由比 地持院の襖絵を見に行く

2017年10月30日
僕の寄り道――由比 地持院の襖絵を見に行く


クリックで取材メモ一覧に戻ります

 

静岡市清水区在住の画家杉山侃子(なおこ)さんが描かれた襖絵を、由比にある臨済宗妙心寺派地持院(じじいん)まで見せていただきに出かけた。

杉山侃子さんの「由比 地持院の襖絵制作」と題された原稿を収録した戸田書店発行『季刊清水』50号「特集:由比を体感する」は12月発売予定になっている。


コメント ( 4 ) | Trackback ( )

朝の由比駅

2017年10月30日
僕の寄り道――朝の由比駅


クリックで取材メモ一覧に戻ります

 駒込駅午前 4 時 32 分発の山手線外回り電車に乗ると品川駅に 5 時 1 分着、別のホームに 5 時 10 分発東海道本線小田原行が待っているのでドアボタンを押して乗車する。1 時間 11 分かかって 6 時 21 分に小田原駅に着くと 6 時 22 分発の熱海行が、ホーム向かい側でドアを開けて待っているので急いで乗り換えろと言う。「♪おさるのかごやだほいさっさ」の発車音に急かされて餌付けされた猿のようにホームを走る。6 時 45 分熱海着、別のホームに東海道本線浜松行が待っているので地下通路を走っていって乗り込む。そして熱海駅を 6 時 49 分に発車した列車は 7 時 43 分由比へと到着する。所要時間 3 時間 11 分の旅である。急かされて走ってばかりで飲み物を買う時間もない。

台風一過。台風通過後の由比駅ホームに降り立つと陽光にあふれている。改札を出て静岡駅、清水駅から乗車して上り電車で到着する地元編集委員たちを待つ。

待合室を兼ねた改札前には地元産品を紹介するショーケースが置かれ、桜えび、しらす、水産缶詰、水産練り製品など水産食品加工業が盛んであることがわかる。

小豆と米の入った缶詰があって、電気炊飯器に入れればすぐに赤飯が炊けるという。これは「急なおめでたに便利そうで驚いたと早めに来た同級生に言ったら、静岡市内ではたいがいのスーパーに置かれていると言う。東京では見たことがない。

駅前の小さなロータリーに次々と軽自動車がやって来て助手席の家族を下ろして走り去る。通勤通学の時刻である。

由比は東西を山に挟まれている町なので、ちょっと高い場所に登らないと富士山が見えない。当然由比駅ホームに降り立っても富士山に出迎えを受けることはないのだけれど、台風一過で澄明な空気状態の朝だったせいか、島式ホームと改札ホームを結ぶ跨線橋から、富士山がちょっと顔を出しているのが見えた。

こういう富士山も愛嬌があってよいもので、新しい由比駅のマスコットを発見した気分である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )

坂の勾配

2017年10月29日
僕の寄り道――坂の勾配

柳田國男「峠に関する二、三の考察」を読んでいたら、道の勾配についてこんなことが書かれていた。

「今の峠は浅い外山から緩く越えることは事実である。大小何れの峠を見ても旧道と新道との相違は即ちこれである。峠路に限って里程の遠くなるのを改修といっている。それというのが七寸以下の勾配でなければ荷を負うた馬が通らず、三寸の勾配でなければ荷車が通わぬとすれば、馬も車も通らぬ位の峠には一軒の休み茶屋もなく、誰しも山中に野宿はいやだから、急な坂で苦しくとも一日で越える算段をするのである。」

郷里静岡県清水にある清水橋は国道 149 号線が東海道本線を越える跨線橋で、最初は路面電車である静岡鉄道清水市内線専用につくられ、のちに拡幅されて自動車も通すようになった。その後、路面電車の廃線で自動車専用となり、平成になって新たに掛け替えられた。

その古い清水橋を高校時代に写した写真があり、角度を画像から推測すると 35 度くらいかなと思っていた。柳田國男が言う勾配の七寸は、タンジェント換算表を見ると 7 寸 / 10 寸で 34°59’31” になる。

ということは柳田國男の言に従えば旧清水橋の勾配は荷を負うた馬が通える勾配の限界値だったということになる。当時の電気式路面電車にとって登坂できる限界値がどれくらいだったのかは知らない。

今の新しい清水橋より昔の清水橋は、リニアな角度で緩やかにのぼって緩やかにくだっていたような気がし、そのせいか明け方の交通量の少ない時間帯、脚力が衰えた年寄りが楽々と徒歩で越えていくのをときどき見かけた。

※ 七寸の勾配=7/10 7寸 34°59’31”
 三寸の勾配=3/10 3寸 16°41’57”

 

コメント ( 4 ) | Trackback ( )

羊腸

2017年10月28日
僕の寄り道――羊腸

この夏に歩いた山峡(やまかい)の道について書かれた資料を読んでいたら、「明治中期の頃迄は羊腸(ようちょう)たる杣道(そまみち)であった」と書かれていた。つづら折りの道を羊の腸にたとえているわけで、うまいことを言うものだと感心する。

柳田國男「峠に関する二、三の考察」を読んでいたら、やはり山道のことを羊腸と書いており、昔の人はよく使った言葉なのかもしれない。出典元は司馬遷の史記らしい。

それにしても柳田國男の文章は素晴らしくてしみじみとした味わいがある。

…獣すら一筋の径(みち)をもつのである。ましてや人は山に住んでも寂寞(せきばく)を厭(いと)い、行く人に追付き、来る人に出逢おうと力(つと)めるから、自然に羊腸(ようちょう)が統一するのである。
――柳田國男 「峠に関する二、三の考察」

「獣すら」という表現も昔の人の得意とするところだ。別の人の書いた本に、釈迦の入寂に際して、たくさんの動物も集まってきて泣き、言葉を持たない「蟹ですら」鋏(はさみ)を振りかざして哀しみをあらわした、などとあって読む者の胸に迫るものがある。昔の人の思うツボである。

しかし「羊腸が統一するのである」とはうまいことを言ったものだ。

   ***

写真はかつて羊腸たる杣道だった林道の先にある香木穴集落にあった面白い石。どちらもよく見ると彫刻されて梵鐘をかたどったもの。遊びなのか、まじないなのか、穴に縄を通してなにか実用にしたのか、はたまた天秤棒かつぎ式の力石(ちからいし)なのか、その正体は不明である。


コメント ( 4 ) | Trackback ( )

ブログの修復

2017年10月27日
僕の寄り道――ブログの修復

1999年から開設していたウェブサイトを閉鎖して片づけた。歳をとって自分の人生の片づけをしなくてはならないと意識したとき、そのための体力と時間がもう残されていないと気づくことで、たいへんな苦しみを感じる人がいるらしい。わが母がそうだった。

自分の場合はいい加減なのでそれほどでもない気がするけれど、なってみてからでは遅いので早めに手を打った。そういうわけで片づけ自体はやって良かったと思うのだけれど、ひとつ別のことが気になってしまった。

母親の看取りを終えた翌年、年初めからウェブサイトの更新をやめて簡単なブログを使っての日記に切り替えた。その際に掲載する写真を、ブログにアップするのではなくウェブサイトに置いてブログからリンクを貼っていた。当時はまだブログにアップできる写真の容量に限りがあったからだ。というわけでそういうやり方をしていた2011年までの日記では、ページを開くと写真がすべてリンク切れになっている。

ウェブサイトというのはサイトを置いているサーバーと自分のパソコンの両方に同じデータがある。そうしておいて、双方を同期させるのが一般的な管理法だ。自分のサイトもそういうやり方で作っていたのでデータは全てパソコン内にある。

というわけでこのブログのデータをひとつひとつ開いてHTML表示にし、リンク切れになった写真を探してアップすれば修復は可能である。そんなわけで清水に関する日記から少しずつ復旧作業を始めている。そこまでやる価値があるかどうかは別問題である。

写真はプログ修復をしていて出てきた清水駅前にあった大衆酒場。駅前の再開発で既にない。壁に貼られた時刻表を横目で見ながら、仕事帰りにいっぱいやっているおじさんが大勢いた。そういう懐かしい過去を掘り出す楽しみを励みに、失われた6年間の日記を少しずつ修復している。

追記:仕事終了前にコツコツ作業していたら、1 日にアップロード可能な写真の枚数 100 枚を超えたので続きは明日にしろという表示が出てびっくりした。

 

コメント ( 4 ) | Trackback ( )

谷端川のこと

2017年10月25日
僕の寄り道――谷端川のこと

池袋駅駅前ロータリーからまっすぐ西に行く大通りがあり、緩やかな斜面を下りきった山手通りとの交差点が要町(かなめちょう)になる。そこから先の道の名を要町通りという。その手前は江戸川乱歩にちなんで乱歩通りと書かれた小旗が街灯から下がっている。

要町交差点手前にある編集事務所へ行く用事ができるのを楽しみにしている。まったく土地勘がないので小さな旅の気分になるからだ。要町の交差点は緩やかな河岸段丘の底に山手通りが通っているといった状態の地形であり、昔は川が流れていたのだろうという程度の想像はつく。

東京の町並みは関東大震災と東京大空襲で大きく書き換えられている。関東大震災直前の地図を見たら、このあたりは一面の田んぼで街の姿など影も形もない。真ん中に川が流れており、川の名を谷端川(やばたがわ)という。

谷端川の流れ、すなわち山手通りに沿って南に行くと右手に国際興業バスの操車場があり、このあたりがかつて池袋モンパルナスと呼ばれた芸術家村の中心となる。

大震災前の地図には当然山手通りなどなく、水田を潤して稲作営農の支えになったであろう谷端川の流れがある。谷端川の流れを北方向、下流に向かって地図上でたどると、思いがけないコースを通って文京区内に入り、川の名は小石川(千川)になる。

小石川は、わが住まいと出身大学の中間の谷間を流れていたが、不忍通り猫又坂下あたりになると、戦前期の地図からは消えてしまう。このあたりの暗渠化が早かったことがわかる。猫又橋が石橋にかけ替えられたのが大正7年で、数年後の昭和9年にはもう石橋も撤去されて暗渠にされたのだ。

谷端川の流れはもうほとんど全域が暗渠化されてしまい、川の名は古地図や文献にしか残っていない。北池袋の古地図を見ていてその名を初めて知った。撤去された猫又橋の親柱と袖石が不忍通り脇に保存されており、教育委員会の解説には次のように記されている。

 石造の猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。

  騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん
                文京区教育委員会   昭和58年1月

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

能島橋と出合橋

2017年10月25日
僕の寄り道――能島橋と出合橋

 郷里静岡県清水に能島橋という橋がある。清水で最初のコンクリート製永久橋であると書かれた本を読んで、永久橋とは木造ではなく壊れにくいコンクリート製の橋だと思い込んだ。思い込んでしまうと思い込みから抜け出すのが容易ではないし、原文の細部を勝手に解釈し取り違えて読んだ可能性もある。

 友人が丹精した河川敷の花壇が流失した話を聞き、ふと日本各地にある潜水橋のことを思い出した。潜水橋は増水時に水面下へ水没することで崩壊を回避するように考えられた橋のことだ。橋の通行面が水没して濁流をやり過ごしても、欄干に流木などが引っかかるとそこが抵抗を受けて欄干だけでなく橋自体が損傷を受ける。だから潜水橋は欄干がないか取り外し可能になっている。

 そういう説明を読んでみると、永久橋というのは通行面が増水時も水面上にあるように作られた橋のことで、潜水橋の対義語であって木造かコンクリート製かは問わないらしい。ということは「清水で最初のコンクリート製永久橋」には《最初のコンクリート製》か《最初の永久橋》か《最初のコンクリート製でしかも最初の永久橋》という三つの読み方があるのではないかと思った。

『続 高部のあゆみ その一 わがまち思い出ばなし』より

 手持ちの資料を調べたら大正9(1920)年の能島橋、このころは三鞆(みとも)橋といったが、その写真が残っていた。手前に水車が写っているのは、護岸工事が行われて巴川の土手が高くなり、川沿いの田んぼに川から水を引き入れられなくなったので揚水しているわけだ。そして木製の三輌橋にはちゃんと欄干があるので《木製の永久橋》になっている。ということは昭和9年に架け替えられた能島橋は《永久橋の中でも最初期―おそらく国道一号線巴川橋に次いで―にコンクリート化された橋》という第四の意味になる。

 と、ここまで考えてようやく「あ、そうか」と解けた謎がある。幼い頃のほんの一時期、母親と能島にあった祖父の家で暮らしたことがある。母親のこぐ自転車に乗せられて清水市街地に出ようとすると能島橋の先で小さな川を渡らなくてはならない。川の名を土地の人は「ふるっ川」と言う。かつて巴川が能島上流で二手に分かれ、再び合流して一つの流れになることで、能島は名前通り島になっていた。大きな本流が今の巴川であり、取り残された蛇行跡のような川がふるっ川なのである。巴川とふるっ川がひとつになる場所にかけられた橋なので出合橋という。

母親と自転車で外出。この木造橋は巴川にかかる渋川橋。

 で、その出合橋は数メートルにすぎない短い橋なのだけれど、自転車に乗せられて渡るのが怖かったのが鮮烈な思い出になっている。その橋には欄干がなく、それでいてコンクリート製の頑丈な橋だった。どうしてあの橋には欄干がなかったのだろうと、長いことぼんやり覚えていたのだけれど、あの出合橋こそ洪水の際に水没しても損害を受けにくい潜水橋として作られたのかもしれない。おそらく能島橋をコンクリート製にする工事の一環だったのではないかと思う。いまはもう架け替えられており、小さいながら頑丈な欄干がつけられている。

Googleストリートビューで表示した現在の出合橋

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

南青山あたり

2017年10月23日
僕の寄り道――南青山あたり

「打ち合わせが午後遅めになったから、早めに出て表参道まで行って、青山通りから信号ふたつ奥の並行する道を赤坂まで歩いた」
と言うと、妻が
「ああ、フロムファーストビルまで行かないで左に曲がったのね」
などと言う。大学を出て結婚するまで南青山で働いていたので、彼女は《あのあたり》に詳しい。

《あのあたりは地図で見るとみゆき通りなどという名前がついており、昭和天皇が明治神宮参拝をするため表参道の延長のようににつくられて御幸通りなのだという。関東大震災直前の地図にないその道は、戦前の地図を見ると《信号ふたつ奥》の地点までちょろっとあるだけで、《フロムファーストビル》などという場所にはまだ道すらない。

《あのあたりは、通りに面して有名どころのファッションビルが建ち並び、その脇道という脇道ほとんどに、聞いたこともないブランドが看板をかかげて凝集している。なんとも異様な気配になっており、こういう状態が産業集積というやつなのだろう。同じようなものがたくさん集まることによって、臨界点を超えると《集積が集積を呼ぶ状態になり、核融合のようなエネルギーを持つに至る。このあたりは街がそうなっている。

長居をすると精神の線量計が振り切れそうなので、足早に通り過ぎつつ異様な波を発しているビルを採集し、写真に収納して持ち帰った。調べてみたらプラダのブティックらしい。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )

深い川は静かに流れる(再掲)

2014年10月18日(土)
深い川は静かに流れる(再掲)

01
早朝散歩で本郷通りを飛鳥山方向に歩くときは、岩槻街道音無橋たもとから石神井川沿いの遊歩道を上流に向かって遡る。昔は滝野川渓谷と呼ばれる風光明媚な場所だったらしいけれど、今ではコンクリート護岸の都市排水路になってしまい、渓谷と呼ばれただけあって覗き込むと恐ろしく深い。

02
王子権現脇、音無橋下あたりの谷底に昔は堰があり、分水されたものが音無川と呼ばれ、灌漑用水となってはるばる千住まで流れて隅田川に注いでいた。千住あたりでは名前が思川(おもいがわ)に変わり、そこにかかっていた橋が「あしたのジョー」に出てくる泪橋だ。

 |明治時代の滝野川渓谷、今の紅葉橋あたり(「北区の歴史」名著出版より)| 

03
紅葉橋のところから左に折れて自宅に戻るとちょうど1時間程度の早足散歩になる。江戸時代の大火で焼けて巣鴨方面へ移ってきた寺が古道沿いにいくつもあり、そのうちの一つの寺で、門前になかなか良いお言葉が書かれていた。

04
他人の悪口や噂話を声高にしゃべるものではない。思慮深い人というのは無口であり、深い川は静かに流れるものだという意味のことだった。うまいことを言うものだと感心して、帰宅後検索してみたら英語のことわざ「スティル・ウォーターズ・ラン・ディープ」の日本語訳らしい。

※今から3年前に投稿したエントリーだけれど、本文に英語のことわざを引用したせいか、英語のスパムコメントが頻繁に書き込まれるので、英文部分をカタカナになおし、元のエントリーを削除して再投稿してみた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

笑いの色とお茶の色

2017年10月8日
僕の寄り道――笑いの色とお茶の色

いくら声をかけても返事がなく、しかもどこかに人のけはいがするので、土間の戸をあけてみると、中は真暗。昔は格がよかったとみえ、とりわけ大きな頑丈な家でしたが、屋根もまわりの板も煤け切っている上に明かりがはいらず明るい六月の日光の中から突然ふみ込んだ私には、すこし目が慣れるまで何も見えませんでした。(山川菊栄『わが住む村』岩波文庫)

子どもの頃は、日差しが眩しい夏場はとくに、いきなり玄関から土間に入ると、目が慣れるまでしばらくのあいだ、家の中の様子がまるで見えないほど暗い家があった。最近そういう経験がない。そういう暗い場所に入り、次第に慣れて見えるようになる視覚の働きを《暗順応》という。

ようやく土間の片隅に動く者を目つけて近づくと、例の大かまどの前に中腰になったお婆さんが、小さな女の子につきまとわれながら、襷がけで、しずかに大鍋の中をかきまぜています。耳のほとんど聞こえない八十以上のこのお婆さんは毎年こうして自分の家のお茶をつんで、一年分の自家用のお茶を作っておくのでした。佳いお茶はむつかしいが、番茶ならこれで結構だと、かまどの下に、いぶす程度に枯柴をくべて、平らにほんのり鍋が温まっているように気をつけながら、いつまでも中腰の姿勢のままで、同じ調子で、気長に鍋の中をかきまぜていました。(山川菊栄『わが住む村』岩波文庫

蒸した茶葉を揉みながら乾燥させた煎茶が現れたのは江戸時代中期以降のことで、その緑色したお茶を庶民が飲めるようになったのは、輸出品として珍重がられ品質と生産量が急伸した幕末以降のことだ。とはいえ庶民にはなかなか手が届かず、昭和10年代後半になっても、貧しい農村で煎茶は高嶺の花だったのだろう。なんと山川菊栄が暮らした神奈川県鎌倉郡村岡村、現在の藤沢市内の農家では、お婆さんが家庭消費用のお茶を自家製していたことがわかる。

短い文章なので詳細はわからないけれど、これは蒸すという大仕事を含まない、干して乾燥させた茶葉を裁断して焙じる《干し茶》、もしくは干さずに生のまま大鍋で焙じる《焼き茶》、弱火でゆっくり丹念に作業されているようなのでおそらく後者なのではないかと思う。今でいうほうじ茶のようなもので、香ばしい茶色をしたお茶である。

朝ドラ『わろてんか』の主人公藤岡てんが北村藤吉に「笑いの色は何色だと思う」と聞かれ、兄新一に相談したらチョコレート色した茶色ではないかと教えてもらい、でもチョコレートは茶色だけれど飲むお茶は緑色なので変だと笑い合う。江戸時代中期以前はもちろん、戦前の農村ではお茶といえばチョコレート色の茶色であり、緑色した煎茶は贅沢品だった。

墓参り帰省の帰り道、東海道線の上り電車が藤沢の駅を出て、暗い農家の土間で茶を炒るお婆さんがいた神奈川県鎌倉郡村岡村を通過するのでスマホを起動し、国土地理院地図に GPS で通過地点を表示させながら車窓風景を眺めてみた。


コメント ( 2 ) | Trackback ( )

由比町誌を読みに

2017年10月5日
僕の寄り道――由比町誌を読みに


クリックで取材メモ一覧に戻ります

2008(平成20)年11月1日に静岡市へ編入合併することで消滅した由比の町誌は、電子化されて国立国会図書館で閲覧できる。電子化されたということは、著作権消滅後は家庭内のパソコンからでも閲覧できるのだけれど、現時点ではまだ図書館まで足を運ばなくてはならない。

それでも電子化されたことで閲覧が楽になり、閲覧室の机に空席を見つけ、登録利用者カード(ICカード)をリーダーにのせてパソコンを起動し、パスワードを入れてログインし、読みたい書籍名を入力して検索すると即座にその画面で閲覧できる。

由比町制が施行されたのが明治22年で、その年に東海道線が開通している。だが開通時に由比駅はなく静岡、江尻、興津と上ると次は岩渕駅になっていた。翌23年には岩渕の手前に蒲原駅が開業したが、嘆願にもかかわらず由比駅が開設されるのは大正5年だった。

ああそうだったのかと読み始めたらきりがなく、目当ての部分までなかなか進まない。画面を見たらプリントというボタンがある。勝手にプリントできるんだろうかと興味深いので押して見た。

プリントを選択するとページ指定(電子化された画面のコマ数指定)を求められ、範囲を指定し、印刷位置の調整を行い、プリントボタンを押すとPDFが作成され、完了ボタンを押すとデータが送信される。

登録利用者カードをリーダーから抜き取るとログアウトされてパソコンがリセットされる。1階のプリントカウンターに行ってそのカードをリーダーにのせると、先ほどのデータがここに送られ、プリント依頼の確認を求められる。「はい」のボタンを押して数分待つと、プリントが完了したと番号で呼ばれるので料金を払う。21枚、42ページ分で税込317円だった。


コメント ( 1 ) | Trackback ( )

山峻険にして谷深し

2017年10月3日
僕の寄り道――山峻険にして谷深し


クリックで取材メモ一覧に戻ります

「山峻険にして谷深く、人煙まれなところ」と宮本常一が書いているけれど、山道を歩いてそういう場所にさしかかると怖い。熊や猪と鉢合わせするのも怖いけれど、かたちとして名指しできない、ひんやりとした山の妖気が怖い。

そういう怖い場所を足早に抜けた先に集落が拓かれていることが多く緊張が解けてほっとする。そういう怖いくらいの場所こそが山の恵みを得やすいこともあるだろうし、怖い場所の裏に隠れて別の怖さを祓いたいという理由もあるだろう。

昭和36年の夏、高知から大阪まで飛行機に搭乗した宮本常一は、飛行機の窓から地上を見下ろして、日本には平地民と民族的に違った山岳民がいたに違いないと思うようになったという。山峻険にして谷深く、人煙まれなところを選んで住み続けた人たちがいたと。

なぜなら平地から山岳地帯へ移り住んだ人びとは水利の良い場所を選んでわずかばかりであっても水田を拓いているけれど、稲作を経験せずに暮らしつつ山から山へ移動した人びとが拓いた集落は水田をもたない。彼らは狩猟採集生活から畑作農耕へ直接すすんだのではないか。そんなことを空から日本列島を眺めて宮本常一は考えたらしい。

いまは便利な世の中になり、パソコンで GoogleMap をつかって上空から希望する場所を写真映像で見られてしまう。まるで飛行機を操縦するように好きなコースを飛行し、上昇したり下降したりして世界をマクロ的にもミクロ的にも見ることができる。

この夏に歩いた静岡県内の山地も、下降して地上すれすれまで視点を下げると、山峻険にして谷深い場所は写真であってもゾクッと身震いするように怖い。怖いので上昇して広範囲に地域を見ると、周りにやかましいほどの人跡があって寂しさは消えてしまう。

訪ねた幾つかの集落を見ると、まさに平地から移動した文化が定着したように、山の斜面に水田が作られているところもあれば、山の上を拓いて耕地を確保しているものの全く水田をもたない集落もある。確かにおもしろいものだなと思う。


コメント ( 2 ) | Trackback ( )

点と線

2017年10月2日
僕の寄り道――点と線

富士山はろくろを回してつくったようにきれいな円錐形ではなく、側面に 1707 年の大噴火でできた側火山があって、噴火したのが宝永 4 年なので宝永山という。郷里静岡県清水から見る富士山は右肩に宝永山があるので、幼いころ富士山を描くときは、ちゃんと右肩に出っ張りを付け足すのを忘れなかった。

富士山が見える地域の静岡県人は宝永山をよく見ており、観光ボスターなどを見て「この広告にこの富士山はおかしい、宝永山の場所がへんだ、これは別の場所から撮っている」などと鋭く指摘する。故郷を離れて暮らしていても遠くに富士山が見えて宝永山の位置が確認可能だと生まれ故郷の方角がおおよそわかる。

八王子で暮らす友人のブログを見たら、市政 100 周年の記念式典で永年の地域活動を讃えて表彰を受けたという。えらいものである。

市もえらいもので、明治元年から150年を迎える日本で、八王子は1917(大正6)年に市になってもう 100 年を迎えている。八王子市市制 100 周年記念サイトを見たら市上空から撮影された航空写真があり、真ん中に富士山があって宝永山が左肩に見えている。

義母が暮らす埼玉の老人ホームは、晴れた日の屋上に昇ると富士山が見える。左肩に宝永山が見え、郷里静岡県清水から見える景色のぴったり裏返しなので、老人ホームと宝永山を繋いだ線のまっすぐ延長上に故郷があるとわかる。逆に墓参りや出張で清水にいるときは、この場所と宝永山を繋いだ線のまっすぐ延長上に妻がいて、老いた母親の介助をしているのだろうなと想像できる。

八王子上空から見る宝永山もまた埼玉から見る位置に等しいので、地図を開いて埼玉と宝永山と清水を繋ぐ補助線を引いてみたら、やはり八王子はほぼその線上にあった。

ただそれだけの話なのだけれど、個人個人、人それぞれが離れた場所に対して抱く郷愁とは、こういう点と点をつなぐ補助線のようなものなのだろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )

150 年

2017年10月1日
僕の寄り道――150 年

明治元年は?と聞けば「いや ろっぱくん めいじ だよ」が妻の口癖で、そういう古めかしい記憶法で日本史を学んだ親世代からの伝承らしい。

ろっぱくんとは古川緑波(ふるかわろっぱ)、「いやろっぱ」は「1868」で、1868 年が明治元年であることを語呂合わせで覚える工夫である。古川緑波を知らない世代にはあまり意味をなさないので早晩消えていく記憶法だろう。

「いや ろっぱくん」の前年に大政奉還と王政復古があり、大久保利通はまず大阪への遷都を建議したという。日本の首都がそのまま東京ではなく大阪になっていたら、その後の歴史が少しは違っただろうか。

大宮駅東口。旧中山道に近いバス停にて。

結局なし崩し的に東京遷都ときまり、「いやろっぱくん」の 1868 年 9 月から 12 月にかけて、あわただしく天皇の東幸が行われた。

「祭政一致之道」をめざす新政府の理念を新国民に示すため、武蔵国大宮の氷川神社を鎮守勅祭の社とする勅書が出され、会津攻撃が最終局面をむかえていた 9 月に天皇は京を出立した。

沿道で孝子・孝婦・高齢者に金品を下賜しながら 10 月 13 日東京着、10 月 27 日にふたたび東京を発ち、その夜は浦和宿泊。翌 10 月 28 日、雨降るなかおごそかに氷川神社行幸が行われ、新政府の宗教儀式は無事終了した。

日曜日なので大宮にある特養ホームを訪問した。大宮駅前でバスを待っていたら街灯に「明治天皇御親祭百五十年大祭」の垂れ幕が掲げられており、
「そうか、いやろっぱくんだから今年はもう明治元年から数えて 150 年なんだ」
と驚いたら、妻も
「あっそうか!」
と言う。

降る雪や明治は遠くなりにけり

中村草田男がそう詠んだのが昭和 6 年だから 1931 年。その 1930 年代がコメディアン古川緑波の全盛期なので「いや ろっぱくん めいじ だよ」の語呂合わせはその頃にはやったものかもしれない。


コメント ( 2 ) | Trackback ( )

ポポーとポッポの木

2017年9月26日
僕の寄り道――ポポーとポッポの木


クリックで取材メモ一覧に戻ります

旧東海道由比の古い町並みを歩いていたら幻の果実「ポポ」が売られていた。「木になるカスタードクリーム」という謳い文句が気になり、「バナナとプリンを足して割った味」というのに好奇心をそそられたけれど、ひとり道端で貪り食う類人猿のようなオヤジの姿が思い浮かんだので我慢した。こんな時のため(実は年とった親を介助するため)ナイフやスプーンはいつもカバンの中にある。

以前、興津にあるファーム池之沢さんに関するネット記事を読んで、清水でポポー栽培をする農家があることは知っていたのだけれど、実際に果実を見るのはこれが初めてだった。大きなアケビの実に似ている。

北米原産の植物で、温帯で生育し寒さにも強いという。明治時代の日本に入り、富豪の屋敷などで栽培され、苗木は高値で取引されていたという。つい最近まで存在すら知らなくて、ポポーという名前がおもしろいので辞書をひいて驚いた。

ポポーは pawpaw と書き、ポポー、ポーポー、ポポなどさまざまに読まれるのだけれど、「ポポノキ」という呼び名がある。ポポノキなら 35 年前に見たことがある。

北陸富山にあった妻の実家の庭に変わった葉っぱの木があり、これは「ポッポの木」だと言う。ポッポではまるで幼児語のようであり、変な名前の木だなあ、他にありそうなちゃんとした名前はなんだろうと思ったものだった。

従姉がどこからか「ポッポの木」だという苗木をもらって来て植えたそうで、美味しい実がなると聞いて楽しみにしていたけれど、妻の両親が住まいを引き払って上京するまで、実をつけることはなかったという。寒さに強いとはいえ雪深い富山なので、雪のかからない軒下近くに植えられていたのだけれど、もっと日の当たる場所が良かったかもしれない。

ファーム池之沢さんのサイトを見ると日当たりの良いポポー畑の写真があった。山ひとつ越えたここ由比でも、どこかにポポー栽培をされている農家があるのだろうかと、海辺へつづく町屋原の坂道を下りながら、さっき食べ損ねたポポーのことを思い出した。


コメント ( 0 ) | Trackback ( )