門松の細部

2017年12月30日
僕の寄り道――門松の細部

六義園正門に門松が立てられて29日から年内休園し、新年は2日から開園となる。閉ざされた門の両脇に今年もまた庭師が立派な門松をしつらえたので、年賀状を投函しに行った帰りに見てきた。

街で見かける立派な門松はそれぞれに個性的な姿をしている。六義園の門松で一番に気づくのは、竹が斜めに鋭角的でなく、節の部分で水平に切られて寸胴になっていることだ。

青竹を取り囲むように芽吹いた若松が束ねられ、それらのベクトルが勢いよく天を目指すように揃えられている。

結束には真新しい稲藁がさまざまなかたちで用いられている。

稲藁は細工する前に打たれて繊維状にされることによりしなやかで強くなる。藁は打たれ、綯(な)われて縄になる。綯(な)われた縄を「打つ」と言うとき、打つには測量するという意味と縛るという意味がある。

藁縄は叩いたり綯(な)ったりという人の仕事がかたちになったもので、その先にある測ったり縛ったりというさまざまな働きを人の心に思い起こさせる。

縄には波打ちうねるちからの移動がある。移動しながらも拡散しないように輪がつくられ、輪はほどけてちからが失われないように結ばれる。

縄が輪になった先には花咲く春という再生への祈りがある。そこには祈りを込めた梅結びが添えられて新春を待っている。

今年も拙(つたな)い日記を読んでくださった皆さまに感謝いたします。どうぞよい年をお迎えください。ありがとうございました。


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八木重吉と駒込基督会

2017年12月29日
僕の寄り道――八木重吉と駒込基督会

友人が詩人八木重吉生家まで散歩した日記を書いていたので彼の詩をはじめて読んだ。青空文庫には1925年(大正14)の第一詩集『秋の瞳』と病床でまとめたという『貧しき信徒』が収められているけれど後者が素晴らしい。

草をむしる

草をむしれば
あたりが かるくなってくる
わたしが
草をむしっているだけになってくる
(八木重吉『貧しき信徒』)

これはすごい。彼は21歳のとき駒込基督会で洗礼を受けている。というわけで宗教的な詩が多いけれど、肺結核にかかって自らの死と隣り合わせにあることで、哲学のようでもあり、森田療法を思わせて心理学的でもあり、そもそも宗教と哲学と心理学は遠くないことが詩に現れている。

駒込基督会で彼に洗礼を与えたのは牧師であり思想家でもあった富永徳磨である。富永は金沢で西田幾多郎と交わっており、そのころウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』を読んで信仰を根本的に変革したという。

富永は1907年(明治40)金沢石浦教会をやめ、東京の自宅で駒込基督会を組織していた。駒込基督会が本郷區東片町96にあったことがわかったので関東大震災前の地図を調べると、おそらく今の向丘高校あたりで、本郷通りを挟んだ向かい側が郁文館、郁文館の裏が夏目漱石が住んでいた猫の家になる。

哲学者、心理学者であるウィリアム・ジェイムズといえば西田幾多郎や夏目漱石にも影響を与えたことで知られている。八木重吉、富永徳磨、ウィリアム・ジェイムズ、西田幾多郎、夏目漱石と繋がってきたところで、やっぱりみんな遠くない。

昨日も日記で交通安全などと言う常識に流され、結果という事実を重視せず真実を見失うことに憤った直後でもあり、ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』岩波文庫があったはずなので、大掃除を兼ねて探して読み直してみる。


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ふたりの少女像

2017年12月28日
僕の寄り道――ふたりの少女像

説明を聞いていまひとつ腑に落ちない話というものがある。腑に落ちなかった記憶は思いがけないときふと思い出されていつまでも気になる。

本郷通りが駒込橋を越えて山手線外に出ると道は下り坂になり、その坂の名を妙義坂という。坂の途中に小さな地蔵堂があって駒込妙義坂子育地蔵尊と呼ばれている。

そのほこらの中にお地蔵さまと並んでふたりの少女の像があり、豊島区教育委員会の解説板には次のように書かれている。

「地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養塔があります。これは昭和八年にこの近くで交通事故にあって亡くなった十一歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。」

この解説を読んで、気の毒な話に胸を痛めながらいまひとつ腑に落ちない。緩やかに坂道はカーブしているけれど、極端に見通しが悪いわけでもないこの道で、どうして十一歳にもなった少女二人が、車に轢かれてむざむざと命を落とさなくてはいけなかったのだろう。しかも昭和八年の自動車事情である。

この地域について書かれた思い出話を読んでいたらこの少女像についての記述があり、それは同じような文章なのだけれど細部があり、交通事故の部分が消防自動車に轢かれてとなっていた。ああそうかと思う。そうなのだ。少女たちは猛スピードで坂道に侵入した緊急車両に轢かれたのであり、一般車両なら起こり得ない事故だったのかもしれない。

緊急車両は高速で走るので、遠くでサイレンが鳴っていても急速に接近するし、道路状況によっては対向車線を通行するし、けたたましさに大人でも足がすくんだり、体が思いがけない反射行動をとってしまうこともある。少女ならなおさらだろう。

どうして「消防自動車に轢かれて」という大切な事実が書かれなかったのだろう。交通事故に気をつけるのは当然のことであり、それより、暮らしを守るため現場に急ぐ緊急車両だからこそ気をつけようと、実は少女像は言いたいのではないか。

どういう「状況」が人間に対して悲劇を引き起こすのか。大切なのは隠された言葉で恣意的になる「真実」ではなく、ひとつしかない詳細な「事実」ではないか。事実で状況を明らかにする先に真実があるということだ。


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山で暮らす――薩埵山合戦補遺

2017年12月27日
僕の寄り道――山で暮らす――薩埵山合戦補遺


クリックで取材メモ一覧に戻ります

『季刊清水』読者からメールで問い合わせをいただき、49ページ下段にある「延宝8年(1680)」と薩埵山合戦の関係について疑問を持たれたらしい。原文は以下の通り。

「延宝8年(1680)、薩埵山合戦に敗れて下野に帰れなくなり、武士を捨てこの地にとどまって帰農した佐野氏が拓いた集落だといわれ、住人は佐野さんが多いらしい。」

この件について次のようなお返事を編集長を通じて伝えていただいた。

「この延宝8年(1680)は薩埵山合戦(正平6年(1351))にかかるのではなく読点を打つことで、手島日真さんが大代集落にある墓を調べて刻まれた『延宝8年(1680)』の存在を確かめられたことを踏まえ、 “大代(大城)集落は少なくとも延宝8年(1680)年には拓かれた(拓かれていた)と由比町報の記録から採り、『延宝8年(1680)に佐野氏が拓いたと集落』すなわち『集落として延宝8年(1680)には大代(大城)があったことが資料からわかっている』という意味で書きました。ややこしくなってしまいました。これと同様の記述は52ページ槍野(うつぎの)についての『この地域に入って根を下ろした人たちがどこから来られたのか確かなことはわからないけれど、天文14年(1545)にはすでに5、6戸の人家があったと資料にある』という表現と同じで、こちらの方がわかりやすいですね。文章が拙いので疑問を抱かせてしまい申し訳ありません。ご容赦ください」

   ***

以下、由比の山間部を歩きながら考えたことです。
日本各地に落人の隠れ里伝説が伝わる集落がある。いくさに敗れて落ち延びた武士が山奥でひっそり身を寄せ合って暮らしたという話で、由比にも信濃国佐久郡望月から落ち延びた望月氏、下野国安蘇郡佐野から出て薩埵山合戦に敗れそのまま帰農したという佐野氏の伝説が伝わる。

大代(大城)集落にて

それが事実として、落ち延びて根を下ろした先が現在子孫とされる人々が暮らすこの場所なのだろうか。民俗学で山の暮らしについて書かれた本を手当たり次第に読んでみたけれど、隠れ住むことによる苦労は並大抵のことではない。おそらく隠れ住んだ人々は、土地を耕し広げ、子孫を増やし、時の流れとともに過去の因縁から逃れ、日の当たる明るい場所へと居を移して行ったのではないかと思うのだ。

薩埵山合戦の戦場となったとも伝わる桜野集落にて

だから各地の落人伝説を訪ねても、集落の佇まいが、自然とともに暮らす天国のように見えてしまうことが多い。こうなるまで、歴史とともに忘れられたご先祖たちの苦労は、もっと日の当たらない谷間に埋れているのではないかと思えてならないのだ。

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昭和遠望

2017年12月25日
僕の寄り道――昭和遠望

大宮駅東口前にすずらん通りという可愛らしいアーケードがある。大宮アルディージャのペナントがはためく通り抜けはオレンジ色があふれ、郷里清水エスパルスの街にいるような親近感を覚える。

老人ホーム訪問に同行する土日は、昼食食事介助終了後バスで大宮高島屋前に出てこの界隈で遅い食事となる。すずらん通りから折れた脇道にある小さなアメリカ料理の店。看板に1952とあるから創業は昭和二十七年で、かつては大宮駅東口ロータリーから南にのびる南銀座大歓楽街にあったらしい。

埼玉県さいたま市大宮区大門町1-10『濱長』

ネット上にある神話によれば、若き日の大橋巨泉が店内でディスクジョッキーをしていたという。真偽のほどは知らないけれど、高度成長期はえらくハイカラな店だったのだろう。巨泉のテレビ・ラジオ進出が1956年頃からなので早稲田大学中退後の人生と店の創成期が一致する。

いまも昭和の時代の雰囲気が横溢する大宮駅東口が好きだ。大宮の老人ホームで暮らす義母がいなくなったら訪れる機会もなくなりそうな街なので、いちど入ってみたい店の一つである。


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修証義の夜

2017年12月24日
僕の寄り道――修証義の夜

ある人の本を読んで「わかったわかった」と喜んでいたら、別の人が書いた本を読んでよくわからない。難易度は後者の方が低そうなのにどうしてそういうことになるのだろうと未明に目が覚めたので考えた。

わが家の寺は静岡県清水にあり、祖父母を筆頭におじ、おば、いとこ、そして親たちの墓がある。曹洞宗の寺で法要の時は住職が道元禅師の『修証義』を必ず読む。子どもの頃から聞いていても何を言っているかわからなかったが、耳にタコができるように覚えてしまった。

『修証義』は、曹洞宗開祖道元が書いた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』から、布教のために重要なポイントを抜粋してまとめたものである。その冒頭にこれが出てくる。住職が「生を明らめ死を明らむるは、仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり…」と読み始めると、ああ、いつものが始まったなと思う。

生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。
ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし。
この時はじめて生死を離るる分あり。

ごくかいつまんで大雑把に解釈すれば、なぜ自分は生まれ、死んだ自分はどうなる、などと原因と結果のように一緒くたに考えるから頭がおかしくなるのであり、生死はたがいに別個の生きている状態、死んでいる状態に過ぎない。それ以上の何ものでもない。心からそう思えるよう考え尽くせ(究尽)。あるいはそもそも生死の意味は?などと考えずにおられればそれもまた覚りではあるぞ。

…ということだと思っている。よくわかった本とよくわからない人の本は、単に日本語の文章的問題で、実は同じことを言っているのではないかと、『修証義』を思い出したらわかった気がした。西洋哲学読解にも役立つお経のありがたさ。曹洞宗で良かったと勝手な解釈で思う。


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塔と煙突

2017年12月23日
僕の寄り道――塔と煙突

富士山のような独立峰は前後左右がわかりにくい円錐のような形をしていることが多い。対称性を崩している宝永火口が見えないと静岡県民であってもどの方角から見た富士山かを言い当てることが難しいことがある。しかも連なる山並みを持たず他者との関係からも孤立しているので、箱根山や愛鷹山が視野にないと位置関係もつかみにくい。そんなわけで孤立峰という呼び名もある。

塔や煙突もまた孤立峰であることが多い。住まいのある本駒込からは豊島区上池袋にある豊島清掃工場の白い煙突がよく見える。市街地にあるため煙突の高さが210メートルもあるからだ。北池袋の編集事務所まで歩いて行こうとするとその煙突を目指すことになる。


12月22日は駒込駅前からずっと山手線外周に沿って歩いてみた。反時計回りに巣鴨、大塚と過ぎて行くとだんだん白い煙突が大きくなる。その煙突の足元に目指す町があることがわかる。けれど線路沿いの道は時々途切れ、街並みの路地へと迂回してまた線路側に戻る。しかも土地買収の難航により、この辺りの山手線は曲がっている。

カクカクと曲がって行くうちに自分の現在地がわからなくなる。それでも白い煙突が見えるので目的地の方角はわかるが、現在地と煙突を結んだ線に対して街並みの位置関係が混乱する。山手線の輪の外にあるはずの煙突が、輪の内側にあるように見える角度があるのだ。

ようやく煙突の根元にたどり着いてみると、煙突はちゃんと山手線の外側に立っている。東京都道441号池袋谷原線池袋大橋にごみ収集車用の入退出口があり、ゴミ焼却熱で発電を行い、隣接した豊島区立健康プラザとしまに温水の提供も行っている。

この煙突が立つ以前もゴミ処理場だったのだろうかと調べたら、かつては池袋マンモスプールがあったという。テレビで「アイドル水泳大会」などという番組があり、水着姿の少女に水中騎馬戦などをやらせていたが、あれがここだったのかと時代の地図も位置が合致した。


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カレー南蛮百連発:048 南大塚小倉庵(追記)

2017年12月22日
カレー南蛮百連発:048 南大塚小倉庵

北池袋の編集事務所で打ち合わせがあったので歩いて往復した。復路は昼時になったので大塚駅前から三業通りに入り石臼挽き自家製粉の手打ち蕎麦屋『小倉庵』に寄ってみた。

出てきたカレー南蛮は清水のそれとは違う黄色いカレー南蛮で玉ねぎと豚肉の組み合わせだけれど、甘みが抑えられていてとても美味しい。

蕎麦通を自認したり他人からそう呼ばれている人にとってカレー南蛮は「げて」なのだそうだ。それを承知で好んで食べており、うどんを消化しやすくくたくたに煮た鍋焼きうどんのような、伸び気味の蕎麦をすするのも承知の上の好き好きである。

ところがここのやや太打ちの蕎麦が美味しくて、改めてざるを食べに来てみたいと思った。カレー南蛮を食べてそう思うのだから大したものだと思う。大晦日が近いので年越しそばの出前や持ち帰り予約に訪れる客もある。

翌日、もう一度出かけて行って太打ちの「田舎そば」(いなかせいろ)を頼んでみた。やはり期待通り、噛んで味わう滋味深いそばだった。

『小倉庵』
東京都豊島区南大塚1-42-8

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かかとつまさき2

2017年12月22日
僕の寄り道――かかとつまさき2

きょうもこれから北池袋の編集事務所で打ち合わせがあるので歩いて出かける。理由は朝の満員電車に乗るのが嫌なのと歩くのが好きだから。合気道指導者が書いた本で正しい立ち方を確認し、その姿勢で歩くことを心がけている。

正しい姿勢をとろうとして気づいたのだけれど、早足で歩くと自然に正しい姿勢になっている。早朝のウォーキングで歩き出しが気持ち良いのは、正しい姿勢で歩いているからだろう。

疲れて足が重くなり、歩く速度が遅くなると踵(かかと)に重心が移って悪い姿勢になり、悪い姿勢の歩行がさらに疲れを増幅させるという悪循環になっている。ということに気づいたので、疲れて速度が落ちた時だけ正しい姿勢を意識するようにしている。

歩き出して次第に速度を増していくのは気持ちよくて全身の筋が伸びるようだ。心の中で「あーー気持ちいい!」と声が出る。郷里清水で無人となった実家片付けに通った頃、片付けを終えての帰路は東海道を歩いたが、歩き始めた直後は東京まで歩けそうな気がした。

東京まで歩いて帰ろうという意気込みもやがて萎(しぼ)んで姿勢が悪くなり、結局興津駅から東海道本線に乗って帰郷したものだった。本駒込から北池袋への早歩きも立教大学あたりで足が重くなり、前回も構内のベンチで休憩した。今日は興津駅まで正しい姿勢を保つような意識で歩こう。



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かかとつまさき

2017年12月21日
僕の寄り道――かかとつまさき

パンダの挙動を眺めていて妙におかしいのは、パンダの中に人間が入っているように見えるからだ。イヌやネコの笑える映像を見ていても、中に人間が入っているかのようなおかしみを感じることはない。

パンダは蹠行(せきこう)といって踵(かかと)を含んだ足裏全体を地面につけて歩くので、踵をつけずに爪先立ち状態で趾行(しこう)するイヌやネコより、歩き方においては人間に近い。人間に近い大熊猫の挙動を人間が観て笑っているのだ。

合気道指導者が書かれた本がとても面白い。基本になる正しい姿勢について説明された部分を何度も読み返し、靴の踵ばかりが片減りしてしまうことの原因が、自分の姿勢の悪さにあることもわかった。ひとことで言うなら「軸感」を忘れているのだと思う。

かかとに偏らずつまさきまで意識した立ち方を確認し、その姿勢を意識せずに取れるよう練習している。昔、軸感を意識せざるをえない職業人は足半(あしなか)という踵のない藁草履を履いていた。ウサギ狩りの様子を描いたという上野の西郷隆盛像もちゃんと足半を履いている。軸感を意識した歩き方が身につけば、パンダのように転んで笑われることもないと思うのだ。

「うちの忘年会はいつ?」
と妻が言うので、今年一年の老人ホーム通いを労い、神田司町『みますや』で二人だけの忘年会をした。十人以上でかこめるテーブル席短辺に腰掛けて飲んでいると、他人が頼んだとなりの料理に手が伸びてしまいそうになり、義母が暮らす老人ホーム食事風景と年寄りの気持ちを思い出した。



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赤い気持ち

2017年12月20日
僕の寄り道――赤い気持ち

今年も年賀用に注文した私製葉書が刷り上がって届いたので、郵便局へ行って62円切手を買ってきた。届く枚数、書く枚数が減ったけれど、わが家では年賀状の習慣は変わらない。変わらないものだけが自分に残って、それが「気持ち」というものだ。

他人に対して「虚礼廃止」などという四文字熟語を発するのを好まない。他人を誘わず自分で静かに礼の場を退出すればよいと思う。けれど年上の敬愛する友人から、歳をとった自分に残された時間が少なくなり、やりたいことが他にたくさんあるのでもう年賀状は書かない、来年からは届いても返事を書かない、と印刷された年賀状が届いた時は感慨深いものがあった。

役所を定年退職してから、地方都市の団体職員を歴任し、テレビ出演や講演も忙しくされていたので、やりとりする年賀状の枚数も半端な量でなく、彼にとって年賀状はずいぶんと心の負担になっていたのだろう。憤慨と鬱する気持ちが合わさって、彼の中で年賀状のやりとりはまさに「虚礼」化していたのかもしれない。そういう人もいる。

虚礼廃止の宣言のあと内田百閒ふうに「…とは言ふもののお前ではなし」とでも書かれていたら、葉書いちまい程度の気持ちであっても何か伝えたい恩人ではあったけれど、年賀状のやり取りも途絶えて数年経った。

イギリス風の郵便制度が根付いた国の郵便ポストは赤い。郵便ポストと同じく気持ちを届ける道具であった赤電話を町で見かけなくなったので、街角に赤い郵便ポストを見つけると、心の中に血がかよったようでホッとする。

朝10時から北池袋で打ち合わせがあり、満員電車に乗るのが嫌なので歩いて行ったら1時間15分ほどかかった。途中で赤い郵便ポストを見つけ、見慣れぬものが付いているので近寄ったら輪ゴムボックスだった。

たいした枚数を出すわけでもなくなったので、投函するときに輪ゴムを気にかけることもなくなっていたけれど、小数枚でも複数になったら輪ゴムで束ねてくれると助かります、という郵便局員の「気持ち」が届いた。はい、忘れずにそうします。


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一番はじめは一宮(いちのみや)

2017年12月19日
僕の寄り道――一番はじめは一宮(いちのみや)

母親が教えてくれた歌に「一番はじめは一宮」で始まる歌があり、スキップするようなリズム(ピョンコ節)の手毬唄である。
「二は日光東照宮」
「三は讃岐の金比羅さん」
「四は信濃の善光寺」
と続くというが、母親のそれでは
「三は佐倉の惣五郎」
となっており、なぜか下総国佐倉藩領の義民が登場してしまう。母親の勝手な覚え間違いなのか、関東地方ならではのバージョンなのかは知らない。

子どものころ持たされていた成田山のお守り袋で成田の記憶は深い。その成田の東勝寺に宗吾霊堂があって連れていかれた記憶がある。佐倉の惣五郎は成田の東勝寺なのかなとも思うが、お守り袋の「おふどうさん」である新勝寺が七番目に
「七つは成田の不動様」
として登場するので、いずれにせよ母のピョンコ節は千葉県成田市が重複している。

埼玉の大宮にある老人ホーム通いが始まって足かけ8年になる。
東京と埼玉と神奈川の一部をあわせた武蔵国、その一宮である大宮氷川神社について郷里の友人と話していたら途中で混乱し、いつの間にか東京都府中市にある大国魂(おおくにたま)神社と間違えられていた。あちらは武蔵国の総社であり、総社すなわち惣社は当該国において格式が高めの神社(多くは六社)をまとめて祀った神社なので、その上にある一宮の方がもっと格式が高い。

東山道経由で東京を目指す地図はこんな感じだろう

東京が表玄関ではなかった時代、官道である古代東海道においては三浦半島走水から海を渡って千葉県を経由したので上総が武蔵国へ向かう前にくぐる表玄関、それ以前の時代、武蔵国が東山道に属していたころは上野(群馬)、下野(栃木)と辿って埼玉県が表玄関だった。表玄関には一宮があるので「一番はじめは一宮」で始まり、まずそこは合っている。


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お茶をすすめる、道具を忘れる

2017年12月18日
僕の寄り道――お茶をすすめる、道具を忘れる

義母が暮らす特養ホームで最も重介護のユニットでは、一人ひとりのケアワーカーがたくさんのお年寄りの食事介助を同時にやっていて千手観音のようである。彼らが飲ませたり食べさせたりすることが、ゆらゆら揺れて消えかける老人の命を支えている。

マグカップでお茶を飲んでいる認知能力の衰えたおばあさんがいて、テーブルを挟んだ向かい側には両脇のお年寄りの食事介助に奮闘している男性ケアワーカーがいる。おばあさんのマグカップにお茶がないのに気づいたケアワーカー(男なのによく気がつく子だ)が、お茶の入ったピッチャーから注ぎ足してあげようとしているのだけれどうまくいかない。ピッチャーを差し出すとお年寄りがマグカップを持っていない方の手で受け取ろうとする。

ビールグラスが空なのでビール瓶を差し出して継ぎ足そうとするとき、相手が瓶に手をのばして受け取ろうとしたら《ありがとう、でもまずあなたへお注ぎしましょう》という意思表示なので、瓶を渡して先にお酌をしてもらう。酒飲みの差しつ差されつルールである。

老人ホーム食堂のクリスマス飾り

正面からピッチャーを差し出して《おかわりを注ぎ足しましょう》という意思を伝えるのは難しい。おばあさんの腕で重いピッチャーを持つのは無理だし、彼女はケアワーカーと《差しつ差されつ》したいわけでもない。

正面からピッチャーが差し出されれば、受け取ることのできるマグカップを持っていない方の手が出る。ピッチャーのお茶を《差し出された道具であるピッチャーと自分の手に持っている道具であるマグカップ、その道具同士を介して受け渡しする》という行為が、老いによる衰えとともにだんだん難しくなる。

箸やスプーンが使えなくなると手が出る。食べものを器から手づかみして口に運ぶ、器を持って舌をのばして舐め始める。やがて食器とお盆の区別がつかなくなり、お盆とテーブルの区別がつかなくなり、そうすると両隣りに腰掛けた他人の料理に手が伸びるようになる。

そんなふうに段階を経て道具を忘れることにより、お年寄りは自分で食べられなくなって全介助が必要になる。両隣りのお年寄りがいるので席を立てないケアワーカーと、マグカップに注ぎ足してもらえないおばあさんの、テーブルを挟んだ一瞬の不首尾風景より。


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一斗缶のある風景

2017年12月17日
僕の寄り道――一斗缶のある風景

祖父母の家では冬になると三河(1)方面から芋切り干しを取り寄せていた。一斗缶で届くそれの蓋を開け、芋の表面にふいた白い粉の様子を見ながら、大人たちはその年の出来栄えを評しあっていた。瓦製造業(2)だったので、だるま窯に火を入れて徹夜で瓦を焼く日は、空気穴から噴き出す熱風で干し芋を炙って食べていた。

わが家では冬になると両親が「みづほ焼き」という超堅焼き煎餅をどこからか取り寄せていた。一斗缶で届くそれの蓋を開けて煎餅を取り出すと、「みづほ焼きは本当に硬い」と苦笑いしながら、布巾で包み金槌で叩き割って食べていた。(3)

芋切り干しも堅焼き煎餅も食べ終えて春が来ると空き缶が残る。わが家では一斗缶を米びつがわりに使い、祖父母の家では側面に小穴をたくさん開け、中にゴミが貯まると火をつけて焼いていた。

東京のわが家近くの交差点では、冬になるとまだ暗い早朝に起き出し、歩道に積もった枯葉を掃き寄せて清掃奉仕するおじいさんがいた。一斗缶に火をおこして枯葉を焼いており、警ら中のお巡りさんと暖をとりながら立ち話をする姿を見て「いいなぁ」と思った。もう二十年も前になるのでおじいさんはもちろん、本郷通りの歩道で枯葉を焼くのどかな時代ももうない。

(1)今でこそ芋切り干しは茨城県名産だけれど、かつては静岡・愛知両県で生産高のほとんどを占めており、日露戦争の頃は軍人芋と呼んだらしい。清水旧市街在住の魚屋さんでは芋切り干しを相良から買っていたという。

(2)どうも職業といい石原の名字といい三河に縁があったらしい。瓦を焼く土も灰色がかった土に赤い土を混ぜており、後者を「ばんこ」と読んでいたが萬古焼の土かもしれない。土は業者から買っていたが三河方面からかもしれない。

(3)前述の魚屋先代は、清水名物『甘いえびせん』を一斗缶買いしていたという。幻の『甘いえびせん』については清水駅前銀座お菓子の見城さんが大変詳しい。


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年年歳歳

2017年12月16日
僕の寄り道――年年歳歳

子どもの頃、鉄筋コンクリート製の建物は永遠の象徴のように思われた。自分が竣工を見た建物が取り壊されて別の建物に建て替わったり更地になるなど予想もしないことだった。

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず)と唐詩選にある。毎年同じように花は咲くけれど人の顔ぶれはどんどん変わっていく。

大好きな詩ではあるけれど、毎年咲く花を見て故人を偲び、人の世の無常を感じたことが実際にはない。それよりも街並みが目まぐるしく変わっていくことに世界の無常を思うことが増えた。

先日も仕事で出かけた霞が関で、妻や友人と今はない街並みの思い出を語り合い、真新しいビル街やリニューアルされた高層ビル内を歩きながら、もう逢えなくなった人たちを思い出し、やがて自分たちもいなくなる未来を思った。

子ども時代を過ごした地域に帰っても、思い出の中にしかない大型商業施設が増えて行く。晴れがましく竣工を祝った学校の新校舎ですら老朽化や耐震性を理由に取り壊されたものも多い。若くして鬼籍に入られた友人たちがこの景色を見たら、めまいのするような無常感にうたれるのではないかと思う。

街には日々新しくなければ済まされない経済的理由があり、目まぐるしく資源を消費しながら変わって行く。そういう歯止めの効かない風景の中、ベルトコンベアに乗って人間という生物の生産と廃棄が繰り返されて行くように見えている。


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