やっと「これだ!」というものを見つけた。
 Android のマスコットキャラクタ「ドロイド君」型の MP3 プレーヤで、マイクロ SD カードにラジオ体操のデータひとつだけを入れておけば、希望通り選曲不要の「ラジオ体操専用 MP3 プレーヤ」になるわけだ。秋葉原で 1,980 円だった。

|ドロイド君型音楽プレーヤ|2012年3月18日|

 頭を長押しすると MicroSD(MP3)プレーヤ、FM ラジオ、スピーカーという順で三つのモードが切り替わり短く押すと停止・再生ができる。頭を時計回りに長回しするとボリュームアップ、反時計回りでとボリュームダウンでき、MicroSD の MP3 データ再生中に頭を時計回りに回すと曲先頭に戻れる。FM ラジオモードでは左に回すと前の局、右に回すと次の局になり、局をスキャンして記憶する機能もある。充電は USB ケーブルで行え、ケーブルは外部音響機器接続のためのミニジャックと兼用になっているが、面白いことにそのケーブルは FM アンテナがわりになる。

|再生中のドロイド君型音楽プレーヤ|2012年3月18日|

 思っていたより再生音が大きいので、屋外でも使えそうに思う。ドロイド君が腕を動かして体操をしてくれる機能まではついていないけれど、再生中は「唄っていますよ」というように首回りの色が変化する。ドロイド君をラジオ体操指導員に見立てて体操すると妙に楽しく、NHK はマスコットキャラクター「どーもくん」型ラジオ体操プレーヤを作って売ったらいいのにと思う。

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【山行き里行き】

【山行き里行き】

 

 漠然と山は好きだけれど、高い山に登ろうと言われると腰が引けてしまい、郷里静岡県清水で2007年に他界した友人を供養するため、富士山頂に登ろうと言われたときも、高血圧なので心臓に負担のかかる運動を止められている、というのを口実にして断ったりした。

 山と平地は、あの世とこの世の関係に似ているように思え、登っている途中で里恋しさに帰りたくてたまらなくなるような気がするし、あるいは逆に、登ってしまったら下山して俗世間に戻るのが嫌になりそうな気もし、いずれにせよ辛そうなので登山はいやなのだ。そういう辛さを味わうことを死と蘇りの代償行為として、迷いを捨て心を浄化したいという衝動が登山好きを突き動かしているようにも思え、そういう代償行為などもっと身近な人里にもあるではないか、というのも平地にしがみついて逃げるための口実にしている。

|昨秋、歩いて日本平に登った際に拾った栗|2012年3月17日|

湯川 姥捨て伝説というと、柳田国男の『遠野物語』の111挿話を思い出します。遠野の山口という小さな集落があります。集落は、小さい沢に沿ってあって、その片側の山の中腹にダンノハナという小さな村の墓地があって、ダンノハナのちょうど向かい側に蓮台野という台地がある。山口集落では六十歳になった老人たちを蓮台野にあげたというんです。でもすぐには死なないから、日中は降りて畑を手伝ったりする。それで一食の夕飯をもらって、また夜は蓮台野にあがっていく。そうしているうちにだんだん弱って死んでしまうんでしょう。その蓮台野にいる老人たちは、毎日毎日、対岸にある蓮台野の墓地を見ながら暮らした、というすさまじい伝承が書いてあるんですよ。
池内 山里の掟ですね。姥捨伝説、不要になった老人は山に消えるという山国のきまりは全国にあったと思います。六十歳で姥捨てなら、われわれはとっくに捨てられてくたばってますね(笑)。(池内紀+湯川豊『考える人』2012年冬号|特集・ひとは山に向かう|新潮社)

山行き里行きを繰り返すうちにやがてお迎えが来るというのも、迷いを捨て心を浄化して死を受け入れる仕組みのひとつだったんだろうなと、自分にももうすぐやってくる姥捨ての年頃を思う。

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ハロー・サンシャイン

 かつて仕事をしていた4階の部屋は窓から六義園の緑しか見えなくて、日当たりは悪いけれどそれはそれで得がたい癒やしの環境になっていた。
 その4階上の区画が空いたのでリフォームして引っ越したのは1996年頃だと思う。すでに高さ243.4メートルの東京都庁第一本庁舎ができてその座を譲ったものの、1990年12月までは日本一だった高さ239.7メートルのサンシャイン60がよく見えた。4階上がることで眺望が開け、緑の雲海の上に顔を出したような気分だったのをおぼえている。

|六義園越しに見えるようになったサンシャイン60|2012年3月16日|

 それから15年以上が経過し、いつの頃からかサンシャイン60が見えなくなり、眼下にあった六義園の木立が正面に見えるようになった。木々が育つ速度は意外に速く、なかでも最も成長著しいヒマラヤスギが視界を遮ることで眺望が失われたのだった。この春から六義園正門脇の公園管理事務所改築が始まり、大きな施設ができるようで敷地が拡張された。それに伴って大きな木が何本か伐採され、巨大なヒマラヤスギも切られて運ばれて行き、その結果窓外にはまたサンシャイン60が見えるようになっていた。数本の木がなくなることで開ける空間は意外に大きくて、仕事場も明るくなったが東側にあるしだれ桜に対する日照も、多少良くなったかも知れない。

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シノブの由来

 仕事場に小さな釣り忍(つりしのぶ)がある。他界した母はそれを「おばあちゃんの釣り忍」と呼んでおり、祖母が手作りしたものを貰ったのだという。清水から上京する際、手土産として持ってきたのだが、祖母が清水の特別養護老人ホームで他界したのが1996年なので、その頃の形見分けだと思う。

|おばあちゃんのシノブ|2012年3月15日|

 貰ったものの自宅の雨がかからないベランダに吊しっぱなしにし、水やりもせず何年も放置していたが、枯れることもなく生き延びた。あまりにけなげなので仕事場に持ってきて、吊すのではなく観葉植物パキラの鉢に置いたら、褐色の鱗片がある茎をぐんぐん伸ばし、元気よく葉を広げている。「おばあちゃんの釣り忍」は「置き忍」に転生したわけだが、元気余ってパキラに絡みつき出したらどうしようか、とちょっと心配している。

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