【カントとカメラ】

【カントとカメラ】

写真は外界の事物をカメラがとらえるというのが基本的な形式になっている。基本的な形式が成り立つためにはまずカメラの外側に事物が存在しなければならない。そしてその存在を物理的な正確さでとらえて像を結ぶレンズが必要になる。存在とレンズがあれば写真が成り立つというわけではなく、それはまだ写真作用でしかない。存在と写真作用がぶつかった結果がフィルムや記憶媒体に記録されてはじめて写真が生まれる。

弁証法的な哲学の先生が「人間と認識」について書いておられるものを読みながら、それを「カメラと写真」に置き換えて遊んでみた。わかりにくい学校の教科書も、こんなふうにことば遊びの道具にしたものだ。遊びとしての学びなら楽しい。この先まで楽しみを突き詰めていけば実践的な写真論になる。

かつて清水に日帰り帰省して写真を撮り、帰京して写真を取り出そうとしたらメモリカードが入っていなかったという虚しい日記を読み返したのでこんなことば遊びをしてみた。写真は残らなかったけれど、美しい生まれ故郷の桜をあれこれ工夫して撮った、という記憶だけがいまも残っている。

5:52
クオリアという言葉も、それが指しているのは、現実性に対する「見え方」「感じられ方」という、基本となる形式の作用にすぎない。


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20 音オルガニートで

『アロハオエ  Aloha Oe』

『夏の日の恋 Theme from a Summer Place』

『頬にかかる涙 Una lacrima sul viso』

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***

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【鬼の一撃】

【鬼の一撃】

長時間歩くとふくらはぎがつって痛い。ふくらはぎという言葉の語源は「ふくら」が膨らみ、「はぎ」が脛(すね)で、「膨らんだ脛」といったところだろう。

つっていない時の膨らんだ脛は「ふっくら」して温かいのだけれど、つっているときのふくらはぎは骨付きのまま長期熟成したハムのように硬く冷たくなっていて、触ってみると血流が滞っている。

むかし書名の「く」がふくらはぎになっているのがおかしくて『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』という本を買った。内容は忘れたけれど子持ちシシャモのようなふくらはぎの絵を思い出したので、暇なときにもんでやると柔らかくなって気持ちいい。

子持ちシシャモの膨らんだおなかのような部分を腓腹筋(ひふくきん)といい、反対側である骨に沿った筋肉を前脛骨筋(ぜんけいこつきん)という。この前脛骨筋も腓腹筋と共謀してつるとひどく痛い。

前脛骨筋はもめないのでトントン叩いてやると気持ちいい。机にむかって本を読みながらトントンできるといいなと思い、そうだ昔ジジイが愛用していた先端がボールになった肩たたき棒があればできると思いついたのでネットで注文した。

『鬼塚の一撃』という商品名がついていて、ふくらはぎ一派をこらしめる怖そうな鬼塚という名がいいなあと思い、後でよく見たら「鬼嫁」だった。『鬼嫁の一撃』これは本当にいい。半世紀前に他界した祖父にプレゼントできたら喜ばれるだろう。ここ数日ふくらはぎをもんだりトントンしたりしているけれど、なぜか階段の上り下りで悩まされた膝の痛みまで消えたのが不思議である。

   ***

2:39
歩いていてふくらはぎがつったとき、おしりの筋肉を親指で強く押してやると「ふくらはぎにつながっている」と感じるポイントがあり、そこをなんども強くツボ指圧すると痙攣がおさまる。不思議だ。


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【タテ組ヨコ組】

【タテ組ヨコ組】

時間が直線上を動いていくものと表現するとき、ある点を『いま』とすれば、その左側に『過去』があり、その右側に『未来』がある……と、いま読んでいる本の著者が書いている。時間がそういうものだと言っているわけではなく、たとえればの話である。版を重ねている本にそう書いてあるということは、多くの人が頭の中で違和感なく「時間は左から右へ流れる」と思い描いているのかもしれない。

そうではなくて、「いま」の右側に過去があり、その左側に「未来」があって、歴史が直線上を動くものとして考えるなら、時間は過去から未来、右から左へと流れて行くのだ……と、どうしても思い描いてしまう自分がいる。

これはたぶん過去・現在・未来を右から左に並べたタテ組の歴史年表として思い浮かべているからで、世界がタテ組の本ならページをめくるに連れて時間は右から左に流れていく。だから自分が消えてなくなる永遠の未来は、めくられていく左ページの先にあると文系は思う。

ヨコ組の本では、歴史が製麺機から吐き出される生パスタのように上から下に垂れ下がっては折りたたまれ、時間は左ページから右ページへと流れていく。理系の本はそういうふうにできている。

たとえ間違っていようが、歴史というものが存在すると考え、時間を流れる川のようにとらえる場合、それが左右どちらに流れるかというのは、くだらないとは思いつつ妙に引っかかる問題なのである。

   ***

9:02
iOS デフォルトの IM では「いま」と入力して現在時刻への変換ができない。「いま」と打っても確定されて入力されるときは「いま」ではないのだからそれはそれで正しい。

9:09
左上の時刻表示を見て 910 と打てば 9:10 と変換候補が出ることがわかった。これでオッケー。たしかに「いま」と打って変換するより理にはかなっている。

10:46
宮脇淳子氏に発売日(2023/07/31)前の新刊著書 New Classic library 版『皇帝たちの中国史』(徳間書店)をもらったので読んでいる。「切韻」の原理はわかった。こりゃたいへんだ。


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【回転落下】

【回転落下】

数学が苦手だ。松本零士の漫画ミライザーバンで膝を抱えうずくまった主人公が、無窮の闇に回転しながら吸い込まれていく光景を数学は思い出させる。

同じ日付と曜日が組み合わさった再利用可能なカレンダーが登場する周期、それを求める計算方法について調べて、解説を読んでいたら目眩がした。うるう年があるのでめんどくさい。

数学はあなたにとって現実のようなものですかと聞かれた数学者が、もちろん数学こそが現実です、と答えたという話をどこかで読んだことも、回転落下しながら思い出した。

膝を抱えて丸くなり「〇〇こそ現実だ」と思い込んで自分に閉じこもるのは、あるジャンルにおいて自分も苦手ではない。人は人生において何かしらそういうものを見つけて身を立てるのだから、頑張れば数学だってそういう対象になりうるのだろう。

   ***

14:25
夏の青空と木立ちの境界線に湧き上がる白い積乱雲が頭を出し、じっと見ているとそれはゆっくりゆっくり高層へ登っていくように見える。

14:29
しかしほんの五分ほどこうしてスマホに目をそらせていただけで、積乱雲は横に広く引き伸ばされて湿った綿雲の集まりに変わって浮いている。

14:32
時間とは人における着目の計測値のようでもある。時間は着目の仕方によって伸縮し、雲は着目の仕方によって悠々としていたり爆発的だったりする。

14:54
「最近は歳をとったせいか泥酔するほど酔うことがない」と言ったり書いたりされた話を聞き、自分もそうだと同調しそうになるけれど嘘だ。大して酔ったつもりはないのに翌朝覚えていないことが多い。「昨日はあのドラマを最後まで観ずに寝ちゃったな」と言うと「あら最後まで観て面白かったって言ってたわよ」と妻が言う。

14:59
自分が酔ったか酔っていないかは他人との関係があるからこそ測れる尺度によるのである。人間は自分だけで自分を測れない。


20 音オルガニートで

『前奏曲 作品28 第7番 Prelude Op.28 No. 7』

『音楽に寄せて An die Musik Op. 88 D.547』

『ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章より』

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【夏のタイム・ログ】

【夏のタイム・ログ】

2023年7月26日(水)のタイム・ログ

8:35
駒込駅 8:32 発山手線外回り電車に乗車。

9:03
ひかり505号、東京駅発車。相変わらず外国人観光客が多く指定席は満席。

9:19
ひかり号、新横浜駅着。東海道新幹線の車内チャイムが TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」ではなくなっているのに気づく。20 年ぶりの変更で、21 日の始発から新チャイムに切り替わったという。

9:21
新チャイムは歌手 UA の「会いにいこう」。知らないメロディだけれど、明るい。いつの日かこのメロディにも旅愁を帯びる日が来るのだろうか。

9:44
三島駅着。熱中症予防のように富士山が笠雲をかぶっている。

10:02
静岡駅着。北口の花屋前で友人の車に拾ってもらう。

静岡駅改札

10:45
清水区堂林自治会館着。取材立ち会い。

12:45
終了後、清水区港町『サンライス』でご主人に挨拶して昼食。話をうかがいながら初めてハヤシライスを食べる。うまい。

サンライスの骨董的デコイ

14:55
静岡駅 14 時 41 分発のひかり号に乗車。上りも外国人観光客だらけ。となりの若い女性(英語の本を読んでいた)と自分のを比べると彼らがいかに脚が長いかがわかる。膝が背もたれにゴツンゴツンぶつかるわけだ。

東京・清水間とんぼ返り。山手線内回り電車は後続電車との間隔調整で大幅に遅延。料金所をでて首都高の渋滞につかまったよう。


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『前奏曲 作品28 第7番 Prelude   Op.28  No. 7』

『音楽に寄せて An die Musik    Op. 88 D.547』

『ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章より』

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【うずくまる】

【うずくまる】

来日した若き日のスティーブ・ジョブズが陶芸の「蹲(うずくまる)」を見てひどく気に入っていたという話を先日 NHK のテレビでちらっと見た。「蹲」は花入れに転用された小さな壺の形式で各地の古窯に伝わっている。たしかによいかたちをした焼物だった。

この頃、山歩きは独りでしたくなったという串田孫一がこんなことを書いていた。

「山での静かな、一種のうずくまりを求める気持が強くなって来たのだと言ったらいいのだろうか。気が楽で、独りである不安を感じることの前に、別な方面から悠然として眠り、そこに眠り込むことを悦びとさえしようとする」(『山のパンセ』1955年9月「ひとりの山」より)


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『前奏曲 作品28 第7番 Prelude   Op.28  No. 7』

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『ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章より』

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【物寂しさ】

【物寂しさ】

朝のベランダで植物に水やりしながら階下を見下ろすと、横断歩道を渡って小学生がにぎやかに登校していくのだけれど、いまは学校が夏休みに入ってしまったので朝の交差点は静かになって物寂しい。

『山と渓谷』(1929年・第一書房)の中で大正二年五月の田部重治は「何となく物寂しい」。

もう今夜は最後の野営であると思うと何となく物寂しい。今日は国師の下の野営よりは遥かに寂しく一層の趣きがある。焚火をしながら飯を炊いていると、しきりにカッコーの声をきく。今まで時鳥の声は毎夜聞いたが、カッコーの声を聞いたのは今初めてである。飯を終えて横になれば、万感しきりに往来する。耳をすますと栂の林の風が静かに通うて、森厳な感情が枕のほとりに漂うているような気がする。そしてカッコーが依然として啼いている。(田部重治『山と渓谷』一九二九年・第一書房)

取り立ててこれといった理由が見つからないと、人は寂しさや悲しさに「物」という言葉の帽子をかぶせて「物寂しい」「物悲しい」などと言う。

日常を離れて自然の一部になって過ごした人間が、自然から身を引き離さなければならないときは物寂しい。子どもたちはこの夏休みが終わるころ、そういう物寂しさを感じながら朝の交差点に戻ってくるのだろう。

   ***

4:35
すぐれた考えを要約するのは不可能に近いし、要約は、百害あって一利なしだ。(アラン)

6:47
朝のゴミ捨てにでたらセミの大合唱である。

6:49
セミが「みーんみんみん」と鳴き、子どもが「えーんえんえん」と泣く、リズムの一致は偶然だろうか。


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【言葉のダイナモ】

【言葉のダイナモ】

引用された長田弘(おさだ・ひろし)の詩を読んでいたら、前輪のリムダイナモを倒してタイヤに接触させ、重くなった自転車のペダルをこいだ夏の夜を思い出した。

頑張ってこいだだけ前照灯で照らされる田舎道は明るくなり、こぐのをやめると、風はよどんだ草いきれにかわり、蛙の声だけが聴こえる夏の闇にもどる。

ダイナモで言葉の発電をするように、いろいろなことを思い出したので、電子書籍で長田弘『読書からはじまる』(ちくま文庫)を買い、『深呼吸の必要』(晶文社)の上製本を古書で注文した。

前者はウィキペディアにある越智貢を引用した注、「本とはみなされないものを本と呼び、人の表情をさえ言葉と表現することを挙げて詩人長田ならではの視点であると述べる」にひかれて買ってみた。

   ***

3:55
昼過ぎに不在配達となった荷物の自動再配達が 21 時にあって驚いた。「申し訳ない」と謝ったら「受け取ってもらえてよかった」と言う。よかったと言ってもらえてよかった。

4:21
昨夕、友人から届いたメールを読み返したら、錦木について「攻める」を「責める」と打ち間違え、自分も伯桜鵩について「怪童」を「海童」と打ち間違えていた。乱打戦である。

4:30
外が明るくなりかけている。


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『前奏曲 作品28 第7番 Prelude   Op.28  No. 7』

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【山の断想】

【山の断想】

山の紀行文が好きだ。人の解釈が加わった遠近法ではなく、等角投影図法によって説明的に描かれた風景が目に浮かぶからで、山歩きをする人たちは「地(じ)」としてそういう文章を書き、そういう文章の中に点景である「図(ず)」として私を描き込んでいる。
 
「私たちは、七時過ぎに山女を出発した。村をはなれて五、六町行って、藍のように美わしい片貝川の釣橋を渡り、左に折れて少し行くと、早や奥平沢に達する。それから少し進むと田畑がなくなって、大日岳の一峰が行手の空に屹立(きつりつ)している。緑草美わしい河辺を行くこと数町で、河向の右手に一本の大きな杉がある。これは百二、三十年前まで存在していた木地屋村の跡であるという。漆器の木地をこしらえるのがこの村の生業であったが、漆器がだんだん流行らなくなるにつれ、生活が困難になり、一村挙(こぞ)って舟見在へ移転したと、いわれる。
 しばらくにして、植林せる畑中を過ぎて、一里余りも来たと思わるる時分に、道は片貝川の東叉に沿うて左折し、谷は急に逼って行く。数町行ってヲノマという所で休憩する。時に十時半、ここは山中の炭焼小屋から炭をもって来て、さらにここから村の方へ運搬するための中継場で、多くの小屋が散在している。」(明治四十三年八月/田部重治『山と渓谷』一九二九年・第一書房)
 
世界をつくりたもうた神様のように公平な視点と、その中で自分の身体を使って歩を進める小さき者の視点という、ふたつの異なった視点がある穏やかな風景画になっている。
 
串田孫一に『山の断想』という著書があり、1966 年に大和書房から出されている。ほんとうは 1959 年に実業之日本社から出た著者自装による洒落た本『私は街を歩いた』が欲しかったのだけれど、高価でちょっと手が出ないので 69 円だったこちらを注文した。
 
商品の小計: ¥69
配送料・手数料: ¥257
合計: ¥326
ポイント利用: -¥326
 
たまっていたポイントを利用したので結果的に無料だった。
 
   ***
 
4:03
昨日(2023/07/22)は週末恒例の食料買い出しで妻とふたり巣鴨まででかけ、久しぶりに登山用品のキャラバン巣鴨店をのぞいた。無料の小冊子『山歩みち』別冊:谷川岳があったのでもらってきた。
 
 
4:17
巣鴨駅構内の東北物産展で只勝市兵衛本店(岩手県奥州市)の『弁慶ほろほろ漬け』が買えると聞いたので3袋ゲット。
 
 
4:23
駅前ロータリーで巣鴨大鳥神社主催の盆踊り大会が開かれていた。3年ぶりの開催だという。仰高小学校の児童が櫓の上で踊るのを見て団扇をもらってきた。
 
 
4:38
未明に目が覚めたので昨日の日記を手直ししてメモを書き、青空文庫で木暮理太郎『秋の鬼怒沼』を読む。
 
4:47
昔の山歩き紀行文には案内をしたり荷を負ってともに歩いた人夫の氏名がちゃんと書かれている。
「鬼怒沼まで尾根伝いを続けて行くには、人夫がいる方が都合がよいので、一人雇うことにした。幸(さいわい)に大金弥一郎という逞しい男がいて、案内は出来ないが、お伴なら何処へでも行くという。三日間十円は高い。けれども湯元にいて仕事をしても其位にはなるのだからと主人がいう儘(まま)に話は纏った。」
彼らへの敬意なのか、確かな仕事をする人物情報なのか、その両方かもしれない。明治・大正期の山紀行には小さな人間たちの記録がある。


20 音オルガニートで

『前奏曲 作品28 第7番 Prelude   Op.28  No. 7』

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【舞いあがれ】

【舞いあがれ】

毎日、NHK 朝の連続テレビドラマを見るのを習慣とする暮らしを始めて久しい。結婚して家庭をもってからだから、もう 42 年目に入っている。

そういう習慣が身についてしまうと、テレビドラマなので映像の記憶はもちろんだけれど、過去へ向かって遠ざかっていく流れのようにテーマ音楽が思い出されるのが不思議だ。遠ざかりながら過去の出来事に癒着してしまっている。

今朝もこの春まで毎朝聴いていた back number というグループの『アイラブユー』が思い浮かんだとたん遠い過去へと舞い上がって吸い込まれそうな気がした。毎朝繰り返し聞かされる音楽という形式と、線として流れる時間という虚構が、とても近い関係だからだろう。

***

1:53
田部重治(たなべじゅうじ)が金沢の四高に通った頃の思い出を書いているのを読みながら、やはり四高に通った井上靖を思い出したけれど、田部のほうがふたまわり近く年上だった。

1:58
四高で田部が寄宿した塾の塾長はなんと西田幾多郎だった。

2:00
田部の時代、富山から上京するときは岩瀬から直江津まで汽船で出て、そこから汽車に乗ったのだという。

2:53
逆に直江津から岩瀬へ向かう汽船に乗ると、途中の能生(のう)で下船する女性がいる。当時は親不知子不知(おやしらずこしらず)の沖をゆく汽船が汽車代わりなのだからそれはそうだろう。

3:01
帝大英文科を出て明大に職を得た田部が下宿した頃の本郷は、三丁目交差点から駒込に向かう都電がまだない。「電車がなく、自動車も無論なく、のんびりした町だった」とある。

3:19
日の出どき、山の鳥たちがいっせいに声をそろえて鳴く瞬間がある、という箇所に前回読んだとき傍線を引いていた。

(『山と溪谷 田部重治撰集』再読)

11:02
この 6 月に友人が急逝した。その知らせは彼の会ったこともない同級生からメールで届いた。返事を書いたら奥様から手紙が届き、3 月頃までは元気だったのだという。そういえば 3 月頃このブログに井上靖のことで書き込みがあったのを思い出した。

11:16
串田孫一がホモ・サピエンスとホモ・ファベルの区別をした人を知っているかと書いている。ベルグソンは「つくるひと」という意味でホモ・ファーベルと言っている。ファーベルのスペルは faber で、筆記具で有名なドイツのファーバーカステル社 (Faber-Castell) と同じだ。


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『前奏曲 作品28 第7番 Prelude   Op.28  No. 7』

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『ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章より』

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【小杉復堂の旅】

【小杉復堂の旅】

江戸時代の越中に生まれ、明治のはじめ頃、富山から山に入って、ぐるっと富士山、太平洋岸、江戸、日光、越後を経て富山へ戻る草鞋旅行をした人がいたという話を司馬遼太郎が書いていたような気がするのだけれど、確かめたくてもどの本だったかが思い出せずにいた。

『山と溪谷 田部重治撰集(ヤマケイ文庫)』を読んでいたらその話の主は小杉復堂(1854 / 安政二-1928 / 昭和三)という漢学者で、富山県尋常師範学校(現富山大)などの教師をされていたという。田部は「先生」として実際に会っており「先生のお宅は私が学校へ行く途中の富山の入口に近いところにあったが、先生は謹厳そのもののような風貌をしていられたので、伺ってお話をきく気もしないほど恐ろしかったし、また、それほどにも先生が登山家であることも知らなかった」と書いている。

旅の行程は
「明治二十年に富山から歩いて船津(神岡町)、平湯、大野川、松本、甲府を通って身延山に至り、富士川を下って富士山に登り、東海道を歩いて横須賀に至り、横浜から汽船で東京へ出で、汽車で宇都宮に行き、歩いて日光に至り、中禅寺から日光湯元をへて奥白根に登り、沼田から越後六日町を通って、長岡、新潟、弥彦、それから富山へ」
という数カ月にわたるものだった。

富山にて

そんな話を覚えていたのは、自動車を運転してではあったけれど、富山にあった妻の実家から、清水にあったわが実家を経由して東京に戻る、またはその逆を辿るなじみの帰郷コースと多くが重なっていたことに、自分たちの思い出を投影したからだろう。

***

13:48
古い講談社現代新書をめくったら扉に「パリのカタコンブ」とキャプションがついたモノクロ写真があり、カタコンブってなんだろうと手元にある電子辞書をひくとそういう項目がない。調べたらこの電子辞書内は 6 冊の辞書に「カタコンベ」で項目が立っている。

13:58
「毎年夏始めに、程近い植物園からこのわたりへかけ、一体の若葉の梢が茂り黒み、情ない空風(からかぜ)が遠い街の塵を揚げて森の香の清い此処(ここ)らまでも吹き込んで来る頃になると、定まったように脳の工合が悪くなる。」と寺田寅彦が『やもり物語』に書いている。

14:10
英文学者で登山家だった田部重治(たなべじゅうじ)は生まれながらに病弱で、悪い原因がどこであるかを教えられることで、幼い頃から胃や心臓がある場所を知っていたという。

14:22
物理学者で随筆家だった寺田寅彦は、若葉のころ決まって鬱するこころのありかが心臓ではなく脳だという。

14:26
寺田寅彦は 1878(明治11)年生まれで、田部重治より六歳ほど年上になる。 

14:30
この『やもり物語』を書いた頃の寺田寅彦は本郷区駒込の暗闇坂に住んでおり、京華女子高校の東脇から東洋大学の裏に抜ける狭い道がそれだ。

14:38
小石川植物園から清い森の香が流れ込む場所だったわけだ。

14:58
小石川植物園といえば今日の日記の小杉復堂は牧野富太郎より八歳年上になる。


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『「NHKのど自慢」テーマ曲 NHK Nodojiman no Thema』

『CMソング「コカ・コーラの歌」CM Song of Coca_Cola』

『海 Umi』

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【吾妻ひでおの等角投影図】

【吾妻ひでおの等角投影図】

吾妻ひでおの『失踪日記2 アル中病棟』には等角投影図法による俯瞰図が頻繁に登場する。

等角投影図は 120 度で交わる三つの補助線に沿って描くという決まりごとがあるので、遠近による寸法の変化がつかないかわりに、人物ならば手前にいる人も奥にいる人も同じ大きさ等寸で表現できる。

どの人間も同じ物を見て、同じ音を聞いて、同じことばという道具を使う、同じ大きさの「人間」に見える、いわば神という創造主からの視点になっている。すべての人を起点にした、人物の数だけの「私」がそこにある。

吾妻ひでおの等角投影図が好きで、厚紙にコピーして手製の栞にし読書の友にしている。写真では中島義道が『観念的生活』で永井均の独我論について語っているページに挟んでいる(この本には、この栞を挟んでみると見通しが良くなる気がする箇所が多い)。

吾妻ひでおの等角投影図には必ず本人が描かれているので、図の中で吾妻ひでおの「私」はそこから始まっており、この絵にはさらに本人の吹き出しがあるのでそれとわかる。

もうひとつ明らかなのは、この漫画を描いたのが神ではなく吾妻ひでお本人であるということで、彼の等角投影図は異なる二種類の「私」を用いることでわかりやすく気持ちの良い世界の説明になっている。だからこの栞を見ると心が安定するのだ。

***

11:02
Xperia Ace III をワイヤレス充電器にのせるとランプが点滅して充電できない。充電器が古いからかなと思って新しいのに交換したけれど状態は変わらない。おかしいなぁと思って検索したら Xperia Ace III はワイヤレス充電非対応だった。なぜかそういう意外な思い込みをして散財した。

11:34
仕事場に遅れてやってきた妻が
「清水は梅雨明けしたらしいよ」
と言う。昨年より三日遅い梅雨明けだという。

11:44
「多分人間の言葉は、時間を語るのに適していないのだろう」と中島義道が書いている。適していないのだろう。

13:30
視覚にも聴覚にも残像がある。残像があるから映画もテレビも見られるし音楽という芸術形式がある。残像による錯視や錯聴が時間の感覚を生んでいる。

13:39
生まれて錯視や錯聴を生みつづける残像発生器のリールが回ってしまったら、人間はもう時間をそういう形式でしかとらえられない。時間のリールは時計である。

14:05
晴れた空に積乱雲がわきおこりピカッと一閃、雷鳴とどろいて一雨くるかな、と思ったらまた青空が広がっている。仕事場の限られた視界から眺めていると愚図も目まぐるしい。

14:38
上野のとんかつ屋の二階座敷に俳優の緒形拳が書いた「愚図」の二文字が額装されて飾られていたがよい書だった。

16:25
猛烈な速度で樹木の茂みに突っ込んでいく鳥に自分でなってみると枝で頭を打って気絶するだろう。


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『「NHKのど自慢」テーマ曲 NHK Nodojiman no Thema』

『CMソング「コカ・コーラの歌」CM Song of Coca_Cola』

『海 Umi』

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【片道 23 分の奇跡】

【片道 23 分の奇跡】

昼間の NHK BS に映画『阪急電車 片道 15 分の奇跡』という 2011 年の日本映画がかかっていたので録画して晩酌しながら観た。

兵庫県宝塚市と西宮市、阪急宝塚駅から西宮北口駅まで片道 15 分の短い区間を走る電車に乗り降りする人々をめぐる、ひとつながりの人情ドラマがとてもおもしろかった。

12 年前封切りの映画なので中谷美紀、戸田恵梨香、南果歩、谷村美月、宮本信子、有村架純、芦田愛菜、勝地涼、鈴木亮平、玉山鉄二など、みな公平に 12 年前の輝きがある。

静鉄電車 片道 23 分の新清水終点

「わ……若い!」となんども声が出て、過ぎゆく時の重さをまざまざと見せつけられながら、郷里を舞台にした『静鉄電車 片道 23 分の奇跡』という映画があったら……と想像したりした。

***


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『「NHKのど自慢」テーマ曲 NHK Nodojiman no Thema』

『CMソング「コカ・コーラの歌」CM Song of Coca_Cola』

『海 Umi』

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【文庫本のパンセ】

【文庫本のパンセ】

いまさら山登りをしたいとはぜんぜん思わないのだけれど、山歩きをする人が書いた山の本を読むのが好きだ。

大学時代の先輩に山好きがいて、勤めた会社でも先輩後輩だったけれど、山行きも自由にならない会社通いの行き帰りに、よくポケットに突っ込んだ新田次郎を読んでいた。二十代の終わりに別れたまま縁が切れてその後の消息を知らないけれど、彼は田部重治や串田孫一も読んでいたのだろうか。

いまも『山のパンセ』を読みながら山の本はいいなぁと思う。ポケットに突っ込める文庫本だから、山ごとポケットに入っているような気がする、という側面もある。

山歩きの本が読みたくなるように、ときどき読み返したくなって何度も読んでしまう文庫本がある。哲学者中島義道氏の『観念的生活』で、上製本(2007)を買ったのだけれど、その後で出た文庫本も本棚にある。

その文庫本を取り出してまた最初から読み始めたら、アジロ綴じの接着層が剥がれかけているのでボンドで補修した。それくらいの年季が入ったけれどいまだにこの本はいいなぁと思う。観念的な世界全体がポケットの中に入ってしまうからだ。

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20 音オルガニートで

『「NHKのど自慢」テーマ曲 NHK Nodojiman no Thema』

『CMソング「コカ・コーラの歌」CM Song of Coca_Cola』

『海 Umi』

を公開。

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一般閲覧可能

 

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【寸止めと共感】

【寸止めと共感】

感情を共にすることを「共感する」という。とうぜん「感情を共にする」相手は人間なのだけれど、人間ではない「物」に共感することもあって、そういう状態を「愛着する」などという。

愛着する「物」が人間のつくった物なら、人はその作り手に共感して「これを考えてつくった人は天才だ」などと思う。

人間のつくった物ではなくて自然の造形物だと、「神様ってすごい」とか「自然って偉大だ」などという。

2023/07/10 JR 駒込駅

「天才」や「神」や「自然」による創造の奇跡、その秘密を探っていくと科学になる。科学による探究を「諸要素間の関係」というレベルで「寸止め」すると「共感」が出てくる。

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20 音オルガニートで

『「NHKのど自慢」テーマ曲 NHK Nodojiman no Thema』

『CMソング「コカ・コーラの歌」CM Song of Coca_Cola』

『海 Umi』

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