▼はげるプラタナス

漢字という文字の持つ力はすごい。
漢字だけ並べてあっても、中国語を話せない日本人でも意味が通じる部分が多く、
そういう文字を発明したからこそ多様な民族がいる中国大陸を
まとまった国家にできたのだという。



その反面、かなを駆使して助詞で漢字をブロック遊びのように
あれこれ順番を入れ替えてくっつけ、
多様な意味合いを駆使する日本語(膠着語というらしい)のような
ウラルアルタイ語族の持つ文字表現文化は発達しにくかったのだそうだ。

漢字の力もすごいけれど、かなの力もまた強く、
「はだがはげる」という6文字の並んだ様を見ただけでどきっとする。

コメント ( 17 ) | Trackback ( )

▼満開の桜の下で

六義園内には有名なしだれ桜以外にもきれいな桜の木が何本もある。
春と秋の観光イベントの時だけJR駒込駅前に面した染井門が開かれ
六義園の反対側にある正門が常に開かれていて正式な入り口になっている。

年間フリーパス入場券を購入しているので、
観光開園期間は仕事での外出の行き帰りに園内を歩くことにしている。


    撮影日: 06.3.23 3:53:42 PM
    RICOH
    Caplio R3
    露出時間:1/810
    F値: 4.4

ひんやりとした園内を歩くと気持ちがよい。

思うに、主要な通勤通学路を自動車通行止めにして
有料歩行者専用道路というのをつくったら、
お金を払っても歩きたい人っているんじゃないだろうか。

青山一丁目駅からドイツ文化会館方向へ向かう途中に高橋是清記念公園があり、
僕は無意識のうちにいつも公園内を歩いている。
それが近道だからというわけではなく、
たかが数十メートルでも樹木の中を歩くと気持ちがよいからだ。

有料がまずいのなら
「この公園や道路は歩く人のためにチップ制で維持管理されています」
ということにしたら結構チップを払う人がいると思う。

コメント ( 12 ) | Trackback ( )

▼Konicaの三角

「 この日の写真は懐かしい「ジャーニーコニカ」で撮影している。ネガをスキャンしていてカメラが特定できた秘密を知っている人はいるだろうか? 今思うにアナログの時代のなんとすばらしい工夫だったのかと感心する。」

と日記に書き、

「コニカのカメラは裏ぶたを開けて見るとわかりますが画面枠の部分にヤスリで削ったように▼形の小さな切り欠きがあります。僕はコニカのカメラは一台しか持っていなかったのでネガの端にある▼形でコニカのカメラで撮ったな、とわかるのです。
で、コニカのカメラを複数持っている人は機種ごとに▼形の位置が変えてあるので機種を特定できるのだ、と何かの本で読み、ひどく感心したのをフィルムをスキャンしていて思い出したのです。」

とこのブログに書いたら鳥さんがお持ちのKonica C35のフィルム室の写真を送ってくださった。



この仕掛けを知った上で観察しないとわかりにくいのだけれど、フィルム画面の左側に2カ所、小さな切り欠きがあるのがわかる。このフィルム枠で撮影したネガはこんな風になる。



画面右端に小さな三角が二つ写っている。この三角は紙焼きしたりスライドマウントに入れると人目に触れることはないのだけれど、撮影したカメラ特定の目印になるという美しい仕掛けである。

うろ覚え記憶確認の資料をいただいた鳥さんに感謝します。

コメント ( 5 ) | Trackback ( )

▼赤坂の桜

東京都港区赤坂四丁目。コロンビア坂を下った左手にある
山脇学園裏口通用門脇の桜のつぼみがほころんでいた。



学校+桜というだけでぐっとくるのは♪な、な、な、なんでだろう……。

コメント ( 7 ) | Trackback ( )

【『山里の春――伊佐布』と懐かしの国産車】

【『山里の春――伊佐布』と懐かしの国産車】

30年以上も時が経ってしまうと記憶と現実の齟齬が多い。
高校時代、SONYのスカイセンサーというラジオを買って貰い、「なんてとんがったデザインだろう」と思って大切にしていたのだが、大学生時代お金に困って質入れして流してしまったので手元にない。程度の良い中古が出ていたら買いたいと思っていたのだが、秋葉原で再会したら「なんてゆるいデザインだったのだろう」とがっかりしてしまい、あまりに高値なのにも呆れて買うのをやめた。

清水で過ごした高校時代、母の店の常連だったタクシー運転手が「深夜に乗務が終わったら愛知県の豊川稲荷までドライブしよう」と言い、タクシーを運転してやってくるかと思ったら自家用車で登場し(当たり前だ)、その車がなんといすゞのベレット1600GT通称「ベレジー」だったので狂喜した。



開通したばかりの東名高速道路を疾走する「ベレジー」の助手席でその包み込むようなシートの座り心地と、路面をこするのではないかと思うほどのお尻の位置の低さと、ダッシュボードの向こうの視界の見えにくさにすごいなぁと感心し、豊川稲荷に着いて車を降り、夜明けの薄暗がりで「ベレジー」を改めて眺め「なんてとんがったデザインだろう」と感動したものだった。

上富士前バス停でバスを待っていたら目の前に「ベレジー」が停まり、「思い出の中より実はゆるいデザインだったんだなあ」と思っている自分がいた。

コメント ( 16 ) | Trackback ( )

▼『一日に何度も』と毎年毎年

東京都豊島区駒込3丁目8番地。
住民が運営委員会(お庭クラブ運営委員会)を作って自主管理する
『私の庭・みんなの庭』。
鬱々とする母を誘い出しては散歩をし、
入口にある東屋で休憩をしてお茶を飲むのが楽しみだった。

その真正面に巨大マンションが完成した。



この庭をボランティアで支える住民は偉いなあと思う。

暖かくなったのでまたメダカを人造の小川に放し、
網を入れてとってはいけないと貼り紙がしてある。
毎年毎年こういうことを繰り返している。

とってはいけないと書いてもあってもとってしまうのが子どもであり、
そのいたちごっこに疲れることなく続ける力、
それは子どもが自由にメダカをとれるような場所をなくしてしまった
“概念としての現代人”という立場に立っての、胸の痛みなのだろう。

網を入れてメダカをとっている子どもに注意している住民を見たが、
「どうしてとっちゃいけないの?」
と唇を尖らせて聞く児童に
「そんなことも言われなきゃわからんのか!」
と頭ごなしに叱ったりはしていなかった。
善い大人たちの痛みによって支えられている小さな自然公園に敬意を表する。

コメント ( 9 ) | Trackback ( )

▼『遠い春』と一ツ木通り


東京都港区赤坂4丁目。
仕事で頻繁に訪れる出版社の向かいがコロンビアレコードで現在解体中である。
工事に関する表示板にコロンビアレコードの名前がないが、
再開発後のビルにコロンビアレコードは入るのだろうか。

何で気になるかというと、最近買ったポケットに入る文庫版の東京23区地図、
1万分の1(地図上の1cmが100メートル)の縮尺なので詳細な情報が面白く、
コロムビアレコード脇から「一ツ木通り」に下る細い坂を
「コロンビア通り」と言うのだ。

十数年足繁く通る道だが最近初めて知った。


撮影日: 2006.03.07 2:36:52 PM
KONICA MINOLTA
DiMAGE Z3

そのコロンビア通りに北西から下りてくる石段の坂があって「丹後坂」という。
米倉丹後守に因んで元禄年間に開かれた道だという。

北東側に丹後坂があるということは北東側が丘陵であるということになり、
「一ツ木通り」の南東がその丘陵に当たる。
要するに崖線なので開発しにくい場所なのだが、
最近久しぶりに本腰の入った大きなビルができた。
赤坂4丁目2番地になると思うのだがまだ「Googleマップ」には記載がない。


撮影日: 2006.03.07 2:41:03 PM
KONICA MINOLTA
DiMAGE Z3

老人や弱い者が座れる場所のある街や商店街は良い場所である。
「一ツ木通り」にようやく座れる場所ができたと思ったら、
もうちゃんと年寄りが座っていた。

一緒に座って「文庫版1万分の1東京23区地図」(昭文社)を眺めていたら
この界わいの細かい坂道にみんな坂の名が振ってあるのに気づいた。
町歩きガイドとしての需要を見込んだものだろうが、とても良い企画だと思う。

坂の名前というのはとても古いからであり、
坂の名を見ているだけで町の成り立ちがわかる。
清水静岡の市街地図に消えてしまった旧地名がこんなふうに
色つきの文字で添えてあったら楽しいだろうなと思う。

そういうのを「いいなぁ」と思う気持ちは、
年寄りの居場所がある街を良いと思うのと同根だと思う。

コメント ( 6 ) | Trackback ( )

▼元赤坂二丁目の三本木

東京都港区元赤坂二丁目。赤坂御用地のことを元赤坂二丁目という。

地下鉄半蔵門線を下りて青山ツインタワー地下から地上に出ると、
外苑東通りでよいのだろうか、
防衛施設庁脇、乃木希典旧宅跡を通って北上する道が
青山通り(国道246号)にぶつかるT字路があり、
そのぶつかった場所の赤坂御用地内に3本の針葉樹が植えられている。

T字路で信号待ちをするたびにひどく気になる「三本木」である。
カナダ大使館が斜め前なので、贈られた苗木をお手植えしたのかなあ、
と思ったこともある。


撮影日: 2006.03.02 3:35:39 PM
KONICA MINOLTA
DiMAGE Z3

青山ツインタワーが建つ際、あまりに高いビルを建てると
赤坂御用地内が丸見えになるので
2棟に分けて高さを半分に抑えたと聞いたことがある。

そう考えてみると、青山ツインタワー周辺のビルと赤坂御所を結ぶ線を
遮蔽するように「三本木」が植えられている気もし、
赤坂御用地内の池之端にある散歩道もまた「三本木」があることで
御用地内庭園側にいる人たちにとっての景観保護になっている気もする。

非常に効いている将棋のコマのような「三本木」である。

コメント ( 4 ) | Trackback ( )

▼『春一番』とレア者たち

インフルエンザで丸二日寝込んでいた時間は
今思えば極楽だったなあと思う。
 
駅のKioskで買って読み散らしていた雑誌を隅々まで読んだら、編集子の言葉として、
「眠い、今眠れるなら死んでもいい」
という言葉があって、わかるなあと笑ってしまう。
それはとても気持ちの良い死に方かもしれないと思う。
 
普段「(ああ、こんなものがあったらなあ)」と思ったり
「(みんな馬鹿なんだろうか、どうしてこういう商品を作らないんだろう)」と
腹が立ったりすることがある。

たとえば、誰でもパソコンのUSB差し込み口にマウスを装着し、
その結果としてUSB差し込み口が不足することが多いのだから、
USB端子のところに2つくらい空きのUSB差し込み口を
付けておいてくれればいいのに、などと思う。

またマウスというのはクリックしたりホイールを回したりすると
カチカチ、コリコリとうるさくて、
深夜年寄りのベッド近くでパソコンをいじっていると
難聴気味のくせにその音が気になると言う。
無音のマウスをどうしてつくらないんだろう(何で音なんか出すんだ馬鹿!)と思ったりする。



千代田区外神田一丁目。
『レアモノショップ・サンコー』というパソコンショップがあり、
雑誌の隅に小さく一色刷の広告を出しているのに気づき、
読んでみると何と「USB差し込み口つきマウス」も「無音マウス」もちゃんと売っているのである。

秋葉原に出たついでに行ってみたら、店は秋葉原駅のプラットホームからも見える、
かつてMacintoshで有名だった『イケショップ』が入っていたピルだった。

広告の商品を手に取って「この世に存在する」ことを確認したら
欲しくなくなっている自分に気づき、
「レアモノ」は「レア物」ではなく「レア者」でいたいという
願望に過ぎなかったのかも知れないな、と思う。

このBLOGに「5.1chサラウンド」について書き込みがあり、
そういうのを楽しむ時間の余裕はないなあと思っていたら、
なんと「5.1chサラウンドヘッドホン」という
ちょっといかがわしくも魅惑的な商品が売られていた。
「レア者」なのでかなり買おうか買うまいか迷っている。

コメント ( 4 ) | Trackback ( )

【三保造船所の進水式】

【三保造船所の進水式】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 3 月 6 日の日記再掲

1971(昭和 46 )年だと思う。三保造船所の進水式の写真を撮りに行ったことがある。

高校のブラスバンド部が招かれて進水式で演奏するのだといい、その晴れがましい姿を撮影してくれとブラスバンド部長に頼まれたのである。カメラにフィルムを詰め、写真部の腕章を腕に巻き、おっとり刀で駆けつけたらもう進水式は終わっていたというていたらくぶりだった。

■ 1971(昭和 46 )年静岡県清水市三保。進水式直後。船はもうどこかへ走り去ってしまっていた。
minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

生まれて初めて入る造船所内が楽しみで、実は進水式もブラスバンド部もどうでも良かったのである。

■ 1971(昭和 46 )年静岡県清水市三保。この舞台の上でシャンパンをわってもやい綱をとくセレモニーが行われた……のだろう。
minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

進水直後に駆けつけたのに新造船の影も形もないのが不思議で、沈没しちゃったのではないかと思ったほどだった。進水した船というのはそのまま港を出てさっさと回漕されて行くものなのだろうか。

■ 1971(昭和 46 )年静岡県清水市三保。この斜面を滑って新造船は進水していった……のだろう。
minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

あれこれ物珍しくてヘンな写真ばかり撮っていた造船所のネガを、今こうして見返してみるとやはり主役のいない進水式の写真というのは間が抜けている。

■ 1971(昭和 46 )年静岡県清水市三保。ブラスバンド部員記念撮影。
minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【イナンクル】

【イナンクル】
 
 

静岡県清水真砂町、1971(昭和46)年頃。
『ハトヤ豆店』の逆側(西側)に、昭和30年代後半カレー屋があって家族と時々寄った、と書き込みをいただいたので、同じ日に清水橋西側を撮影した写真を探してみた。


 
西側にはペプシコーラの看板がある店が1軒写っているのだけれど残念ながら昭和40年代ではカレー屋ではなさそうである。看板を拡大すると『イナンクル』と読める。



『イナンクル』とはアイヌ語で「幸せ」という意味である。
そして驚いたことに『イナンクル』の上に「さっぽろラーメン」と書いてある。
実は同じ頃の写真に新清水駅前の『どさん子』が写っている。
「清水にさっぽろラーメンの店ができた!」
と評判になり、僕も行列して生まれて初めて味噌ラーメンを食べた。

僕は清水で最初の「さっぽろラーメン」は『どさん子』だと思っていたが看板の古さから類推するに、清水のさっぽろラーメンは『イナンクル』の方が古いのではないだろうか。

友人の書き込みがあるまで気がつかなかった。
くやしい(笑)一度入ってみたかった……と地団駄を踏む。
『イナンクル』を経営されていた方の幸せを祈りたい。

 

コメント ( 3 ) | Trackback ( )

【ハトヤ豆店】

【ハトヤ豆店】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 3 月 5 日の日記再掲

人間のみならず、生き物はみんな凄い。そう思うことのひとつに身体的な欠損を補って生きていこうとする力があることだ。
 
幼いころ歯を抜かれると「(これは大変なことになった、今晩からご飯が食べられないんじゃないか)」と思ったりしたけれど、夕方になれば空腹感に負けて何とかご飯を食べ、翌朝になれば歯を抜かれたことを忘れていた。

記憶のみならず、歯茎や舌までが歯の欠損を次第に忘れようとでもしているかのように
「(なくしたものは仕方ない、あるもので工夫してやっていこう)」
と言っているような気がしたものだ。

そしてそういう身体の前向きな力を借りて半世紀以上生きてこられたのだと思うことも多いし、老いてなおも頑張って行こうという気力は、そういう自然な力の助けなしには考えられない。

身体的欠損を補おうとする身体の甲斐甲斐しさに対して、心の欠損を補おうとする心の働きは非常に心許ない。

「うーん、何かあんたに言おうと思ってたけど忘れちゃった。まあいいや、大切なことならまた思い出すでしょう」
などと母はよく言い、そのまま聞くことのなかった話の方が多い。自分もまた思い出せないことは頓着せずに放っておくことが多いし、そういう仕組みを利用してものを捨てたりもする。思い出せないものは忘れているんだから、あとで「(あれを捨てるんじゃなかったなぁ)」と思い出して悔やむこともないだろうという考え方である。

忘れるというありがたい心の力に助けられることもあるけれど、都合良くいい加減に利用しているずぼらな面も人間にはある。

静岡県清水真砂町。1971(昭和 46 )年頃。高校時代に撮影したネガをスキャンして拡大してみたらびっくりした。この『ハトヤ豆店』が存在したことを覚えていないからだ。

写真というのは大変な発明である。
写真を見て、これはあり得ない幻想を捏造したものだ、などと誰も思わないという条件の下で、まさに真を写したものだからである。

記憶にないのに「真を写した」と思わざるを得ない写真に遭遇し、それが自分で写したものだと事態は深刻である。

静岡県清水真砂町。
早朝の清水橋を徒歩で渡って撮影したりしたネガをスキャンしてみたら記憶にないものがたくさん写っていた。

清水橋下、『菓子の見城』さんの向かいに、「甘納豆・落花生」と大書した豆屋があったことを完全に忘れている。
「毎日マメデ暮しましょう」
というキャッチコピーも「まめったい」清水っ子らしくていいなあと思う。

甘納豆も落花生も大好きだったし、それより何より『ハトヤ豆店』という店の名前がすばらしく愛らしいのに、どうしてこの店のことを覚えていないのだろうと思うと、抜けてなくなった歯の場所を何十年もたって舌の先で探り当ててしまったように、気になって仕方がない。

静岡県清水真砂町。1971(昭和 46 )年頃。清水橋の下にはたくさんの人生があった。何とこの年にはまだ中華料理『らいみん』ではなく大衆食堂だったんだなあと感慨深い。食堂だった当時の店名が思い出せない。『吉野亭』だったような気もするけれど違うかも知れない。拡大しても文字が見えない。

電柱に「ヒデとロザンナ」と貼り紙があるのでヒデとロザンナがクラブ『ミンクス』に来たのかも知れない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

▼『東風吹かば』思い起こす昭和14年制作『六義園平面図』

六義園内に昭和14年制作のパンフレットが掲示されていた。

第二次世界大戦前のものである。

東京ドーム脇にある小石川後楽園内に主だった江戸時代の建造物は
ほんの僅かしか残って居らず、
それは第二次世界大戦の空襲で焼失したからである。



昭和14年制作『六義園平面図』には、
「桃の茶屋」「瀧見の茶屋」「吟花亭」「熱海ノ茶屋」「つつじノ茶屋」「蘆邊ノ茶屋」など
「跡」がつかない建造物が記入されている。
六義園も空襲で焼かれたのである。

で、不思議だなあと思うのは、文京区本駒込2丁目にある
『東洋文庫』は貴重なアジア史研究の資料があるため、
米軍が爆撃対象から外したため消失を免れたと聞いたことがあるが、
空襲で焼かれた六義園と東洋文庫は
10,000分の1の地図で1センチメートル、
たった100メートルしか離れていないのである。
米軍はそういう針の穴を通すような爆撃をしたということだろうか。

郷里の愛すべき山、竜爪山山頂にある竜爪神社は銅板葺きの屋根であり、
軍事用レーダーと間違えた米軍機が爆撃したというのだから、
それくらいのことはEasy job(朝飯前)だったのかもしれない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

【朝は嫌いですか?】

【朝は嫌いですか?】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 3 月 3 日の日記再掲

子どものころから朝が好きで日暮れは悲しい。
 
人は誰でも朝が好きで日暮れは悲しいに違いないとばかり思っていたけれど、日暮れが好きで朝が悲しいと感じる人が身近にいると知って驚いた。そして酒を飲んだりして打ち解けて話すうちに、同じように日暮れが好きで朝が悲しいと感じる人が世の中には当たり前に存在することを知った。

■ 1971(昭和 46 )年、秋頃。時刻は午前5時をちょっと回ったところ。あまり変わっていないような変わっているような……不思議な清水駅前。

minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

年上の友人である工業デザイナーなどは、仕事場の窓に夕暮れが忍び寄っているのに気づくと
「やった!やっと夜がくる!」
と喜ぶのである。そして朝は憂鬱で
「朝なんて来なければいいのに!」
と思うのだと言う。

■ 1971(昭和 46 )年、秋頃。この年には西友清水店がまだなかったことがわかる。

minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

断然朝が嬉しい。東の空が白み始めるとニワトリのように「東天紅~~!」と鳴きながら寝床を出て起きたくてたまらなくなるし、日暮れてくればカラスのように「カァ~~」と鳴いて山の古巣に帰り、さっさと寝たくなる。

■ 1971(昭和46)年、秋頃。始業前の清水駅前静鉄バスターミナル。

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

郷里静岡県清水。
息子を連れて故郷に帰り、市役所脇の飲食街に店をかまえて人生の大勝負に出た時、母は 36 歳だった。

店の二階で寝起きし、営業時間外でも客がガラス戸を叩けば(当時の清水は酒精依存症者が多かったと思う)スクランブル発進して店を開けた母は、どちらかといえば朝は憂鬱で日暮れに嬉々とする人であり、店を持つ以前は休日など雨戸を締め切ったアパートの部屋で昼近くまで寝ていたものだった。

■ 1971(昭和 46 )年、秋頃。時刻は午前5時半頃。

minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

深夜まで店を開けて商売をし、翌朝は昼近くまで寝ている暮らしは母の性分に合っていたのかも知れなくて、日暮れが嬉しい人は皆そういう仕事のし方が得意だ。フレックスタイムなどと言って昼近くに出社して夜間まで仕事をしている人も周りに多いが、彼らもまたそういうタイプかもしれない。

■ 1971(昭和 46 )年、秋頃。花菱デパートはもう完成している。屋上にモノレールと観覧車が見える。

minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

日暮れとともに定時で退社し、そのかわり翌朝は 3 時間早く出社する、などということは望むところであり、そういう会社がなかったので自分で興した。母もまた自分の店を持ちたいと思った背景には、逆の性格的な願望があったのかもしれない。

■ 1971(昭和 46 )年、秋頃。はっきり言って「ゴミ溜めの街」のような時代だった。それでも清水の町が好きだったし、清水で迎える朝はいつも希望に満ちていた。

minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【水溜まり礼賛】

【水溜まり礼賛】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 3 月 2 日の日記再掲

子どもの頃は雨が降ると必ず町じゅうが水溜まりだらけになった。

水溜まりができた時代が懐かしい……などと水溜まりの味方をするのは難しい。水溜まりは昔から大人たちの宿敵だったし、今でも水溜まりを快く思わない人が多いと思うのだ。

ある人にとっては時代の進歩から取り残された地域であることの腹立たしい証(あかし)であるかもしれないし、ある人にとっては商売の邪魔かもしれないし、何よりも水溜まりは「バリアフリー」じゃないからだ。

■ 1970(昭和 45 )年、三保。給水塔があった道。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

静岡県清水、大内田んぼの真ん中にあった祖父母の家の人びとが地域生活の頼みの綱にしていたのが土手の道や農道であり、それらの道は未舗装なので雨が降ると空が寝小便したようにおおきな水溜まりができた。
 
祖父や叔父は屋根の葺き替えを請け負った際に引き取ってきた古瓦を細かく砕いては手押し車で運んでいって水溜まりを埋めた。埋めても埋めてもまた水溜まりができることとのいたちごっこの中で、昔の人は本当によく働いた。

昭和三十年代、小学校を卒業するまで過ごした東京都北区王子は下町の工場地帯とはいえ立派な市街地だったけれど、それでも一歩裏通りにはいると未舗装の道ばかりだった。今のように路地に入っても舗装されているのが当たり前の時代にはもうできない、土の上だからこそできるいろいろな遊びもあった。

小学校を卒業し、生まれ故郷静岡県清水の中学に入学してまず驚いたことは、小学校も中学校も(清水市立第二中学と岡小学校の校庭はくっついていた)校庭が土だったことであり、生まれて初めて体育の授業を土の上で受けた。

■ 1970(昭和45)年、京都、たぶん知恩院。水に映っているのmは掛川から三保にあった私立高校まで通っていた友人。高校一年の秋、彼と二人で連休を利用して京都に遊びに行った。
minolta SRT101 Rokkor 58mm F1.4

東京の小学校や中学校はコンクリートの校庭で、しかも非常に水はけが悪いので雨上がりは校庭が水溜まりだらけになって体育の授業ができないことが多かった。それでも休み時間になると生徒は外に出て水溜まりで遊んだ。不思議なことに雨が降った翌日の水溜まりには、黒ゴマよりもっと小さなミズスマシのような虫がたくさん泳いでいるのだった。
 
どうして乾ききったコンクリートの上に一晩でできた水溜まり、その中に翌朝になるとミズスマシのような虫がたくさん泳いでいるのかは子ども時代から今に至るまで謎のままだけれど、富山県富山市で生まれ育った妻に聞いたら、やはり雨が降ると水溜まりにミズスマシのようなものが湧いてきて、捕まえて遊んだという。

■1970(昭和 45 )年、京都、たぶん東福寺。
minolta SRT101 Rokkor 21mm F4

水溜まりは天を映す鏡であり、不思議な生き物の受け皿である。
学校帰り、大きな水溜まりの前に立つと風が吹いてさざ波が水面を渡り、それは巨大な湖面のようであり、長靴で歩いて入っていくと、身体ごと水没してしまうのではないかと思うほどの錯覚があってくらくらした。

あの水溜まりだらけだった時代が懐かしいなあ、などと枯山水のような都市暮らしをしていると思うけれど、やはり水溜まり擁護の論陣を張るのは容易でない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )
« 前ページ