緩和ケア病棟の人びと

僕の寄り道――緩和ケア病棟の人びと
(2016年7月30日)

友人が誕生日を緩和ケア病棟で迎えることになり、家族が集まってパーティをするというので仲間入りさせてもらった。お酒も食べ物も、本人が望むならなんでもよしという恵まれた環境なので、患者と奥さん、息子と娘、娘の亭主と孫三人、そしてわが夫婦の計九人で始めるにぎやかな誕生パーティである。

緩和ケア病棟ベッドサイドの誕生会準備中

誕生日ケーキは病院が用意してくれるというので、出来合いのものを調達するのかと思ったら、いかにも手作りとわかる素朴なケーキが届いたので感心した。記念写真を撮りましょうと言われ、派手な小道具を選んで着飾り、バカ騒ぎ風写真に全員笑顔を作って収まった。写真はすぐにプリントされ職員の寄せ書きを添えたものが病室に届けられた。今この時を大切にするとはそういうことだ。

そういう趣向は特養ホームのお誕生日会とほとんど同じである。脳転移もあって最近は言動も怪しいと家族は言うけれど、他人と話している分にはしっかりした物言いの病人なので、看護スタッフの寄せ書きにも、この病人と時間を共有した人しか書けないようなひとことがあって嬉しい。特養ホームでは認知症のある年寄りが多いので、紋切調で使いまわし的な寄せ書きが多い。そんな中に、ごく些細な事柄ではあっても介護者と老人が共有したに違いない個別なひとことが書かれていると、この人は良い介護人なのだろうなと思う。

緩和ケア病棟にて

病院や施設に限らず、人はどこにいても遠からず訪れる死の日に向かって歩いているわけで、日々の暮らしのよろこび自体がすでに緩和ケア的なのだろうと実感する。そういう日常的な生活緩和ケアの中で、自分は毎日出会う人々に対して、一対一ならではの会話ができているだろうか、そうでなくてはいけないのではないかと学ぶところも多い。

病人も眠くなったのでパーティを終え、今夜の夜勤担当者に挨拶をし、スタッフに礼を述べて病院から退出し、家族とお疲れさま会をするため店を探す神楽坂は、賑やかな夏祭りの真っ最中だった。祭りも人生への緩和的ケアの一つであることが強く感じられる宵である。

神楽坂にて


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夏休みの校門

僕の寄り道――夏休みの校門
(2016年7月29日)

東京の夏休み。夏休みになると清水の祖父母の家に預けられたので、夏休み中の登校日に校門をくぐったことは一度もない。校門前の掲示によると、夏休み中はプール一般開放があるらしい。

清水の夏休み。ちゃんと清水のカードをもらって、八幡さんのラジオ体操に通った。そして一つ年上の従兄の登校日について行き、入江小学校のプールで泳がせてもらった。校門前で掲示板を見ている子どもたちを見て思い出した。


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庵原城築城

僕の寄り道――庵原城築城
(2016年7月29日)

以前会った時に従弟が「いま庵原城を作っている」と言っていたが、叔父を見舞ったら幸いにも在宅だったので築城途中のものを見せてもらった。ここまで作り込んでいるとは思わなかった。非常に細かく精巧にできている。

写真用木製四つ切りパネル(254 × 305 ミリ)のようなものを土台にしており、緻密であることを喜ぶにはちょうど良いサイズかもしれない。庵原氏が鎌倉時代に築城し、武田氏滅亡時には朝比奈信置が守備していたと伝えられる山城がいまちゃぶ台の上にのっている。


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きゅうりとメロン

僕の寄り道――きゅうりとメロン
(2016年7月29日)

寝込んでいるはずの叔父の家庭菜園に野菜の苗が植えられているのでどうしたのかと聞いたら、叔父が丹精した土がもったいないので叔母が見よう見まねで植えたのだという。

二ヶ月ほど経った昨日、見舞いに寄ってみたらナスもトウモロコシも見事に実をつけているので「おばさん、すごいじゃない」と褒め、「ところでナスの隣で大きい丸い実をつけているのはな〜に」と聞いたら、「キュウリの苗だと言われて買って来て植えたらこんな実がなっちゃった」と笑う。

どうもプリンスメロンのように見えると言ったら、確かに切ってみるとメロンらしい香りがするという。膨らみ始めたばかりの小さな実をもっていって見せたら、店の人もキュウリのはずなんだがと首を傾げているらしい。

星新一のショートショートで、ブドウとメロンを掛け合わせ、メロンがブドウのように鈴なりになる「ブロン」を作る話を思い出し、これは「きゅうりメロン」という新品種ではないかと調べたらちゃんとそういう品種があった。

「そのうちメロンみたいに甘くなるかしら」と聞くので、「メロンみたいな形なのにきゅうりの味のままだったら、火を通す料理に使うしかないかなぁ」と答えておいた。


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酒匂川沿いの松並木

僕の寄り道――酒匂川沿いの松並木
(2016年7月29日)

 2016年7月29日は雑誌『季刊清水』の編集会議で帰省した。
 会議前、清水区能島で暮らす叔父が体調を崩しているので見舞いのために寄ってみた。叔母は神奈川県足柄上郡からお嫁に来た人で、小学校に上がったばかりの頃、バスで分け入った集落にある実家を訪ねたことがある。あれはどこの駅からバスに乗ったのかと聞いてみたら小田急線の新松田だった。

 上野東京ライン開業(2015年)で東海道線が宇都宮線・高崎線・常磐線と直通運転になってしまい、上野駅や東京駅で待っていてもすでに満席で到着するので座れないことが多くなった。座れないのに東京駅に出るのもばかばかしいので、最近は新宿まで出て小田急線始発電車に乗り、小田原で東海道線に乗りかえることにしている。そうすると清水まで座って帰れる。

 下り小田急線が新松田の駅を出て小田原に向かう途中、酒匂川を渡るとき川の中に立って竿を振る釣り人が見え、平日なのに釣りの出来る暮らしを羨ましく思う。そして列車が南南東に進行方向を90度近く変えると、川の護岸に植えられた松並木が見え、しばらく水田風景が続く。

 ここを通るたびに「いいなあ」と思い、一度新松田駅で下車し、松並木に沿って歩いてみたいと思う。車窓から見える立て看板には二宮尊徳生誕の地と書かれている。


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蝉が啼き止む頃

僕の寄り道――蝉が啼き止む頃
(2016年7月28日)

中山ラビのアルバムで背後に虫の聲が入っているやつがあって、たしか伊豆のスタジオで録音されたのではなかったかと思うのだけれど、アルバム名も思い出せない。納戸を引っかき回せば出てくるとは思うのだけれど、そこまでして確かめるようなことでもない。1970年代の終わり頃だ。

オルガニートはこれで録音している

妻が趣味でぽちぽち穴を開けている 20 弁オルガニートのロールがたまってきたので録音してくれという。窓を閉め切ってカーテンを引いても公園に隣接しているので蝉の聲が入ってしまう。六義園の蝉は何時になったら啼き止むのだろうと昨日確かめたら、午後7時半には最終演者のヒグラシも歌い終わることがわかった。今日は午後7時半から自宅寝室が録音スタジオになる。


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地震と速報

僕の寄り道――地震と速報
(2016年7月28日)

夜中にスマホが緊急地震速報の警報音を発し、その数秒後に揺れがあったことをぼんやり覚えている。未明に目が覚めて確認したら、それは日付が変わる直前の出来事だった。

相変わらずわが家の枕元にある二台のスマホは警報音を発しないので頼りにならない。同じ設定になっているはずの古いスマホ、そちらは格安 SIM で運用しているのだけれど、飛び上がってびっくりするような音を立てて警告を発していてエライ。どこか設定が違うのだろうと思うのだけれど、びっくりしてさあ身を守ろうと思う前に、どうせ揺れは到達してしまうので、まあこれでいいや、ということにしている。


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ちいさな日記とちいさなカメラ

僕の寄り道――ちいさな日記とちいさなカメラ
(2016年7月28日)

 

こういうちいさな日記に載せたり、自治会報告書に添えたり、ハガキに印刷する程度の写真なら、小さくて、軽快で、手軽なカメラが一番と思い、最近は SONY の Cyber-shot DSC-L1 という極小カメラを首から下げている。2004 年発売でペーさま(林家ではなくヨンジュン)の CM が流れていたものだ。画像サイズが 4.1 メガピクセルあるので日々の記録には最低限こと足りる。

 

そういえば、日々の記録なら 110 フィルムで十分と思い、よく使っていた Rollei(ローライ)A110 がこんなサイズだったなと思ったので並べてみたら、レンズバリアを引いて撮影状態にするとほぼ同サイズだ。こちらは 1974 年発売で、ともに Carl Zeiss(カールツァイス)を冠したレンズが付いているところも似ている。スマホより小さいこういうカメラがあってもいいのではないかな。


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連想ゲーム

僕の寄り道――連想ゲーム
(2016年7月28日)

 

昔むかし NHK に『連想ゲーム』というよくできたクイズゲームがあった。ルールが単純なので年寄りから子どもまで楽しめ、わが家では家族参加で楽しむため、画面下に表示される正解が見えないよう、その部分を隠すボール紙の道具を用意していた。

懐かしい『連想ゲーム』がひとりでできて楽しいのが google 検索で、どうやったら目当てのものが見つけられるか知恵を絞って考え、「ストラップ 先端 ヒモ」と三つのヒントを入れて検索すると「ストラップ 先端 ヒモ の画像検索結果」という画像一覧ページが表示される。

見事に商品が列挙され欲しかったものが見つかったのでこれで正解なのだけれど、右下に器用な女性がおり「ストラップの先端のヒモが切れそうになっていたので修復した」というブログ記事があって感心した。検索も実によくできた連想ゲームである。


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街場の美術

僕の寄り道――街場の美術
(2016年7月28日)

民家脇の有刺鉄線による美術的据え物。寺の境内から丸見えの場所なのだけれど、夜の寺は人の気配がないので、空き巣の侵入ルートに適しているのだろう。

この有刺鉄線による造形には、邪悪な盗人が忍び込まないよう「まじない」「のろい」「はらい」という人の切なる祈りが込められており、呪術的であるという意味で最も純粋な美術の原点を指し示している。


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銀座線で三度びっくりした話

僕の寄り道――銀座線で三度びっくりした話
(2016年7月27日)

久しぶりに地下鉄銀座線に乗るため、溜池山王駅で電車待ちしていたら、狭い地下ホームの売店にセルフサービス式冷蔵ショーケースがあるのでびっくりした。

最近電車内でおにぎりやサンドイッチを食べている人がおり、わざわざこんなところで食べるためにどこで買ってくるのだろうと思っていたが、発車前のホームで買えるのだった。

ホームに電車が入ってきたら黄色い新しいデザインになっていて驚いた。銀座線といえば確かに黄色系だけれど、あまり垢抜けた意匠ではない。最初から古びた垢抜けなさを狙ったのかもしれない。

電車内に乗り込んでまず眼を引くのが液晶表示パネルの美しさで、最初期の、視野角が狭く反応が悪く薄暗い液晶とは雲泥の差だ。こんな液晶が公共交通機関でふんだんに使える時代になったのだなとびっくりした。

三度びっくりしているうちに青山一丁目に着いた。


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自意識と避雷針

僕の寄り道――自意識と避雷針
(2016年7月27日)

 

時節柄か落雷事故に注意を促す記事が多い。雷に撃たれて死ぬのは死に方の中でもとくに怖い、足がすくむほどの怖さと言ったら雷に勝るものはない、と自分は幼い頃からあまりに雷を怖がるのでよく母親に笑われた。

雷鳴が聞こえたらすでに落雷危険範囲に入っている、稲妻が煌めき雷鳴が轟く屋外を歩くのは危険だ、危険だから雷が通り過ぎるまでどこかに避難してやり過ごそうと言うと、母は呆れたように大きな口をあけ、
「あんたは意識過剰! だいじょうぶ、あんたの上になんてぜったい落ちやしないよ!」
と笑いながらスタスタ歩いて行ってしまい、泣きたい気持ちで後を追った少年時代がある。

確かに雷に撃たれて死ぬ確率は、宝くじの一等を引き当てるより難しい。敗戦後の鳥取砂丘に行って仰向けに寝転び、あの流れ星のひとつが自分に命中しないかと願ったが、自分の上に落ちることなど決してないと思われた、と書いた作家がいたけれど誰だったかは忘れた。

青山一丁目にて(2016年7月27日)

雷が自分に命中すると思うから怖いのであり、自分の上に決して落ちることなどないと思い込むことができたら、たとえ運悪く雷に撃たれても死の瞬間まで恐怖はないだろう。雷に撃たれなくても早晩死ぬのが人間なので、過剰な自意識を捨てることが心の恐怖の避雷針なのかもしれない。

 


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ヤクルトのヘルメット

僕の寄り道――ヤクルトのヘルメット
(2016年7月27日)

道端に停められたヤクルトの移動販売用トライク(三輪バイク)。その運転席に置かれていたヘルメットが素晴らしい。

この人は本当にスワローズが好きで、スワローズのことで頭がいっぱいなのだろう。そしてこのヘルメットをかぶって炎天下、まいにちヤクルトを販売して回っているわけで、社長だったら大ジョッキ10杯くらいくらいおごりたい気がする。



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大木と大衆

僕の寄り道――大木と大衆
(2016年7月27日)

いつも薬をもらいに行く診療所への道すがら、本郷通りの銀杏並木に図抜けて太いものがあり、それは住民が植えた様々な植木が銀杏と一体になって巨木化したもので、眺めるたびに惚れ惚れする。

その先にある銀杏は、街灯との間に梁(はり)をかけられ朝顔が蔓を絡めながら伝い、様々な生活道具置き場の大黒柱のようで、街路樹が暮らしの一部になっていていいなあと思う。

小さな漁村でゲートボールにうち興じている老人たちを見て感動し、こういうちっぽけな大衆の営為を眺めても「いいなあ」と思っていたに違いない吉本隆明の住まいは、このほんのちょっと先の路地奥になる。


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流行その同化と差別

僕の寄り道――流行その同化と差別
(2016年7月27日)

流行にのるということは、同類に「仲間入り」することによって安心感を得ることであり、「仲間入り」することで安心感を得るということは、仲間以外と自分を区別して「仲間外れ」をつくることであり、流行とは同化と差別が一体になったものである…などと当たり前のことを書いてみた。

なんで当たり前のことを書いてみたくなったかというと、「あー気持ち悪い!」と思うものが世界中(?)で流行しているらしいからだ。意識して狂ってみることは生きる知恵として欠かせないけれど、同類が塊(かたまり)となることによる熱狂は胡散臭く気味が悪い。時代の悪い波の傾きが、同化と差別の遊びで不安な人間を熱狂させている。


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