【清水平野の冬】

【清水平野の冬】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 28 日の日記再掲

清水は沖縄などを除けば、年間平均気温では日本一暖かい町だ、と高校の地学の教師が言った……と思う。
 
「地域気象」という小地域にもそれぞれ個性的な気象があることが面白いと教えてくれたのも彼であり、三保、駒越あたり、清水市街地と微妙に気象的特徴が違うことを、日々の天候を例に挙げて説明してくれた。

静岡県清水江尻町。稚児橋から巴川橋越しに見る山々。何段もの山襞による遮蔽。

KONICA MINOLTA DiMAGE Z3

毎晩 NHK 総合テレビで、関嶋さん、平井さん、半井さんと義父母が好きな天気予報のハシゴをし、
「寒気の吹き出しに伴う筋状の雲が……」
などという冬特有の言い回しを聞きながら衛星画像を見ていると、日本列島を背骨のように走る山地に突き当たった寒気が、山地の隙間を通って太平洋側に吹き出しているのがわかる。そういう典型的な寒気の通り道である関ヶ原付近はもちろんのこと、今日( 1 月 2 8日)の衛星画像を見ると、関門海峡付近や室戸岬上空や紀伊水道などからも筋状の雲が太平洋上に吹き出しているのが見える。

郷里静岡県清水の山間地でも雪が舞った、などという知らせを貰う日は衛星画像を詳細に見ると、大井川上流とか興津川上流の山地にも寒気の吹き出しに伴う筋状の雲が見えることがあって、なるほど、これなら静岡県にも雪が舞うわけだ、と納得する。

ズームアウトして日本列島全体を眺めるとき、地球の北西にある大陸から日本海を越えて冬の寒気が吹き出し、日本海側に大雪を降らせ、さらにその寒気の勢いが強くて万里の長城のような中央山地を乗り越えて太平洋側に吹き出そうとするとき、人が寒気吹き出しの直撃を受けない場所を見つけ、かがみ込んで難を逃れようと思ったら大井川水系と興津川水系に挟まれた山の陰である清水平野にかがみ込むと思うのだ。

静岡県静岡七間町より。遙かむこうに南アルプスの山々が見える。あそこは凍えるように寒い。そしてその向こうには日本海まで延々と続く雪国がある。

KONICA MINOLTA DiMAGE Z3

東海道新幹線に乗って帰省する際、富士川鉄橋を渡る前に、静岡のミカンが実るポカポカ日当たりの良い山の遙か向こうに真っ白く冠雪した山並みが見え、甲斐の山並みかなぁと思う。そして静岡市七間町でビルに登ったら茶畑が連なる静岡の山並みの向こうに真っ白く冠雪した山並みが見え、信濃の山並みかなぁと思う。

静岡市にある芹沢銈介美術館では春の企画展として 1 月 28 日から 5 月 21 日まで『朝鮮の民画』展を開催するという。面白そうなので見に行こうと思う。新静岡に向かう静岡鉄道車内にて。

Panasonic DMC-FX8

清水の街の飲食店で呑んでいる客の声に耳をすますと
「今朝はばーかさみーっけなぁ」
「おう、朝方にゃあ竜爪の先っぽんしれーっけよ」
「気がつかないっけやぁ」
「ちいっといとんたつと消えちまったんて昼間ははあぬくといっけだなぁ」
などと薄手の作業着姿の男たちが冷たいチューハイなどを飲んでいるのを見るにつけ、清水という土地の温暖な特異性を再認識する。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

赤坂のかまくら

東京都港区赤坂四丁目。
丹後坂を下って行ったら可愛らしい「現代風かまくら」があった。
1月21日の降雪で積もった雪を集めたのだろうが屋根付きドームを作るには資源が足りなかったらしく、
昔の西武球場みたいだ。


撮影日: 2006.01.25 1:37:07 PM
KONICA MINOLTA DiMAGE Z3

「ご自由にお入り下さい」「入って見てね」と書かれているが、
僕の図体ではどう考えても屋根を取り払わないと入れそうにないし、
他人の敷地で用足ししているようにしか見えそうにないので、写真を撮るだけにしておいた。

滅多に雪の積もらない東京らしい冬の風物詩である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

どんぐりの背比べ

東京都文京区本駒込一丁目。
旧白山通り白山上交差点に面した商店の飾り窓。
たくさんのどんぐりが押し合いへし合い背比べしていた。
なんとなく「ナンセンス」の匂いがして
視覚的に感じる温もりがあっていいなあと思う。



大豆と一緒に盛りつけられているのは節分に配慮してかな。
大豆と一緒の奴はたくさんの赤鬼・青鬼になっていて可愛い。



こういうのを見ると縁側に腰を下ろして
自分でも描いてみたくなる。


撮影日: 2006.01.19 0:51:46 PM
KONICA MINOLTA DiMAGE Z3

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

うけらの神事と女の一生

東京都台東区上野一丁目。骨董品店店頭にて。

2月3日、上野公園内五條天神社で「うけらの神事」が行われると書かれた
ポスターがガラス戸に貼られていた。
悪鬼を追い新春を迎える儀式だそうで、古式に従い神職と鬼が問答をし、
うけら焚きをして一切の悪鬼、悪業を退散させるのだという。


撮影日: 2006.01.18 2:44:51 PM
RICOH Caplio R3

おけら【朮】(ヲケラ)
キク科の多年草。山野に自生。茎は下部木質。若芽は白軟毛を密にかぶる。高さ約60センチメートル。葉は硬く、縁にとげが並ぶ。秋、白色か淡紅色の頭花を開き、周囲にとげ状の総苞を具える。根は健胃薬。正月用の屠蘇散とし、また、蚊遣(かやり)に用いる。若芽は山菜として食用。古名、うけら。(広辞苑第五版より)

このおけら(うけら)を焚くというのは、昔は土蔵や納戸や戸棚などの虫退治として
大切な婦人のつとめだったらしい。
婦人といえば同じ骨董品店のガラス戸に「女の一生」と題した
美術展のポスターが貼られていた。


撮影日: 2006.01.18 2:45:14 PM
RICOH Caplio R3

こういう婦人の姿と「女の一生」というタイトルの組み合わせが何とも言えない。
何とも言えないので何ともいわずに写真だけ撮ってこの日記に掲載しておく。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【旧東海道の「勝手にしやがれ」】

【旧東海道の「勝手にしやがれ」】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 25 日の日記再掲

実家片付け帰省して旧東海道静岡県清水江尻町を歩いていたら、白黒斑で乳牛(ちちうし)のような模様のイヌが舗道上でひっくらかっていた(清水弁でゴロゴロしていた)。

乾燥した真冬、人間は身体が乾燥して痒くて溜まらず、とくにふくらはぎが痒くてわが義父などは血が出るほどに掻きむしって娘に怒鳴られているが、その娘も実は血が出るほど掻きむしりたい人であるのを僕は知っており、作家山口瞳のエッセイを読んでいたら彼もまた掻きむしりたい人だった。

イヌやネコが後ろ足で器用に首筋や頭を掻きむしっている姿をよく見るが、気の毒なことにイヌやネコは足を後ろへ回して背中を掻きむしることができないし、気の毒なことに孫の手も使えない。

イヌやネコもまた血が出るくらいに背中を掻きむしりたい衝動があるに違いなく、掻きむしるような快感に身を任せてしまったら引き綱を持つ飼い主など意識から消えてしまうこともあるのだろう。

KONICA MINOLTA 
DiMAGE Z3

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【臭いのマトリョーシカ】

【臭いのマトリョーシカ】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 23 日の日記再掲

五感のうち耳・舌・鼻・皮膚での体験は、視覚的体験より闇の中での体験とも言える分だけ観念的なのか、他人と共有するのがひどく難しいし気がする。

母の介護中に知り合った久能街道沿い村松原でミカン農家の奥さんは、母がとびきり気に入っていた日本平ミカンを買いに行くと、
「今日は自動車で清水に帰られたん?」
と聞き、
「いいえ電車です」
と答えると
「じゃあこれ持ってって!」
とずっしりと重い大根をくれたりし、逆じゃないかなぁと思うのだけれど、自動車であろうが電車であろうが大根を土産にくれたかったに違いなく、彼女もまたお父さんをすい臓ガンで亡くした人だった。

昨年末に極早生温州ミカンを送ってもらった支払いに行くと、
「じゃあこれ持ってって!」
とずっしり重いハクサイをくれたりして苦笑いしてしまったが、1 月 20 日金曜日に再びミカン代金を支払いに行ったら、
「今日は自動車で清水に帰られたん?」
と聞くので、
「いいえ電車です」
と答えると
「じゃあこれ持ってって!」
と自家製ハクサイキムチをもらった。
「臭うかもしれないけど持ってって」
と言い、逆じゃないかなぁと思うのだけれど、自動車であろうが電車であろうがハクサイキムチを土産にくれたかったのだろう。

静岡県清水岡町。柳宮通り沿いにファミリーマートができてこの一角が明るくなっていた。町が明るくなるのに反比例してそのあたりの黄昏空は暗くなり、日暮れが一足早くなる。子ども時代の帰り道、家々の明かりが灯るたびに一段一段暗くなったようで心細かったのと同じ原理だ。

RICOH Caplio R3

静岡県清水下清水町。久能街道沿いにある秋葉山常夜灯に明かりが灯っていた。日暮れてからの外出でないと気づかないこともある。いつ頃から常夜灯に灯が灯るようになったのかは知らないけれど、いいものだなと思う。視覚的にあたたかさを感じる明かりとそうでない明かりがあり、前者の好例である。江戸時代に海の漁師の心にも岡の温もりを届けたという昔のままの明かりである。

RICOH Caplio R3

母の墓参りをした帰りに叔父夫婦を訪ねたら、沢庵を漬けたから持って帰るかと言い、叔父はほんの少しでも砂糖の入った沢庵がだめで、甘味料無添加の沢庵を毎年漬けるのだという。母と弟の好みが酷似しているのがほほえましい。
「そういえばお前の実家に行って沢庵を土産に持たされて、電車の中で変な臭いがする、何の臭いだ、臭う、臭う!ってみんなが言い出して体裁の悪い思いをしたことがあったっけなぁ」
と叔父が叔母に向かって懐かしそうに笑う。叔父たちが若夫婦だった時代は、今のように密閉容器やビニール袋が家庭にふんだんにある時代ではなかったから、沢庵を持ち運ぶのは大変だったんだろうなと思う。まじめに作った糠漬け沢庵の臭いは強烈である。

RICOH Caplio R3
 
叔父夫婦にもらったビニール袋に入れて新聞紙で包まれた沢庵を、実家に帰ってさらに静岡市推奨ゴミ袋に入れ空気を抜き口を絞ってぎゅっと結び、さらに美濃輪稲荷赤鳥居前の魚屋でもらった保冷バッグに入れてジッパーを閉めて厳重に封印し、入江岡駅から静鉄電車に乗り、新静岡駅で降りて紺屋町あたりを歩いていたら手提げバッグの沢庵がぷんぷん臭う。
 
「(参ったなぁ、あんなに何重にも封印したのになぁ)」
と心の中で舌打ちをしながら、七軒町の友人訪問を終え、静岡駅ビル『パルシェ』で手みやげのイチゴ「紅ほっぺ」を買い、ついでにビニールの手提げ袋を一枚余分にもらって保冷バッグに入った沢庵をバッグごと入れ、空気を抜き口を絞ってぎゅっと結び、さらに「紅ほっぺ」の入ったビニール手提げ袋に沢庵マトリョーシカ状態を入れ、空気を抜き口を絞ってぎゅっと結び鼻を当ててみたら全く臭わない。ああ良かったと東京行きこだま号に乗って東京駅に着き、網棚からおろしたらまた臭う。

清水も静鉄車内も紺屋町も七軒町も新幹線車内も異臭騒ぎにならずに突破したが、東京駅から駒込駅までの山手線内が最大の難関である。女子高生が大挙して乗ってきたりし、
「なんか変な臭いがする~、なにこれ~」
などと騒ぎだし、彼女たちはきっと沢庵の臭いなど知らないだろうから、
「あ~っ、○○○の臭いだ!」
と一人が言うと
「ほんとだ~○○○の臭い、○○○、○○○!」
「誰か電車の中で○○○しちゃったんだ~」
「キャハハッ」
などという騒ぎになったらどうしようと思う。東京駅を発車した山手線内回り電車は駒込駅に着くまで進行方向右側のドアは開かないので、そのドア脇の床に置いて離れた席に座っていることにしたが、見ないようにしようと思っても異様な梱包マトリョーシカに眼が行ってしまう。
 
沢庵の臭いは手強い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【土曜日の夕方、『つばめ鮨』で】

【土曜日の夕方、『つばめ鮨』で】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 21 日の日記再掲

インターネットで知り合った新潟県在住の友人の息子さんが国立清水海上技術短期大学校に在学中なので、清水にいる間の思い出づくりに呼び出して夕飯を一緒に食べることにした。

新潟在住の友人は僕と同い年であり、インターネットでメールを交わすうちに我が母が昨年の 8 月 8 日、彼のお父さんが 8 月 7 日に、ともにガンで他界するという奇妙な縁もあった。

そのお父さんが国鉄の機関手をされていたと聞き、かつて国鉄の列車で寿司を握っていたという噂のご主人がいる清水大手町『つばめ鮨』に初めて行ってみた。なんとなく元国鉄マンのお孫さんを連れて訪問するのも良い供養になるのではないかと思ったからだ。

常連客には JR の社員も多く、お土産や写真は彼らがくださったものだという。

Panasonic DMC-FX8

昨年 11 月、実家のある清水入江南から興津駅まで歩く際に清水大手町で紺地に白文字で『つばめ鮨』と書かれた店を見つけ、帰京後ネットで検索したらご主人は特急つばめの食堂車で鮨を握っていたという情報を眼にし、「(そうか、紺地はブルートレインの青なのか)」と気づいたのだった。

「ご主人は特急つばめの食堂車で鮨を握られていたそうですね」
と尋ねたら意外な答えが返ってきた。
「特急つばめじゃなくて急行なにわの寿司列車で握ってたんですよ」

僕が小学生時代、住んでいた東京と生まれ故郷清水間を休みになるたびに頻繁に往復したが、乗る電車は必ず準急で特急はおろか急行に乗ることさえなかった。急行券や特急券を買って乗る列車はとても贅沢な乗り物だった。

1956(昭和 31 )年 11 月 19 日に東海道線全線が電化され、それを機会に誕生した東京大阪間を結ぶ急行『なにわ』は人気列車だった。1961(昭和 36 )年 3 月 1 日に寿司カウンターを備えた車輌(サハシ 153 )も投入され、ご主人はその列車の寿司職人だったのだそうだ。

東海道線急行『なにわ』の寿司カウンター車で寿司を握るご主人の勇姿。寿司をにぎりながら清水駅を通過する際にはどんな感慨があったのだろうか。

Panasonic DMC-FX8

1964(昭和 39 )年 10 月に東海道新幹線が開業し、新幹線利用者が急増した 1968( 43 )年 9 月に急行なにわは廃止された。

その後も旧国鉄の食堂車で働きながら全国あちこちの路線で勤務したご主人が、清水に戻って店を開いたのが 1971(昭和 46 )年だという。

ご主人は旧清水橋のところにあった『帆かけ寿司』(字が違うかな)で修行をした人であり、寿司とうなぎの店を出そうと思ったのだが、
「清水はそういう中途半端なコンセプトでは一段格下と見られがちな気風があるから寿司一本に絞れ」
と親方に諭されたのだという。

清水の昔話や、全国の鉄道路線の思い出話を聞きながら、にぎり鮨という小さな車輌がカウンターに並んでいく様子もまた、のんびりした汽車の旅のようである。寿司列車で握る姿そのままでご主人が若き船乗りの卵に気さくに語りかけてくださり、船と鉄道の話しをしながら清水大手町に黄昏が迫り寄る。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【金曜日の夕方、巴町『七福』で】

【金曜日の夕方、巴町『七福』で】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 20 日の日記再掲

 

平日の夕方、5 時半頃に待ち合わせて一杯飲もう、などと誘って応じてくれる友人がいたら余程恵まれた暮らしをしているかその逆かのいずれかであって、たいがいの人はまだ額に汗して働いている時刻である。

実家片づけ帰省があるからこそ、郷里静岡県清水で平日の黄昏時に一杯飲みに出る機会があるわけで、そんな時刻から付き合ってくれる同じ境遇の友人などいないので、ひとりが似合いそうな居酒屋を探して一杯飲む。

静岡県清水巴町。静岡鉄道新清水駅に下り列車が到着する。
RICOH Caplio R3 

静岡県清水巴町。やきとり『七福』の暖簾と提灯。
PanasonicDMC-FX8

おそらく一昨年だったと思うけれど、やはり清水でそんな黄昏時があり、小さな焼鳥屋の前を通りかかったら古びたコの字型カウンターが魅力的に見えていた。暖簾に『七福』とあり入ってみたら素晴らしい店だった。そんなことをさりげなく日記に書いたらメールや掲示板でコメントがあり、何故か県立清水南高 OB からのものが多く、現在店をひとりで切り回している若主人は同校の OB なのだと、彼の同級生だった友人に教えていただいた。

『七福』の「レバ塩焼き」。この店の串焼きは持ち手に一番近い場所に玉葱の小片が必ず刺されている。タレや油が焼き手や客の手に垂れないという効能もあるのかも知れない。だがそれよりもひと串食べるごとに最後の玉葱のカリカリとした歯ごたえと清涼感で口の中がさっぱりするのが気持ち良く、玉葱に早く到達したいが故に食べるスピードが速まったりする。

PanasonicDMC-FX8

左の白いのは「とり塩焼き」、右は「はつ塩焼き」だった気もするけど「たん塩焼き」だった気もする。

PanasonicDMC-FX8

店主の出身校も年齢もわかったら愛着も倍増し、そうかあの店の内装も、一工夫あるもつの焼き方も、ひとりで飲む姿を多く見かける常連客も、みんな亡くなられた先代のお父さんから、彼が引き継いで守り続けているのか、とわかってもう一度訪問して一杯飲みたいと思っていた。そして思っているだけで何年も過ぎた。

ひとりで清水で迎える金曜日の黄昏時、5 時半に家を出て大正橋を渡り JR 東海道本線巴川橋梁の下を首をすくめてくぐり、静岡鉄道新清水駅の踏切を渡って『七福』の暖簾をくぐる。

午後 6 時前だけれど既に 10 人くらいの客が入っていて、コの字がかなり埋まっているので、入ってすぐの丸椅子に腰をかけたら、
「その席はテレビが見えませんよ」
と若主人が言うので
「いやここでいいです」
と応える。

Panasonic DMC-FX8

それから次々に客が入ってくるので、若主人に先代のこと、独特な串の打ち方のこと、南高のこと、ラグビーのこと、常連のことなどあれこれ聞いてみたかったけれど声がかけられず、背中でテレビの音を聞き、大忙しで働いている若主人を見ながら夜が更ける。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ひとり歌会始――今年のお題は「空」】

【ひとり歌会始――今年のお題は「空」】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 12 日の日記再掲

 

(森進一を聴きて詠える)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【ロラン・バルトとラーメンの適温 75 度のエクリチュール】

【ロラン・バルトとラーメンの適温 75 度のエクリチュール】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 11 日の日記再掲

文学作品というのは若い頃読んでちんぷんかんぷんでも、年を取り人生経験を積んでから再読したら胸に染み入るように味わって読めた、などということがあるので本棚に余裕があれば肥やしにならない可能性がある。

一方、若い頃読んでちんぷんかんぷんだったインテリくさい学術的な本というのは、よほど学術的鍛練を積まない限り、歳をとり人生経験を積んだところで相変わらずちんぷんかんぷんであり、僕のような年齢になってもまだちんぷんかんぷんだと、永遠にちんぷんかんぷんである可能性が限りなく高い。

静岡市研屋町。亡き母の友人が一番町でひとり暮らしされているのでお見舞いに行ってみた。帰り道は裏通りを歩き、「この辺は職人が多い町だなぁ」とふと見たら松本民芸家具の『花森家具』本店前だった。母と来たことがあり「ねえKさんって花森家具のそばに住んでたんだね」と言いたい母がもういないことにまた気づく。


SONY
 DSC-F88

学生時代に必修科目として「図学」という授業があった。

3 次元空間内の図形を平面上に表す方法を研究する幾何学。ユークリッド幾何学を基本とする。フランスの数学者モンジュに始まる。(「広辞苑」より)

「図学」の授業であったが、東大の建築の先生が講師を務めるその授業の実体は「記号学」だった。

他の事物を代理し表現する記号の機能に着目し,信号・図像・指標・象徴・観念と表象といった,多様な記号が織りなす構造を手がかりとして,文化全体の分析をめざす学問。パース・ソシュール・ヤコブソンなどが有名。(「新辞林」より)

どんな授業かというと、自分の好きな地域を選んで「記号学」的に分析し、その結果を大きなボードに「図学」的に記録するのである。

例えばラーメン屋がいつの間にかたくさんできて「ラーメン街道」などと呼ばれている場所があったら、そこにどうしてラーメン屋が集まって共倒れもせずに共存できているのかを、地理環境、交通環境、人口統計、騒音、日照度、降雨量、飲み屋の数、電柱の本数、自販機の数、街娼の有無、散歩する犬の数、野良猫集会の時間帯、生ゴミの収集日、落とし物の平均価格、街灯がちかちかする度合い、歩きたばこをする奴の数、割り箸の品質、使用済みおしぼりの汚れ具合、人気のある漫画雑誌の統計、道に落ちている爪楊枝の本数とささくれ具合……などのありとあらゆる情報を取り出してそれらのガラクタを積み重ねて「ラーメン文化の構造」をでっち上げて見せるのである。

静岡市……なのだが住所不詳。『花森家具』から続く裏通りで見つけた『紅蘭』。ふと通り過ぎたけれど、妙に記号学的に気になってふり向いて撮した写真。しばらく分析し、これは間違いなくラーメンが美味しい店だと結論を出して入ってみた。


SONY
 DSC-F88

副読本としてロラン・バルトの『零度のエクリチュール』みすず書房(1971年 ISBN 4622004658)という本を買わされたが、これがもうちんぷんかんぷんで、今取り出してみてもちんぷんかんぷんだろうし、一生ちんぷんかんぷんなまま僕は死んでゆくのだと思う。

【ロラン・バルト】フランスの記号学者、思想家。高等研究実習院(École pratique des hautes études)教授、コレージュ・ド・フランス教授。 ソシュール、サルトルの影響を受け、エクリチュールについて独自の思想的立場を築いた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

それでも記号学の授業は面白くて、卒業して何十年も経った今でも、似非記号学をこねくり回しながら町歩きをするのが楽しい。

街角でラーメン屋の前を通りかかると記号学的に分析して、その場所に開店して存在し得た年数を想像し、店名の意味するものを想像し、店の外装への金のかけ具合から店主の経済力と店の利益率を類推し、換気扇の汚れ具合から油脂の使用量を類推し、ガラスの曇り具合から几帳面かズボラかを類推し、出入りする客の服装や容貌から所属社会階層や懐具合や性格を類推し、「うん間違いない、この店のラーメンは絶対に美味い!」と結論を下して暖簾をくぐったりする。

『紅蘭』のラーメン。これは美味しい。麺は細くて真っ直ぐで清水の日本蕎麦屋の麺に似ている。さっぱりしているようで深みのあるスープ。四つ足羽つき系の骨を叩き切ってスープをとっているのだと思う。アクすくいがかかせないはずで、奥さんがしきりにそれをやっていた。「ごちそうさま」の後に美味しかった店では「すごく美味しかったです!」と言うことにしており、瞬時に笑顔が出る店は店主自身が「(うちのは美味しい)」と思っている証拠だと思う。『紅蘭』のご主人も瞬時に怖い顔が笑顔になった。


SONY
 DSC-F88

その結果、ぜんぜん予想が外れて食べたラーメンがクソ不味いこともあるが、予想通り美味しかったときの喜びは大きく、その達成感はなにものにも代えられないほどで、それこそが記号学で構造あるものにさらに論理的構造をでっち上げることの意義だと思う。屁理屈とも言うが。

おそらく記号学を通して真理を学んだのではなく世界の喜び方を学んだのだ。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でロラン・バルトを引いたらこんな風に書いてあった。

「幼くして父を亡くし、女手一つで育てられたバルトは非常に母親思いであったという」

ほらね。
亡き母も僕がたかがラーメン一杯食べるのに、この店でなくてはいけない理由を記号学的で構造主義的にもっともらしく説明してやると、
「へへ~~ん、な~に言ってるだか~~♪」
と嬉しそうに笑っていたもので、僕はそうやって母を喜ばせるのが好きだった。

記号学というのは言い換えれば自分を産み落としてくれた世界というものへ親孝行するための学問である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【地の骨と宙の足とコロボックルのおでんと焼きそば】

【地の骨と宙の足とコロボックルのおでんと焼きそば】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 10 日の日記再掲

昨年の12月28日のことである。
静岡県清水矢倉町を歩いていたら民家脇の土中から人骨が露出していた。

静岡県清水矢倉町の「地の骨」
RICOH Caplio R1

まだ赤々とした血肉の色があり、白骨化するほど古くはないと思われ、県警から鑑識班が到着する前に白い手袋をはめてちょっと調べてみたらただの植物の茎だった。

そんな他愛のないことにドキッとしてしまうのは、この通りが通称秋葉道(あきわみち)と呼ばれ、秋葉神社の大祭では真冬なのに「お化け屋敷」がかかるという、いかにも中部地方の南国清水らしいラテン系ノリの、面白怖いスピリチュアル・スポットだからである。

同じ秋葉道の辻側を歩いていたら道端に、今年( 2005 年の話しですからね)の干支の巨大な鳥が謎の死を遂げ、無念そうに足を天に突き上げ虚空を掴むように息絶えていた。

【写真】静岡県清水辻町の「宙の足」
RICOH Caplio R1

ひょっとすると鳥インフルエンザかも知れないので保健所に連絡し、白い手袋をはめてちょっと調べてみたらただの植物の茎だった。

そんな他愛のないことにドキッとしてしまうのは、この通りが通称秋葉道(あきわみち)と呼ばれ、秋葉神社の大祭では真冬なのに「お化け屋敷」がかかるという、いかにも中部地方の南国清水らしいラテン系ノリの、面白怖いスピリチュアル・スポットだからである。

静岡県清水秋吉町。
黄昏迫る県立清水東高グランド脇を歩いていたら、道端から
「おむすびころりん、スットントン」
という小鳥がさえずるように微かな歌声が聞こえ、どうやら草むらに置かれた小さな木箱の中から聞こえてくるので、地面に這いつくばってのぞいてみたらミニアチュールのように小さなおでんと焼きそばの店だった。

もっと中がよく見たいと思って身を乗り出すと、身体が前につんのめって店の中に転げ落ちてしまい、
「おだっくいころりん、スットントン、まめったいころりん、スットントン」
と笑いながら囃す声が聞こえた。

静岡県清水秋吉町。コロボックルのおでんと焼きそばの店。小さな箱の中にどう見ても本物に見えるほど精巧に作られたおでん屋のミニアチュール。おでんなどピンセットがないとつまめないくらいに小さい。「こんにちは~」と声をかけるとスプーンおばさんのようなかわいい店主が現れる。ミニアチュールなのでお勘定もミニアチュールであり、「もつ」「たまご」「はんぺん」「しのだ揚げ」はどれも50円、「こんにゃく」「じゃがいも」「だいこん」「ちくわ」はどれも40円である。

RICOH Caplio R1 

コロボックルのおでんと焼きそばの店の「焼きそば」。スプーンおばさんがスプーンのようなフライパンで炒めて、親指の爪ほどの白い皿に盛りつけて出してくれる。これでなんと200円である!コロボックルの物価は安い。

RICOH Caplio R1 

「こほん!」とひとつ咳払いをしてやると囃し声が消え、ここでタイミング良く懐中時計を取り出したいところだけれど持っていないので腕時計を見ると、原寸大の世界は師走のせいか針が高速に回転しすぎてよく見えない。

仕方なしに壁の小さな掛け時計を見ると午後 4 時を 15 分ほどまわったところだった。極小の世界に生きると時の経つのも遅いのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【街のテキストレイヤー】

【街のテキストレイヤー】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 9 日の日記再掲

文字で表現しきれないから絵を添える、絵で表現しきれないから文字を添えるのであり、絵も文字も本来ならそれだけで完結していた方が純粋であり上等である、と思ってしまう性格が子ども時代から抜けない。

子どものころ本を買って貰い、その中に挿絵があると嫌でたまらず、読んでいて挿絵が現れるたびに紙や手のひらで隠して読んだものだった。自分が文字を読みながら頭の中で想像していた世界を汚されるようで、挿絵というのは不潔で邪魔くさいものだと思った。

東海道本線清水駅前。駅前ロータリーの中央に立ってぐるっと見渡して一番多い文字情報はサラ金情報である。
RICOH Caplio R3

コンピュータなら Macintosh でも Windows でもそうだけれど、画面を表示する OS の仕組みは様々な機能を重層的に重ね合わせて構築されており、その一つに文字を扱うテキストレイヤーという層がある。

もう 10 年以上も前になるけれど、韓国に遊びに行って初めてソウル市街に出たら街が文字化けしていて驚いた。インターネットのブラウザが文字コードを判読し損ねて意味不明の文字列が表示されてびっくりするのに似ている。勉強不足でハングルをまったく読めないからであり、おそらく同じ原理でロシアの街に立ってもやはり文字化けして見えると思う。

静岡県清水秋吉町。この界わいには魅力的な文字情報が多い。「おもいで酒場」とか「うたごえ酒場」とか「ふるさと酒場」などは時折目にするけれど「おとぼけ酒場」というのは初めて見た。
RICOH Caplio R3

日本国内を歩いていても街が文字化けして見えないのは日本語が文字として読めるからであり、文字を文字として読めるということは人間の脳内にテキストレイヤーが独立して持てるということである。テキストレイヤーを脳内に持てるからこそ、人間は街の風景を見ても、溢れている文字情報を読むことに追われて発狂しなくて済むのであり、人は往々にしてテキストレイヤーを非表示にして街を歩いている。疲れるから。

ところが文字を文字として読めないと文字は絵と同様にしか見えない(僕にはハングルが絵にしか見えない)ので、風景というレイヤーと一体化して文字化け状態という意味不明な絵に見えるのだと思う。テキストレイヤーがないので非表示にできないのだ。

静岡県清水秋吉町。「おとぼけ酒場」の隣にある店。僕は何度見ても店名が看板の下にある「将軍」の文字と合体してしまい「足利将軍」とか「徳川将軍」とかに引っ張られて「猿川将軍」と読めてしまい秀吉を思い出す。この界わいは電気屋と書いてあってぜんぜん別なものを売ってる店などもあってホンキートンクな喧騒に満ちている。
RICOH Caplio R3

見慣れた街を歩くときは心のテキストレイヤーをオフにして歩いているので気づかないことも、見知らぬ街を歩くと情報収集モードになって文テキストレイヤーがオンになり、撮した写真を見返してみると文字からの情報に敏感に反応している自分がわかる。

静岡県清水大手一丁目。「鶏のから揚げは大手町の『石川鶏肉店』のが最高だと思います。」と書かれたブログを見てから、この界わいのテキストレイヤーがオンになったらしく「名代若鶏のから揚げ」という電柱看板があったことに初めて気づいた。
RICOH Caplio R3

脳内では出血などの異常によって様々な障害が起こるが、突然文字が読めなくなる、という症状があるとしたら、その瞬間にその人の見る世界は文字が絵としてしか見えなくなるのだろうか。また、亡き祖父は 目に一丁字もない人だったが、そういう人が見る世界も文字が絵に見える文字化けの世界なのだろうか。

フランス人がフランスを描いた絵にくらべて、渡仏した日本人が描いた絵には中途半端にフランス語の文字が描かれている気がして好きではない。大好きな山下清なら、テキストレイヤーをオフにせずに文字を絵の中に組み込んで描くだろうから徹底して描いたんだろうな、と思って『山下清 東海道五十三次』(毎日新聞社)をめくってみるが、山下は何故かあまり文字のある風景を描いていない。

【追記】失語症といえば言語療法士の遠藤尚志先生に聞くのが一番なのだけれど、遠藤先生にメールを書いて教えていただくのもご迷惑だと思い(ちょっとびびってる)、遠藤先生の良きサボーター(追っかけともいう)である森田惠子さんにメールで問い合わせてみた。
脳梗塞や脳出血などの脳血管障害から発症する失語症の分類のひとつ「ウェルニッケ失語」にはやはり「失読(字が読めない状態)」と「失書(字が書けない状態)」があるのだという。
脳にダメージを受けたとはいえ、思考する能力が全く損なわれていないのであり、それなのに突然字が読めなくなるという辛さは想像を絶するものである。本人の苦しむ姿を見る家族にもまた辛い苦しみがあり、苦しみの理解こそが誰にでもできる援助の第一歩なのでここに追記しておく。

(2006年 1月 10日 火曜日 4:37:35 PM)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【雪が降る】

【雪が降る】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 8 日の日記再掲

サルバトーレ・アダモが『雪が降る』を歌ったのは 1964 年で、大ヒットしたので日本語版も発売され、訳詞者は安井かずみだった。
 
子どもがアダモのまねをして、
「雪が~~~~~降らない」
と歌っても、なんにもおかしくないほど清水の冬は温暖である。ほぼ雪が降らない、

柑橘試験場の隣にある東海道本線興津駅ホームにて。1 月 2 日の黄昏時も暖かく、電車を待つ人々も驚くほど薄着である。
RICOH Caplio R3

富山県出身の妻と年末は義父母のいる富山で過ごし、年が押し詰まってから北陸線や高山線経由で太平洋側に出て、新幹線で静岡駅に着き、東海道本線に乗って草薙駅で下車し、静岡鉄道草薙駅まで歩くと、かつては『サーティーワンアイスクリーム』の店舗(具体的にあった場所が思い出せないけど)があった。大晦日近くにもなってアイスクリームを歩き食いしている清水の人々を見て、雪の降る裏側から来た妻は呆れ笑いしていた。

静岡駅新幹線ホームにて。青島みかんは、昭和10年頃、静岡市福田ヶ谷にある青島平十さんのみかん畑で発見されたのがその名の由来だという。極早生の小粒なみかんが終わると青島みかんが出回り始める。
RICOH Caplio R3

義父母が富山の一軒家暮らしを引き払って上京してから 10 年になる。
 
富山で何度も豪雪を体験している妻と義父母は、テレビで大雪のニュースを見ると
「こんなもん、サンパチ豪雪に比べたらたいしたことない」
と笑うのだけれど、さすがに今年の豪雪のニュースを見ていると笑顔がない。
 
家屋の 1 階部分が雪に埋没してしまい、玄関まで階段状の穴を掘って出入りしている姿を見ると
「ああ、サンパチの時もこうだった」
と言い、雪の重みで家屋がつぶれるのではないかと怯える老人を見て義父は、
「自衛隊は要請がなくてもさっさと行ってやりゃあええがに!」
などと怒ったりしている。義父母は年老い病んで自力で雪下ろしができなくなったことも理由の一つとして、富山という住み慣れた故郷を離れざるを得なかったのである。

新年早々に清水で遠方の客を迎えると、海岸道路沿いで大きなイチゴ風船をポンポンつきながら少女が客引きをしている久能の石垣イチゴ狩り園に案内したものだ。暖かなビニールハウス内で自分でもいで食べるイチゴの甘さもさることながら、日本平の斜面でオレンジ色のミカンがたわわに実る姿を見ると、からだの力が抜けるようで、
「なんて暖かな土地なんだろう」
と誰もが思ったと言う。

静岡駅ビル『パルシェ』内にて。「とよのか」と「アイベリー」が結婚して「さちのか」というイチゴが生まれた。「久能早生」と「旭宝」が結婚して「章姫」というイチゴが生まれた。そして「さちのか」と「章姫」が結婚して生まれたのが静岡11号こと「紅ほっぺ」である。
RICOH Caplio R3

年末年始、清水に帰省すると手みやげには困らず、無人売店で甘そうなみかんを見繕って詰められるだけリュックサックに詰め、清水産のイチゴ『章姫』4 パック入りの段ボールケースを抱えて帰京すると富山出身の家族は大喜びする。

みかんもイチゴも、東京でもっと安く買うことだってできるけれど、それでもやっぱり
「ああ、やっぱり清水のみかんとイチゴはおいしい!」
と喜んでもらえるのは、義父母が動けるうちに年末年始を暖かな清水で過ごしてもらったことがあるからで、そうしておいてよかったなと、年老いて動けなくなった義父母を見て思う。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【しずかな静岡、まちあるき】

【しずかな静岡、まちあるき】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 6 日の日記再掲

旧清水市が今の状態からは信じられないほど賑やかで活気があったころにも、旧静岡市はそれに輪をかけて賑やかだった。清水の街に退屈してくると母は、
「日曜日だし、静岡にでも行こうか?」
と言った。そういう風に静岡を思い出すときは、清水は「ケ」であり静岡には「ハレ」があった。静岡には清水よりもっと大きな人混みがあり、デパートがあり、都会があったのである。

親子で似ている性格のひとつが、あまり人混みが得意でないことである。
静鉄電車に乗って新静岡まで行き江川町通りを通って呉服町商店街周辺を歩き、静岡の街で数時間過ごすと母は
「ああ疲れた、疲れたからもう帰ろうか」
と言い、数時間歩いた末に思ったような買い物ができないと、
「ほんとに疲れた、お金を使って疲れに来たようなもんだ」
と苦々しげに言うのだった。

静岡市人宿町あたりか。『清水商店』と書かれているだけで嬉しくなる。暮れの大掃除でガラス戸を内側から拭いているので、こちら側から掌を合わせて驚かせてやろうかと思ったりするがやめて置く。
RICOH Caplio R1 

静岡市人宿町 1 丁目の『笑顔べんとう』。でっかい弁当屋でびっくりする。なんか東京で見かけない珍しい弁当でも買って駿府公園で食べてみたくなる。手前の「 Today's Special 」の黒板に書かれているのが「いらっしゃいませ」なのが商いの神髄をついていて良いと思う。
RICOH Caplio R1

東京暮らしをしていると人混みは嫌でも味わわなければならなくて、清水に帰省してまでわざわざ静岡の雑踏に行く気にもならない。そういう意味で、好きな清水に対して静岡の街が嫌いになった自分がいた。旧静岡市を買い物でない用事で訪ねる機会が増えたのはつい 1 年ほど前からのことである。

呉服町商店街の雑踏を離れ、碁盤目状に街割りされた裏通りを歩くと、そこで永年寝起きされている方々の静かな暮らしがある。不思議に心落ち着く街並みを歩いていると旧清水市にいるような気になり、それはそうだ、清水と静岡はその気になれば歩いて日帰りできるようなひとつながりの土地なのであり、暮らしぶりに多少の差はあっても似ていて当たり前だ、としみじみ思う。

静岡市人宿町から一番町に向かう昭和通り沿い。『角東急行運輸社』。「伊豆半島急行便」という文字を見ただけでなんとなく味わい深い。この店は清水とも伊豆ともつながっている。
RICOH Caplio R1 

静岡市人宿町から一番町に向かう昭和通り沿い。この辺りは職人が大勢住んでいるようで、昔の職人の住まいは仕事を地域に見せることで開いていていいなぁと思う。僕たちの子ども時代のように、今の子どもも大人の仕事をキラキラ光る目で見ていたりし、職人の手元から転がり落ちた木っ端が欲しくて欲しくてたまらないのも、きっと昔の子どもも今の子どもも変わりがないのだろう。
RICOH Caplio R1

静清合併騒ぎのように、政治的・経済的な思惑で「清水・静岡はひとつだ」などと言われると今でも腹が立つけれど、そういう薄汚れた雑音抜きに、静かな暮らしの中を歩くと、清水を好きなように静岡もまた好きになっている自分に気づく。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【充足度を分母として肉と魚と野菜の値段を割ることと労働の意味】

【充足度を分母として肉と魚と野菜の値段を割ることと労働の意味】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 1 月 5 日の日記再掲

子どもから青年になるあたりまでの時代を振り返ると、野菜や魚にくらべて肉はとても高価な食品だった。

「貧乏人は麦を食え」という主旨の発言をしたと池田勇人(実は池田自身が麦飯好きだった)が批判されたのは 1950 年のことであり、少なくとも 1960 年代は「貧乏人は魚を食え」の時代だったと思うし、「魚も食えない貧乏人は鯨を食え」と言っても良いような時代でもあった。

母は肉屋に行くと「う~ん……」と唸るように真剣な顔つきで財布の中身と肉を見比べていたし、魚屋で一番たくさん買ったのは鯨の切り身と鯨のベーコンだった。鯨のベーコンは端っこのあたりを細切れにして白ごまを振った格安のものが量り売りされており、それに味の素とお醤油をぶっかけたやつをおかずにしてご飯を食べるのが大好きだった。鯨ベーコンでご飯を何杯もおかわりする子は「安上がりでいい子」だった。

静岡県清水島崎町。母が他界する直前、「清水橋をくぐって江尻船溜まりの方に行った辺りに美味しいはんぺん屋があるらしいので食べてみたい。美濃輪稲荷赤鳥居前の魚屋は毎朝あの辺を通るはずだから聞いてみろ」と言っていた。江尻船溜まりに向かう途中で偶然見つけ、「ああ、ここだったのかもしれないな」と思う。山に久のマークの『久保田商店』「生食はんぺん」と書かれていて思い出すけれど、子どもの頃、黒はんぺんは生で食べるものだった。清水新富町、さくらももこの実家の八百屋から久能街道を入江岡方面に行った並びに小学生のころ古びた食料品店があり、木の枠にガラスを入れた冷蔵でないケースの中から、1 枚単位で買える黒はんぺんを買って友人たちと歩きながら食べたものだった。最近の人も黒はんぺんを生で食べるのだろうか。

撮影日: 2005.12.29 10:04:12 AM
RICOH Caplio R1

「久保田は「ヤマ久」じゃなくて「フジ久」です。あれは富士山をかたどってます。で、なんで久保田が「フジ」かというのは戦後店を構えた時のお婆さんの名が「ふじ」だったこともあり縁起担ぎに「フジ」の冠をつけたという話を女将さんから聞いたことがあります。」(伝言板への「屋号八」さんの投稿より)

今の橘家圓蔵が月の家円鏡だった頃、エバラ焼き肉のタレの CM で連呼していたセリフは確か「よいしょっと、円鏡だ!」の口調で「高いお肉じゃなくてもいいんです、週に一度は焼き肉料理!」だったのであり、ついこの前まで週に一度肉を食べるのもなかなか贅沢な時代だった。ポケットの小銭で吉野家の牛丼並盛りが食べられるなどという世の中は夢(悪夢)のようである。

物価のことは(も)詳しくないけれど、魚や野菜が高くなったと言うより肉や鶏卵が安くなりすぎたのではないだろうか。狂牛病や鳥インフルエンザ騒ぎを見ているとそう思う。人間も過労が病気の引き金になり、疲れているとてきめんに風邪を引きやすい。肉は安すぎるくらい安いと思うので外食をするときはたくさんの種類の野菜が使われている料理とか魚料理を食べることにしている。肉料理を食べるよりずっと得だ。

昨年末の戸締まり及び各種精算帰省をした際、朝ご飯を食べに江尻船溜まりの食堂『望月』さんに行ったら満員だったので、久しぶりに河岸食堂『どんぶり君』に行ってみた。

お品書きを見て感心するのは、さすがに河岸食堂だけあってここでは魚料理より肉料理の方が値段が高かったりするのである。『ハンバーグ定食』より『しまほっけ一夜干し定食』とか『まぐろかま塩焼定食』の方が安いのだ。

静岡県清水島崎町。河岸食堂『どんぶり君』店内で、食事を終えて新聞を読む人。館内放送で呼び出され、苦笑いしながら裏口から出て行った。
撮影日: 2005.12.29 10:08:02 AM
RICOH Caplio R1 

静岡県清水島崎町。河岸食堂『どんぶり君』「まぐろかま塩焼定食」。この店のどんぶりは立派なので比較にならないが、左手奥のお椀はごく普通の大きさであり、遠近法による誇張をさっ引いてもまぐろかまの巨大さがわかる。これで700円。

撮影日: 2005.12.29 10:11:13 AM
RICOH Caplio R1

河岸食堂『どんぶり君』ではスピーカーから名指しの呼び出しが放送されることがあり、食事もそこそこに慌ただしく出ていく客もいて、漁協関係者か市場関係者なのかな、と思う。

若者と年上の仕事仲間が食事をしており、落ち着きのない若者に、
「飯も仕事の内だ、腰を据えてしっかり食え!」
と笑顔でどやしつけていた。いいなぁと思う。

瓦工場だった祖父母の家には流れ職人がやってくることが多く、お櫃にはたくさんのご飯が常に保温されていた。流れ職人が仕事をさせてくれとやってくると、
「飯を食わせろ」
と祖父は言い、食事をゆっくりする奴や、早いけれど少ししか食べない奴は、仕事ができないと言って断り、祖父は速くたくさん飯を食う奴は仕事ができると言っていた。河岸の食堂にはそういう教えが今でも残っている事を知って嬉しくなる。

「飯も仕事の内だ、腰を据えてしっかり食え!」
は落ち着いてゆっくり食えではなく集中してさっさと残さず食えなのであり、若者は理解できるかなぁと微笑ましく眺めながら、こっちも負けずに腰を据えてしっかり食べる。

けれど、この700円の『まぐろかま塩焼定食』の量は凄まじいなぁ。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )
« 前ページ