鶉(うずら)の塒(ねぐら)

|2013年3月19日|

 

 冷暖房をつけず空気を掛け布団にして、寒くも暑くもなく眠れる夜は身軽でいいなと思いながら午前三時前に目が覚めた。夜が明けると今日の日中は夏のような暖かさになるそうで、未明でも既に掛け布団をはねのけて眠れるほど暖かい。暖かさも手伝ってか、Twitter のタイムラインを眺めると、やはり午後9時前後就寝組は同じような時刻に目が覚めているらしい。
 目が醒めてしまったので、布団の上で寝転んだまま、空気を掛け布団がわりにし、塒(ねぐら)で言葉学びの巡礼をした。土に音符時(じ)の塒(ねぐら)は、土に囲まれてうずくまり、じっと時を過ごすこととある。幼い頃、郷里巴川の川べりで数珠つなぎになって走る鶉(うずら)をよく見かけたが、「蹲る(うずくまる)」「埋る(うずる)」に接尾語「ら」をつけて鶉(うずら)という字ができたらしい。鶉(うずら)の語感から塒(ねぐら)を思い浮かべるのだけれど、塒(ねぐら)という字はそもそも鶉(うずら)のような鳥の生態から生まれたのかも知れない。


 鶉(うずら)は塒(ねぐら)の字の成り立ち通り、すり鉢状にした土に囲まれ、うずくまって眠るのかなと想像してみたら、そもそも鳥が地面に落ちて死ぬということは、永遠の塒(ねぐら)で土に囲まれ、時を掛け布団がわりにして眠ることなんだよな、と思う。


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「気まぐれ介護ロボット」あとがき

|2013年3月18日|

 

 何かが「できない」人に「してあげよう」と思ってする時に、「できない」はずの人が「させてあげよう」として「できる」ようになってくれているという、小さな奇跡の話を書いてみた。
 このことは、優れた医者が「医者はきっかけに手を貸しただけで患者が自分の力で治っている」と言うのに似ている。
 あるいは、人にせよ動物にせよ、生きている時より死んだ時の方が身体が重く感じるのと同じ原理であるように思われる。
 もしくは、遊びリテーションの著書もある某特養ホーム施設長が「遊びによるリハビリテーションがうまく行くのは、ケアワーカーがお年寄りに遊んでもらえているときだ」(Bricolage次号インタビューより)と言う事とも同じ理由なのだろう。


 繰り返しになるけれど、毎週特養ホーム訪問をして生活を見ていると、「してあげている」というより「手伝ってもらうことでさせてもらっている」ように見える状態にあるお年寄りとケアワーカーは、相互作用の結果としての介護がとても良い形で成り立っているように見える。
 以上、次号 Bricolage のために書いた「気まぐれ介護ロボット(星新一に捧ぐ)」へのひとりごと的あとがき。

 

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北街道

|2013年3月14日|

 

 義父母が埼玉の特養ホームで暮らすようになって大宮通いが始まり、大宮の郷土史に関する平易な本を読んでみたけれど、郷里静岡のそれのようにはなかなか頭に入らない。というのは武蔵国はとてつもなく平野が広く、駿河湾と山にはさまれた狭隘な平野部に交通が集中している郷里と違い、縦横無尽にたくさんの古道があって錯綜して感じられるからだ。

 葵区瀬名の民俗について書かれた本を読んでいたら「瀬名川の旧国道」という項があり、静岡市立西奈南小から東へ浄界寺、世尊寺、菅原神社、若宮白鬚神社、興福寺、教福寺、東明寺、佐口神社、若宮八幡宮などを道沿いに繋ぎながら能島八幡宮へと辿れる道が古道として示されていた。


 静岡清水間の山手線として県道の北街道は、川合地先から静岡市清水市鳥坂に通じているが、明治三十六年(一九〇三)に構築された新道である。
 旧北街道(北海道と書いたものもある)は、本村の南端を東西に貫いている。
 文治年鑑(一一八五)から天正年間(一五七七)の官道で、東海道の出来る以前の東海道本線だった。今ならさしずめ国道一号線というところである。参勤交代にゆかりのあった松並木も、どうかすると歯の抜けたように残っているが今は少なくなった。五十三次の宿場のあった東海道は、天正十九年(一五九一)に里道の補修工事が竣工して本道となっている。
 古文書でも「国府より右度郡沓の谷村に出で、瀬名河高橋辻の三村を経て……云々。」又「これは古の海道にして今北海道と名づく、此路なお存せりと。」又別なものに「北海道を以て往還とす……云々。」(中川雄太郎『村と伝説―瀬名附近よもやま話―』昭和40年刊)


 清水区高橋から大内新田を通り、堀込から大内観音下の花立へと抜けていた旧北街道は、祖父母や曾祖母の家が道沿いにあったこともあってなじみ深いが、能島で巴川を渡り、瀬名方面へ抜けていった北街道のことは失念していた。江尻も駿府に向かうにつれて土地が開け、踏み分けられる道が増えたわけだ。
 昭和40年に書かれた本に「今は少なくなった」と書かれている松並木が現在も残っているとは思えないけれど、帰省時には往事を偲んで歩いてみたいと思っている。


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寺田寅彦の写生紀行

|2013年3月13日|

 iPhone の iBooks で日本語電子書籍が読めるようになったので、試しに青空文庫を読んでみようと思い、寺田寅彦『写生紀行』をダウンロードして読んでみたら作品自体がとても良い。原稿掲載は1922(大正11)年1月、中央公論とあり、寺田寅彦は1935(昭和10)年12月31日 、転移性骨腫瘍によって57歳で病没している。作中に「ことしの秋になって病気のぐあいがだいぶよくなったし、医者も許しまたすすめてくれたので」とある。このときは何の病気を患っていたのだろうと思い、調べてみたら大正9年に『病中記』があって、研究室で喀血して倒れた時の様子が書かれており、寺田寅彦は胃潰瘍を患っていた。おそらくそれが癒えてくるにつれ、屋内での写生に飽き足らなくなって写生旅行に出たらしい。

 十月十五日。朝あまり天気が朗らかであったので急に思い立って出かける事にした。このあいだM君と会った時、いつかいっしょに大宮へでも行ってみようかという話をした事を思い出して、とにかく大宮まで行ってみる事にした。絵の具箱へスケッチ板を一枚入れて、それと座ぶとん代わりの古い布切れとを風呂敷で包み隠したのをかかえて市内電車で巣鴨まで行った。省線で田端まで行く間にも、田端で大宮行きの汽車を待っている間にも、目に触れるすべてのものがきょうに限って異常な美しい色彩で輝いているのに驚かされた。(寺田寅彦『写生紀行』青空文庫より)


 「健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがある」と寺田寅彦は別のところで書いているが、希望というものがいかに人心を明るくさせるかがよくわかって読んでいる方も気持ちがいい。


|上野不忍池にて|2013年3月12日|

 行きにいっしょであった女学校の一団と再び同じ汽車に乗り合わせたが、生徒たちは行きとはまるで別人のように活発になっていた。あの物静かな唱歌はもう聞かれなくなって、にぎやかなむしろ騒々しい談笑が客車の中に沸き上がった。小さなバスケットや信玄袋の中から取り出した残りものの塩せんべいやサンドウイッチを片付けていた生徒たちの一人が、そういうものの包み紙を細かく引き裂いては窓から飛ばせ始めると、風下の窓から手を出してそれを取ろうとするものが幾人も出て来た。窓ぎわにすわっていた若い商人ふうの男もいっしょになってそのような遊戯を享楽していた。この暖かい小春の日光はやはり若い人たちの血のめぐりをよくしたのであろう。(寺田寅彦『写生紀行』青空文庫より)


 ほんのさわりの心地よい部分だけメモがわりに転載してみたけれど、この『写生紀行』は珠玉の掌編だと思う。かんじんの iBooks で日本語電子書籍だけれど、傍点であるべきものが消えて太字表示になるので驚いた。設定次第で日本語の傍点が正しく表示できるようにできるのか、今後機能改善されていくのかはわからないけれど、少なくとも傍点と太字表示では読書体験の質に違いが出るということが確認できて面白かった。

 

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川が痩せる

|2013年3月4日|


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 昨年の夏は編集委員をしている雑誌の取材で何度か、郷里静岡の興津川に沿って山間地域へと遡った。子どもの頃、夏休みになると川遊びに連れて行かれたことのある美しい清流に沿って走ると、こんなに心細い流れだったかなと不思議に思う。子どもだったから川幅が広く見えたのかもしれないとも思ったが、両河内中学校生徒たちが聞き書きしたお年寄りの話を読むと、昔はやはりもっと水量が多かったらしい。聞き書きに応じて「昔はもっと水が多くて」と語ったお年寄りたちは、大昔でもない明治大正生まれなので、昭和を経て平成となった今も、同じような急勾配で水量減少が続いているのかもしれない。
 車を運転して同行してくれた女性編集者に
「ちょっと前までは急流を利用した筏流しも行われて、大雨が降ると大蛇がのたうつように川筋を変えながら氾濫を繰り返したというこの川だけど、ダムもないのに水量が減少して行くのはなぜだろう?やっぱり山の問題かなぁ」
と言ったら
「そうでしょうね、そうだと思いますよ」
と言う。

|興津川上流、清水区西河内の杉林|


 農地が少ない興津川上流域では、ブナ、ミズナラを使った炭焼きや焼き畑による農業が暮らしの糧だった時代がある。そのため森林資源が枯渇し、炭焼き用の樹木が足りなくなり、山梨県側の人々が甲駿国境にあたる徳間峠を越えて売りに来たとも聞く。江戸時代はそんな風に里山の木々が激しく消費された時代で、広重などの版画を見ても背景に禿げ山が描かれていることが多い。その後、荒廃した山にスギ、ヒノキの植林をして林業を興したものの、安い外国材に押されて需要が得られず、手つかずで荒廃していく事に頭を悩ます人たちの話も聞いた。
 山林の荒廃と川の水量減少で思いつくのが山の保水機能だけれど、「ブナやミズナラの林は保水力がある」、一方「スギやヒノキはただ花粉をまき散らすだけの厄介者」というステレオタイプで考えてしまうと、どうして保水力のある樹木を伐採してしまったのに、川に流れ出す水量が減少し、今も減少し続けているように見えるのかという疑問が残る。それがそのまま心の隅に引っかかったまま年を越した。


 このようにブナという樹木やブナ林という森林は、特に水を蓄える能力が高いということはない。
 保水力で言う限り、スギやヒノキなどの人工林であっても、ブナやミズナラのような落葉広葉樹林であっても、シイやカシのような常緑広葉樹林であっても、健全な森林であればさほど違うものではない。
 ただし、若い森林と成熟した森林は違う。(『いちもん』第78号「樹木と水と」桂川裕樹)


 広島に『いちもん』という季刊同人誌があり、桂川裕樹(農林水産庁林野庁)さんが書かれたものが面白いと教えてもらった。ネットでバックナンバーを読むことができ、「樹木と水と」と題された原稿に考え方のヒントがあった。
 「ブナ林は保水力を持つ」と言うことと「保水力を持つ土壌を選んでブナは自生する」と言うことはどちらも正しいけれど、それを踏み台にして他の主張に援用しようとすると、踏み台にしてはいけないものが出てくる。保水力とは何かを考えるために、「樹木の種類による保水力の違いというものはほとんどない」「同じ樹木が生えている土壌同士にも保水力の違いがある」という二挺の梯子を用意すると、河川水量減少の理由について考えるための見晴らしが良くなる。
 ブナやミズナラなどより深く根を張るスギやヒノキが手入れもされずに放置されて根を張り、高齢化して地中に水を蓄える空隙が増えることで保水力が高まり、滲出する水量が減って河川が痩せて行くのだ。川が痩せることと治水との関連性の事もあって、だからどうすればよいかを考えるのは素人の手に余るが、川が痩せていく理由の源まで遡ってちょっと小休止する。

|興津川上流、清水区西河内の杉林|

 

 

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