地図の回転、文字の無回転

地図の回転、文字の無回転

 司馬遼太郎 『街道をゆく 1』 朝日文庫に掲載されている長州路の地図は反時計回りに回転されていて真上が北ではない。北が真上の地図を見慣れた目には新鮮で、長州藩というものについて違った角度から眺めているような気になるけれど、小さい判型に収録するためわざわざそういう地図を起こしたのだろう。


 ふと思いついてスマホの地図で試したら、google の地図も Apple の地図も指二本で回転できる。拡大縮小時に寺の名が消えてしまう現象について数日前に書き、文字が別レイヤーになっていることには気づいたけれど、地図レイヤを回転させても文字が回転せず水平を保つということに今更ながら感心した。



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メールのおわり

メールのおわり

 ネット配信された若いライターの記事を読んでいたら 「いまどきメールに返事を書く人なんていませんよね」 と言う。 「えっ、そうなの?」 と思ったので、同い年の編集者に聞いたら「そう言えばそうかもしれません」と笑う。

 もっと若い人に聞いたら、最近メールなんて書かなくて、Facebook や LINE やショートメッセージで簡潔に用件を伝え、返事も 「イイネ!」 や 「気に入りました」 や 「☆」を クリックして済ませることが多いという。

 いちいち長い返事を書いてくる人は 「うざい」 のだという話も聞いた。メールなんてもらいたくないし、返事を書くのもめっちゃ疲れるのだという。

 iPhone/iPod Touch 用に Spark というメールアプリがあるので入れてみたが、さっさとメールを処分してすっきりし、簡単にワンブッシュで返事が送れるようにできていた。そういう返事が返ってきたらどんな感じだろうと、自分宛に 「Like(イイネ!)」 を返信してみた。左は受信メールを捨てて空っぽにしたところ、右は自分から届いた 「イイネ!」 メール。



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清水時層地図

清水時層地図
今年の夏休みは地図を作っているという話

  梅雨が明けて夏本番となり、世間の人びとが交代で夏休みをとるようになると、ここ数年、夏休みの宿題をやるように、郷土誌年表作りを仕事の合間にやっている。編集委員をやっている郷土誌のため、見渡しの良い視点作りには年表的な世界の捕まえ方が欠かせないと思うからだ。

 人の生涯も社会の出来事も、その数だけ車線のある道路のようになっており、並行して進行する中で、時には接近し、時にはぶつかり、時には離反しながら語りうる物語を作っている。そういう語りうる関係としての物語こそが歴史なのだろう。今年はそういう横軸の年表ではなくて、強いて言えば縦軸に重層した年表としての地図を作っている。

 郷土誌が対象とする静岡市清水区は、日本各地がそうであるように、縄文時代以降、弥生時代以降、古墳時代以降の遺跡を伴いながら、海退による陸地化によって姿を変え続けた町である。さらに真ん中を流れる巴川北岸では、江戸時代になってもう一段海辺の陸地化が進むという特殊な成り立ちになっている。


 陸地化が進むことにより集落も東の海沿いに移転し、家康による安倍川の流路変更により巴川の水量が激減し、巴川に架橋して東海道の付け替えが行われ、巴川の水面が下がることで船が入れるほどあった海船川や御座橋川も狭隘化し、海進や海退もあり、高みを削って低地が埋めたてられ、さらに空襲によって街並みが消失したことにより、現在の清水市街地巴川北岸は古い道筋の痕跡をほとんどとどめない。

 現代の地図に古地図を重ね、さらに絵地図の中から小字のある場所を推測しながら重ね合わせ、昔の人が辿った道を推測し、蝉の声を聞きながら重層する地図をこつこつと作っている。

【メモ】
❖日本の砂浜海岸は三列の浜堤(ひんてい)群をもつものが多い
 陸側から
 ・縄文時代以降の遺跡
 ・弥生時代以降の遺跡
 ・古墳時代(3世紀中頃)以降の遺跡
  が見つかる。
 清水では巴川北岸が四列、南岸が三列。
❖6,000年前の縄文時代前期には地球規模の気候温暖化により氷河がとけ、海水面がいまより10m くらい近く高かった。
❖海退の進行につれて湾底に堆積した粘土や砂の層の上に、周辺の山地から流出した砂や礫が地上堆積を始める。
❖河の押し出しによる地上堆積により、扇状地、自然堤防、天井川などが生成される(微地形。谷津沢川がつくった吉川から渋川、山原川がつくった下野・石川あたりの地形)。
❖それらの土地に特徴的なのは島畑(しまばた)、別名寄畑(よせはた)が見られることで、島畑とは、扇状地・段丘・自然堤防などの微高地で水田を開墾する際に、導水できる高さまで土地を掘り下げた際に出る残土を水田の中に積み上げたもの。
❖巴川北岸の浜堤
 ①【上嶺浜堤】上嶺から西久保まで(小礫が多く標高7メートル内外)
 ②【宮代浜堤】袖師区諏訪付近―矢倉神社―常盤町―宮代町―小芝町―魚町(黄色い砂層で標高5.5メートルくらい)
 ③【鈴木島・江尻浜堤】鈴木島―松原―辻町―本郷町―鍛冶町―鋳物師町―伝馬町(砂礫を主とし標高2.5メートル、1,500年頃にできた)
 ④【向島浜堤】袖師海岸―下浜田―嶺―愛染町―清水駅―真砂町―旭町―松原町―入船町―巴川河口(砂礫を主とし、江戸時代急速に生成、標高1.5メートル)
❖巴川南岸の浜堤
 ①【岡清水浜堤】入江一丁目―新富町―入江岡―掘割田―軒裏通―川下屋敷―小池―藤八屋敷―北矢部(砂礫を主とし標高7~8メートル、一部は堂林方向に伸びる)
 ②【村松・宮加三浜堤】村松―宮加三(砂礫を主とし標高2~3メートルだが鎌倉時代から存在)
 ③【浜清水浜堤】入江浜田―上一丁目―上二丁目―本町―清水仲町―美濃輪町(小粒の礫と砂からなり、標高2メートル内外)
❖三保の松林が植えられた砂丘の砂、その鉱物組成は安倍川河口東側のそれと類似する。
❖氷河時代最後期ヴェルム氷期最盛期の氷河固定による海退は現在の海水準より140メートル低かった。(15,000年前)
 その後14,000年ごろから氷河は小さくなり現在の海水準より40メートル低いあたりで一時停滞した。沖積世と洪積世の境界とされる。(10,000年前)
 それ以降後氷期と呼ぶ。
❖後氷期から温暖化したが、その間、四回の寒冷期がある。
 ①9000~8000年前
 ②5000年前
 ③3000~2000年前
 ④420~70年前
 (約10000年の期間に2600年間隔)
 5000~6000年前、日本の臨界沖積世平野の広い部分が海に覆われていた。関東地方に約6000年前おこった海進(内陸部の後退)を縄文海進という。清水市域でも現在の標高6メートルあたりが海岸だった。
 4500~5000年の縄文中期、海進は停滞。
 2000年前頃には小海退があり海面は現在より2メートル低かった。
 弥生時代(前3世紀頃 – 後3世紀中頃)から平安時代(794年 – 1185年)初期まで清水の海岸線は内陸に1キロメートルほど後退した。
 10~12世紀になると洪水による土砂堆積が進み市域全体に扇状地や三角州平野部に自然堤防が発達する。海退後に出現したこの自然堤防に集落や農地ができた。
 1200(正治二)年から1890(明治二三)年の低温期のうち1550年からの後半が小氷河期と呼ばれる期間となり海水準が現在より50センチほど低くなって江戸海退と呼ばれる。



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野口英世とコブシの実

野口英世とコブシの実
六義園内に見える赤いものを確かめた話

 精神医学や心理学の本に幼児期の話が出てくると、こういう悲惨な環境で育ったからこういう大人になった、などという絶望的な話ばかりが書かれているという。ほんとうは、そういう悲惨な環境で育ったけれどこうして立派な大人になったという、救いのある克服の物語こそが描かれるべきだと、神田橋條治の本にあった。

 「野口英世さんは囲炉裏に落ちて、手がこうなって、『てんぼう』と言われて、いじめられて、かわいそうに泥棒になりました」とかいう話は作りやすいけれども、それを克服して、手を手術してもらって、そのうちお医者さんになって、だんだん偉くなっていく。なぜ逆境にあってもそこを乗り越えて進んでいったのかということについては、「偉いなあ、立派だなあ」 とは書けるけれど、「ああだから、こうだから、こうなった」という話は作りにくい。だからケチをつける話ばかりが学問として成立つんです。(『神田橋條治 精神科講義』)



 梅雨が過ぎてますます緑濃くなった六義園内で、ちょっと前から赤いものが目につく木があり、葉っぱが病気になって赤変しているのだろうかと思い、仕事場から超望遠レンズで引き寄せてみたら、なんとコブシの木に実がなっているのだった。丸い実が赤く焼けただれて癒着したようになっており、こういうのを集合果というらしい。辛夷は当て字であり、握りしめて節くれだった拳(こぶし)に似ているのでコブシの名がついたのだという。

 悲惨な幼児期をくぐり抜けて心の危機を克服した人たち、『サバイバーと心の回復力』という本について書かれた部分を、赤いコブシの実を見て思い出した。いつかまた赤い奇妙なかたちの実を見つけても、これできっと忘れないだろう。



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穴を掘ると水の出る下町

穴を掘ると水の出る下町
2015年7月29日、初めての坂口安吾で驚いた話

 太宰治を知ったのは高校時代の教科書で、太宰がどんな人かも知らず最初に読む本として、 『新樹の言葉』 は好適だったかもしれない。それ以来夢中になり、全集にだけ収録されたものも含めて、ひまな大学生時代には全てを読み尽くしていた。

 いっぽう三島由紀夫が 「太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」 と評した坂口安吾については一冊も読んだことがない。

「私は坂口安吾のよい読者とはいえないが 、その写真だけは子供の頃から見知っている 。それは 、林忠彦が撮った執筆中の安吾の写真である」 ( 『昭和時代回想』 ) と関川夏央が書いているのを読んだ。林忠彦が撮った太宰治の写真は目に焼き付いているけれど、坂口安吾のそれは知らないので、調べてみたらやはり林忠彦らしい写真だった。

 ついでに坂口安吾を一冊くらい読もうと思い、青空文庫で読んでみたがどれもピンとこない。多作で当たり外れの多い人だったらしい。ある作家について初めて読む作品というのは大切で、最初にこれはいいと思える作品に当たると、あとは駄作でもなんとか読めてしまうものだ。


  まずは定評のある作品でなくてはだめだと思い、『白痴』 を読み始めたがこれはすごい。文章が上手いのにも感心するけれど、「場末の小工場とアパートにとりかこまれた」 町に住むのが、肺病病みや、妾や、淫売や、未亡人や、気違いや、白痴だという描写が、自分が小学生時代を過ごした町にそっくりなので驚いた。

 坂口安吾の文学的価値の高い作品に出てくるから、こうしてこれらの言葉を転記できるけれど、自分が過ごした東京下町の場末には、このほかにも言葉では書けないような境遇の人たちが大勢集まって暮らしていた。

  ちょっと風が吹くとゆさゆさ揺れる木賃アパートで六年間暮らしたけれど、「このあたりは一尺掘ると水がでるので、防空壕の作りようもない」 というのも全く同じで、子どもの腕が届く程度の穴をを掘っても、その町では穴の奥から水が出てきた。この町でも焼夷弾が落ちてずいぶん焼死者が出たと年寄りたちが話していたけれど、そういう事情だったのかもしれない。

 『白痴』 の舞台は蒲田、場末の裏町だというけれど、東京下町にある場末の裏町はどこでも、多かれ少なかれこんな荒 (すさ) みかたをしていたのだと思う。 『白痴』 、楽しみに続きを読もう。

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完全初期化と年年歳歳と石川啄木

完全初期化と年年歳歳と石川啄木

 使わなくなって久しい 12 インチの PowerBook G4 をゼロ書込みで初期化した。廃棄するにせよ誰か貰い手が現れるにせよ、完全にデータ消去しておくにこしたことはないので、気づいた勢いでやっておいた。

 で、このモトローラ PowerPC G4 プロセッサで、起動システムになるのはどのバージョンまでだっけと記憶をたどったけれど思い出せず、手元にあった OS X Leopard の DVD ディスクを入れたら起動ディスクになって本体初期化ができた。あとで調べたら  PowerBook G4 にインストール可能なのは Mac OS X 10.5 Leopard  までらしい。


 ゼロ書込みによるハードディスク初期化は 40 分弱かかりそうなので勝手にやらせておき、久しぶりに下町の商店街まで買い物に出た。街のあちこちで、今年もまたおなじみの花が咲いていている。

 年年歳歳花相似たりという感慨は、歳歳年年人同じからずとセットになって、通りすがりの者の胸にせまる。日本じゅうどこもそうだけれど、沈滞を通り過ぎて衰退の様相が濃くなり、去年と同じように花は咲いたけれど、街はまた一年分としを取っている。



 汗だくになって帰宅したら、郵便受けに古書で取り寄せた近代日本詩人選 7 『石川啄木』 松本健一が届いていた。
 啄木が好きな人だった母に、幼い頃これを読めと小さな歌集を買ってもらって以来、やはり自分も啄木が好きになっている。
 なぜか周りには啄木嫌いが多く、月並みな啄木人物評はもう聞き飽きたのだけれど、アナーキズムについて読んでいたら、文学的アナーキストとしての啄木が気になったので、松本健一はどう評しているのだろうと、確認したくて買ってみた。

「文学や思想が、生活のなかに沈められたエトス (生活感情) から汲みあげられ、しかも生活的な次元から切れることによつて自立するものであるかぎり、啄木という詩人の闘いは、むしろ、生活的な次元における自己=エトスを言葉として客体化し、それと抗うものとしてあらねばならなかった。この、生活的な次元における自己=エトス、とは、たとえていえば、啄木が短歌的な叙情形式を感性として内在化しており、家の因習を自身の倫理として抱えこんでおり、近代に特徴的な民族国家の枠組みのなかで精神の形成をしていた、ということである。詩人としての啄木は、こういった自己に対する認識ゆえに、生活的な次元における自己のありようを敵とし、つまり否定の対象として、その文学や思想の言葉を紡ぎださねばならなかった。ここに、自己否定といったかたちの、詩人啄木の闘いが必然となったのである。
 だが、自己否定といった闘いは、その自己を、感性や倫理や精神といった内在的な 〈自然〉 として無意識下に規定している社会それじたいの変革が生みだされないかぎり、不断に敗れつづけるしかない。とすれば、啄木のたえざる闘いは、敗れつづけることを必然とするのである。そして、この敗れつづける闘いを闘わねばならない自身は、何ものによってか、愛惜されねばならない。啄木の自身に対する愛惜、これが、啄木の 〈うた〉 の核心であるといえようか。」(近代日本詩人選 7 『石川啄木』 松本健一。いきなり核心に迫ってすごい)

 



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スポーツ新聞のある風景

スポーツ新聞のある風景

 池袋でコンビニに入り、水分補給のためポカリを買おうとレジに並んだら、新聞スタンドからスポーツ新聞各紙を一揃い抜き取り、ついでにタバコをひと箱買い、まとめて袋に入れてもらい、「レシートちょうだい」と言って出て行った女性がいた。

 会社員時代の友人は高田馬場駅近くの実家に住んでいた。会社帰りの山手線内でスポーツ新聞を広げ、プロレスの記事を食い入るように読んでいる男がいるので、この人はよっぽどプロレスが好きなのだろうとおかしく、新聞越しに顔を見たら兄だったと笑っていた。



 池袋からの帰りに、山手線に乗ったらスポーツ新聞を広げている人がいて、「1ミリの差で逆転優勝!」という特大文字の見出しが躍っているので、1ミリの差で勝負が決まるスポーツってなんだろうと覗いたら釣り大会だった。魚種も笑えたけれど名前は忘れた。

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ディオゲネスと認知症老人と谷川俊太郎

ディオゲネスと認知症老人と谷川俊太郎

  ギリシャの哲学者ディオゲネスがプラトンに葡萄酒と乾燥無花果(いちじく)をねだったら、葡萄酒をひと甕(かめ)送りつけてきた。それを見たディオゲネスは、あなたは 2+2 を尋ねられて 20 と答えるのか。あなたはこのように他人に対して、所望された通りのものを与えることもしなければ、聞かれたことについてちゃんと答えもしない人間なのだ、と言ったという。いい話だ。

 特養ホームの昼食食事介助を見学していたら、世間では認知症と呼ばれるお年寄りがときおり話す、詩のようなつぶやきに対して、詩のように返事をしているケアワーカーを見て、急に 『詩を書くということ』 谷川俊太郎、PHP 研究所が読みたくなったのでスマホから注文した。

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夏の火傷

夏の火傷
熱さと暑さの話あれこれ

  餃子の王将で生餃子を買い、ぐるりと丸く並べて鉄鍋餃子風に焼いている。そうすると餃子同士がくっつくので冷めにくく、あいだに油が入らないせいか、皮がさっぱりしていて美味しい。焼き方が上手いと言われ、昨夜も得意になって焼いていたら左手小指をひどく火傷した。餃子がまずくなるので熱さをこらえて騒がず我慢したけれど、朝になったらあまりに水ぶくれがひどく、我ながら痛々しくて正視に堪えないので、30年ぶりで外科に行った。

 II度熱傷の火傷レベルだそうで、治りが早いから水を抜きましょうということになり、注射器で吸い出し、透明のゼリー状塗り薬を塗布され、テープをきつめに巻いてふたたび水が溜まらないよう処置された。夏なのに厚着した小指だけが暑苦しい。

 暑さも熱さも苦手ではない。火傷をするような荒っぽい料理法も平気だし、暑いから今日は家の中にいろと言われるとむきになって外出したくなるし、日差しが強いから帽子をかぶって出かけろと言われると意地でもかぶりたくない。夏はおとなを子どもにする。

 自分の熱さや暑さは平気だけれど、病気療養中の元出版社社長、その居室のエアコンが壊れたというのでカンパを持って届けてきた。命に関わる話なのでさっさとカンパを集めて送ろうと言ったら、はやくも編集者たちからのをまじえて目標額に達したらしい。大宮も暑いけれど池袋も暑い。

 池袋も大宮も暑いけれど駒込はちょっと涼しい。JR駒込駅南口に降り立ってちょっと涼しいのは六義園があるせいかもしれない。六義園に沿って歩くと、本郷通りに立ち並ぶビルの隙間から、冷たい空気が流れ出してくるのがわかる。暑いのは嫌いではないけれど、暑さの中で涼しいのはやはり気持ちがいい。森は原発のいらないエアコンだ。熱さと暑さの話あれこれ。

 

|特養ホーム行きバスを待つバス停。大宮も暑い。夏祭りの準備が始まっている|


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テラウォーズ

テラウォーズ
清水の寺が見つからずに大騒ぎした話

 寺が集まった場所を Google マップで表示すると消えて見えない寺がある。表示倍率を下げていくと地図上に強い寺だけが生き残っているようにも見えたりする。

 郷里静岡市清水区江尻東では妙泉寺、浄春寺、江浄寺が隣り合っているが、地図の縮尺を下げていくと浄春寺だけ残ってほかの寺は消えてしまう。辻と本郷町では本要寺と妙蓮寺が隣り合っているのだけれど、妙蓮寺が消えて本要寺だけが見えていることがある。縮尺によって消えたり現れたりすることを知らなかったので、あるはずの寺の場所が探せなくてびっくりした。

|妙泉寺、江浄寺が消えて浄春寺だけが表示されている不思議な表示|

 Google マップだけでなくマピオンマップでも似たり寄ったりで、縮尺を下げて広域を表示すると、浄春寺だけが地図上に残り、縮尺によっては江尻町の法雲寺までとばっちりを受けて消えたりする。

 地図の縮尺を変えても表示される文字の大きさは変わらないので、隣り合うスポットの有無や名前の長短が影響しあっているようで、寺格ではなく字数をめぐる場所取り争いによる表示結果のように思われる。



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御神木と島流し

御神木と島流し
静岡市清水区にある矢倉神社で考えたこと
 

 静岡県清水市でとびきり古い矢倉神社の御神木の高い部分を見てみたいと思い、隣接するマンションの外階段で最上階に登らせてもらったら足がすくんだ。年をとるにつれて高所恐怖も進行するのだろうか。

 高所も怖いけれど閉所はもっと怖い。いつか火星に植民地をつくり、二度と地球に戻らない覚悟で、勇気ある第一陣が入植する、などという計画を聞いただけで頭がおかしくなりそうだ。

 想像して震え上がる恐怖というのは心理的なものなので、かつて島流しにされる罪人たちは、島に流されたまま二度と帰れない自分を想像しただけで、頭がおかしくなったりしたのだろうか。

 低層マンションの最上階で足がすくんだくせに、もっと高い秋葉山に登って、上から矢倉神社を見下ろしても足がすくまないのは、秋葉山が自然の丘陵であって人造物ではないからだろう。

|創建は、仲哀天皇の時代、庵原国造意加部彦命が日本武尊・景行天皇を祀ったとされ、日本武尊御東征の際に武器庫が置かれた遺跡といわれる。|


 山や森や浜辺のある島へ流すのではなく、東シナ海に建設中の人工島に流すと言われたらこわい。人工による狭さは耐え難く、狭い宇宙船内や火星基地に閉じ込められるのと同じくらいこわい。

 自然に訪れる死より、人為によってもたらされる死がこわいのはきっとそういうことだ。極相林のような域に達した御神木を見てそんなことを考えた。ありがたいことである。



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記憶と呼び出し

記憶と呼び出し
居眠りから覚めて思ったことの備忘録

 コンピュータのプログラムの中で、何度も必要になる定型処理を、それ自体ひとつの小さなプログラムとして用意しておき、必要なとき名指しで呼び出し、処理を任せられるようにしたものをサブルーチンという。ひとつつくっておいて呼び出せば、必要になるたびに一からつくらなくても済むわけだ。プログラミング入門をやってみて、なるほどそれは無駄がなく効率的だと感心したものだった。

 人間がやっている考え事でも同じようなことが行われていて、頭の中にサブルーチンが用意されて効率的な人を、あの人は頭がよいと言うのではないか。

 人が考え事に使えるメモリー容量は限られているので、それをどう工面して使い回すかが大切なポイントなのだろう。

 人は定型的な処理プログラムを頭の中につくり、必要に応じて呼び出し処理させることで、空いたメモリーを確保し、より多くの作業をできるようにしているのだと思う。メモリー容量の多寡ではなく、考える作業効率の良し悪しが、頭の良し悪しと呼ばれているものの実態かもしれない。メモリー容量はたぶん等しく平等だ。

 本を読んでいて、定型処理に使えそうな小さなプログラムが頭の中にできた気がすると、人は「わかった!」と嬉しいのではないか。「わかった!」がいくつも増えていくと、途端に理解力が増して読書が進む理由は、サブルーチン処理が可能になるからだろう。

 子どものころ「わかった!」と突然スイッチが入ったように学力が伸びた友人も、効率の良いプログラムが出来上がったのだろう。たぶん頭の中のプログラミング言語は人それぞれに違っている。簡単なプログラミング言語でも、その後の効率が上がるような、個性に応じたものを用意するのがよい基礎教育かもしれない。

 机に座ってこっくりこっくり居眠りをすると、なぜ頭の中のワーキングメモリー解放が起こって、頭がすっきり冴えた気がするのだろうということを考えてふと思ったことを書いてみた。



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意外な検索結果とねじれた喜び

意外な検索結果とねじれた喜び
2年間騙しだまし使っていたロバのようなカメラについて

 ネガティブな不満について検索することが多い。
 商品の苦情を申し立てるかわりにネットで検索し、同様な不満が数多くヒットすると、やっぱり自分だけではないのだとわかって安心し、不満の声が高まって改善の圧力になればいいなどと期待し、諦めの声が多ければ自分もそれくらい我慢すべきかなとおとなに戻る。
 ネガティブな不満について検索し、ネガティブな検索結果が見つかったことに満足するような、ひねくれた検索利用法がある一方で、ネガティブな不満を抱いているのが自分だけらしいという、意外な検索結果に驚くこともある。
 大変気に入って使っているデジタルカメラがあるのだけれど、ただ一点、スイッチを入れて撮影準備が整うまでの時間がひどく長いのが気に入らない。言うことを聞かないロバのように鈍重なので、とっさに写真を撮ろうとして間に合わないことが多い。

|起動が遅いのでこういう静物写真にしか向かないなと思いつつ撮影した三島駅ホーム|


 そういう仕様だから仕方がないのだろうと、自分を騙しだまし使っていたのだけれどやはり諦めきれず、機種名に「起動+遅い」と入れて検索してみたらそういう不満がぜんぜんヒットしない。
 それどころか「起動が早い」と書かれた記事を見つけ、クリックしたら二年前にアップされたメーカーのプレスリリースだった。このカメラは当社比で最速の起動時間を実現し、わずか 0.9 秒で撮影準備が整いますと正反対のことが書かれている。
 ということは自分の使い方が悪いのだろうかと設定を見直し、起動時にメーカーロゴが表示される機能をオフにしたら一瞬で起動することが分かった。たかがメーカーロゴを表示するために数秒もかかっていたのだった。この二年間の騙しだましはなんだったのだろう。
 気づかないだけでみんな馬鹿なのだろうと検索結果を眺めていたら、どうやら馬鹿は自分だけらしいとわかり、わかったことで馬鹿を脱する自助努力ができたという、意外な検索結果によるねじれた喜びを味わった。

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人が歩く道の歴史

人が歩く道の歴史
2015年7月23日、編集会議で清水帰省した

 静岡市清水区。旧東海道辻から見る杉山医院。
 旧東海道で写真を撮っているこの地点で標高が3メートルある。その先、杉山医院手前の黄色い舗装あたりの標高が5メートルで、上本宿、下本宿の字名が残る稱名寺集落があった場所になる。江戸時代以前の古い東海道はあのへんになり、杉山医院があるあたりは字名が樹木屋敷で標高8メートルほどある。


 この写真を撮っている場所のすぐ背中側に国道一号線があって、杉山医院あたりとは6メートルの標高差がある。大した違いではないとも言えるけれど、海だった頃に6メートルの深さがあったら背が立たない。海岸線がだんだん沖に遠ざかり、人が歩ける道が山沿いから海沿いに少しずつ移動した歴史が、この細道の見通しの中にある。
 そんな数百年の間にある歴史のことを考えて、ちょっと立ち止まってひと休みしたという、ただそれだけの日記である。

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沿線火災

沿線火災
2015年7月23日、沼津駅構内の沿線火災で足止めを食った話

  午前6時2分、駒込発の山手線に乗って、東京駅から6時30分発の熱海行きに乗った。この電車は宇都宮を4時37分に出てやってくる。8時20分、熱海駅に降り立ったらホームが雑踏しており、沼津駅構内で起きた住宅火災のため、列車運行ダイヤが乱れているという。

 列車が動きそうになく、仕方がないのでいったん改札を出て、駅前のマクドナルドで休憩した。マクドナルドの下はコンビニエンスストアになっているのだけれど、熱海駅前なので浮き輪やビーチサンダルが売られており、夏の海辺にいるのだなと改めて思う。

 ようやく沼津行きの電車が入線したので乗車したら、函南を過ぎて三島についたところで
「この電車は終点沼津のてまえ、三島どまりとなりこのまま熱海まで折り返します」
という。列車が動きそうにないので部活で沼津方面へ行く高校生たちのかなりの数が、諦めて熱海へ帰って行った。

 いつ動くかわからない列車を待つ高校生たちが落ち着いているのは、スマホでゲームしたり、ウェブを見たり、「沿線火災なう」などとつぶやいているからだ。急ぐ旅でもないので、おじさんもスマホで浅羽通明 『アナーキズム』 を読んで運転再開を気長に待った。


 結局列車が動いたのは10時半を過ぎてからで、沼津から10時56分発の島田行きに乗車して清水に着いたら昼近かった。
 沼津駅手前で徐行運転になったら火災現場が見え、現場は東海道線と御殿場線が分岐する三角地帯であり、消防車が入りにくく線路上からの消化作業も行われたため、沼津駅構内の火災という表現になったのだろう。

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