電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【たれ、垂れ、タレ】(再掲)
【たれ、垂れ、タレ】(再掲)
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 5 月 17 日の日記再掲)
編集者であり、先輩であり、友人であり、かつ宿敵でもある方から「サメのたれ」と「ウツボの一夜干」をいただいた。
清水名物「イルカのたれ」が大好物の僕は「鯨のたれ」に続き、「日本三大たれ」(勝手に決めた)を制覇したことになる。「サメのたれ」は想像していたより柔らかく、特有な臭いも無く「日本三大たれ」の中で最も食べやすいと思う。というか、「サメ」である事を隠して食べさせられたら「サメ」だなんてわからないのではないだろうか。
「ウツボの一夜干」の方は珍味。「ウツボ」の善し悪しはわからないが、いただいたものは「ウツボの一夜干」の中ではかなり上等なものではないだろうか。「地元の人なら泣いて喜ぶ」という奴だと思う。切り分ける前は2メートル近くあったというし、その皮の斑模様と来たら…。味の感想を正直に言えば「うままずい」。独特の香りのある脂が珍妙、しかもブーメランのような面白い形をした硬い骨が至る所にあって、安直に飲み込む事を拒否しているような構造になっているのだ。舌が「まずい」と言っているのに、心が「うまい」と同時(誤)通訳してしまうのは、ひとえにかつて訪れた紀州の海の碧さ、熊野の闇の深さ、「ウツボの干物」で「茶粥」をかっ込む友人(どうしてるかなぁ)宅の清貧の食卓が思い出されてならないのだ。
金田食堂(2000)
風土食愛というのは、他所者にとっては真正直な舌が即座に「まずい」と感じることが多いのを、そんなものが何故その地域で好んで食されるかに思いを深くすれば「旨味」がしみじみと沸いて来る、という構造になっているのだと思う。
玉川楼(2000)
新茶の美味しい季節になり、我が家にも清水の姉貴から両河内(りょうごうち)産のとびきり上質な新茶が届いた。「サメとウツボ」の友人から「最高に不味い」と酷評された「焼津の鰹の塩辛」(塩以外無添加、とびきり塩辛い)が恋しくなった。50度ぐらいのお湯で柔らかく色良く入れた新茶を、冷ました御飯にかけて、「焼津の鰹の塩辛」をのせてかっ込むお茶漬けは、青臭さと、甘さと、生臭さと、塩辛さが渾然一体となった僕の愛する風土食なのだ。もう想像しただけで涙ちょちょぎれ。
目に青葉 山不如帰 初鰹
◉
【再掲『まる子゛と清水』INDEX】
【再掲『まる子゛と清水』INDEX】
前書きにかえて
【再掲『まる子゛と清水』(1)】
【再掲『まる子゛と清水』(1)】
前書きにかえて
忘れもしない 1999 年、オオツゴモリの前日、世界があと一日でジ・エンドになってしまうのではないかと一部の人に思われていた日。オイルショックの際パニックになってトイレットペーパー買い占めに走りテレビの全国ニュースで大恥を晒した清水っ子の代表である私は、Y2K 、わいつーけーの言葉を交互に脳裏に点滅させながら、最後の晩餐の会場である金田食堂に向かっていたのである。
真冬のこと、開店時間の 5 時には既に辺りが漆黒の闇だ。大正橋たもとから見る巴川の水面 に映る家々の灯火はなんと美しいのだろう、たとえ「わいつーけー」で世界に終末が来なくとも、自分の人生の終末にはこんなに穏やかで美しく、そして物悲しく世界を見つめることができるのだろうかと、思わずにはいられなかった。
さっと暖簾を払ってガラガラっと引き戸を開けると、もう既に七分の客の入りである。店内を見渡すと、テレ下には爺さんの忘年会らしくグラスとお手元がずらりと並べられ、早めに着きすぎた二人組みがお預けを喰った犬のようにちょこんと座っていて可愛らしい。ババ前にも既に常連らしきオッチャンたちがビールを差しつ差されつしている。
「テレ下」「ババ前」というのはこの店独自の符牒で、「テレ下」は文字通 りテレビの下、「ババ前」のババは以前常連だった婆さんがいつも座っていた場所のことだ。よく「カウンタ1番さん」とか「テーブル2番さん」とか客を呼んでいる店があるが、私は好きではない。以前買い溜めた dancyu という雑誌を処分するにあたり膨大な飲食店リストをデータベース入力したことがあるが、札幌などの条理的な住所にはウンザリした。入力していてちっとも楽しくないのだ。「宮の前」とか「一本杉」とか「坂ノ下」とかの地名だと漠然とだがイメージが湧いてきて単調な作業も楽しい。「ババ前、鰹刺しとウナ肝、各一丁」などとオバチャンが声高らかに宣言してくれると、群雄割拠の戦国の世に「われこそはババ前なりー」と旗指し物を高々と翻したようでなんだか嬉しい。注文する度にババ前軍が次々に武将級の首をあげているようで誇らしくなるのである。
さらに「鰹の刺し身」「鰻の肝焼き」など品書きを読んで注文する度に、「鰹刺し」「ウナ肝」などと短縮形にして復唱してくれるのが嬉しい。注文にスピード感が付加されて、いかにも調理場にぶち込んだという気がする。注文のダンクシュートなのである。
カウンターの席がパラパラと断片化して冗長になっているところを整理するとなんとか3人掛けの席ができそうなのだが、カウンターの先客が頼まれもしないうちにツツツとずれて、あっという間に席を作ってくれた。これが良い店の特徴である。カウンターに座って脇の椅子に鞄やコートを置いておき、店員が頼まないと席を空けてくれないような客のいる店は、ろくな店ではないと思って間違い無い。
「あっ、どうもすみません」とお礼をしながら席に着くとすかさず瓶ビール 2 本を注文。「ま、ま、最初だけね」とか言い合って酌をし合い「今年もお世話になりました」と言い交わしてグビ~ッ。く~っ、たまんないねぇ。オバチャンがさっと鉛筆と小さく切った紙を置いて行く。最初の注文はゆっくり考えて紙に書きだして注文するのだ。追加注文はアイコンタクトをして口頭でダンクシュートをかますというわけ。あ~、いい気持ちになってきた。
左隣の中年夫婦風の 2 人連れを横目で窺うと、頼んでいるものが渋い。刺し身盛り合わせ、これは定番ね。そしてフライ盛り合わせ、う~ん賢いなぁ。そして黒はんぺん、う~ん通 だねぇ。出ました、鮪のカマの塩焼き、清水の鮪は生臭くないから、塩焼きがお薦め、憎いよっ、この。えっ、ご飯と味噌汁も貰っちゃうの。しかし、良く食べるねぇ、わいつーけーに備えて食い溜めかな。あらっ、目が合っちゃった、失礼失礼、こんなときはカウンターの本棚から本を取り出すフリをしてと。
あらっ、上田の無言館の館長の本だ。金田食堂さんへ、だって。清水に来ると良く寄るらしいんだよね。さすが、いいセンスしてるねぇ。おっと、さくらももこ編集の季刊誌『富士山』の創刊号、もう並んでるよ、たいしたもんだねぇ。こちらも、金田食堂さんへ、とサイン入り。えーっ、あのギャルもここへ来るの。ん、昭和40年生まれ、そうかもう三十路半ばかぁ。おおお、何と「まる子の郷里めぐり」第1回は「こくぞうさんと金田食堂」と来たもんだ。おっと、右隣の客がもう変わっているよ。回転が早いねぇ。なになに、『富士山』に「父ひろし」が載ってるって聞いて見に来たって。おじさん、ここ、ここ、さくらももこの親父、ひろしが浴衣でカラオケ歌ってるよ。「おお~っ、ひろしだ、ひろしだ、本当にひろしが載ってる~っ」。おじさん、懐かしいでしょ、東京に行っちゃったもんねぇ。仲良しだったんだろうねぇ。しかし、この店の登場人物って『ちびまる子ちゃん』の世界そのものじゃん。えっ、金田食堂の息子「かねやん」って、さくらももこの同級生なのかぁ。う~ん、知らなんだ。
富士山創刊号
新潮45別冊
2000年1月1日発行
新潮社
定価980円(税込)
そんなふうに、金田食堂の夜は更けていくのであった。そして私はハルマゲドンを目前にした夜に「父ひろし」の写 真を見ながら大喜びしているオッチャンたちを横目で見ながら、さくらももこ作「ちびまる子ちゃん」との出会いに思いを馳せるのであった。
あれは何年前だったろう。霞ヶ関にある某福祉関連団体の職員に、「ちびまる子ちゃん、知ってまっか?えっ、見てない?そりゃ清水出身者なら見なあきまへんわ」などと言われてしまったのである。まさか、あのマイナーな港町が全国的ヒットになっている漫画の舞台になっているなんて、きっとおちょくられているに違いない。そんな事を考えながらテレビをつけてみると、あらほんと。ヘタウマアニメの舞台がなんと清水市だ。それ以来、妻の軽蔑と憐憫のこもった視線を気にしながら、その番組を楽しみにするようになってしまったのである。
とはいえ、さくらももこは同じ清水市出身ではあるが11歳も年下なのだ。まるちゃんが小学校に上がる頃には私は既に高校生である。清水を遊び回ったと言ったって遊びの質が違う。こちとら、高校生時代にはさくらももこ邸(八百屋)向かいのビリヤード場でタマを撞きまくっていたのである。であるからして、近くて遠いとはこの事で、所詮世代の違う異星人と言う感慨しか作者に対して感じられなかったのである。お兄ちゃんから見れば、こんなやつ味噌っカスなのである。
しかし事態は気づかぬ間に変わっていたのだ。なに「こくぞうさんと金田食堂」だって? こくぞうさん(虚空蔵尊社)なら私だって大好きだし、大楠だって大好きだぞ、それに金田食堂と来たらあんた…。どうしてそんなに渋好みなのだ。そうか、35 歳と 46 歳じゃ共にオバチャン・オッチャンではないか。11年ったって四千日違いなだけで中国四千年の歴史からすれば耳くそみたいなもんだ。生家だって近いぞ。ためしに大股で歩いてみたら 178 歩しかなかったぞ。インターネット goo に接続し「石原雅彦」で検索すると 54 件もヒットするぞ、「さくらももこ」で検索すると、うわっ 2644 件もヒットしちゃった( 2000 年 1 月 9 日現在)。ま、どちらもヒットするだけ偉いぞ。ヒットすら打てなかった昨年の清原よりずーっと偉いのだ。
であるからして、私は決心したのだ。もし、「わいつーけー」になっても地球が存続して、晴れて 2000 年の朝に息を吹き返したらさくらももこ作「ちびまる子ちゃん」を副読本にしながら、郷土の耳くそぐらいの歴史の断層を発掘し、気宇壮大な天地創造神の鼻くそぐらいでっかい郷土 46 年史を書いてやるぞと。名づけて「ちびまるてき郷土史探検」※である。「きょうどし」という言葉にコダワリを込めた。「たつどし」とか「ふんどし」とかいう言葉と同じぐらい「ドシッ!」としているような気がするのだ。副読本を「ちびまる子ちゃん」にしたのも良いと思うぞ。こちとら高度成長の小学生時代から、ご都合主義的な歴史副読本の使い方には熟達しているのだ。無い歴史は俺が作るぐらいの意気込みで取り組みたいと思うぞ。いざ出発!と「ババ前」にて杯を天井高く差しあげる私であった。(※ホームページリニューアルに際してタイトルを変えた。郷土史探検と言ったって、書いても書いても郷土史にならなかったからである。「もう、何でもいいから書いちゃうぞ」との意気込みで『まる子゛と清水』とした)。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(2)】
【再掲『まる子゛と清水』(2)】
水没するくらい
深~い歴史があるのだ
清水と言えば「清水の次郎長」。次郎長は1820年元旦生まれだそうで(もちろん旧暦だけど)、その目出度さにあやかって、旅ゆけば駿河の国に茶の香り~と、広沢虎造の名調子にのってスタートすることにしよう。
この『東海遊侠伝』は、大正期に三代目神田伯山の講談、昭和に入って二代目広沢虎造の浪花節として、清水の次郎長の名を全国に知らしめたわけだが、この作者天田愚庵というのは実は次郎長の養子なのである。天田愚庵、幼名久五郎は 1854 年、陸奥国磐城平藩士の子として生まれ 15 歳で戊辰戦争に参加している。その後台湾に渡ったり、西南の役に参加したり、岩倉具視暗殺を画策したりと破天荒な生き方をしていたのだが、二十七歳の時、山岡鉄舟の口利きで清水の次郎長(当時六十一歳)の養子になったのだそうな。
そのおとっつぁん次郎長が六十五歳の時、博徒狩りに会って監獄にぶち込まれた際、助命嘆願書として二ヶ月かけて書き上げ、出版したのが『東海遊侠伝』なのだ。巴川沿いにある老舗割烹旅館玉 川楼のご主人府川さんによると、かつて栄寿座という映画館(今はもう無い。私は行ったことがあるけどまる子はどうだろう)で演じられていた講談『東海遊侠伝』(神田伯山だったのだろうか)が、当時巴川製紙で働いていた山田信一青年を感動せしめ、彼は一念発起して浪曲家となり次郎長の名を高めることになった。この人こそ二代目広沢虎造(1899-1964)なのだそうだ。
『東海遊侠伝』は子どもの頃から大好きなのだが(浪曲家になろうと思ったことはないが上手いぞ)、注意して聞いていると「稚児橋」という橋の名が登場する。旧東海道江尻宿(清水と言うのは後の地名)、今の清水銀座を駿府方向に進み、魚町稲荷神社( 1578 年、武田の武将穴山梅雪が創建)にぶつかるところを旧東海道に沿って左折すると巴川に行き当たる。ここに慶長 12 年( 1607 )に架けられ、昭和 40 年代、まる子が幼稚園に通 うために毎日渡ることになる橋が稚児橋なのだ。この橋を渡り緩やかに登りながら 150 メートルほど進むと四つ辻がある。この 150 メートルほどの間にちびまる子ちゃんおなじみのキャラクターが大勢住んでいた。この四つ辻は、三つ辻のように思われがちで、残る 1 本の細道が重要な道だったりするのだが、こちらは後述。しかし清水市にはこの交差点の信号システムを見直してもらいたいぞ(帰省の度に事故を起こしそうになるのだ)。まっすぐ進むと久能街道。右方向が旧東海道である。旧東海道を進むと左に創業元禄八年、徳川十五代将軍慶喜も大好きだった(もっくんはどうかな?)という追分羊羹がある。当然私は慶喜君級の愛好者である。
旧東海道には進まず久能街道を25メートルほど進んだ左側がちびまる子ちゃんの生家の青果 屋である。そしてここから大股で 178 歩ほど歩いたところ、久能街道を 120 歩くらい歩き左の渋谷酒店前の小路を右折して 58 歩ほど歩いたところに私の生家があるのである。久能街道を右折せず真っ直ぐ 100 メートルほど進むと静岡鉄道を跨ぐ跨線橋があり、そこが入江岡駅、渡る手前右側の大楠がさくらももこが根元で煙草を一服した(『富士山』創刊号、98 頁参照)こくぞうさんの御神木なのである。
というわけで、この入江町界隈はなかなか歴史的に由緒ある場所なのだと得意顔になりたいところだが、時計の針を 4000 年ほど逆転すると(これは大変な作業なのだ)、ありゃりゃ、一帯すべて海中に没してしまう。かつて清水市を襲った七夕豪雨でまる子が通 った入江小学校が冠水したことでも土地の低さがわかろうというものだ。邪馬台国から平家滅亡ぐらいまでの古代、東海道ははるか上流、今の能島辺りを通 っていたのだ。ということで古代以前の歴史は地質学的にしか存在しないのだ。だが決して卑下することはない。あのヒマラヤすら、かつては海底にあったのだから。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(3)】
【再掲『まる子゛と清水』(3)】
けもの道があるのだ
私、ちびまる子ちゃんは、妻に隠して『特製ちびまる子ちゃん』という上製本を全巻愛蔵しているのである。何も隠すことは無いと思うのだが、「俺が稼いだ金で『特製ちびまる子ちゃん』を買って何処が悪い!」と言うのは、どうにも気恥ずかしいのである。そんな後ろめたい愛蔵本なのでなかなかオオッピラに読むことができない。いや、ほとんど読んでいないと言って良いだろう。テレビの方だって長いこと見ていないのだ。よくテレビで妻や娘に軽蔑と憐憫の目で見られている駄目親父が出てくるが、私にはあれは堪えられない。尊敬の目で見られることを切望するなどもってのほか、むしろ強要したいくらいなので、小脇に『特製ちびまる子ちゃん』を抱えているわけにはいかないのである。
この文章だって、こっそり書いているのだが、副読本に『特製ちびまる子ちゃん』を選んでしまったので、読まないことにはどうにも話が前に進まない。ということで仕事をするフリをしながら、こっそり膝に乗せて読んでいたりするのである。気持ちだけ夏目漱石になったようなつもりの親父が、膝に孫のまる子をのせて文机に向かっているようなものなのだ。
そんな肩身の狭い思いをしながら『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 1 話を読み始めた。早速懐かしの店が登場し、私は「おお、みつやだ、みつやだ」と、まる子を膝から落としそうになってしまった。独特の省略法で空き地に立つ一軒家のように描かれているが「みつや」の感じは出ている。中途半端に細部にこだわらない点がいいと思うぞ。昔見たグルジアの画家、ニコ・ピロスマニの伝記映画みたいだ。
清水出身の名助手「清水のワトソン君」が収拾した情報によると実際にまる子が良く行った店は「みつや」では無く別の店なのだそうだ。だが「みつや」をモデルに選んだのは正解だと思うぞ。「みつや」は今でも現存して、まる子の焼き印を押した饅頭などを売っているが、漫画に出て来るように可愛らしいたたずまいの店なのである。
実は入り組んだ話だが、まる子の家から 178 歩の所にある私の生家は私の家ではなく、1 歳年上の従兄の家だったのである。自分の家ではないのに、その家で生まれた子供は私だけという不思議な事情があるのだが、ここでは省略。やがてその親戚が転居することになり、生家はめでたく我が家のものになったのである。その為、私はまる子の通った入江小学校には行っていない。清水のワトソン君の説によると集団登校は旧東海道の道路事情が悪いため、裏通りを通ることになっており、とすると、まる子の通学路はは我が生家の前の道だったのではないかと思うのだ。というのは、旧東海道と我が生家の間には法岸寺という大きなお寺があり、この寺の中を通り抜ける裏技が無い限り、我が家の前を通るしかないのである。
さらにワトソン君のお手柄なのだが、まる子が良く行っていたお菓子屋は、仲間うちで「バン」と呼ばれていたのだそうだ。それを聞いて、頭の中に垂れ下がったままになっていた蜘蛛の巣をはらったように、懐かしい景色が目の前にマザマザと浮かんで来たのだ。
我が家の近所で私が小遣いを消費した駄菓子屋は 3 軒ある。1 軒目は「あおやま」といい、旧東海道沿い、「みつや」より 1 本まる子の家に近い小路の角に有り、ここは多分静岡おでんや「ばい」「ながらみ」など、当時のファーストフード的なものが美味しいお店だった。現在も日本料理の「青山」というお店として営業しており、今度行ってみたいと思っている。
もう 1 軒は「とのぎ」と言って法岸寺の敷地内にあった「法岸寺湯」という銭湯の入り口右手にあったと思うが、今は無い。そして我が家の前の小路を 50 メートル程入江小学校の方向へ進んだ左側にもう 1 軒の店があり、仲間うちで「バンノミセ」と呼んでいたような気がするのだ。バンは、まさか当時流行のメンズブランド「 VAN 」では無いと思うので、「伴」だったのかもしれない。「 VAN 」ならエビスヤ、「 JUN 」ならアカシだったのだ。この道が通学路だったとすると見事に説明がつくではないか。ただし、この店が「バン」だったとすると、残念ながらもう無い。
しかし、当時の子供の社交場は見事に消滅してしまっているのに驚く。今の入江町の子供たちは小腹が減ったら何処で給油するのだろうか。大都会ならマクドナルドやミスタードーナツがあるのだが、このあたりにはセブンイレブンやローソンも無いのである。いや、いや、そんなもの無くても良い。きっと入江町は、買い食いなどしない、「良い子の住んでる良い町」なのかもしれないぞ。それが「楽しい楽しい歌の町」とは、思えないけどさ。→★「バンの家」の秘密
(続くのだ)
***
★「バンの家」の秘密
かつて『清水目玉焼』サイトに【まる子゛と清水】という駄文を書き「子供には子供のけもの道があるのだ」と題した章に清水入江地区にかつてあった子ども相手の店のことを書いた。
僕の生家から徒歩で 178 歩離れた場所で 11 年も後に生まれた『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこが、そういう店のひとつ『バンの家』の常連であり、買い食いしていた店の名は「バン」と言っていた、という話しを聞いたのは 1999 年のことである。
11 歳年上の僕と 11 歳も年下のさくらももこが知っている『バンの家』という店はもうないが、考えてみると『バンの家』のご主人は斎藤さんなのであり、斎藤さんの家(店)がどうして『バンの家』と呼ばれていたのかが長いこと謎だった。
2005 年 7 月 7 日、清水七夕まつりの日、清水淡島町『パソコンスクール PC21 』(旧中村タイプ)の中村さんからメールをいただき、なんと『バンの家』の「バン」はかつて斎藤さん宅で飼われていた犬の名だと教えていただいた。
母の通夜や葬儀で入江地区縁故の者が集まったので、
「ねえねえ『バンの家』ってどうして『バンの家』って言ったか知ってる?」
と聞いてみたら誰も知らない。
「 11 歳も年下のさくらももこまで『バンの家』って呼んでたんだってさ」
と言うと
「そりゃそうだよ、あの子を連れてお母さんが売れ残った野菜を手土産にうちへ遊びに来るたびに退屈したあの子は『バンの家』に遊びに行ってたから」
などという話しを 80 歳近い伯母が始めるが
「だけん、何で『バンの家』って言ってたかは知らないやぁ」
と言う。伯母にとっても『バンの家』は謎なのだ。
中村さんが斎藤さんに確認してくださった話しによれば、「バン」は秋田犬とブルドッグのモングルで「番犬」になるように「バン」と名付けられたという。愛犬「バン」が店番をしていたので、看板にそう書いてあったわけでもないのにこの辺りの人は皆『バンの家』と呼んでいたのであり、何ともほのぼのとする話しだ。
「バン」がどうしてそんなに地域の人に親しまれていたかというと、バンは番犬である以外に首にバスケットをさげて買い物をする名物犬だった。
昭和 30 年代、久能街道が静岡鉄道を跨ぐ入江岡跨線橋を渡って定期的に『ロバのパン屋』がやってきた。
「バン」はこのロバのパンが好きで斎藤さんのお父さんと買いに行き、家に帰るとよだれだらけになったパンを分けて貰って一緒に食べるのを楽しみにしていたのだという。
僕はロバのパン屋が持ってくる蒸しパンが好きでよく食べたが、ロバのパン屋に詳しいサイトによれば日本全国をロバのパン屋が歩いていた時代は昭和 35 年をピークに昭和 39 年頃までであり、昭和 40 年生まれのさくらももこはおそらく実家前をロバのパン屋が歩いていた時代と、ロバのパンを買いに行く「バン」の姿を知らない。
きっと「バン」は地域の人に鮮烈な思い出を残して去っていったのであり、その後も長く『バンの家』と呼ばれて名を残し、40歳のさくらももこから80歳の伯母まで、今でも『バンの家』といえば「ああ斎藤さん」で通用してしまうことにしみじみとする。
貴重な情報を調べてくださった『パソコンスクールPC21』の中村通則さんに感謝。( 2005 年 10 月 13 日)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(4)】
【再掲『まる子゛と清水』(4)】
特製ちびまる子を膝の上であやしながら、こう考えた。
お勉強好きの良い子を通すと角が立つ。あまり思いやりばかりだといじめられる。優等生でいるのは窮屈だ。とかくに学校というところは住みにくい。
住みにくさが高じると、たまにはガス抜き遠足にでも行きたくなる。
ということで『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 2 話は遠足のお話しなのだ。私が清水市立第二中学に入学した時、まる子はまだ 1 歳だったはずだ。その中学最初の遠足は船越堤(ふなこしづつみ)だった。小学校は東京だったのだが、遠足はバスに乗ってと決まっていた。ところが清水の中学に入学してみると、遠足というのは読んで字の如くひたすら歩くのだ。そもそも運動会というものを明治政府が軍隊西欧化政策の一環として始め、他校へ遠征して他流試合を挑むための行軍が遠足の始まりだったというから、理には叶っているのである。ちなみに「遠足」に対して「バス旅行」というのが別途用意されていた。まる子の時代の遠足は何処に行ったのだろうか?まさか、狐ヶ崎遊園地じゃあないよなぁ。
「絵に細部がある」という表現は面白い。細かく描き込まれて情報量 が豊富だと細部があるのかというと、そういう訳でもない。学校の授業でエッチングやらドライポイントやらをやらせると、狂ったように細密な絵を描く奴がいるが、そういう絵に、見る者を圧倒するような情報量 があるかというと、そうとは限らない。その執着心と、膨大な手間暇に圧倒されることはあるが。逆に単純な絵に、見る者に様々な想念を喚起させるような「感性の細部」が仕込まれていることがあるから侮れないのだ。この侮れない感性を先天的に持っている者を、ここでは仮に「アナドレリン体質」と呼んでおこう。
小・中学生時代には、この「アナドレリン体質」の奴がクラスに一人ぐらい必ずいるものだ。高校生ぐらいになると受け狙いで似たことをやる奴が出てくるので「アナドレリン体質者」かどうかの判別 が困難になる。内輪ウケ三流笑売人向きの「ノラクラリン体質」の発現が見られるのもこの頃である。中学生にクラスメートの肖像を描くなどの課題を与えると一人ぐらい後ろ姿を描く奴がいる。級友に面 と向かって描けないらしい。後ろ姿なので細部が無い。黒い髪、白いシャツ、黒いズボン、大股を開いて腰かけている丸椅子が、画用紙の中心に縦線を書いてから描き始めたように見事なシンメトリーになっている。一本筋の通 った「男の後ろ姿」になっているのである。本人はいたって真面目に書いているから面 白いのだ。級友の間では、これが意外にも「あいつらしさ(モデルになった男の)が良くにじみ出ている」と評判なのだが教師のウケは悪い。そういうものだ。教師には教師の都合があるのだ。
『特製ちびまる子ちゃん』を読んでいると、さくらももこの「アナドレリン体質者」的特性が良く出ているのがわかる。この「感性の細部」が無ければ、田舎小娘の耳くそぐらいな日常が全国的大ヒットとして受け入れられるわけがないのである。
さて細部に潜航しよう。遠足決行の朝は花火を上げるというのはいかにも清水らしいと思う。今でも家で寝ていると入江・浜田・岡のいずれの小学校か知らないが、朝盛大に「音花火」を上げて何かの情報発信を行っていることがある。この通 信手段の優れているところは、空耳かなと思っても物干し場にでて見るとチョコロンの様な雲が数個固まって空を漂っていくのが見えて、花火が上がったことを確認できるのである。東京の小学校では、花火ではなく校舎のまん中の一番高いところに「日の丸」を掲げることになっていた。霧雨が降っていたりすると、近所の同級生のおやじさんが自転車で見に行って、「日の丸」の有無を教えてくれたりするのだ。「日の丸が上がっていなかったから遠足は延期だ」と聞くと、飛び上がって喜んだものである。まる子の様に、延期のお菓子は別 途用意してもらい、今日のは食っちまおうと喜んだわけではない。実は雨天順延を予想して、セロハンのすき間をボンナイフでこじ開け、半分ぐらい食べてしまっていたのである。仲間で「雨乞いが通 じたもんね」などとほくそ笑み合ったものである。
本編中にライスチョコという文字を見つけて狂喜した者も多いだろう。このライスチョコというのはチョコの中に「ばくだんあられ(東京でこう呼んでいた)、もしくはポン菓子(岡山の友達がそう呼んでいた)」を入れてガサ増ししてあり、安価に買えるチョコレートだったのである。東京では「ばくだんあられ屋」というおじさんがリヤカーに物々しい大砲のような道具を積んで定期的に現れた。大砲の中に米とザラメをちょろっと入れ、下からバンバン火を焚き、クランクをくるくる回し、頃合いを見はからってカランカランと鐘を鳴らす。子どもたちは恐いので耳を押さえて数歩下がって見ている。おじさんが何か紐のようなものをグイッと引くと、「ボッカ~~~~~~~~~ン!」という大音響とともに、かごの中にぱらぱらと甘いお米のポップコーンのような物が出てくるのだ。この商売の面 白いところは、お金が無くても家から生米をちょろまかして持っていくと、「ばくだんあられ」と交換してくれるのだ。母は、家庭のいい米と引き換えに悪い米で作った菓子を渡して儲けているのだから、米ではなく金で買えとよく言っていたものだ。
で、このライスチョコだが今でもコンビニなどで売っているのを見かける。当時は「トーサン」という会社名だったが今では「トーチョコ」という会社名になっている。東京・王子の駄菓子屋ではこのライスチョコの B 級品(割れたり、成型ミスの商品)をビニール袋いっぱい置いていて、子供にクジを引かせて当て物にしていた。私は 1 等を当てて山ほど食べたことがあるのだ。
ベビースターラーメンというのも息の長い商品だ。インスタントラーメンをそのままバリバリ食ってもうまいと知った私たちは、お金を出し合ってインスタントラーメンを買い、路上で袋だたきにしてから分け合って食べたものだ。チキンラーメンがうまい、いやエースコックのワンタンメンだ、いやスープの別 になったチャルメラの方がうまいなどとグルメ談義に花を咲かせたものだ。
私たちの時代、遠足で人気のあったお菓子に明治カルミンがある。ハッカの白いキャンディーでまん中が素通しのリング状になっている。このリングを壊さずにどれだけ細くなるまで舐めていられるかを競い、舌の上に乗せたものを見せあうのである。なんと愛らしい子どもたちだったのだろうか。
まる子がクジで引き当てたような、すぐに乗物酔いする奴も、いた、いた。「トラベルミン男」などと呼ばれていた。中学時代、遠足の朝「うでたまご(『特製ちびまる子ちゃん』より)」を食べて来て、バスが走り出す前にもどしてしまい、その後あだ名が「たまご」になった可愛い女の子もいたのだ。ちなみに級友の肖像画はその子を描いた。これは傑作だったが何処の美術館にも収蔵されておらず、お見せできないのが残念でたまらない。
それにしても袋にある「おかしのヤマオカ屋」の文字が懐かしいのだ。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(5)】
【再掲『まる子゛と清水』(5)】
とは悲しいことよ
第 1 巻第 3 話では「ハウスのたまごめん」が登場する。思えば、この昭和 49 年はまる子にとって 37 円がご馳走の時代だったと振り返っている。物の値段というのは面 白いものだ。
インスタントラーメンの祖、「日清チキンラーメン」が発売されたのが 1958 年(昭和 33 )、すなわち長島茂雄デビューの年なのだが、この時の価格が 35 円だった。これは高い。ものすごく高いぞ。この頃、私は両親に手を引かれて生まれ故郷の清水を出奔し、東京の渋谷で暮らしていたと思う。幼児の記憶だから非常に朦朧としているのだが、中華そばが 1 杯 40 円ぐらいだったのではないだろうか。タクシーに乗る時「日野ルノー(日野自動車が仏ルノー公団と提携して 1953 年に発売した自動車)」のタクシーをつかまえると安いので寒空の下立ちん坊をさせられた記憶があるのだが、初乗り 60 円ぐらいだったような気がする。これは、両親の口論の立ち聞きなので更に曖昧。だから、1 杯 35 円のインスタント・ラーメンなんてとんでもない高級食だった。そんなものが世の中にあることすら知らなかったのである。
1960 年、国産インスタントコーヒーの出現により、いわゆる「インスタント食品ブーム」が到来したのだが、我が家では遥か沖合いに「エースコックのワンタンメン」が太平の眠りを破り開国を迫るために白い湯気をはきながら来襲する 1963 年まで、その恩恵は受けられなかったのである。「ぶた、ぶた、こぶた、お腹が空いた、ブ~」の CM に乗って「エースコックのワンタンメン」は、私たちガキ仲間の大ヒットになった。なにしろ、空き袋を集めると「豚のコックさんの貯金箱」が貰えたのである。当時の親たちは「貯金箱」というのに弱くて、「貯金箱」欲しさに財布の紐を緩めるというトホホな愚行を繰り返していたのである。我が家の棚にずらりと並んだ豚のコックは、清水に戻る際、東京の夢を破り捨てるように、中の小銭を抜き取られてゴミ箱行きとなったが、惜しいことをしたものである。
発売から 16 年後の 1974 年、まる子が景品の「たまごボール」欲しさに「ハウスのたまごめん」を毎週毎週食べていた頃まで、物価の上昇にもかかわらずインスタント・ラーメンの値段は据え置かれていたということがわかる。
ところで、小学生時代、東京でインスタント・ラーメンといえば、エースコック、日清食品、明星食品、サンヨー食品といったところがメジャーだったのだが、春・夏・冬の長期休暇で清水の親戚 に預けられるたびに、見慣れぬブランドのラーメンを従兄が食べているのを見て驚いたものだ。それが、まる子ならぬ 、「マルちゃんの東洋水産」だったのだ。東京ではとんと見かけなかったのに、清水ではラーメンといえば「マルちゃんの東洋水産」が抜きん出てメジャーだったような気がするのだ。これは何故なんだろう。
調べてみると、清水では今でも「マルちゃんハイラーメン」というのが売られていて、これが 1963 年頃の発売らしい。しかも静岡県限定発売なのだそうだ。パッケージは当時と変わらない縦の紅白ツートンで「ハイラーメン」の袋文字、舌をペロッとしている、でっかい「マルちゃん」マーク入りなのである。「なんと発売以来 34 年、ほとんど変わらぬ 味で頑張っています」( 1997 年の広告文より)。ほとんど変わらぬ味と変わらぬ 値段で日本人の食を支えているのがインスタント・ラーメンなのだなあと、しみじみ感じ入りながら、今日の『特製ちびまる子ちゃん』を閉じるのであった。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(6)】
【再掲『まる子゛と清水』(6)】
たんぼ
「生き物係」というのはどこの学校にもあったのだ。私の小学校では校庭に巨大な鳥小屋を作り、セキセイインコやジュウシマツ、家庭でご不要になったカナリア、文鳥、さらには夜店で買ったヒヨコの大きくなっちゃったニワトリまでぶち込んで、奇妙な楽園を作っていた。後に、野犬が作った金網の破れから進入して捕虜となったカラスまで飼っていたのだ。
というわけで、第 1 巻第 4 話では、「生き物係」となったまる子が花輪クンと二人でたんぼにカエルをとりに行くお話しなのだ。この時まる子と花輪クンはいったい何処の「たんぼ」に行ったのだろう。たかが、四千日違いなどと強がってみても、「たんぼ」となると 11 年の歳の違いはかなり大きく、まる子と花輪クンが行った「たんぼ」を特定しようとすると大変な難題になるのである。
私が中学生の時、理科の授業でカエルの解剖をすることになった。大きなトノサマガエルが必要になり、私は友人を案内して祖父母の家にある清水市大内付近のたんぼに行った。このあたりは巴川と山の間に挟まれた水田耕作に適した土地だったのだ。まる子ちゃん世代では想像もつかないかもしれないが、このあたり、夏には蛍が群舞し、小川ではメダカ・フナ・ドジョウ、そしてウナギやシジミまで獲れたのだ。まさに「たんぼ」が作る楽園で、幼児のころの私(高部幼稚園)は、ここの小川を童謡「めだかの学校」のモデルだと思っていたくらいなのである。だから、巨大なトノサマガエルが獲れるわ獲れるわ、クラスのみんなに鼻高々だったのである。
その「たんぼ」に異変が起こったのは何年ごろだったのだろうか。青々と稲の生えた「たんぼ」の中に木の杭が打ち込まれ、「東名」と書かれていた。「トウメイ」って何の事なのだろうと不思議に思っていた。やがて「たんぼ」のまん中にダンプカーがやって来て土砂をどんどん積みあげ、やがて「東名高速」が出来上がったのだ。たとえまん中に高速道路ができようが、その両側で「たんぼ」が続けられそうに思うかもしれないが、そんなわけに行かないことは現在の大内付近に行ってみればわかる。
大内付近のたんぼはまる子と花輪クンが徒歩で行くには遠すぎる。しかもまる子が 3 年生のころといえば既に東名高速が開通 ( 1969 年、清水の区間はもっと前)してしまっている。東名高速開通あたりから市内の「たんぼ」は消滅の一途を辿っているように思うので、作中でさくらももこさんが案じているように、「まる子と花輪クンの行ったたんぼ」も既に、アスファルトや産業廃棄物の下かもしれない。
「まる子と花輪クンの行ったたんぼ」は特定できないけれど、まる子の家から最も近かったはずの「たんぼ」なら覚えている。静岡鉄道入江岡駅付近まで静岡方向から平行して走って来た「東海道本線」と「静岡鉄道(新静岡・新清水間を走る私鉄)」は、「それぞれの清水駅」に停車するため二股に別 れる。その二股のつけ根とその先にある長い踏切(通称「チンチン踏切」)に挟まれた三角地帯が当時「たんぼ」だったのだ。この「たんぼ」ならまる子の家から 200 メートルくらいなのである。
一歳年上の従兄と私はよくその「たんぼ」で遊んだ。なぜならその「たんぼ」には、蟹がたくさん住んでいたのである。清水の海が昔平野部をおおっていたからだろうか。市内のあちこちで蟹が生息している場所が有った。ここ以外では、大曲の交差点から渋川方向に進み、ちょっと左の住宅地に入った場所にも蟹が生息しているドブがあったのである。
しかし「年上の従兄」というのは「年下の従弟」をいじめて面 白がると相場が決まっているようだ。この「たんぼ」が、随分柔らかいのである。大人用の長靴を履いて入ったのだがあっという間に半ズボンの太ももぐらいまで潜ってしまう。突然従兄が、
「わっ、底なし沼だ!」
と、叫んだ途端、私はパニックになり(想像力豊富な分、こういう脅しに弱いのだ)畦道までベソをかきながら必死でたどり着いたが、長靴は既に地中に没して帰ってこなかった。しかも バチャバチャ必要以上にもがいたので、パンツまで泥だらけ。従兄はそれを見て畦道でよだれを垂らしながら笑い転げていたのである。そういうものなのだ。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(7)】
【再掲『まる子゛と清水』(7)】
清水市を襲う
1974 年(昭和 49 年)7 月 7 日、台風 8 号に刺激された梅雨前線が静岡県下に記録的な大雨を降らせ、氾濫した巴川が清水市に甚大な被害をもたらすことになった。歴史に名を残す七夕豪雨である。歴史に名を残すといっても、清水市でこの災害をインターネット上で記録している人は少ないらしく、検索しても「七夕豪雨静岡市を襲う」というページがヒットする程度である。かろうじて、私のサイトにもリンクさせていただいている玉川楼さんが「清水こぼればなし」に記録されているのが数少ない情報である。清水市のサイトでもこの歴史はこぼれてしまったらしい。そんな訳で本章のタイトルは「七夕豪雨清水市を襲う」とした。これで静岡市と並んで清水市の歴史の 1 ページがヒットすることになるだろう。
さて『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 6 章に、この七夕豪雨が登場する。今読み返してみると、災害時の人間模様が「さくら家」という市井の人々の目を通 して描かれており、災害の様子伝える貴重な資料になっていると思う。この年、まる子は小学校 3 年生、私は清水の高校から東京の大学へ…と、書きたいところだが、まる子は『サザエさん』方式で 3 年生のまま、私は高校卒業後 1 年浪人ということで、その辺の記述がいい加減になる。ともかく、この年に私は大学生として東京暮らしをしていたのだ。よって、清水でこの災害を体験していない。
大学入学当時私は「娯楽は人間を堕落させる」という強い意思の下、テレビの無い学生生活をしていた。立派な大学生を目指した時期もあったのだ。ところが後に、上京した母親が激怒し「私が見たいだよ」とテレビを持ち込んでしまったのだ。ひどい母親である。というわけで、清水市が大洪水に見舞われているニュースなど知る由もなかったのである。
その第一報は思いがけないところからもたらされた。学生時代の生活費は、清水市内にある東海銀行に入金してもらい、カードで引き出すようにしていたのだが、池袋東口支店で引き出そうとしたら現金自動預け払い機が拒絶のメッセージを出して受け付けてくれないのである。不審に思って行員に調べてもらうと、清水支店が洪水による冠水のため業務不能になっているという。そんなわけで、その日私はなけなしの金で買った豆腐とモヤシで飢えを凌ぎながら、故郷の人々の無事を祈ることになったのである。
これから記述する話は、後に「母みつよ」が私に語った災害時の模様を聞き書きしたものである。聞き間違いや、多少の誇張が混じっているかもしれないがご容赦願いたい。
7 月 7 日、清水市の空は日中なのに夜のように暗くなった。と、思ったら土砂降りとなり、その様子は空からバケツの水をひっくりかえしたようだったという。「父ヒロシ」も同様のことを漫画の中で言っているのが可笑しい。夜半になっても雨の勢いは収まらず、就寝した後も妙にサイレンや半鐘の音が聞こえる夜だと思ったという。この辺の模様は『特製ちびまる子ちゃん』にも詳しく描かれている。
翌朝目ざめた「母みつよ」がゴミ出しのために清水市役所の駐車場の方に寝ぼけまなこで出て行くと、毛布に身をくるんだ人々が大勢集まっている。なんだ、なんだ、なんだ、と聞いてみると巴川が氾濫し市内が大洪水になっているという。ここで注目したいのは、市内が大洪水になっているのに、当時旭町で飲食店を営んでいた「母みつよ」は全く被害を被っていないこと。しかも清水市でもとびきり低い土地にある市役所の一角が避難民の集まる場所になっていたりするすることだ。なのに、目と鼻の先の東海銀行は前述のありさまである。思うに、これは市役所のほんの一角がいちはやく下水道を完備していたからだろう。下水道の整備がいかに水害に対して有効かがわかる。また、「さくら家」のあった入江町はわずかに標高が高かったことで難を逃れていることが『特製ちびまる子ちゃん』でわかる。
ここで、「母みつよ」は清水市大内の巴川沿いに住む母親と弟夫婦を思い浮かべたという。その場所は私が子どもの頃から台風のたびに大水が出ていた場所なのである。早速救援に向かおうと出かけたところ市内は海のようだったという。『特製ちびまる子ちゃん』見開きの大パノラマ参照。
「母みつよ」の救援ルートだが、高橋本通りを通って北街道を静岡方面 に西進するというものだった。高橋本通りは若干土地が高いので通れるのではないかと予測したのだというが、昔の人の知識というのはこういう時に役に立つのだ。大内新田で被災した弟の無事を確認した後、清水市天王まで進むとそこから先のルートは完全水没。辺りを見回すと自衛隊の救助ボートがあったので、この先にたんぼの中の一軒家があり、取り残されている可能性が高い、案内するから乗せてくれと頼み込んだのだそうだ。ここから「母みつよ」の冒険談はぐっとテンションが上がるのだ。
自衛隊員といっても、年中ボートを漕いでいるわけではないので、何とも頼りない。「母みつよ」はといえば、幼少時伊豆で実家が副業として海の家を営んでおり、貸しボートもやっていたのだから舟の漕ぎ方はお手の物である。「左、漕ぎ方やめ、右もっと強く漕いで」と指図するうちに、班長らしき人が「この人の言う通 り漕ぎなさい」と命じ、ボートは無事巴川河畔の祖母の家に到着したのだという。この辺になると講談調になっていたりするのだ。
水害の時、なんといっても人名を救うのは 2 階立て以上の住宅である。「母みつよ」が到着してみると、家族は全員2階に非難していて無事。私の年少の従弟は大のテレビ好きなので、後日おとな数人がかりで降ろさなければならない巨大家具調テレビを一人で2階まで抱えて駆け上がったそうで、今でもお笑いぐさになっていたりする。上流の製材所から流出したらしい巨大な原木が数本流れ着いて、家に突き当たって漂っており、異様な光景だったという。
この七夕豪雨により、静岡・清水両市ではたくさんの死者も出たそうである。ご冥福を祈りたい。
私にとって残念なのは、この水害で大打撃を受けた清水市内の路面 電車が、復旧することなく廃止になったことである。東京の路面電車廃止のセレモニーなどを見ているので、清水の路面 電車はお別れ会をしてもらえたのだろうかと悲しくなる。そんなわけで 1974 年は私にとって二重に忘れられない年なのだ。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(8)】
【再掲『まる子゛と清水』(8)】
きちんと清水発
シーチキンという言葉はあれよあれよという間に、一般 名詞のようになってしまった。コンビニに行くと「シーチキン・マヨネーズおにぎり」とか、「シーチキンサラダ巻き」とか、いろんな商品があるけれど、あれは本物のシーチキンなのだろうかと気になってしかたがない。なぜなら「シーチキン」は「はごろもフーズ(昔ははごろも缶 詰)」が昭和 33 年に商標登録しているのだ。そして「はごろもフーズ」というのは清水市島崎町にある地元企業なのである(焼津工場もあるらしいが)。よって、清水っ子としては、そのへんのところに何としても譲れないコダワリがあるのだ。
SSK やいなば食品のも美味しいけれど、それはあくまでも「オードブル・ツナ」や「ライト・ツナ」であり「シーチキン」ではないのである。知り合いの出版社社長が電話で道順を教えるのに、「まっすぐ行くと右側にウェンディーズというマクドナルドがありますから…」などと説明しているのを聞いてのけぞったことがあるが、双方にとって無礼な話だと思う。だいたい私の親や昭和10年代生まれの人たちというのは、物心ついた時からテレビ等の情報シャワーを浴びて育った世代に比べて、ブランドや商品名に関してきわめてルーズなのである。宅急便で荷物を送ったと電話があって、届いてみると日通 や西濃運輸だったりするのだ。クロネコでも、ペリカンやカンガルーでも、どうでもいいらしい。洗濯物をハイターしておく等と言って平気でブライトを使っていたりするのだ。
私は「シーチキン」が大、大、だ~い好物である。そう言うと笑う無礼な奴がいるが、ハムより魚肉ソーセージ、腸詰めより赤ウインナが好きな人っていると思うのだ。たまに食べる大間マグロの中トロ(本当は一度も食べたことが無い)より、戸棚にいつも「シーチキン」があった方が嬉しかったりするのである。
『特製ちびまる子ちゃん』第 1 巻第 8 話、「まるちゃんきょうだいげんかをするの巻」は、しみじみと良い話だった。まる子とお姉ちゃんが姉妹げんかをするのだが、その火種になったのが「シーチキン」と商品名の入ったノートなのである。「シーチキン」と商品名の入ったノートなどダサいと思うあなたはダサい。当時「シーチキン」とは、なんて凄いネーミングなんだろうとテレビ・コマーシャルを見て感心し、それが地元企業からの情報発信であることを誇らしく思ったものにとって、それは垂涎の品なのである。よってまる子とお姉ちゃんが喧嘩の末、絶交してしまうほど「シーチキン」と商品名の入ったノートは悩ましい逸品だったのである。
最初じゃんけんで決めようということになり、まる子とお姉ちゃんは「ジャンケンポン」をするのだが、まる子の世代は「ジャン ケン ポンッ!」といってじゃんけんをしたのだろうか。東京の小学校では「ジャンケンポン」はあまり使わず、「ジャラケツホイ」とか「ジャケッポッピ」とか「ジャンケンじゃがいもサツマイモ」とか言っていた。清水の小学生と遊ぶ時は「チートキテッ!」と叫ぶことになっていた。「チートキテッ!」は絶滅してしまったのだろうか。
さらに清水の子供と遊んで感心したのは、野球やサッカーをする時、「グットパージャン!」と「チョキ」抜きじゃんけんをして2チームに分けることだ。東京でガキ大将が一方的にチーム分けをしているのにくらべ、なんと民主的かつ合理的なのだろうと感心したことがある。この民主的かつ合理的な気風は清水っ子に共通 していて、そのせいか傑出した指導力のあるリーダーを輩出しにくい傾向もあるような気がする。気のせいだろうか?
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(9)】
【再掲『まる子゛と清水』(9)】
UHFがやって来た!
今の子どもたちは、UHF 放送という言葉を使うのだろうか? UHF というのは ultra high frequency の略で極超短波とも言う。従来の VHF 放送( 1 ~ 12 チャンネルのこと)が、波長 10 ~ 1m 、周波数 30 ~ 300MHz の電磁波なのに対して、UHF は波長 1 ~ 0.1m、周波数 300 ~ 3000MHz の電磁波なのである。VHF 放送に対して、雑音に強いし局番がたくさん取れるので、郵政省の方針としてはテレビ放送を VHF から UHF に移行したい模様である。弱点は電波の到達距離が短く、ローカル放送向きなことである。
テレビ放送開始間もない頃のテレビを見せたら今の清水の子供は唖然とするだろう。NHK しかやってないし、放送時間も一日のうちほんのちょっぴりなのである。放送と放送の合間は、なんとカバーをかけてテレビを消しておくのだ。当時、テレビを買うと立派な織物に「三菱電機」とか刺繍された立派なカバーがついて来たものだ。民放の静岡放送( SBS )がテレビ放送を開局するのが 1958 年(昭和 33 )である。やがて、UHF のテレビ静岡が試験放送を開始する 1968 年(昭和 43 )までの 10 年間もの長きにわたって、清水では NHK 総合、NHK 教育、静岡放送の 3 チャンネルしか見ることができなかったのである。
東京では、1・3・4・6・8 、遅れて 10・12 もチャンネルが加わったと記憶している。清水では NHK 総合が 9 チャンネル、静岡放送が 11 チャンネルを割り振られていた。当時少年サンデーに連載中の「オバケの Q 太郎」で、「パパさん」が、「 Q ちゃん」とチャンネルを奪い合いし、「ワシは 9 チャンネルの『 Q ちゃん寝る』を見るのだ」とオヤジ駄洒落を放った時、清水の少年たちは沸き立った。「そうか Q ちゃんの家でも 9 チャンネルが映るのか」と。他愛ないものである。
1968 年(昭和 43 )のテレビ静岡放送開始は地元に相当な経済効果 をもたらしたのではないだろうか。金持ちの家は、もちろん UHF チューナー内蔵の最新型テレビを買うし、やや富裕な家庭は従来の受像機に UHF チューナーを付加する、「 UHF コンバータ」なるものを購入することになった。金持ちの家は、もちろん UHF 屋外アンテナを設置して我が家は UHF 受信家庭であると高らかに宣言し、やや富裕な家庭は従来の受像機に UHF 室内アンテナという宇宙をイメージしたような奇妙奇天烈な室内アンテナを設置することになった。
1 ~ 12 の VHF 放送に対して UHF 放送が面倒なのは、チャンネル合わせが極めてアナログ的なところである。ラジオで局を探すようにクルクルとダイヤルを回さなければならず、複数の UHF 放送が始まると面倒でたまらないのである。そんなわけで、当時私は UHF 放送って辺境のマイナー放送なんだなぁと、内心思っていたものだ。
『特製チビまる子ちゃん』第2巻第2話で、クラスメイトの花輪クンが地元局の「子供歌合戦」に出場する話が登場する。細部を見るとこの局が「テレビ静岡」である事がわかる。「さくら家」のテレビ受像機の上に「 UHF コンバータ」などというものは存在していないので、この時代「 UHF 放送」はすっかり定着し、今のようなデジタルな操作感になって VHF 局と変わらない感覚で視聴していたのだろう。
また「 UHF 局」が、単なるキー局の支店的性格から一歩踏み出して、独自のローカル番組を制作していたのもわかって微笑ましい。思えば、私が中・高校生の頃には地元局には「スズキテルヨシ」などという、超カクレ人気アナもいたくらいだから、そんなものかもしれない。
東京暮らしをしていて、清水に帰省しローカル CF 等を見ていると、思わず椅子に座ったまま後ろにひっくり返りそうになるくらい、レベルの高いものを見て驚くことがある。西暦 2000 年の正月は「コンコルド」の CF で笑わせていただいた。地元民しかわからないだろうが「ジャンボエンチョー」の DIY の番組なんか、いい味出してたなぁと思うのである。衛星多チャンネル化で、各局はコンテンツ探しに躍起になっているようだが、東京で静岡ローカル局の番組が受信できたら金を払ってもいいなと思う。中央が腐れ切ったおかげで、ローカルのものにこそ金を払う価値のあるものが出て来たのが、インターネットの普及と合わせて、地殻変動が始まったなとの感慨を強く沸き起こさせて面 白いのである。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(10)】
【再掲『まる子゛と清水』(10)】
仕事帰りにバスに乗ったら、女子中学生の二人組みが乗り込んで来て、後ろの二人掛け席に座った。袋菓子を開ける音がして、交互に手を突っ込んで食べているらしい。「このお菓子ほ~んとに美味しいよね~」などと話している。私が中学生のころに比べると、驚くほど豊満な体形をしているが、頭の中身はあまり進化していないようだ。
そのうち話は大好きなアニメや人気歌手の話題に移った。別に話を盗み聞きする気は無いのだが、袋菓子の香料の匂いがきつくて(よくこんな匂いのする物体を食べられるものだ)、鼻の穴のついでに耳の穴にも流れ込んでしまうのである。キャラクタやタレントの名前が出る度に「うわ~、な~つかし~」を連発している(おいおい、座席の背を蹴るのをやめなさい)。四十過ぎのオッチャンには昨日のような事が、彼女たちには夢のように懐かしいらしい。
ホームページでこんな駄文を書いていると、親切な友人から、たかが 10 歳年下の女性が描いた漫画をネタに、耳くそ程度の「ローカルな」世代間ギャップをほじくり出して、何処が楽しいのかとメールを貰うことがある。余計なお世話である。
私は、仕事は朝型なので夜 6 時には食卓に向かい晩酌して 9 時には就寝する習慣である。いかに恋愛結婚とはいえ、結婚 20 年のベテランともなると会話の種も尽きがちなので、テレビをつけているのだが、まったく最近見るべき番組が無い。特に不快なのは「衝撃スクープ映像」とか「警察密着 24 時間」などという、流血の惨事、他人の不幸、果ては死体などを映像として垂れ流す番組が家族団欒(そんなもん無いのか?)の時間に増えている事だ。私は幼少より「テレビっ子」だったが、昔は流血映像なんて見たことなかったぞ(プロレスは別ね)。プロレスの流血を見て興奮して亡くなったお年寄りだって、かつてはいたのだ。死体だって、高校生になって祖父が急死するまで見た事が無かったくらいなのだ。よくこんな番組を見ながら飯が食えるものだとあきれる。
わずかな歳月の間にマスコミはどうしてこうなってしまったのだろう。こんな事を書くと、前述の友人なら、「それがどうした、俺達が子どもの頃はテレビさえなかったんだぞ」と、訳のわからんメールをまた送りつけて来るかもしれない。たとえ耳くそほどの違和感でもいい。そいつを手掛かりに、つい昨日のような出来事をよ~く思い出してみてほしい。ほんの 10 年くらいの間に世の中、思いもかけない異様な世界に変わってしまっていることがあるのだ。女子中学生の「うわ~、な~つかし~」も、オッチャンには気づかない「時代の地殻変動」を敏感に捕らえる鋭い感性のホトバシリかも知れないと、まだまだ若い私は考えちゃったりするわけなのだ。
で、『特製ちびまる子ちゃん』第 2 巻第 4 章の給食風景に「プリン」が出て来て、感慨ひとしおだったりするのだ。どうも私の世代は完全給食制の走りだったようで、少し年長の友人には給食を知らない者が多い。私の給食体験の収穫は「まずくてもおいしいものが世の中にはある」という教訓を知った事である。「テレビっ子」であるとともに「鍵っ子」世代の走りである私たちは、学校に行かなかったら、ろくな昼食を食べられなかったと思う。電子レンジはもちろん、冷蔵庫さえ普及していない時代だったのに、「豊かさ」を求めて、母親たちは次々に社会に駆り出されて行ったのだ。その揚げ句、月々 500 円くらいの給食費がはらえない級友が、クラスに何人もいたのである。だから味はまずいけど気持ちの問題としておいしかったのだ。食べられるだけでありがたかった。パサパサの食パン 2 枚に、味の薄い青菜の炒め物、そしてカップ一杯の脱脂粉乳がつくだけの献立で、給食用マーガリンやジャムがつく日は大喜びしたものである。
それが 10 年の年齢差があると、な、な、なんと「プリン」などが給食についたりしているのである。
1978 年、大学を卒業した私はパッケージ専門のデザイン会社に就職し、某乳業メーカーの担当に配属された。入社当時から社内最優秀の才能を持っていたのだが、当初は来る日も来る日も段ボールの版下ばかり作らされた(同僚が無駄 飯を食っている間も)。そういうものである。で、驚いたのは学校給食用の冷凍食品に、「プリン」や「ババロア」、なんと「チーズケーキ」まであるのだ。しかも「レア」と「ベークド」に分けて。給食用惣菜だって凄いメニューばかりである。今の子供はこんな給食を食べているのかと地団駄 踏んだものである。
出来合いの食材が増えたおかげか、給食は益々豪華になっているようだが、その揚げ句が先年の食中毒騒ぎである。私たちの頃は、今より貧弱な厨房で、オバチャンたちが脇目も振らずボートのオールのような木杓子で大鍋をかき混ぜて給食を作っていたが、食中毒になったことなどなかった。クラスで、女子の提案による「母の日に給食のオバチャンに感謝の手紙を書こう」という気乗りのしない取り組みをして、オバチャンを泣かせちゃった事もあるのだが、今にしてみれば食中毒にならなかった事だけでも感謝しておいて良かったと思う。
今の子供は見た目は豪華だけど工場製の出来合い食品を、本当においしいと思って食べているのだろうか。
あっ、そうか、そんな食品なら「衝撃スクープ映像」とか「警察密着 24 時間」を見ながら食べるのに適しているのかもしれないな。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(11)】
【再掲『まる子゛と清水』(11)】
昨日はまる子の授業参観日に同席して算数の授業を受けてみた。分数の足し算なんて大人になってもぜ~んぜん使い道が無いぞ。退屈凌ぎのテーブルゲーム みたいだ。あくびが出るのは当時も今も変わらない。
それにひきかえ、根が卑しいせいか給食の時間になると俄然生き生きしてしま う。『特製ちびまる子ちゃん』第 2 巻第 5 章、机の上の給食に懐かしい三角牛乳を発見。そうか、この時代の給食用牛乳はテトラパックだったのか。最近あまり見かけないので知らない世代が増えて行くんだろうなぁ。
テトラパックのテトラは、「もの・じ・とり・てとら・ぺんた・へきさ…」と丸覚えさせられたあの「てとら」である。三角形を四つ組み合わせた三角錐(正四面体ではない)に牛乳を注入したものがテトラパック、俗称「三角牛乳」なのである。
この奇妙な形態の牛乳を初めて見て衝撃を受けた日は今でも忘れない。小学校の遠足で神奈川県にある「子供の国」に行った時だ。この公園は当時皇太子だった平成天皇が結婚した際、世界各国から寄せられた御祝儀の一部を使って作られたユニークな施設だった。
私が最も感動したのは、公園内に小さな牧場があり、乳牛が飼育されていて、搾乳した乳を小さな工場で牛乳としてパックする工程を見ることができるようになっていた事だ。しかも最後に試飲のおまけつきである。その時手渡されたのがテトラパック入りの出来立て「三角牛乳」だったのである。
当時テトラパックが一世を風靡したのは、何よりも製造用機械が非常にコンパクトだったためではないだろうか。小さな機械から三角形の牛乳がポンポン出て来る様はアダチリュウコウ(懐かしいなあ)の手品みたいだった。わかりにくいので図を描いて示すが、ご覧のように非常に合理的にできていたのだ。
弱点は物流時の効率の悪さだったのだろう。この三角錐はとても面白く、六角柱型専用コンテナの中にまるでバズルのようにびっしりと収まってしまうのだ。しかし効率がいいのはこの辺までで、六角形の輸送トラックや、六角形の冷蔵倉庫を専用に作ったりと、世界を六角形を基準にして再設計しなければ、どうしても無駄なすき間ができてしまう。販売店の冷蔵庫でも正四面体では陳列効率が悪いのである。
テトラパックはあまり見かけなくなってしまったが、日本中の海岸線でカビのように増殖中なのがテトラポッドである。テトラポッドはフランスのネールピック社が1949年に発売した正四面体の波消しブロックである。TetraPodを、なぜ「テトラポット」と言う人が多いのか不思議である。バッグをバックと言う人と同じくらい多いと思う。
数年前、清水市にあるお茶屋さんが日本茶の TeaBag を作りたいというのでデザインを引き受けたことがあるのだが、使用方法の原稿を貰ったら
「湯のみにティーバックを入れ、お湯を注ぎます」
と、書いてあるのには驚いた。女性用肌着にお湯を注いで飲むのは「変態」だけである。さすがに「ティーバッグ」と直しておいた。
しかしあのぶざまなテトラポッドが、どうしてこんなに増殖してしまったのだろう。海岸の美観なんてあったもんじゃない。すき間にゴミはたまるし、すき間に転落して亡くなる人もいるのだ。皮肉な事にすき間というテトラパック衰退の要因が、テトラポッドの波消し効果 のキーポイントになっていて、その隆盛の一因になっているようなのだ。なんてこったい。
おまけ:
妻とテトラパックの話をしていたら、なんと高校時代の美術部で、正四面体の張り子の凧を作って上げたことがあるそうだ。富山中部侮り難し(「清水東侮り難し」と同義)。正四面体の張り子の凧は必ず頂点の一つを下にして上がるそうだ。理由がわかるだろうか。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
【再掲『まる子゛と清水』(12)】
【再掲『まる子゛と清水』(12)】
昭和の時代、一般家庭での熱帯魚飼育がブームになった時期があったのだろうか。少なくとも私が小学校を卒業するまでは、家庭で熱帯魚を飼育するなどという「途方もない幻想」をいだいたり、友人が口にするのを聞いたことすらない。思うに、それは東京下町の工場地帯という居住環境のせいだったのかもしれない。ほとんどの級友が木造賃貸アパートや棟割り長屋に住んでいたのだ。
親たちが「東京の夢」と書かれたマッチ箱の最後の一本を擦ってしまうのを待って、小学校卒業とともに私は生まれ故郷の清水に戻った。そうすると中学、高校と友人が増えるにつれ身近に熱帯魚を飼育している者が多いことがわかってきたのだ。
はっきり言って熱帯魚というのは気味の悪いものだと思った。姿形がグロテスクだというのでは無い。もちろん体が透けて骨がまる見えのスケルトンのやつや、極彩色に発光しているやつなど度肝を抜くような姿態の魚がいることはいるが、それは彼らのせいでは無いし、美しいと思ったことも多い。熱帯魚を家庭で飼育しているやつが気味悪かったのだ。と言っても、熱帯魚を飼育するのが趣味の、いわゆる「熱帯魚マニア」という人たちが気味悪かったわけでもない。
当時、熱帯魚を見せてやるという友人の家に行くと、大概玄関の下駄箱の上に水槽が置かれていて、この一番大きい魚は珍しくて何千円もしたのだ、大きくなると何万円もするらしいなどという、くだらない自慢話を延々と聞かされることが多かった。そんなやつの家に母親と行ったりすると、親戚 のお兄ちゃんが東高へ入った(清水東高校の意。当時一番の秀才校だった)とか、お姉ちゃんは国立一期校(これも死語か)に入ったとか、どうでもいい他人の自慢話を母親同士で延々と話す事になるのだ。当然、私の親は一方的に聞かされ役である。
で、私は思ったのだ。熱帯魚というのは玄関や応接間の「剥製」のようなものではないかと。よくある鷲や鷹など猛禽類を剥製にした置物の、あれだ。あれほど間抜けな趣味はないと思う。「これ、おじさんが撃ったんですか」などと聞くと、たいがい「そんなことはどうでもいい。それより、お前も大きくなったら人の上に立つような立派な人間になるんだぞ」などと訳のわからない説教を聞かされる事になる。人の上に立つことと剥製と、どういう関係があるのだ。俺は哀れな小動物を殺して中身を抜いて詰め物して玄関に飾っちゃうくらい社会の上に君臨してるんだぞと言いたいのだろうか。
猛禽類の剥製よりもっと間抜けなのは、クマやイノシシの子どもの剥製だ。大人の剥製だと大きくて玄関に飾れないので小さいのにしたのだろう。大きいのは山奥の温泉旅館によく売れるらしい。子どもの剥製よりさらに間抜けなのはタヌキの剥製である。これもよく見かける。立派な体形の大ダヌキもあるが、人里近くに飢えて出てきて車にはねられたような、痩せこけた哀れなやつもあって、いかにも売り物にならないと思ったのか後ろ足で立たせて前足に小さな徳利を下げさせたりしているのだ。悪趣味を通り越して馬鹿だ。
剥製に例えるのが正解だった事はすぐに明らかになった。彼らは友達に自慢するのに飽きると(実は我々が敬遠したのだが)次々に熱帯魚飼育をやめてしまったのである。自慢する相手のいない玄関の熱帯魚なんて何の役にも立たないと判断したのだろう。剥製も持ち主が歳をとって訪れる客がいなくなると、物置の隅っこに放り込まれ、やがて故人の財産整理に訪れた息子夫婦の前に転がり出て驚愕させたりしちゃうのだ。哀れすぎて笑っちゃう末路である。
熱帯魚自慢をやめた彼らの家の横には、用済みになった水槽が放置されることになった。やがて、ボウフラの発生源になっていることに気づいたおばあちゃんが土を盛ってアロエやサボテンを植えたりしているのをよく見かけたものだ。熱帯魚用水槽は錆びにくい高級ステンレスを使用しているので(これも良く自慢の種にされた)西暦 2000 年になった現在でも、昭和の間抜けな子育ての遺物として、路地裏で変わらぬ 輝きを放っている。
私は熱帯魚には踏み込まなかったが、中学一年生の一時期、小さな水槽でメダカを飼育したことがある。その頃、清水市大内辺りの農業用水には、いくらでもメダカが泳いでいたのだ。今では絶滅が懸念されている在来種だったかもしれない。やがてメダカたちが水草にたくさんの卵を産みつけた時は大喜びしたものだ。今日は孵化が見られそうだという日、学校から走って帰った私は、ギョエ~と絶叫することになった。なんと卵も稚魚もぜ~んぜん見当たらないのだ。母に聞くと、次々に孵化したのだが、次々に親どもが食っちまったというのだ。後に知ったのだが、小さな水槽では卵と親どもは隔離しておかないと、こういう惨劇が起こるらしい。本来、無知な自分に呆れるべきなのだが、さらに無知だったボーズ頭の私は、自分の子どもを食っちまうメダカに呆れて、魚の飼育はそれ以来きっぱりやめた。
『特製ちびまる子ちゃん』第 2 巻第 6 章で、まる子は熱帯魚が飼いたいと親にねだる。友達に自慢するのを夢見たりして。やっぱりね。で、姉が友人からグッピーを貰った事でその夢はかなう。が、しかし、まる子がザリガニを水槽に入れたため、グッピーをすべて食っちまうという惨劇が起こり夢の熱帯魚飼育はあっけなく終わる。
それでいいのだ。間抜けな動機は常に間抜けな結果しかもたらしてくれないのだ。まる子は長じても玄関に剥製を飾って見せびらかすような馬鹿者には育たなかったに違いない。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
再掲『まる子゛と清水』(13)】
【再掲『まる子゛と清水』(13)】
吸わないで
子どもの頃、知り合いのおじさんで「空のたまご」をくれる人がいた。「はい、たまごあげる」と言って渡されると凄く軽いのである。この人は手品師かと思った。たまごの殻を割った形跡がないのに、中身が空っぽなのだ。体力増強のために毎日生たまごを飲んでいて、殻を割らずにおいてプレゼントすると子どもが喜ぶので一挙両得「わーっはっは」なのだそうだ。私は夏休みの工作の宿題に活用させてもらうために、やり方も教えてもらった。太めの縫い針で 1 カ所小さな穴を空け、針を奥まで入れてグリグリ回して黄身と白身を混ぜ、チューっと吸っちゃうのだそうだ。結構うまく行くのだ、これが。あとは白い絵の具とご飯粒を混ぜたもの(コメダインと言っていた)で針穴を塞いで乾かせば出来上がりである。
生たまごを飲むなどと言うとびっくりするかもしれないが、私が小学生の頃のたまごは今のとぜーんぜん違っていた。黄身の固さ、白身の粘り具合、色合い、そして風味、どれをとっても今スーパーなどで売っているたまごは遠く及ばない。その頃はまだまだ、病気見舞いに生たまごを手土産にする習慣も残っていた。病人に飲ませると力が沸いてくるくらい栄養があると言われていたのだ。鶏肉屋さんの店頭にはモミ殻の入った箱が置かれ、一つ一つ丁寧にたまごが並べられていた。客は一つ一つ手にとって店頭の裸電球に透かして見たりして、吟味しながらザルに入れて購入するのだ。これが「まる子」が生まれた頃、大都会東京でさえ当たり前に見られた光景だったのだ。社会なんて、あっという間に、おかしくなってしまうのである。
『特製ちびまる子』第 2 巻第 7 章では、まるちゃんは個室とベッドが欲しくてたまらなくなる。生家を拝見すると立派な家だと思うのだが、三世代同居で姉妹がいたりすると叶わぬ 夢だったのかもしれない。
小学生の頃、私は二段ベッドに憧れていた。しかも上段で寝る事を。あのはしごを登り降りする時、大好きだった小沢さとる氏の潜水艦をテーマにした漫画の主人公になれるような気がしていたのだ。一人っ子なんかじゃなく弟でもいたら良かったのに(まる子の逆である)と何度思ったことか。その願いが清水に戻った途端あっけなく実現してしまったのである。店舗兼用住宅の内装をする時、三畳の私の部屋を有効活用するために大工さんがはしごで昇降するベッドを作りつけてくれたのである。下は洋服箪笥が入るようになっており、誠に合理的にできていた。結局、中学・高校の6年間をそのベッドで寝ていた。後年、立ち退きになったので、私が寝ていた場所は今の清水市役所 2 階あたりになっているはずである。
現在の私はベッド派ではなく、断然布団派である。日中太陽に干した布団の日向臭さ、糊の効いたシーツの爽快感、寝苦しい夜、畳の上まで転がり出る開放感。そして毎朝床を上げる時の潔さ。どれをとっても布団の方が優れていると思うのだ。
死ぬ時ぐらい病院のベッドの上でなく、自宅に帰って畳の上に敷いた布団の上で死にたいと私は思ったりするのだが、今の若者が年をとると自宅に帰って自分のベッドの上で死にたいと思うのかもしれない。経済企画庁の「主要耐久消費財の普及状況調査」によると、平成 9 年度は 56.0 %、平成 10 年度は 56.7 %の家庭にベッドが普及しているのだそうだ。そのうち布団の無い家庭などが圧倒的に多くなるのかもしれない。
「ベッド派」か「布団派」かなんて昔の人から見れば贅沢過ぎる悩みなんだろうなぁと、我が家の70歳過ぎの親たちに質問したら仰天した。
私の母親が、
「私はハンモックがいい、子どもの頃からの夢だったから」
などと言い出したのだ。「え~っ、ハ、ハ、ハンモック、そりゃあちょつと変わりすぎていないか?」と私たち夫婦は言い返したのだが、大正生まれの義父が、
「ハンモックなら家にあったよ。たしか隣の家にもあった」
その連れ合いの義母が、
「娘時代軍艦を見学に行くと兵隊がハンモックで寝ていて羨ましかった」
などと言い出し、我が家では「ハンモック派」が過半数を占めてしまった。
確かに大正から大戦前辺りの日本は想像以上にハイカラだったと言うが、私たちのような高度成長時代を謳歌して育った世代も夢想だにしなかった、高齢の「ハンモック派」出現に、年寄り侮り難しの思いを強くするのであった。
(続くのだ)
◉
(『清水目玉焼』アーカイブに加筆訂正した 2000 年 の連載再掲)
« 前ページ |