▼夏の裸観(らかん)さん

 

 かつて文京区千駄木に住んでいた頃、当時テレビでも時々見かけた人気者、及川裸観(おいかわ らかん)さんに道で何度か遭遇した。
 健康普及会ニコニコ裸運動を主宰されていた裸観さんは、1901年岩手県生まれというからすでに80歳を超えられていたはずなのだけれど、半ズボンに上半身裸というおなじみのスタイルで、『ニコニコ裸運動』と書かれたのぼりを持ち「ワハハ、ワハハ」と全身を顔にして笑いながら、元気に歩いておられたのを懐かしく思い出す。




猛暑の本郷菊坂、正午(まひる)なり。



 大人になってから半ズボンをはいたことがなかったのだけれど、なかば「はけ!」と命令するように友だちのカメラマンから半ズボンを贈られて以来、夏になると涼しいので半ズボンを着用している。半ズボンの快適さに夢中になり、半ズボンにアロハシャツ、裸足でサンダル履きという格好で東海道新幹線に乗り、郷里静岡県清水の『清水みなと祭り』に出かけて行って母親をあきれさせたこともあるのだけれど、数年前から半ズボン姿で遠出をするとあまり調子が良くない。清水も明日明後日とみなと祭りのピークを迎えるが天候がかんばしくないらしい。




アジの開きすら涼しげな本郷菊坂、正午(まひる)なり。



 人間年をとると、上半身に比べて下半身に汗をかかなくなると聞いたことがあるが、そのことと関係があるかどうかはわからないけれど、最近半ズボン姿で長時間歩いていると足が冷えてつることが多い。子どもの頃から足が疲れている状態で冷えると足がつりやすく、痛くてたまらないときは蒸しタオルなどを当てて暖めると痙攣が治まるので、冷やすのが良くないのだろうと思っていた。蒸し暑い夏の日でも、団扇で顔を扇ぐと嘘のように涼しいのと同じく、素足で長時間風を切って歩くと足の表面温度がかなり下がるので、足がつる原因になるのではないかと思う。

 7月30日も、ノートパソコンに挿しっぱなしにする32GBのSDメモリを買いに出たついでに、健康のため秋葉原から遠回りして歩いて帰ったら、気軽に半ズボンで出たのが失敗で足がつってしまい、途中何度も立ち止まっては何とか帰り着いた。言わんこっちゃない、遠出をする可能性があるときは半ズボンはやめた方がいいと反省しながらも、焼け付くような猛暑で上半身は滝のような汗をかいているので、足の冷えを上半身に回せたらいいのにと思ってふいに裸観さんを思い出した。




英語でいうところのpetticoat(ペチコート)は仏語でjupon(ジュパン)であり
それが日本語「ズボン」の語源だという。
「ズボン堂」のある本郷菊坂、正午(まひる)なり。



 裸観さんは半ズボン姿でも足がつらない人なので半ズボンで良かったったのかもしれない。こちらは足がつる人なので、下半身を温めつつ上半身は冷やしたいわけで、熱を集めやすい黒のタイツで下半身を覆い、上半身は裸になって、風で皮膚表面が冷えるよう上半身を左右に揺すりながら歩いたら、夏の外出は理想的なんじゃないかと思う。ただそれでは、単なる力道山風の怪しいオッサンなので、『ニコニコ頭寒足熱』と書かれたのぼりを持ち「ワハハ、ワハハ」と全身を顔にして笑いながら歩いたらいいんじゃないか、などとできもしないことを夢想しながら、それを本当に実践していた懐かしい「裸の爺様」、及川裸観さんのことを日記に書いてみた。

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▼真夏なり

 

 東京は大変な暑さ。思っていることを丹念に言葉にしようと思うと「暑い!」と声に出てしまい、大勢の人とすれ違うたびに同じ言葉を聞く。



そりゃたいへんだ。



 東京は大変な暑さ。思っていることを丹念に言葉にしようと思うと「暑い!」と声に出てしまい、大勢の人とすれ違うたびに同じ言葉を聞く。



ああ…ミスターサマータイム。



 東京は大変な暑さ。思っていることを丹念に言葉にしようと思うと「暑い!」と声に出てしまい、大勢の人とすれ違うたびに同じ言葉を聞く。

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【銅像の前で考えたこと】

【銅像の前で考えたこと】
 

 高校は第一志望をしくじって私立高校だったが、今振り返るとその学校に行って本当に良かったと思う。
 良かったと思う理由のひとつ目は、食欲が失せるほど厳しく、体育の授業で身体鍛えて貰えたことで、病気もせず元気な中年になれたのはそのおかげだと思う。ふたつ目は、とことん自由に三年間クラブ活動に集中できたことで、高校写真部で学んだ物の見方感じ方はその後の進路に大きく役立った。みっつ目は三年間同じ担任について、おそらく人生全般にわたるほどの影響を良き兄貴とも呼べるその教師からうけたことだ。



左から、静岡市葵区馬場町(ばばんちょう)浅間通り入口の赤鳥居、
浅間通りの商店街、この日閉まっていた「あべの古書店」。

 忘れられない兄貴先生の教えのひとつが、世の中で主義と名のつくものに出会ったら中味が何であれ距離を置いて近づくな、という言葉であり、そのおかげで間違った道に転げ落ちずに生きてこられたと感謝することが多い。



山田長政屋敷跡で教師らしい男性の解説を聞く生徒たち。

 静岡市葵区馬場町、赤い鳥居をくぐり、浅間神社に向かう参道沿いの商店街を歩いていくと山田長政の銅像があり、真っ赤な柵に囲まれて蒼い銅像が突然現れるので、一瞬 Blue Man Group のパフォーマンスに遭遇したようでドキッとする。山田長政屋敷跡とされるその場所に立つ歴史解説板が、静岡市教育委員会ではなく静岡市観光課によるものであることで気づくように、山田長政に関してはその存在自体の真偽に遡ってまでの論争が多い。軍国主義や、侵略主義や、帝国主義や、アジア主義だけでなく商業主義にまでまみれてしまって、歴史の真実が見えにくくなっているのだ。



山田長政像。

 高校卒業以来、恩師の主義と名がつくものに出会ったら距離を置けという教えを守っているので、そこまで言ったら嘘だろう、という限界を超える主義者にさえならなければ、勝手な歴史解釈をしたところでどうでもいいんじゃないかと、長政像を見て思う。
 そんなことより妙に気になる長政像の印象を、同じように感じている人がいないかと気になり、Googleに「山田長政 銅像 ハナ肇」と入れて検索してみたが、この場所でそんな連想をした人はいないらしい(2009年7月29日現在)。

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▼言葉にするということ

 


 疲れているときほど、些細な話題を丹念に言葉にして語る習慣を身につけることが大切だと思う。年をとり、疲れが蓄積するにつれて寡黙になっていく老夫婦を見ていてそう思う。




左から、猫又坂脇の焼肉屋、白鷺坂新発田ラーメンの臨時休業貼り紙、
白鷺坂裏文京くすのき高齢者在宅サービスセンター。



 そもそも日本人は言葉にしなくてもわかり合えている前提がある、などと本音とたてまえを都合良く利用して人付き合いをするので、年をとったり疲れるとそういうあいまいな意思伝達による人間関係に息切れし、ついていけなくなる。だから
「そんなこと、言わなくてもわかってたはずだろう!」
などと突然切れて語気を荒げるおやじになったり、突然暴れるじいさんになったりするし、子どもたちまで疲れ始めて、
「場の空気を読めよ」
などというカルト集団まがいの人付き合い作法を他人に強制したりするようになるのだと思う。




丹念に考えを言葉にしながら訥々と話す高村薫さんの印象が鮮烈だったせいか、
道端で咲く花を一瞬クロッカスかと思ったけれど
開花時期も花のカタチも違うので多分間違い。



 重たい荷物を、腰を落として「うんっ」と気合いを入れて持ち上げるように、疲れていても頑張って些細な事柄を丹念に言葉にして相手に伝えるのが大切だし、相手がそうしてくれていると思ったらありがたいと思ってしっかり聞かなくてはいけないのだろう。インターネットの時代になって、「うんっ」と気合いを入れて丹念に言葉にしなくてはいけないことが加速度的に増えているので、言うは易く行うは難い大変なことなのだけれど。

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▼反転の視点

 

 NHK日曜美術館『この人が語る 私の愛する画家 高村薫 私とマーク・ロスコ』の再放送を見た。
 アメリカ現代美術作家マーク・ロスコ(1903~1970)の純粋抽象絵画を見て「こんな小説が書きたい」と思ったという高村薫さんほど、僕にはマーク・ロスコの絵がいいとは思えず、それは図録しか見ていないからかもしれないのだけれど、それより、どうして「こんな小説が書きたい」と思ったかを訥々と丹念に語る高村薫さんを見て、「ああ、この人の書いた小説が読んでみたい」と思った。
 言語聴覚士の遠藤尚志先生が高村薫さんを高く評価していたので気になっていたのだけれど一度も読んだことがない。どんな作品でもいいから「この人の書いた小説が読んでみたい」と、人そのものを知りたくて本を読みたいと思ったのは初めてかもしれない。




左より7月27日の入道雲、猫又坂上の分岐、猫又坂裏のサルスベリ。



 一方向からものを見ないで、逆の視点からものを見ることは、幼い頃「相手の立場になって考えてみよう」などと繰り返し教わり、そういうことの大切さを理屈では良く理解しているはずなのだけれど、実際に実行しようと思うとどんな些細なことに対してでも難しい。
 たとえば大通りを歩いていると人は大きなものの側から見た視点しか持てない傾向があるようで、妙な分岐をしていく小さな道に出会うと「変な道があるな」と一瞥をくれて放念してしまったりする。




明治40年地図では小石川区丸山町と林町の町界だった左に分岐する古道。



 文京区千石二丁目。不忍通りを南西に向かって進むとこの先に谷間があり、かつてはそこに川が流れていた。谷間にくだる坂を猫又坂と言い、谷間からその先へのぼる坂を白鷺坂という。
 猫又坂を下る前に左に逸れていく道があり、通りかかるたびに「変な道があるな」と思う。なぜか昨夜日曜美術館で見た主客が逆転するようなマーク・ロスコの絵を思い出し、明治40年の地図を引っ張り出して見るとちゃんと変な道は載っているが、大通りである不忍通りは影も形もない。不忍通りの開通は1922(大正12)年であり、無理矢理まっすぐな大通りを造ったがゆえに変な分岐として古道が取り残されているのだ。
 明治四十年の地図を見ながら今はもうない当時の町を歩き、新しい大通りを頭の中で消去して反転の視点で見ると、地域固有の地勢と暮らしの成り立ちが見えて面白い。それは地域生活の基礎知識として、おそらく夜道に迷って段差に蹴つまづいて転ばない程度には役に立つ大事なことだ。

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【教導石と忠七めしと直木賞】

【教導石と忠七めしと直木賞】
 

 清水文化センター向かい、中央図書館隣の鉄鋼会館で鉄舟会の会合があり、友人が会員ではないけれど誘われて、山本兼一さんの直木賞受賞(受賞作「利休にたずねよ」)を祝いに行ってきたという。

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左側面の「教ル方」右側面の「尋ル方」

静岡市葵区追手町。駿府城堀端に市指定有形文化財の「教導石」がある。いかにも鉄舟らしい墨跡が力強くてなかなか良い。

「教導石」は、明治という新しい時代を迎え、 「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」 との趣旨に賛同した各界各層の人達の善意をもって明治19年(1885)7月に建立されました。
 正面の「教導石」の文字は、旧幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の筆になり、 静岡市の明治時代の数少ない歴史遺産の一つとなっています。
 碑の正面上部には、静岡の里程元標(札の辻)から県内各地、 及び東京の日本橋や京都三条大橋までの距離を刻んであります。
 教導石建立の趣旨に従って碑の右側面を「尋ル方」とし、 住民の相談事や何か知りたいこと、また苦情のある人はその内容を貼り付けておくと、 物事を良く知っている人や心ある人が左側面の「教ル方」に答えを寄せる、というものでした。
 尋ね事などのほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告から 遺失物や迷子をさがす広告なども掲示してもよいことになっていました。(静岡市・静岡市教育委員会説明文)

 郷里静岡県清水に大変縁の深い山岡鉄舟だけれど、清水と鉄舟の関わりを知るはるか以前から妙に縁があった。



山岡鉄舟揮毫の「教導石」の文字。

 車で文京区内のスーパーに買い物に出て、そのままふっと遠出がしたくなり、偶然通りかかった埼玉県比企郡小川町にある割烹旅館二葉という店で昼食を食べた。
 その当時はまだ今ほど割烹旅館二葉が有名でなかったせいか、穴の空いたジーンズにサンダル履き姿のまま玄関をくぐり、国登録文化財の本館に上がり込んで、鉄舟ゆかりの「忠七めし」や川魚料理を食べ、食後は庭に降りて散歩したりした。それがとても楽しくて、日常の憂さが忘れたくなると
「忠七めしでも食べに行こうか」
とぶらりと出かけることが多かった。
 鉄舟は御蔵奉行小野朝右衛門高福の五男として生まれ、小川町には小野家の知行地があった関係で割烹旅館二葉とも縁があったらしく、鉄舟愛好家の会「小川山岡鉄舟会」の事務局も割烹旅館二葉内にある。



「教導石」賛同者の名が刻まれた背面。

 清水の鉄鋼会館ででひらかれた鉄舟会に参加し
「鉄舟を精神的支えにされている方がいる、そうでもなさそうな方も…」
と書いてきた友人のメールを読み、鉄舟会の会合が鉄舟ゆかりの清水で開かれる理由は想像がつくけれど、どうして作家山本兼一さんの直木賞受賞祝いが結びつくのだろうと首をかしげ、調べてみたら山本兼一さんは「小川山岡鉄舟会」の会員なのだった。
 江戸や明治の時代から続いている老舗を訪ねると、あちらこちらで鉄舟の書や因縁話に出会うことが多く、そういう意味で人と人を結びつけること、そして精神的支えとさせる能力に長けていたので鉄舟ゆかりの老舗が数多く平成の現在まで存続し続けているのかもしれなくて、「教導石」の発想も文字もまた鉄舟らしいなと感心する。

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【フウのある街角】

【フウのある街角】
 

 モミジバフウは北アメリカ中南部から中央アメリカ原産で日本へは大正時代に渡来し街路樹などに利用される。一方フウは台湾、中国南部原産で日本には江戸時代中期享保年間に渡来した。



中町交差点のフウ。

 静岡県静岡市葵区、新中町ビル前のフウ。地図を見ても、このマンサク科フウ属に属するフウの木が、行政区画上では中町に属するのか追手町に属するのかがわからない。



フウのある街角。

 音読みの「フウ」を漢字で書くと「楓」であり、訓読みすると「カエデ」であるように、秋になると真っ赤に紅葉して美しいらしい。
 秋には頻繁に帰省する口実となっている雑誌編集手伝いも終わっているはずなので、もう一度この場所に立って紅葉に遭遇する確率は限りなく低い。そう思って空を見上げたら大粒の雨が落ちてきた。

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【降ったり晴れたり】

【降ったり晴れたり】
 

 久しぶりに清水ライナーで帰省した。
 12時ちょうど発の折戸行きに切符がとれたので乗車前に昼食をとった。八重洲口バス乗り場地下に中国料理店があって、ちょっと気に入っている。この地下にはJR東海が有名ラーメン店を集めた「東京ラーメンストリート」をオープンし、そちらはどの店にも長蛇の列ができていたけれど、こちらはゆったり座れて気楽でいい。



メニューと猪肉炒飯。

 「豚肉葱塩チャーハン(猪肉炒飯)」を頼んでみたけれどなかなか美味しい。食べながらメニューを見たら「中国ぶっかけタクシー飯(的士飯)」というのがあって興味をそそられる。そうか、中国でタクシーの運ちゃんは的士なのか。



清水ライナー車窓から見上げる八重洲ブックセンター向かいのビル。

 マンドリンを弾く新潟の友だちと八重洲ブックセンター脇の屋台ラーメンで飲んだら、ビルの谷間からビルを見上げて
「東京はすごい、こんなに高いビルがある」
と言うので
「新潟だって朱鷺メッセがあるじゃん」
と言ったら新潟のは違うという。言わんとすることは何となくわかり、高いビルがまばらにあっても谷間がないのだ。大学に入って上京し、新宿の高層ビルを見たときは仰天したが、昭和40年代終わりの新宿に高層ビルはあったけれど、まだまばらで谷間がなかった。「ビル高きが故に貴からず、谷間あるを以て貴しと為す」などというたとえはないけれど、
「あのビルの脇を通って清水ライナーは折戸車庫に向かうんだよ」
と言葉にしてみると確かに感じられる陰影が深い。清水にもこんなビルはない。「ビルあるを以て貴しと為す」というたとえもないが。
 そのビルの脇を通って出発。東京は晴れていた。



足柄サービスエリアにて。

 車窓から青空に浮かぶ雲の写真を撮っているうちに足柄サービスエリアについてトイレ休憩。
 高速バスの脇に停車していた車の側面に「まぐろ毎日便」と書かれ、東京八州水産と社名がある。清水の八州水産が東京まで毎日まぐろの直送便を出しているということだろうか。わずか十分のトイレ休憩の間に、空がにわかにかき曇って雨となり、その後、由比あたりまではずっと雨が降っていた。



静岡鉄道桜橋駅前にて。

 清水インターを降りたら急に明るい日射しがこぼれ、新清水で下車してしずてつ電車に乗り、桜橋駅で下車する頃には入道雲わき立つ夏の空になっていたが、清水の瓦産業に関する取材を終え、最終の新幹線で帰京するまでにはまた雨になっていた。
 清水は降ったり晴れたりを繰り返して、いまだ梅雨明け宣言が出ていないという。

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【二つの用水】

【二つの用水】
 
 
 駿府城お堀端を歩いていたら、古びた土管から勢いよく水がお堀に流れ込んでいるのが見え「ドボドボドボ…」というオノマトペが相応しく見える光景なので、一瞬生活用水を濠に捨てているのかと思った。
 


左より静岡市役所、濠の石垣、土管のある場所。

 いかんせん上品な静岡市が、そんなひどいことをするはずもなかろうと思い、分流式によって汚水管と雨水管を分け、雨水の方だけお堀に引き入れているのかしらと、土管の上流方向を見たら静岡市役所がドーンとあった。そして静岡市役所を見た途端、友だちのブログを思い出し、静岡市役所前には駿府用水(静岡用水)が流れていると書かれていたのを思い出した。



静岡市役所方向から濠に飛び出した土管。

  だけど、待てよ、静岡の街にはかつて駿府用水と駿府御用水が流れていて、薩摩土手から取水した安倍川の水は駿府用水として城下に供給され、今川時代から鯨ケ池より取水していた水は徳川時代になると駿府御用水として駿府城の濠専用の水だった、と記憶しているのだけれど、駿府御用水だけじゃなく駿府用水もお堀に流していたのかなと頭の片隅に小さな?(はてな)マークが点灯した。



流れ込む水は濠のコイたちに大人気。

 そういうことを日記に書くと親切に教えてくれる友だちのブログに先回りして検索したら、内容が同じなのに雰囲気の違うプログがgooとYahoo!に併存するのを初めて知った。表ブログに書けないことを書きなぐる裏ブログなんだろうかと内容を見たけれどどちらも行儀が良くてほとんど違いはない。違いのない二つのプログが併存することに驚くというよけいなお世話をしているうちに、二つの用水のこともどうでもいいように思えてきた。

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【帰省気分】

【帰省気分】
 

 『季刊清水』の編集会議が静岡市葵区東草深町のアイセル21静岡市女性会館で行われたので日帰り帰省した。
 かつては旧静岡市に行くことと旧清水市に帰ることとは全く違う気がして、旧静岡市に仕事で行くことに、郷里に帰省するなどという意識はなかったのだけれど、清水市と静岡市が合併したことは別にして、旧静岡市へのとんぼ返りにも最近は郷里への帰省気分を感じて、それはそれで嬉しい。



江川町から見晴るかす県道27号御幸町通り。

 友だちができ、さまざまな用事ができ、時が経過して思い出が多少なりとも土地に染みつくことによって、ふるさと意識というものは次第に醸成されるのかもしれない。初めての土地でも一晩泊まってしまうとそんな風に情が移ってしまうと司馬遼太郎も書いていた気がする。
 この日も中町交差点から浅間通り商店街に入り、雨が激しく降り出したのでアーケード下を歩いていたら、NPO法人金泥書フォーラムの興津修司さんに見つけてもらい、道の向こうから大声で呼び止められて嬉しい。



JR観光ポスター。

 静岡駅から地下道を抜けて県庁方面に向かって歩いていたら懐かしい清水っ子に再会した。
 「スローフードの国」と題された観光ポスターで、お茶揉みの至芸を披露している白衣の男性は友だちのお父さんであり、かつてこの写真を見せられ
「これ、うちの父なの」
と教えられたのはもう何年も前のことになる。素晴らしい写真なので相変わらずポスターに使い続けられているようで、いつまでも変わらない永遠の清水っ子に再会したようで嬉しい。

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▼日食と力道山

 

 日本で46年ぶりの皆既日食がある7月22日、東京でも70パーセントほど欠けた太陽が見られると聞いたので楽しみにしていたのだけれど、ベランダに出てみたら厚い雲に覆われ小雨もぱらつく空模様だったのであきらめて仕事に専念した。




左からコロムビア通りの坂、コロムビアレコード跡地に立ったマンション、
横断歩道を渡って細い道を直進するとリキ・アパートがある。7月23日。



 義母との昼食も終わって午後になり、雨もあがったので赤坂の出版社に納品に行ったら、丸い打ち合わせテーブルの上に、数時間前に出版社屋上から撮影された日食の写真が置かれていてびっくりした。夜のニュースによれば、都内で辛抱強く空を見上げていた人には、雲の切れ間からこうして欠けた太陽が見えた一瞬があったらしい。




7月23日、出版社屋上で撮影された日食。



 今から46年前の1963年、小学校に登校したら友だちが
「おい、力道山が死んだぞ」
と言うのでびっくりした瞬間を今でも忘れない。
 当時、力道山は国民的ヒーローだったし、梶原一騎原作によるテレビドラマ『チャンピオン太(ふとし)』の大ファンだったので、あの常勝無敗のヒーローが死ぬなどという事実をどうしても受け入れがたかったのだ。アマテラスが天岩戸に隠れて世の中が闇に包まれた時の驚きも、そんな感じだったのではないかと思う。天岩戸伝説には日食説と冬至説がある。

 赤坂の出版社で打ち合わせを終え、薬研坂上からかつてここにあったコロムビアレコード脇の坂を赤坂見附駅方面に下る。




力道山がのぼったコロムビア通りから薬研坂上に向かう坂道。7月23日。



  赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で喧嘩をし、腹部を登山ナイフで刺された力道山は、傷口を押さえながら歩いて帰ったといい、おそらくこの坂を上って住まいだったリキ・アパートまでたどり着いたのだと思う。
「おい、力道山が死んだぞ」
と友だちに言われて驚いた1963年、その年の7月にも皆既日食があり、奇しくも12月、冬至の一週間前に、突然ヒーロー力道山はこの世界から忽然と消えている。

 もし今も力道山が生きていたら、46年ぶりに見る日食もさることながら、コロムビア通りの変貌ぶりに驚くのではないかと思う。

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【突き当たりと裏側】

【突き当たりと裏側】
 

 月の自転周期と地球をまわる公転周期は完全に一致しているので、地球上から月の裏側を直接見ることは永遠にできない。
 静岡県清水富士見町。県道75号清水富士宮線を南南東に直進すると静鉄清水市内線港橋電停跡で丁字路になり、直進に固執するかぎり行き止まりとなって、その先に行くことはできない。この行き止まりあたりは1676(延宝四)年の気象災害がつくった寄州(よりす)の最南端であり、その後度重なる天変地異で1745(延享二)年頃には、ほぼ現在の姿に近い数百メートルも南に寄州が延びている。そのおかげで今では丁字路行き止まりを左折してエスパルス通りに入り、ドリームプラザ前で右折して国道149号線に入れば寄州の南端から羽衣橋を渡ってさらに先に行くこともできる。



向島寄州港橋突き当たり寸景。

 かつてこの寄州の南端に感染病患者を収容する病院があったというが、そういう歴史は語り継がれずにやがて消えていくものであり、歴史の行き止まりを経て永遠に歴史の裏側へ遠ざかっていく。それが良いことか悪いことかはわからない。
 東京の住まい近くに駒込ピペットにその名をのこし、最近はエイズ治療で名をはせたがん・感染病センター都立駒込病院がある。明治時代の古地図を見ていたら広大なその場所に規則正しく建物が建っており「避病院」と書かれていた。避病院という言葉を初めて聞き、調べてみたらコレラなどの感染病患者を収容する病院であり、避病院に入ったら戸板に乗って帰ることしかできないと、その不運を人々に恐れられていた。感染拡大を防ぐために地域生活とできるだけ隔たった場所を選んで建てられていたのだと思う。



向島寄州港橋。うさぎの看板のある午前9時。

 当然、郷里清水にもいくつも避病院があったはずなのだけれど歴史の本に記載されているのはまれで、高部まちづくりの会がのこした歴史資料に、かつて北街道沿いにあったという避病院の記録があった。我が郷里清水に限らず、感染拡大を恐れて暮らしの下流域に遠のけられていた病院が、近代的施設となって上流の地域に移転している昨今だけれど、老人のための保健施設が山側に建つという話しですら、いまだに廃水処理等を取り上げ過剰な険悪さで地域住民ともめるそうで、見えなくてもやはり裏は裏側に存在し続けている。

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【体操と収穫のサンバ】

【体操と収穫のサンバ】
 

 静岡県清水桜橋町。中学校の一年先輩で、珈琲自家焙煎工房のご主人が育てている家庭菜園のキュウリ。
「キュウリもトマトも遠慮しないでどんどんとっていいから」
などと言うので笑ってしまう。



清水桜橋町の家庭菜園。

 幼い頃、清水大内にあった祖父母の家でも自家消費用に野菜を作っており、ちょっと余った土地に、ナス、キュウリ、トマトのほか枝豆やトウモロコシやトウガンも作っていた。
 夏の野菜はみんなそうなのか、実がなったら少し小さいと思うくらいのところで収穫しないと、あっという間に大きくなって、皮の固いお化けキュウリやお化けナスになってしまうので、次から次にはえてくる野菜に追い立てられるように、とっては食べとっては食べして過ごした。
「ラジオ体操の帰りに畑へ寄って野菜がなってたらもいで来い」
などと言われ、手を棘だらけにしてもいで帰ったものだった。ナスもキュウリもトマトもトウガンも、次から次に実をつける夏の野菜には、なぜかみんな棘があった。



ここからが早いキュウリの成長。

「お金を払って買わなくたって、人が汗を流せば、お天道さんと地べたが食べ物は恵んでくれる」
と祖母は口癖のように言い、時折嫁に手伝わせて畑の手入れをしていた。そして夏本番になって収穫量が膨大になると、ありがたいありがたいと困ったように笑いながら次から次へと野菜を食べており、夏の食事というと、山盛りのキュウリ漬け、山盛りの枝豆と茹でトウモロコシ、山盛りのナス味噌炒め、山盛りの冷やしトマト、具だくさんのトウガン味噌汁という、野菜だらけの食卓が目に浮かぶ。
 夏の野菜が実る光景に、サンバのリズムに乗ってラジオ体操と野菜の収穫に追われ、困ったように笑いながら慌ただしく駆け抜けた夏の日々を思い出す。

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【押切と天地総子とスッポン】

【押切と天地総子とスッポン】
 

 静岡県清水押切。大正から昭和のはじめ頃にかけて押切に高部地区ただ一人の医者が開業していて名を中野才智さんといい、元は海軍医だったという。
 中野さんは音楽にたいへん造詣が深く、ピアニストの天地真佐雄を養子にし、高部の学校にグランドピアノを寄贈して天地真佐雄ピアノコンサートを開いたこともあるという。その天地真佐雄の娘が、清水にも縁の深い楠トシエと共に「コマソンの女王」と称された歌手の天地総子なのだという。



大内観音のある帆掛山。かつてはミカン山だったが今は竹だらけ。

 梅ヶ谷から流れ出た梅ヶ谷川と、柏尾から流れ出た柏尾川が合流して塩田川となり、山から押しだされた土砂が長い歳月をかけて堆積して原となり、その原を押し切るように開墾して村を作ったので、この辺りをかつて「押切原村」と呼んだ。



2009年5月31日。

 押切原村のはずれ、北街道沿いにある田んぼ脇を、5月31日、墓参りに行く途中に通りかかったら、小雨降る中、女性が一人機械を使わず手で田植えをしていた。実家片付け中にぎっくり腰になってしまい、墓参りも雨に降られて散々だったので、なぜか力ない田植え風景に見えて感傷的に写真を撮った。
 それが、7月18日の墓参りで同じ場所を通りかかったら、見事に青々とした稲田になっており、人の感傷など吹き飛ばすような植物の力強さに感動した。



2009年7月18日。

 この辺りもそうだし、祖父母の家があった堀込橋あたりもそうだけれど、昔から天然のスッポンがたくさんとれ、肺結核を病んでいた母はよくスッポンを捕まえて生き血を飲まされたし、余ったものは藁で縛り上げて清水中心部まで売りに行かされたという。
 5月31日もそうだったし、この日もそうだけれど、手前の水路の角にスッポンが住んでいて、上からのぞき込むと甲羅干しをしており、人の気配に気づくとカメとは思えない素早い身のこなしで水中に逃げて行く。あまりに敏捷なのでスッポン取りも容易くはなかったんだろうなと考えを改めた。(2008年8月8日訂正)

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【たのしいはかまいり】

【たのしいはかまいり】
 

 母親が他界し、自前で墓を建ててから4年目の夏になり、帰省時の墓参りコースもようやく定まってきた。

 JAしみず『ふれっぴー』高部店に行き、清水野菜村にある地元農家が栽培して持ち込んだ花を買う。地産地消の恩恵というのは口にするものに限らなくて、その季節にその土地で育った花をその土地に供えると、花が長持ちするし値段も安いので、吝嗇な母もさぞや満足していると思える、という二重の満足感がある。
 『ふれっぴー』では、レジ脇に新聞紙があるから自分で包むよう言ってくれるのだけれど、墓地にゴミ捨て場がないのでそのまま束ねて持って墓参りに向かうことにしている。だが考えてみたら花束をくるんだビニールシートも店舗前で外して捨てていくのがよいかもしれない。次回からそうしよう。



塩田川沿いの土手と上流の鴨田橋。


 JAしみず『ふれっぴー』高部店を出て県道67号静岡清水線、通称北街道を大内方面に向かうと、ほどなく東名高速道路高架をくぐりカーブしながら坂をのぼって二級河川塩田川に架かる塩田川橋を渡る。

 塩田川橋を渡ると住所は静岡市清水区大内になり橋のたもとにたこ焼きやクレープが食べられるユニークな畳屋『設楽畳店』がある。いつも常連が買いに来ている姿を目にするので、たこ焼きでも買って塩田川の土手に腰をおろして食べてみたいと思うのだけれど機会がない。

 設楽さんといえば、大内という土地は設楽姓が多くてわが母の墓がある寺の檀家総代も設楽さんであり、墓地内には設楽姓の墓ばかりである。かつて設楽さんという方から、同じ寺に墓地があるとメールを貰ったので、墓参りの際にはお線香でもと思うのだけれど、設楽だらけなのでどれがその設楽さんなのかわからない。

 設楽畳店のある塩田川の土手を上流に向かうと前方に古い石橋があり、橋の名を鴨田橋という。その橋の向こう側が小字鴨田なのでその名がついており、どうも塩田川は鴨田あたりで沼沢地となって南を流れる巴川までそのまま湿地帯となってつながっていたらしい。子どもの頃、巴川と塩田川の土手に囲まれた田んぼ内にポツンとある祖父母の家で暮らしていたが、幼い頃はその田んぼの端でシジミがたくさん獲れた。塩田川の治水工事が終わって土手に挟まれて川らしい姿のまま巴川に合流するようになったのが昭和29年なので、僕がそのあたりにいた昭和30年代初めは、塩田川という名の通り、淡水と塩水が混じり合う汽水域生物の住む湿地だったのだろう。


 塩田川土手から鴨田橋手前で土手下に下る道があり、そこにゴルフ練習場『高部ゴルフセンター』がある。この場所にいつ頃からゴルフ練習場があるのかは良くわからないけれど、明治三十五年に静岡市の千代田から始まった北街道改修工事の際、工事に必要な土は鳥坂の「山ノ鼻」、矢崎の「狐ヶ崎」、そしてこの場所大内の「源蔵っ久保」から切り出して運んだという。工事完了が昭和40年なのでその頃にできたのかもしれない。東海道新幹線の車窓から見ると北街道工事のために削られた山の傷跡が今でもわかる。

 この源蔵っ久保にあるゴルフ練習場前を過ぎて山沿いに行くと、山に沿った細い道があり、僕が物心ついた頃には当然あったし、かなりの古道なのではないかと思う。源蔵っ久保より下流の小字は「川先」「河原」であり、道が山に沿うあたりは「山根」というので、かつて低湿地だったこのあたりで安定して往来できる数少ない道だったと思う。その証拠に、高部小学校の前身である竜南小学校も高部村役場も「山根」にあった時期があり、大内が高部の中心地だった時代には主要道だったのだろう。この「山根」あたりは急峻な山肌が迫っており、落石注意の標識や、物々しい改修工事が施された箇所もある。


 今ではさみしい細道だけれど、僕が幼い頃にはけっこう人通りがあって、高部小に通学する子ども目当ての駄菓子屋もあったことを記憶しているし、それ以外に店舗がいくつかあったような淡い記憶もある。

 「山根」に沿った道を少し行くと左手からやや広くて近代的な雰囲気の直線道路が合流してきて大内観音の方に向かう。近代的といってもなんの変哲もない農道なのだけれど、北街道「富東」から分岐し、「山根」に沿った道と合流して「原」「高見」「道正」「中屋敷」という小字を経て再び北街道に合流するこの道を「更生道路」といい、大内の幹線道路として昭和6年に作られた。

 昭和4年に始まった世界大恐慌の影響で、その年に静岡県下の失業者数は4倍に増え、清水に8つあった小学校でも欠食児童が続出したという。その救済策として土木事業が興され大内の更生道路もそうだし、日本平登山道の着工もその一つだったという。

 
 更生道路と合流して少し広くなった「山根」に沿った道には、昔懐かしい農家の壁にホーロー看板がたくさん残っており、往時の人通りを偲ばせる。

 ノウゼンカヅラが咲き乱れる道沿いにすすむと右手に「曹洞宗保蟹寺入口」と書かれた石碑があり、右折して山襞に分け入ると「保蟹寺」がある。「保蟹寺」と書いて「ほうかいじ」と読み、1607(慶長12)年創建という。寺の裏山を薬師平といい本尊はかつて旧北街道沿いに祀られていた蟹薬師如来であり、蟹に乗った薬師如来像はユニークで珍しいという。


 保蟹寺と薬師平の間に小さな墓地があり、その片隅にわが母親の墓があり、僕もいつかそこへおさまることになっている。

 母の墓以外に母方の本家、本家を継がなかった伯父、本家から出た叔母の墓があり、母の墓前に花が供えてあるときは、他の三つの墓を見に行けば、誰が墓参りしてくれたかおおよその見当はつく。

 
 この日も母の墓に黄色と白の菊が供えられており、他の親戚の墓に花がないので、母だけを訪ねていただいたのだとわかる。お盆の間に参っていただいたようで、花も傷んでないので持参した花を加えさせていただいた。

 母の墓近くに、ずらりと墓石の並んだ墓所があり、僕より年若の女性が軽トラに大量の花を積んで墓参りする姿をよく見かけた。たくさんの墓石を洗い、掃除をし、花を供え、線香に火をつけて拝む姿をたびたび見かけるので、
「ご苦労様、感心ですね」
と声をかけたら
「うちは墓が多いんで大変なんです」
と汗をぬぐいながら笑われていた。最近は姿を見かけず、墓前の花も造花がさしっぱなしになっているので墓参りのたびに気にかかる。墓参りは生きている人同士が互いの音信を伝え会う手段という一面もあるかもしれない。

 本家と伯父の墓だけだった頃は、母と墓参りして墓石を洗い、掃除をし、花を供え、線香に火をつけて拝むということをしていたけれど、わが母の墓と、ほぼ時を同じくして亡くなった叔母の墓が増えて計4つになると、ちゃんとした墓参りも大変で、母の墓以外には線香を供えて手をあわせるだけの簡単な墓参りになってしまう。生きている人間は年をとるし疲れるから。

 手を合わせるだけで不義理をしているご先祖さまにお詫びをし、誰だかわからないけれどお盆中に母のことを忘れずに参って下さった方にお礼の気持ちを込め、ブログの日記で小さな歴史散歩の墓参り報告をさせていただいた。

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