七軒町今昔

 清水駅で東海道線を下車し、駅前銀座、中央銀座、清水銀座を経て魚町稲荷方向へ歩くと、旧東海道が鈎型に曲がる角に接するかたちでできた十字路がある。その十字路を旧東海道ではなく左手大正橋方向に折れると、そのあたりを昔は七軒町と言った。その道は入江や浜田地区への近道であり、入江南町に生家があった頃は、わが母親もこの場所に来ると
「大正橋を渡って近道して帰ろうか」
と言ったもので、自分もまた入江方面に用事があって気が急くときは、この角を曲がり七軒町経由で大正橋を渡る。
 魚屋の友人がくれた資料に明治時代の地図があり、大正橋はその名の通り1917(大正6)年完成なのでまだ姿がない。だが、しずてつストア脇を通り、高良眼科前を通って、久保山靴店脇で再び旧東海道に交わることになるいまの道が、計画道路らしき矢印で書き込まれている。手元にある小冊子『江尻』を読み返してみたらやはりこの場所には渡し船があり、橋が架かる前から入江や浜田へ向かう近道になっていたという。

|清水銀座から七軒町方向へ折れる|2012年4月11日|

 「東海道を定めるに当り、徳川幕府は伝馬町通りを真っ直ぐにして、巴川を渡るようにすればよいものを、防衛の為鈎(かぎ)の手に志茂町に曲って造らせた為に、七軒町は短かな袋小路になり人家も少く、七軒位しかなかったので昔の人は七軒町と呼んだと思われる。
 この辺一体は永禄時代(注:江戸の前1558~1570年)かと思われるが、十字路付近までが入江で水を湛(たた)えていたり、また砂浜であって、甲州の人たち数戸が住み塩田を作り製塩をし甲州へ運んだという。
 江戸時代に描かれた東海道分間延絵図(注:とうかいどうぶんけんのべえず=幕府が東海道の状況を把握するため道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図)によれば、巴川の対岸にも川に面して小道があり、巴川を舟で渡って浜田方面へ行き来し、七間町(ママ)に渡船場があった。又隣接地巴町は昔は甲斐屋敷と言う小字が残されているので、年貢の甲斐米を富士川を下って運ばれ、その年貢米を米蔵に貯蔵し、多くの管理する人達が住んでいたと思われる。」(江尻まちづくり推進委員会『江尻』より。注:筆者である武川桃華氏は1905(明治38)—1982(昭和57)年旧江尻町志茂町の人)

|水神社前を通って大正橋へ|2012年4月11日|

 子どもの頃、稚児橋たもとに貸しボートがあったのを憶えており、そんな話を母親にしたら大正橋のところにもあったと言う。江尻で古くからある写真館の友人に質問したら、
「金田食堂の所から川面に降り、板が渡してあって3艇ほどボートがあって、母は弟と乗ったことがあるそうです。これは60年くらい前の話。50年前には父母がその辺りをデートで散歩していたそうですが、その頃にはもうなかったそうです。巴川がまだきれいだった頃の話です。塩製造所は伝馬町の通りにあったスーパー『主婦の店』があった場所にあったそうです。今は駐車場ですが、ここはいろいろと変わっていて、近くの雑貨店の作業所だったり、なんとローラースケート場だったり、昔話っておもしろいですね」
という答えが返ってきた。

|明治22年頃のものと思われる地図の七軒町あたり|

 「昔江尻が三日市場と呼ばれている頃は、稚児橋付近は湊であり、荷物を運ぶ大きな船や、漁をする小舟がたくさん集まっていたので、その船主や船頭達の海路の安全や、巴川の氾濫が無い事を祈願する為、いつの間にか住んでいる人達が相談して、お水神さんを建てたと思われる……嘉永二年(注:1849年)再建と伝わっている。
 祭神は水速女神(注:みずはやめのかみ。『古事記』では弥都波能売神=みづはのめのかみ)で、明治十二年村社に列せられ、毎年五月十五日に祭礼を行っている。
 この横に大正六年六月大正橋が巴川に架けられ、江尻から清水方面に行き来するのに便利になり、七軒町の人通りも多くなった。
 昭和七年頃は巴川は水もきれいで橋の上は釣人で賑わって、特によく釣れるものはハゼが多く、十糎(注:センチメートル)から時には二十糎近い大物も釣れ、東京方面の人達にも巴川のハゼはつくだにに最もよいと言われた程である。又鮒も良く取れた。又投網(とあみ)で八十糎位の鯉も取れた事もある。
 夏は潮が満ると大正橋近くは水も深く、橋の上より飛びこんで子供達の水泳場となっていた。」(江尻まちづくり推進委員会『江尻』より)

 子どもの頃から水泳が苦手だったせいか、橋の上から巴川に飛び込まなくてはいけないとしたら、いちばん怖いのが大正橋だった。蛇行した川からまっすぐな近代河川へと改修された巴川も、稚児橋から下流はほぼ昔のままであり、南東から真南へと方角を変える場所である大正橋あたりでは、多くの河川がそうであるように内周の金田食堂側の川底が深くえぐられ、外周の七間町側は砂地の河原だったということなのだろう。
 そんなわけで、近道ゆえに渡った回数が最も多いのが大正橋なので、たくさんの想い出がこびりついてもいて、渡りながら川面を見下ろすとちょっと背中のあたりがゾクッとする。

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鈴木三重吉とかえるのはばとび

 児童文芸誌『赤い鳥』を創刊し、児童文学の父と言われる鈴木三重吉の『綴方読本』が静岡市立清水小学校の歴史資料館にあった。鈴木三重吉は1936(昭和11)年6月に肺がんで亡くなっているので、その前年に刊行された本ということになる。

 パラパラとめくっていたら富山県の女子が書いた「かへるのはゞとび」という作文があって微笑ましい。カエルの幅跳びというと、小学校時代にキャラメルの内箱でこしらえたカエルが、指で跳ばしてどれくらい進むかを競って遊んだ想い出があるけれど、当時は本物のカエルを使って授業の中で幅跳び競争をやったらしい。
 女子はカエルを捉まえるのが嫌だと言うので、男女六人のチームを作り、男子に捉まえる役を担わせるわけで、中学時代に授業でやったカエルの解剖を思い出した。男子にも解剖はおろか、捉まえてくるのでさえ嫌な子どももいるはずだけれど、嫌々ではあっても男女混合の組を作らされると、作文中の男子のように「おゝ。」などと二つ返事で男らしいところを見せようとするのが面白い。

|鈴木三重吉編『綴方読本』|2012年4月11日|

 「ひつとこまえて」は標準語で言えば「ひっつかまえて」であり、富山出身の家内に聞いたら富山市内生まれの彼女は「ひつとこまえて」という言葉遣いを知らず、富山も地域ごとにずいぶん言葉の差があるという。清水でわざと(はだって)訛って言うなら「ひっつかみゃある」であり、文中の「ひつとこます」は「ひっつかます」になり、捉まえられないは「ひっつかませえない(ひっつかめえない)」になる。
 方言で書かれた文章というのは意味内容とは別の力によって不思議な伝わり方をするもので、雑誌編集委員をしていると方言で書かれた「部分」に反応した読者カードをときおり見かける。「女の人はかへるをひつとこますが、やよいうてをられます」という冒頭の部分を読んだだけで、方言には生まれ育った地域差を超えて読者を引き込む力があるものだなあと思う。感心しているうちに呼び出しがかかり、慌てて本を閉じたので鈴木三重吉がこの作文にどんな選評を加えていたかは読み損ねた。

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花の終わりの平日帰省

 自由業なので仕事の段取りさえしておけば、世間の人びとが働いている平日に休むこともできる。いっぽう会社勤めしている人間はどうかというと、もともと有給休暇はあるし、ばれなければ一日くらい仮病を使って休むこともできるのだけれど、難しいのが個人商店主で、とくに生鮮食品を扱う業種の場合、定休日以外勝手気ままに休みにするのは仕入れの都合上難しいし、購入をあてにしていてれるお客様のことを考えると、臨時休業するのは二重に難しい。
 郷土史好きの友人である魚屋に頼み事があるので、定休日の水曜日に日帰り帰省した。午前中、世話になっている珈琲店に寄って頼まれ事の打ち合わせをし、魚屋が歴史資料館ボランティアをしている市立清水小学校に立ち寄った。
 会議終了を待って、雨の中ふたりで入江町まで歩いた。最近調べているという郷土の歴史について、実際の場所を歩きながら説明を受け、旧東海道沿いにある元布団店に立ち寄って、お父さんと歓談しながら先程見てきたことの裏をとり、ゆかいな脱線に次ぐ脱線で昔話をうかがった。

|『春ちゃん』コンサートの記事|シミズ毎日2012年4月1日号|

 18時から大手のハウジング森で、盲目のギタリスト服部こうじさんと『春ちゃんバンド』のコンサートがあるというので森美佐枝宅に久しぶりに寄ってみた。巴川にかかる稚児橋を渡っていたら、上流から桜の花びらが延々と連なって流れてきて、桜のころは毎年こうだったなと懐かしく思い出した。

|稚児橋から眺める巴川上流|2012年4月11日|

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【保蟹寺と赤地原】

【保蟹寺と赤地原】

 清水区大内にある曹洞宗保蟹寺(ほうかいじ)に墓参りし、帰り際にそこが「急傾斜地崩壊危険区域」であることを示す表示板を見たら「大内赤地原」と大書してあり、はじめて小字が赤地原であることに気づいた。そういえば寺のまわりの畑や、山肌で土が掘り返された部分は赤土が見えており、記憶を広範囲に広げてみれば、かつて北街道拡幅工事に使うため土を大量採取された鳥坂山ノ鼻では長いこと赤い斜面が露出したままだったし、いまでも盛んに山を切り崩して土の採取をしている県営押切西団地近くでも赤い地盤が露出している。この山塊は太古に降り積もった灰色の火山噴出物が堆積したものが隆起し、含まれる鉄分が酸化して赤土になったのだろう。

|「大内赤地原」と書かれた表示板|2012年3月30日|

 赤土は粘土が低いので流れ出してしまうと固まりにくい。航空写真を見ると、かつて「嫁殺しの田んぼ」と呼ばれるほど深く湿った泥地だった大内村で、生活に適したほんの僅かに高い土地はすべて、北の帆掛山から流れ出る天白沢、観音沢、薬師沢が赤い土を押し出してつくった扇状地だったことがわかる。中でも大内観音下の観音沢はやや水量が多く、子どもの頃は天井川となって家の屋根より土手が高くて、北街道も花立(大内観音入口)あたりでかなりの勾配をのぼって越えていた。薬師沢がつくった小さな扇状地が赤地原なのであり、そのうえに保蟹寺が立っている。

|保蟹寺脇の畑|2012年3月30日|

 保蟹寺の裏山を「薬師平」という。塩田川尻、旧北街道に沿いにまつってあった薬師さんがここに移され、後、慶長十二年(約三七〇年前)保蟹寺が建立されると、本尊として迎えられた。「薬師平」は、「道正のうち」寺田さんの持ち山で、いまも礎石らしい石がある。薬師さんをまつってあった山というので「薬師平」と呼ばれるようになり、その辺の水を集めて流れ出る川だというので薬師沢の名がついた。以前は小字「堤下」への田んぼに流れ散って終わっていた。この「堤下」という名から考えるとその上に堤があったと思われる。遠い昔、薬師沢の水を流し入れて堤とし、開墾してつくった田んぼの用水にしていたのではなかろうか。(「続高部のあゆみ その一 わがまち 思いでばなし」高部まちづくりの会・非売品・昭和五十八年発行より)

|撮影地点|2012年3月30日|

 かつて広大な低湿地だった清水の平野部を蛇行して流れていた巴川に対して、北から南に帆掛山から流れ出す水が扇状地をつくり、南の有度山塊から北に向かって流れ出る川もまた扇状地をつくった。有度山麓には小鹿原、池田原、谷田原、草薙原、上原など「原」のつく地名が数多く残っている。土地の起伏がわかりにくい清水平野だけれど、「原」のつく地名を探すと、土地の成り立ちと微妙な高低が見えてくる。保蟹寺で墓参りを終えて振り返ると、ほんの僅か、ちょっと背伸びをしてみるくらいだけれど清水平野を見下ろす高みに登っていたことがわかり、寺が創建された頃は、一面の田んぼと巴川が見えていたのだろう。

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悪寒と花冷え

 4月7日土曜日は老人ホームの義母に面会に行った。
 面会を終えて帰宅する途中、花冷えの町を歩きながら寒気がして体調が悪くなり、帰宅して夕食をとり、布団に入って泥のように眠りたいはずなのに、夜中になんども目がさめた。
 熱があって身体が暑いのか、布団をはねのけて手足を出してしまい、そうすると悪寒がするので慌てて手足を引っ込めて布団をかぶる、ということをなんども繰り返した。
 悪寒がするほど不調の時は決まってよく似た夢を見る。
 昨夜はコンピュータで見事な絵を描き上げた夢を見て、我ながら素晴らしいできばえだと感動しつつも、残念ながらこれは夢だという認識があり、夢の中で覚醒しているもうひとりの自分がいる。とはいえ夢とはわかっているのに、この夢はどうしてこんなにリアルなんだろう、ひょっとしたらプリントアウトくらいできるかもしれないと試してみたら印刷不能。それならば PDF で保存しようと試みるも保存不能。かくなる上は画面のキャプチャを撮ろうと思いキーボードのショートカットを押したけれど、起きてみたらどこにも保存されていなかった。

|義母が昼食中の集会室窓際にある桜|2012年4月7日|

 悪寒がするほど熱があるときは決まって夢を見ている自分と、夢だとわかって状況を観察している自分が現れる。戦前生まれの母は病気をすると、
「夢の中に大きな川があってね、死んだはずの人が向こう岸からこっちへ来いと手招きするの。本当は行きたいんだけど、向こうに行ったら帰って来られない気がして、困ったな、どうしたらいいんだろうと思っているうちに、ああこれは夢だと気づいたので帰って来ちゃった。あれが三途の川だったのかもしれないね。向こう側に行ったらお母さん死んであんたはひとりぼっちになってたよ」
などと、同じような夢の話を息子になんども聞かせたものだった。
 心身の調子が悪く「暑いのに寒い」「眠っているのに起きている」などとといった矛盾した状態にあるとき、人が見る夢は壊れてしまった人形が見るように、異様で悲しい滑稽さに彩られている。老いにより心身の調子が悪くなってしまった義母は、寝ているのか起きているのかわからないように見える日々の暮らしの中で、そんな異様で悲しく滑稽な夢を見続けているのかもしれない。

|四月十五日日曜日は家族も一緒にここでお花見弁当を食べる|2012年4月7日|

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