▼銀座の足柄

東京都中央区銀座2丁目。
昭和通り裏通り『タイガー食堂』からちょっと南に歩くと1丁目から2丁目に変わり、
その角に『足柄木材』という材木店がある。
「足柄」が名字なのか地名なのかはわからないが、
やっぱり坂田金時の足柄山を思い出してしまう。


    撮影日: 06.4.28 0:22:00 PM
    RICOH
    Caplio GX
    露出時間:1/217
    F値: 4.7

地名というのは面白いもので、神奈川県出身者は
やっぱり「足柄」という文字を見ただけで
懐かしいふるさとの山々を思い出してしまうのではないだろうか。

僕は巨人ファンではないのだけれど、
義父のつきあいをしながらナイター中継を見ていて、
「清水隆行」選手が登場するとついつい「清水銀行」と読めてしまい、
思わず貯金したくなる……ということはないが、
「清水打てっ!」と応援したくなる。

なんとなく銀座の裏通りの材木店前を通るたびに
故郷を懐かしんでいる足柄出身者がいそうな気がする。

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【中河内で考えたこと 3 】

【中河内で考えたこと 3 】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 4 月 26 日の日記再掲

 

昭和三十年代前半、東京静岡間の東海道本線沿線に限らず、おそらく日本中どこへ行っても、列車が町場を離れると車窓にはうんざりするほどに田畑が広がっていた。東京駅を出て大船駅にさしかかるちょっと前から山側の車窓には田畑が広がり、田舎へと向かっているのだというワクワクする気持ちの一方で、行けども行けども続く田畑を見てかみ殺してもかみ殺しても出てくるあくびがあった。

静岡県清水で明治生まれの祖父は、「都会の人」とは言わずに「町場の衆」と言っていた。町場は「まちば」と読み広辞苑第五版には載っているけれど ATOK の辞書には収録されていない。「人家・商家の多い地区。市街地。都会。」と広辞苑にはあり、祖父が暮らす大内地区に対して清水市街地は町場であり、祖父は自転車にまたがると「役場に行く」とか「町場に行く」と言っていた。散髪に行くことを「床場(とこば)に行く」と言ったし、営んでいた瓦工場では土をいじる作業場を「しょくば(職場?)」乾燥させた瓦を焼く窯のある建物を「かまば(窯場)」と呼び「今日は窯焚きの準備があるんて窯場へと行く」などと言っていた。というわけで自分には「場」と書くと「農地」とか「住宅地」とか「商業地」とか書くのとはちょっと違う世界が心の中にある。

■静岡県清水中河内にて。こういう計算機とか早見盤が好きで、母の引き出しにある複雑な洋裁用のそれを飽かずに眺めていた。
RICOH Caplio GX 

■静岡県清水中河内にて。何だろうと首をかしげていたらタケノコ掘り会の幹事をつとめてくれた友人がすかさず教えてくれた。テンプレートの原点であり、タイポグラフィーの美しさに驚嘆する。
RICOH Caplio GX 

昭和三十年代の車窓から見た田畑には驚くほど農作業小屋が多かった。機械化が進む以前の農作業にはたくさんの道具が必要で、道具の中には重い丸太なども多かったので、田畑の真ん中に収納しておく小屋が必要だったのだろう。
 
祖父母の家に預けられると田畑を遊び場にすることが多く、人気(ひとけ)のない農作業小屋をのぞくのがちょっと薄気味悪く、実は薄気味悪いことへの好奇心もあって、暗がりと黴臭い匂いが妙にドキドキして好きだった。子どもの知識では用途不明の道具もあって、これは何に使うのだろうと首をかしげることが多かった。

農作業小屋に限らず、祖父の瓦工場にも用途不明な道具がたくさん置かれている場所があったし、近所で大工の入っている家があると大工が帰った後の作業場に忍び込むのが楽しかったりし、大人が仕事に使う用途不明な道具というのは子どもにとってたとえようもなくおもしろいものだった。それは子どもにとっての用途不明が大人にとっては実用だったからだろう。

そういうおもしろさのある場所でもっとも身近にあったのは、母親の裁縫箱や、足踏みミシンの引き出しの中だったのだと思う。そして大人になり、中年になった今でも、やはり他人には実用なのに自分には用途不明なものを見つけるとワクワクしてうれしいのは変わらない。

■静岡県清水中河内にて。この辺りは、各農家の敷地内に先祖代々の墓がある。
RICOH Caplio GX 

■静岡県清水中河内にて。裏山の斜面に植えられた木。枝振りが面白いが何の木なのだろう。
RICOH Caplio GX 

他人の家にお邪魔をし、他人の家の敷地内を歩き回り、他人が実用に使う道具を見つけて手にとって、
「これは何に使うんですか?」
と質問している大人の姿は、永遠の子どもの喜びで輝いている。

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【中河内で考えたこと 2 】

【中河内で考えたこと 2 】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 4 月 25 日の日記再掲

興津駅から両河内まで歩いて海と山の距離感を確かめてみたいと思っていたのだけれど、雨降りだったので後日改めて、ということにした。だが道順に関して思い違いもあったことが車の助手席に座ってみてわかったのでそれで良かった。

ずいぶん山奥に来たと秘境気分に浸っていたら突然巨大建造物が現れ、第二東名高速道路の建設現場だった。庵原川上流の建設現場は清水市街地からもよく見えるのだけれど、その北東側の興津川上流ではこんな工事がなされていたのだ。

■第二東名高速道路工事現場。
RICOH Caplio GX 

■住所は清水小河内(こごうち)あたりになるのだろうか。
RICOH Caplio GX 

新幹線や高速道路から車窓風景を見ていると、山間(やまあい)の奥まった場所まで丹念に耕作された農地があり、ここまで来るのさえ大変だろうに、よく切り開いて維持しているなぁと感心する。

そういう辺鄙な場所に先祖代々かけて広げてきた農地があったのが、新幹線や高速道路建設に伴う高架工事で分断され、小さな三角のたんぼになってしまっていたりし、それでも春になったら水が張られ、苗が植えられ、秋に通りかかったら刈り取られた跡になっていて、しみじみ胸に染みるような一年間のお百姓の営みを見る。

ものすごく辺鄙だった場所に新幹線や高速道路が通るということはその場所がひらけたように言葉の上からは感じるけれど、新幹線や高速道路から直接三角のたんぼに降りられる訳でもなく、やはり里から小一時間もかけて農作業に来るような場所だったりする。新幹線や高速道路から眺める小さな農地と、小さな農地までやってきて見上げる新幹線や高速道路では表裏といえるほどに異なった様相を見るわけで、そこでは近代と辺鄙が強引に癒着している。

数少ない海外旅行体験で真冬のパリに向かった際、凍てついた窓から眼下に延々続くシベリアの凍土を眺めていたら、目をこらすと道路や建物が見え、あの氷点下の世界に暮らす人がいて、その上空を暖房の効き過ぎた機内でうんざりするような量の機内食を食べながら通過しているのだなぁと思うとひどく異様に感じたが、ただ通過するだけの高速輸送機関から三角のたんぼを眺めることでわき上がる感慨も、そういう異様さに似ている。

興津川上流、この場所にもまた近代と辺鄙の異様な癒着部分が出現する。

■清水中河内。友人宅の二階から眺める山々。
NIKON COOLPIX S4

■清水中河内。友人宅の二階から眺める町場へ続く道。
NIKON COOLPIX S4

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【東海道本線根府川駅のこと】

【東海道本線根府川駅のこと】

幼いころの東京・清水間の行き帰りで胸躍るような車窓風景のひとつに根府川駅付近の風景があった。
 
海側の席に座り窓の下を見ていると、鉄橋を渡る際は眼下に相模湾の波打ち際までの目も眩むような絶景が見えた。
 
最近は鉄橋に金属フェンスが張られて興趣がそがれたが、餘部鉄橋の列車転落事故などもあって暴風対策なのだという。

RICOH Caplio GX

大好きな根府川駅について調べていて初めて知ったのだが、なんと関東大震災の時、根府川駅に入線しようとしていた列車がホームごと海に転落し、乗客と駅員など125名の方が亡くなられたのだという。
 
今でも眼下の海中には当時のホームがそのまま横たわっているといい、そんな話を聞いて眺める根府川駅の絶景はなおさら感慨深い。

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【中河内で考えたこと】

【中河内で考えたこと】
 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 4 月 24 日の日記再掲

清水中河内在住の友人の山で行われたタケノコ掘りに日帰りで行ってきた。

前もって下見をした友人のメールに
「たまに行くなら、まさに楽園です」
とあり、実際に行ってみたらまさに楽園そのものだった。

カスミを食べて生きられない人間は、住まいと定めた土地で否が応でも市場経済社会の歯車となって「暮らし」を成り立たせなければならないわけで、そこがどんなに好きであっても自分が暮らす場所を「楽園」と思いこむのはなかなか困難であり、それは海でも山でも都会でも田舎でもかわりはない。

ある場所が「楽園」であるためには「たまに」が条件として欠かせないのかもしれない。「たまに」感じる「楽園」がいつも身近にあることを希望するなら、海に限りなく近い山、山に限りなく近い海、田舎に限りなく近い町場、町場に限りなく近い田舎を、自在に行き来できる土地こそが広い視野でとらえれば楽園であり、郷里清水は限りなく楽園に近い場所だと思うことが多い。

■タケノコ掘りの間は雨らしい雨も降らずに済んだ。午後になって雨脚の強まった山。
NIKON COOLPIX S4

■背筋がしゃんと伸びるような、手入れされた竹林。
RICOH Caplio GX 

海辺の駅から 30 分もたたないうちに山峡の集落に着いてしまい、さらにフォッサマグナに沿って北上して山越えしようにも自動車の通れる道はない。「山懐に抱かれる」という感覚ほど「たまに」訪れた人の心を癒すものはないかも知れない。

かごを背負って山に入り、タケノコ掘りをするのは大変な作業だ。大変な作業なので、掘り手が年老いて掘れなくなると竹林は荒れ放題になり、美味しいタケノコも採れなくなり、そういう竹林はこの季節でも緑ではなく黄色く見えるのですぐにわかるという。

渓流に架けられた吊り橋を渡り、急峻な山道を登ると、道の脇に生えたタケノコを掘って食い散らかした跡があり、それらはイノシシの仕業だという。イノシシでも食べきれないほどのタケノコが毎日次々に顔を出し、それらを「掘らなくてはいけない」ので、先日もお父さんと二人で 170 キロも掘り、背中に背負って何度も山を上り下りしたという。

■竹林に顔を出したタケノコ。両河内のタケノコは柔らかい(みるい)ので、かなり地上に伸びてしまったものでも食べやすいという。
RICOH Caplio GX 

■タケノコ掘りを終え、タケノコを入れた袋を引きずり、疲れた足取りで吊り橋を渡る友人。
RICOH Caplio GX 

堀りたてのタケノコの皮をむき、屋外で薪をくべながら釜ゆでし、手作りの山菜料理をいただきながら、山の向こうの山梨側から毎年タケノコ掘りに来られる家族が手みやげに持ってきたワインを飲み、「たまに」の有り難みを満喫させてくれる友人が営む「山の暮らし」に感謝する。

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▼カメと引きこもり

未明に地震があった。先日新潟が揺れたら今朝は静岡が揺れた。
 
午前中の東京地方は相変わらず不安定な天候だったが
午後になったら風は強いものの見事に晴れ渡ったので
六義園内を少し歩いてみる。
まぶしい日射しを待ちかねたようにカメが甲羅を干している。

ねえお義母さん、空いた岩を奪い合ってカメたちは必死でしょう?
寄生虫を駆除したり消毒をしないと死んでしまうからなんだけど、
それだけじゃなくて動物というのはカメだって人間だって
口から取り入れた食べ物からカルシウムを吸収して
骨にするためにはビタミンDが必要なんだよ。
で、そのビタミンDは紫外線に当たらないと
体内に生成されないんだよ。ねぇわかる?



……引きこもりがちで骨粗鬆症気味だといわれる義母に
天気の良い日は少し散歩でもしなくてはいけない、
少しはカメを見習いなさいと言っているのだけれど、
なかなかその気にさせることができない。

「お義母さん、ねえ、聞いてるの?お義母さんっ!!」
と怒鳴ったらイスに座ったままの義母をドーンと
後ろに倒してしまう夢を見てびっくりして目が覚めた。

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【しもふり銀座の両河内】

【しもふり銀座の両河内】

駒込駅至近の商店街しもふり銀座・染井銀座は巣鴨の青果市場が近いせいか、やたら八百屋が多くて、そうでなくても八百屋が多い中に、安売りの八百屋が店を出して競争が激しい。
競争の激しさが消費者にはわざわざ足を運びたくなる動機になっている。



どの店にもタケノコが出てきて、どの店のタケノコにも「静岡県産」と書かれており、静岡県産ならきっと清水のタケノコではないかと思ったりする。



僕が子どもの頃からしもふり銀座にあり、大学時代に帰りに寄ると、常連のおばあちゃんが「ちょいと学生さん、タマネギ半分ずつ買わない?」と声をかけられることが多かった老舗八百屋店頭にも旬のタケノコが並び「両河内」と明記してあった。

やっぱりね(笑)

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▼輸送経路

鉄道や高速道路網というのは電波にして空中を運べないものを
輸送する通路として便利なのだろうと思うし、
線路脇や道路脇もしくはその下には
たくさんの伝達経路が敷設されているんだろうな、
とは想像していたけれど、ガード下に露出した場所で改めて眺めたら
すごい量だなぁとびっくりする。

  ▲秋葉原駅ガード下にて。

昨日変なメールがスパムフィルタをくぐり抜けて届き、
Macintoshのメールソフトではタイトルが文字化けしていたが、
Windowsのメールソフトでは「てすとめーるタイトル」というタイトルになっていた。
そしてMacintoshでは本文が空っぽだったが、
Windowsで受信してみると「てすとめーる本文」という文字が
3行繰り返されて入力されており、送信者は僕自身!になっていた。

誰かが僕のメールサーバーから僕になりすましてメール送信できるかの
テストをしたのかなぁと思い、なんだか気味が悪いので、
長年使ってきたメールアドレスを変更しようかと思ったのだけれど、
世話人をしているメーリングリストの管理人をしているので
ログインに使われるアドレスを変更すると
管理のできる者がいなくなってまずいんじゃないか思いとどまった。

だけど気味が悪い。けれどアドレス変更は
思いがけない新たなやっかいごとを産みそうな気もする。
他人に迷惑がかかると嫌だしなぁ、どうしよう……。

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▼秋葉原・とんかつの『丸五』

東京都千代田区外神田1-8-14。
秋葉原とんかつの名店『丸五』が建て替えられていてびっくり。

「(えっ!秋葉原電気街の真ん中にこんな昔ながらのお店が!)」
と思わず足が止まり、そのまま大好きになってしまった
懐かしい店のたたずまいはもうない。


撮影日: 06.4.15 11:02:28 AM
SONY
DSC-T1
露出時間:10/2000
F値: 3.5

古びていく民家や店舗というのは、他人が外部から見れば、
この古さこそがいいのだからいつまでもこのままでいて欲しい、
などと思ったりするけれど、
中に住んでいる人や商売をしている人たちは
日に日に老朽化していく住まいや店をだましだまし使っているわけで、
ましてや狭い敷地いっぱいに建っていれば、
他人から見たら素っ気ない姿になっても
建て替えなくてはならない日が必ず来るのだろう。


撮影日: 01.8.3 5:05:44 PM
FUJIFILM
FinePix4700Z
F値: 2.8

ここはひとつ
「長いことありがとう。本当にご苦労さまでした」
と懐かしい思い出の店舗にお別れをし、
「これからもがんばってくださいねと」
お店の方をねぎらうべきだろう。

4月15日土曜日。
妻が使う新しい液晶モニタを調達しに秋葉原に出たので
正午前に新店舗に入ってみたが、
花束がいっぱいの店内に、行儀の良いパソコンおたく達が
すでにぎっしりと並んで携帯をいじっていた。

人気は昔と変わらないことにほっとし、
若者の間に割り込んで変わらぬ味のトンカツを食べる。
なぜかこの店に来る若いパソコンおたく達は
ソースをとってくれたりして親切である。

店の前の「止まれ」の文字は
5年前には「とまれ」だったことに気づいたりする。

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▼環七

東京の小学校を卒業する前に東京の環状7号線は部分開通していた。
そして環状7号線が開通したついでに、
小学校脇の大通りが放射10号線であることを教わったのである。

世田谷区喜多見に住んでいた叔父が
マツダキャロルという軽自動車を運転して迎えにきて、
「北区から世田谷区まであっと言う間に着いちゃうぞ!」
と言い、本当にあっと言う間に着いてびっくりした。

【写真】東京都豊玉北三丁目。環状7号線豊玉陸橋。
撮影日: 06.4.14 2:30:30 PM
SONY
DSC-T1
露出時間:10/2500
F値: 3.5

まるで北区と世田谷区が四次元通路で結ばれたようで感動したが、
あっと言う間に自動車が世の中に溢れてしまったので、
今はもう三次元通路に戻ってしまい、
北区から世田谷区まであっと言う間に着いちゃうことはできない。

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▼サークルゲーム

仕事で練馬区豊玉の出版社へ。

バイク便を手配したら受付の若い女性が、
「お届けはネリマクホウギョクの……」
と非常にユニークな読み方を披露してくれた地名だが、
確か豊島と多摩を折衷にした安直な由来の地名だったと記憶している。



西武池袋線桜台駅前のどこにでもある桜の街路樹がある風景。

静岡県清水で中学・高校時代を過ごし、
大学生活を終えて社会人になり、
晴れて自腹で飲食できるようになって東の東京下町に繰り出したら、
幼い頃の思い出の町並みがハイカラになっていてビックリした。
一方山手線の輪から西の郊外に向かう中央線や私鉄沿線の
駅周辺が古びていてビックリした。

かつて山の手と呼ばれた地域が、
第二山の手、第三山の手などと呼ばれて西の武蔵野原へ延びていき、
東からだんだん古びて下町化していったのだと思う。

この西武線もそうだが、私鉄沿線の古びた町並みは
郷里静岡の新清水と新静岡を結ぶ
静鉄の各駅前に自転車預かり所があった時代のような
懐かしくもやるせない情緒が横溢している。

やがて古びたやるせなさに耐えかねて再開発の手がつけられ、
また東から西へとハイカラ化の波が伝播していくのだろう。



環状七号線豊玉陸橋脇の住宅展示場。
ここもできてからずいぶん経つなあと眺めていたら
松井秀喜が説明に出てきており、
「築10年のミサワホームをぜひご覧ください」
と書かれた札を持っていた。

10年経ってもこんなに綺麗ですよ、といいたいのだろうが
時の流れではなく人の生活のやるせなさが
家を古びさせていくわけで、
モデルハウスはサークルゲームとしてはルール違反である。

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【一分団】

【一分団】

清水暮らしが長い人は場所を他人に伝えるのに「○分団の脇を入って行って右っかたにある家だんてすぐにわかるよ」などと土地勘のないものにはすぐにわからない言い方をし、我が母もそういう人だった。

中学校への通学路に八分団があったので「八分団」だけは僕にとっても清水の良い目印になっているのだけれど、その他の分団の場所は知らないし、いったい数字のつく分団がいくつあるのかもわからない。


日の暮れない夜道を歩いていたら真っ赤な明かりが路上に漏れているので、近寄ってみたら「清水消防団第一分団」だった。

「一分団のある通りの左っかたに…」という言い方で通じる人たちがこの地域にはいるのだろう。

一分団がわかったので八分団と併せて僕にとって二つめの目印である。

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春風亭昇太と王子

郷里清水の花菱百貨店の思い出を心に浮かべて歩いていたら、
王子駅脇で鉄道高架をくぐるトンネル内に
「北とぴあ」ツツジホールで6月23日に開かれる
区民寄席「きたくなるまち区民寄席」のチラシが貼られており、
郷里清水出身の落語家春風亭昇太の名があって嬉しくなる。
「よっ!!」



同郷人というのは面白いもので、
どうしても視線が歌丸さんより昇太の方に行ってしまう。
目を閉じてチラシを思い浮かべると昇太の顔写真の方が大きい。

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▼マルサンデパート



元国会議員の八代英太さんに
著書の装丁を依頼されたので会いに北区王子の事務所に行った。

郷里静岡県清水の花菱百貨店の建物が取り壊されることにしんみりし、
我が町にデパートと名の付くものができることが
都会の証のような気がして誇らしかった子ども時代があった。

北区王子にも「マルサンデパート」という小さなデパートができ、
とても嬉しかったし、僕は確かシャッターに絵を描かせてもらったと思う。

八代さんの事務所こそがマルサンデパートだったのではないかと思い、
打ち合わせを終え、通りに出て、ビルを眺めて
女性編集者にそんな話しをしたら
「そうだよ、マルサンってうっすら見えるじゃない」
と言い、ずいぶん小さなデパートだと笑われたらちょっとしんみりした。



母は王子にデパートができたと大喜びし、
僕は王子にエスカレーターがやってきたことに大喜びし、
母は真っ白な電気冷蔵庫!……は買えないので
ホテルにある小型冷蔵庫のようなデザインの
氷を入れて冷やす冷蔵庫を買ったのだった。

庶民の夢が貧しく小さかった
昭和30年代のことをふと思い出した。

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▼飛鳥山

飛鳥山公園の桜はまだ残っていた。
今は博物館がたくさんある公園だけれど、
僕が小学生の頃は大きな野球グランドがあって、
申し込むと野球をすることができた。



「この駅前は、飛鳥山をめぐっておりてくる市電と、三河島の方から工場町を抜けてくる王子電車とが落合うところなので、焼鳥屋の屋台が並んでいる。」

と、佐多稲子『私の東京地図』にある坂はこの坂である。
都内で最後に残った都電荒川線が、
飛鳥山をめぐっておりてこないかしらと待っていたが
待ち合わせの正午に遅れそうなので断念。

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