【犬の詫び状】

【犬の詫び状】

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2002 年 2 月 4 日の日記再掲)

犬というのは飼い主に依存する体質が、ことのほか顕著な生き物だろうと思う。
 
世話焼き型で、その結果として他者から頼られるようになることの好きな人間には、格好の「伴侶」なのではないだろうか。自分(飼い主)に「依存してくれる」対象を飼育することで、自らその対象(犬)に「依存される人として依存する」関係になることが、容易に叶うのが犬の飼育であるように、わが母とその愛犬を見ていると思えてならない。人と犬との「共依存」である。
 
「吠えちゃだめ」と言うときの「吠えろの信号」は母から出ているし、「咬んじゃダメ」という時の母の声は明らかに「咬めの合図」になっていた。食卓から食べ物をねだる行動のキュー・サインが出る瞬間も、母の顔を見ているとわかるのだ。母のサインを受けて「頂戴、頂戴」をし、「駄目よ~、人間の食べものをあげるとお兄ちゃん(僕のことだ)が怒るからね~」と母が諌めるという、見事な「マッチポンプ」なのである。「この子は本当に困った犬で、私が先に死んだらどうなっちゃうんだろうね」という、そういう犬を育てているのが母自身なのだ。
 
さらに驚くべき現象は、母の興味が自分から遠のいていると感じる時に、犬がその場にある適当なもの、母のスカーフやら帽子やらをサッと咥えて叱られるような事をし、母の注意を引きつける行動があることだ。そのバリエーションは実にさまざまで、あの手この手のひたむきな努力が微笑ましい。犬の側からもある程度「共依存」を維持しようとする働き掛けがあるのだ。
 
   ***
 
冬の夜、コタツでうとうとするのは気持ちがいい。掘りゴタツでなく床面直置きの電気ゴタツだと「暖房付き布団」のようなものなので、朝まで眠ってしまったりする。

あまり健康に良くない気もするし、決して品行方正な生活態度とはいえない。コタツで寝てしまう自らを改めようという気持ちがわくうちは良いのだけれど、歳を取ってくると、コタツから出て、階段をのぼり、つめたいベッドに潜り込むのが億劫になり、次第にコタツまわりに身辺雑貨があつまってキャンプ場のようになってしまう。そうしたお年寄りの暮しでは、夏場も電気を落としたコタツがそのままねぐらになっていたりする。
 
わが母の場合、それはそれでしかたないと思っていたのだけれど、座敷犬を飼育するに及んで、母の性格を良く知っている息子から見ると、「母と犬と炬燵」三点セットの「共依存」は絶対にやめさせなければと思った。母の愛犬がかなり権勢をふるう犬で、人と犬との地位逆転が起き、問題犬になるのが目に見えていたからだ。

犬と過ごす一階の床全面をフローリングにしたほうがよいという提案を母が受け入れてくれたのは幸いだった。椅子とテーブル、そして二階にベッドという暮しは、母の少女時代からの憧れでもあったのだ。僕が排除したかったコタツは、晴れて粗大ゴミとして処分され、母は今もその事を後悔していないようなので助かる。
 
それでも眠くなって、二階のベッドに辿り着くのが大儀に感じる日もあるらしく、時折、一階の床で眠ってしまったなどという話も聞く。

夏の寝苦しい夜なら、ひんやりした木の床で寝るのは、それはそれで気持ちが良いのだけれど、冬は風邪を引くし、身体に良くないのでやめて貰いたい。だが先日も、とうとう床で眠ってしまったらしい。
 
翌日母が笑いながら話すには、犬というのは身勝手なもので、夜が更けて来たら寂しいらしく擦り寄ってくるので、可哀想に思って寒い床に寝転がって抱いてやったら、身体を寄せて眠った。だが、翌朝、寒さで目を覚ましたらちゃっかり暖房付きのハウスに戻って毛布に包まって眠っていた。あまりに身勝手なので呆れた、と言うのだ。

写真は 2002 年 1 月 1 日、寝ている母の愛犬

言葉を話せない犬が、文字を書けたら向田邦子風にこんな手紙を書くのではないだろうか。
 
前略
育てのおふくろさま

昨夜は朝まで床で眠られたようですが、お風邪を召されなかったかと案じて居ります。
あまりにおふくろさまが寂しそうなご様子だったので、となりで横にならせていただいたのですが、衣服も付けず身体も小さな私には、どこからか隙間風の吹き込む一軒家の床はことのほか寒く、老いたとはいえ身体の大きな人間のおふくろさまに、朝までお付き合いすることができませんでした。
幼い頃に別れたとはいえ、私にも産みの親がございます。その親からいただいた、たった一度の生を慈しむことこそが私の恩返しだと思って、今日まで生きてまいりました。
育てのおふくろさまにも、まず第一に、ご自愛お忘れなきよう、私の座右の銘を贈ります。
 
「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝(こう)の始めなり」(中国古典『孝経』より)
 
 不一

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