【がまぐちや】

【がまぐちや】

東京都文京区湯島二丁目。

郷里静岡県清水興津に『うなぎや』という洋品店がある。

親の介護のため岩手県に帰っていった友人がいるが彼女の実家は『しょうゆや』という名の蕎麦屋だという。

OLYMPUS C755UZ

名が体を表していない店がここにもあり『がまぐちや』という名前だがコーヒーを飲ませる店である。

郷里にはもっと他にもそういう名が体を表していない店がいくつかあったような気がするが暑いせいかまったく、思い出せない。

コメント ( 4 ) | Trackback ( )

▼並木通り

東京都中央区銀座一丁目。
並木通りインターロキッング舗装の歩道にリンデン(しなの木)の並木から木漏れ日が落ち、
木漏れ日が描く模様はやがてコントラストを増して、夏が来る。



最近は並木通りというと若い女性にとっては
高級ブランド・ブティックが並ぶ憧れの通りらしいが、
それは銀座5丁目から向こうの並木通りである。



僕は並木通りというと銀座1丁目から4丁目の並木通りが並木通りらしく感じられ、
昔はもっともっとB級な安らぎのある通りだった。
この通りから名画座の老舗『並木座』が消えたのは1998年だった。

コメント ( 6 ) | Trackback ( )

▼午後4時20分ただいまの温度29゜C

久しぶりに東京は終日晴天。

深夜1時から起き出して仕事をし
本郷→赤坂→銀座と出版社3社を回って打ち合わせをし
汗だくになって事務所に戻ったら電話があり、
代々木の出版社でも打ち合わせがあったのを
完全に忘れていたのだった。


   撮影日: 06.6.27 4:20:28 PM
   OLYMPUS CORPORATION
    C755UZ
    露出時間:10/2500
   F値: 3.2

東京都新宿区西新宿一丁目。

慌てて出かけた代々木で打ち合わせを終え新宿駅南口まで歩く。

午後4時20分で気温が29゜Cもあるということは
東京の最高気温は30゜を越えたのだろうか。

暑い!

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

▼煎餅の味わい

東京都文京区向丘2丁目。
本郷通り沿いにあるお煎餅の老舗『梅月堂(ばいげつどう)』。
炭火で手焼きした堅焼きせんべいが美味しい。

祖母は自分の歯が一本もなくなっても堅焼きせんべいが大好きだった。
口の中でふやかして香ばしい焦げ醤油の味を味わい、
煎餅がちょうどよい柔らかさになったところで噛んで食べるのが
何とも言えず美味しいと言っていた。



伯母は立派な歯が揃っていた頃から、
何故か湿気たお煎餅が大好きで
とくに栗煎餅や八つ橋はわざと湿気させてから食べるのが好きだった。

そして揚げ煎餅などの袋菓子を食べ終わると袋の底にかけらやかすが残るが
袋を傾けて片方の隅に寄せてからハサミで三角形にちょんと切り、
粉薬を飲むように口の中に入れ、お茶を飲んで
「あ~~~お~いし~(笑)」
と満足そうに言うのだった。

煎餅というとそういうB級な食文化を持つ一族に生まれたことをしみじみ実感する。

コメント ( 11 ) | Trackback ( )

▼わたしの太陽

 元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
 さてここに『青鞜』は初声を上げた。
 現代の日本の女性の頭脳と手によって始めてできた『青鞜』は初声を上げた。
 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
 私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたるあるものを。(平塚雷鳥『青鞜』創刊号より)

本郷通り沿いの掲示板にあった平塚らいてうの写真にびっくり。
なんと美人だったのだろう。
こんな太陽が家庭にいたら眩しくてたまらないだろうなと思う。



秋葉原を歩いていたら店頭でこんな呼び込みをしていた。

美人の方は防犯ブザーと防犯スプレーを買いましょう。
それなりの方はご両親に感謝しましょう。(秋葉原怪しいグッズの店呼び込みより聞き取り)

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

▼洗い箸がうけるわけ

母方の実家は祖父と叔父が瓦工場を営む職人の家だったせいもあってか、
ご飯茶碗も汁椀も共有だったし箸も丸く削った竹を黄色く塗り
持ち手の断面を赤く塗った共用の「洗い箸」だった。

韓国は金属の箸、中国は樹脂製の洗い箸を用いる。

日本は外食をすると使い捨ての割り箸が多くて、
今の若い子には外食での洗い箸を知らない子も多いのではないだろうか。



東京大学、学生食堂。

22日の昼食は「かきフライ丼」と「南瓜のサラダ」にしてみた。

箸はセルフサービスで割り箸か青い洗い箸を自由に選ぶのだが、
割り箸より洗い箸を選ぶ学生が遙かに多いのにいつも驚く。

若い女性を見るとあの馬鹿馬鹿しい抗菌グッズブームを思い出すが、
女子学生まで洗い箸を使っているのも意外だったりする。

東大生の頭脳を高く見積もりすぎているせいかもしれないけれど、
割り箸より洗い箸を選ぶ理由は意外に奥が深いような気もする。

コメント ( 9 ) | Trackback ( )

【おもしろ花火屋さん】

【おもしろ花火屋さん】

友人から夏の便りが届いた。
この季節、清水銀座宇佐見人形店前を通るたびに「(すごい量の花火があるなぁ)」と感心していたけれどマスコミでも取り上げられているらしい。



今年は7月16日が灯籠流しだそうで、昨年、母が願い事を書いた灯籠を稚児橋から流したことを懐かしく思い出す。
母があんな状態でなかったら灯籠を流そうなんて思わなかったかもしれない。

母と手紙で励まし合っていた、難病にかかっていた僕より12歳年下の従妹が母の死の翌々日に跡を追うように他界した。

そしてその夏、叔父の家の縁側で従妹が遺した中学生と小学生の姉弟がする花火を見た。

人生で一番美しい花火だったような気がし、今年の夏もおじいちゃんの家で姉弟が過ごすなら、花火を買って持って行こうかな、と思ったりする。

子ども時代、親たちも僕たちがする花火を遠くから楽しそうに見ていたが、そういう花火がいいなぁと思える年齢になってきた。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

【1972 年のサッカーゴール】

【1972 年のサッカーゴール】

1972年入江小学校創立100周年を記念して撮影された航空写真を送っていただいた。

この人文字の中に当時1年生だったさくらももこがいるそうで、ということは日暮れまでちびまる子ちゃんの熱い視線を受けながら
ひたむきにサッカーボールを蹴っていた長谷川健太少年もいたわけである。

そういえば運動場にサッカーゴールが据えられており、東京の小学校などでは考えられなかった光景である。


清水市立第二中学入学式の日「このクラスの中に東京から来た人もいます」と教師が言ったら「ええ~っ!」と歓声が上がったが、多少羨望の眼で見られた…かもしれない「東京の子」はサッカーをやったことがないと知られた途端に「いなかっさー」になったのだった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( )

【海船川案内板】

【海船川案内板】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 6 月 17 日の日記再掲

 

東京都内を歩いていると地名として川や橋の名前が残っているのに実体がないことが多く、川は生活排水流入によりどぶ川になったあげく蓋をされて暗渠になっているのだ。

郷里静岡県清水も古地図を見ると小さな川が非常に多く、それらのほとんどは暗渠となったり細い下水管として土中に埋まってしまい、地名に名すら残っていない川も多い。

暗渠になっても地下を雨水や生活排水が流れているので上に建物は建てにくく、太い細いの差はあれ、かつて川が流れていた場所は道路になっていることが多く、逆に
「(どうしてこんな場所にこんな道があるのだろう)」
と思って調べてみると、かつて川やどぶがあった場所なのだ。

■静岡県清水元城町の「海船川案内板」
RICOH Caplio GX 

 今川氏の時には、この川は海から来た船から川を往来する川船へと、荷物を積みかえたり、又はその反対のことをしていた場所でした。川巾も広く、現在では想像できませんが、この川岸には軍船や、大きな回船が係留され、荷物を一パイ積んだ川船が何隻も往来していたことでしょう。此の所には今川氏の役所や、倉庫、役人の屋敷があったので、元屋敷という地名が最近まで残っていました。
 又、小芝城主穴山梅雪が徳川家康に降伏する時に桜小路(今の女子校附近)より船に乗り、巴川を渡り、海船川の岸に着け、明通寺前を通り上野原(追分三、四丁目)を経て上原の旧家伴野半左衛門方にて会見した、という記録があります。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

「今あなたの立っている場所は…」
の名調子で始まる看板は昔から気になっていたけれど、
「…現在暗渠となって居りますが、昔は汐入りの大きな川で…」
という部分がとても気になり、古い地図を見るとたしかに海船川が描かれている。「汐入り」というのは海水が入り込んでくる湖、池、川などのことであり、大きな川だったというから旧東海道と交わる場所には当然橋が必要であり、明治の頃までは海船橋という石橋が架かっていたという。

■しらひげ神社通りに面した『魚市』のある四つ辻角から見る入江 2 丁目『肉のタガヤ』方向。この道が海船川の跡であり、在りし日には川沿いに松が植えられていたという。
RICOH Caplio GX 

■道の左側、歩道のように見えるのが海船川暗渠。白い自動車が左折していく先は国道一号線元城町交差点。入江南の実家から母を自動車に乗せ、県立静岡がんセンターに通院する際によく利用した近道。
RICOH Caplio GX 

清水市立入江小学校創立百年記念誌『入江の里』によると旧東海道入江二丁目『肉のタガヤ』がある四つ辻が海船橋の架かっていた場所だという。
 
『肉のタガヤ』脇の道、かつて海船川が流れていた道をどんどん北上し、『小針酒店』『清水聖ヤコブ教会』を過ぎ『魚市』のある四つ辻でしらひげ神社通りを渡り、さらに直進すると道の左手にコンクリートの蓋をされたどぶ川の名残があり、国道一号線元城町交差点へ 120 度の角度で道が折れる変形四つ辻の角に「海船川案内板」が設置されている。

120 度の角度で左折せず 45 度の角度で右折すると 100 メートルほど先に巴川が見える。真正面が江尻小学校、小芝城本丸跡である。

その場所で巴川にぶつかることで暗渠となった海船川の水は明るい場所に出て巴川に注いでいる……のかと思って堤防から覗き込んでみたら暗渠の出口がないので唖然とした。

■暗渠となった海船川、現在の河口。
RICOH Caplio GX 

10 メートルほど上流に水がしょぼしょぼと流れ出て泡立っている場所があったので覗き込んだら暗渠の出口だった。その場所から振り返ると、明らかに水の流れに蓋をしたが為にできたような路地があるので入ってどこまでも辿ってみる。こういうときが散歩で最もワクワクする瞬間。

■海船川暗渠河口から逆方向を振り返ると、やっぱり暗渠の上は細い道になっていた。
RICOH Caplio GX 

■暗渠の上にできた細い道の出口。
RICOH Caplio GX 

路地が尽きて「海船川案内板を左折して元城町交差点に向かう道」にぶつかったところで真正面に海船寺雨地蔵堂の屋根が見えた。

「(そうか 海船川は少し高くなった海船寺敷地を回り込むようにして流れていたのか)」
と納得して小さな疑問の暗渠から出る。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【海船寺の雨地蔵】

【海船寺の雨地蔵】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 6 月 16 日の日記再掲

 

静岡県清水入江 3 丁目。浄土真宗大谷派明通寺の門前に
「間もなく、いやな梅雨です。でも梅雨があるからこそ、稲が育ちます。私たちは、自分の都合でしかものごとを見ることができません」
と書かれていた。

今年は桜の季節が終わったらそのまま長い梅雨入りをしてしまったように毎日雨ばかり降っている気がする。6 月 10 日にその門前の言葉を拝読し、背筋を伸ばして帰京したら一週間毎日雨ばかり降っていて、もういい加減にして欲しいと陰鬱な気分にもなり、やはり自分の都合でしかものを見られない自分がいた。

その浄土真宗大谷派明通寺門前の道、しらひげ神社通りをちょっと東へ 100 メートルほど歩いた左側に、妙に古い煉瓦造りの門がある。

■静岡県清水元城町。しらひげ神社通りに面した海船寺雨地蔵堂への参道。宝久寺通用門と書かれている。
RICOH Caplio GX 

宝久寺境内にある小さなお堂は近郷に知られた雨地蔵が祀られています。海船寺は約一二〇〇年の昔弘法大師の開基で、すぐ横を流れる海船川沿いであったので、交通の便も良く、善男・善女の参詣も多く大変賑わったそうです。又今川氏、武田氏の武将の信仰も厚く、七堂伽藍の大寺であったと伝えられていました。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

昔は全国各地で雨乞い神事が盛んに行われていたようだけれど、雨乞いの逆、晴れ乞い神事というものはなかったのだろうか。

清水という町は昔から非常に水害の多い町で、生まれてこのかた何度も大洪水を体験したけれど、治水事業が行き届かなかったはるか昔から、人々は洪水に悩まされたはずなのに、やはり社会をあげての祈願では、晴れより恵みの雨があることを祈ることが多かったのかもしれない。

そして
「どうぞ雨が降りませんように」
などという自分の都合による身勝手な願いは、ひっそり軒下にてるてる坊主を吊るしたりして遠慮がちに祈ったのかもしれない。

友人の魚屋の暮らしを見ていると、雨降りが続くと漁は上がったりで地魚の入荷がないし、天日干しの干物は作れないし、買い物の客足は鈍るしで泣きたい気分になるらしい。雨の三日も続けば非常に生活に困る職業というのも昔から多かったはずで、それでも雨が降ることによって得られるものが社会全体で共有し得る最上位の恵みであった時代があったのだろう。

■海船寺雨地蔵堂。実は昨年 6 月 18 日までこの寺を知らなかった。母の使いで鶴舞町まで出かけた帰り、不思議な煉瓦造りの門にひかれて中に入って初めて知ったのだった。母が他界し、四十九日の法要にやって来た伯母が、亡き伯父の墓参りをするというのでついてきたら、墓が宝久寺にあるとは聞いていたけれど、実はこのお堂の裏側にあったのだった。はじめてこのお堂前に立った昨年の 6 月、声が出せるなら呼び止めたかったであろう伯父には申し訳ないことをした。
RICOH Caplio GX 

阿部謹也『刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活』などを読むと、かつて中世社会において社会全体のなかで共有して担っていたもの――社会秩序――を仕事として金を払って他者に委ねることで、自分の身勝手な生き方を優先できるようにすること、それこそが近代人の夢であり近代化の目的だったような気もし、そういう時代の流れの中で、雨乞い神事も寂れてしまったんだろうな、と思ったりする。

宝暦(一七六〇年)の頃より、宝久寺の末寺となりました。清水地方が旱魃の時、各区長よりの要請により雨乞祈願を行ったところ、大雨が降ったと、大正十三年頃の記録にあります。又、昔江戸(東京)に出開帳の時、連日の雨にたたられて赤字となり、係りの人々はいずこかに逃げてしまいました。残されたお地蔵様を清水に帰すのに苦労したという話しがあります。昭和の初め頃には、このお地蔵様の祭典は近辺に知られた、勇壮な仕掛花火の打揚げがあって、今でも老人達の話題になっています。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

「あししとも よしともいかに いひはてん おりおりかわる ひとのこころを」
古びた御堂の脇にこんな木札が掲げられていた。昭和七年十月の日付がある。

■海船寺雨地蔵堂にて。
RICOH Caplio GX 

短かった大正時代が終わり、未曾有の不況の中、銀行の取り付け騒ぎで入江の清水銀行や駿河銀行に心配した人々が押し寄せ、軍部は山東出兵を足がかりに中国大陸へ干渉の矛先を向け、清水でも公害問題が話題に上るような時代になった。

……昭和八年三月の巴川汚水問題。清水市は、静岡市から一カ年間に五千円貰う約束で、静岡市の汚水の一部を巴川に流してもよい、という契約をした。これをきいた三保折戸の漁民達が、捨ておいては養ガキや海苔が全滅すると騒いで、反対運動を起こした。また昭和九年十二月には、巴川製紙に対し、汚水の放流によって海苔が全滅だと抗議した。ところが巴川製紙では用宗の本工場へ交渉しろ。とつっぱね、結局千円か二千円くらいの涙金で我慢した。(清水市立入江小学校創立百年記念誌『入江の里』より)

自分の都合、企業の都合、社会の都合、国の都合を車輪にして日本が破滅的戦争にばく進する中で、雨地蔵さんに参る人など絶えてしまったのかもしれない。

数軒の家を残して空襲で丸焼けになったと伝えられる地区で海船寺雨地蔵のお堂だけが戦火を免れ、すっかり古びたとはいえその姿を今にとどめているのは雨地蔵さんの面目躍如かもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【二分団と三分団】

【二分団と三分団】

インターネットや地図を使って頭の中ではなく、自分の身体で世界と出会うことはは楽しい。

2006年4月13日に

    「一分団のある通りの左っかたに…」
    という言い方で通じる人たちがこの地域にはいるのだろう。
    一分団がわかったので八分団と併せて
    僕にとって二つめの目印である。

と一分団を見つけて喜んだ。

そして2006年5月28日、旧町名江尻柳町を探していて偶然二分団を見つけた。



一分団、二分団を見つけたからそのうち三分団にも出会うだろうと思っていたら
三分団は生家のある地域の氏神様前にあった。



そうか、こんな所に三分団はあったのかとびっくりした。

コメント ( 7 ) | Trackback ( )

【清水駅前銀座、謎のオアシス】

【清水駅前銀座、謎のオアシス】

静岡県清水。清水駅前銀座のアーケードに面してこんな格子戸がある。

おそらく僕が子どもの頃からずっとあったのだと思うけれど、発見された(気づいた)のは 2006 年 6 月 10 日の土曜日である。


駅前銀座アーケードからこの格子戸をくくりぬけ見上げる夕焼けの空に、誰歌うともなく子守歌が聞こえてきそうな家々に囲まれ、真ん中に樹木が生えたオアシスのような場所があるらしい。

どうしてそんなことに気づいたかというと、このお宅のおそらく裏側にあたる「さつき通り」沿いに居酒屋『剣』があり、その店の奥にあるお手洗いは昔懐かしい「外トイレ」のようになっており、小用に立つと中庭のような場所に出て木々の間から夜空が見えるのである。

面白いなぁ、表通りから見えない場所にオアシスがある、駅前銀座アーケード側から見たらどうなっているんだろうと帰省時にながめていたらこの格子戸、そして奥へと続く謎の小道を見つけたのである。

コメント ( 9 ) | Trackback ( )

【商売はん盛】

【商売はん盛】

静岡県清水入江一丁目。
はんこ屋の前に貼られていた張り紙。

「商売はん盛」

なるほど……と深く納得する。



このはんこ屋、僕が子どもの頃からあったけれど入江小学校百年記念誌『入江の里』によると稚児橋方向から順に、

「次ぎが小長井文次郎箪笥屋で、糀屋、床屋、豆腐屋、三木茶碗屋、有馬下駄店、ハンコヤで、次ぎが大きな砂糖屋野村清ェ門と万エンさんの福士太物屋、酒造家で知られた播磨屋、山本コウモリ屋で、デッコロボウで知られる通称いちろんさんの店……」

と記述があり、その「ハンコヤ」がこの店なのだと思う。
 
先日播磨屋酒店が店を閉じられたので明治時代から続いている貴重な店のひとつであり、「商売はん盛」にも非常に説得力がある。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

【入江の明通寺】

【入江の明通寺】

 
 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2006 年 6 月 12 日の日記再掲

目と鼻の先のご近所でありながら、母が他界してからご無沙汰していた旧東海道沿いに住む友人の両親を訪ねた。おとうさんは亡き母と同い年である。

小一時間ほど話し込んで、
「これからこの近所にある浄土真宗の寺に行ってみようと思います」
と言ったら
「えっ、清水に浄土真宗の寺があるんですか」
と驚いておられた。

(2)明通寺(入江三丁目)
 創立は明応八年(一四九九)で、この時は西敬寺と言ったそうです。浄土真宗大谷派に属しますが、この宗派は古くは織田信長に激しく抵抗した、一向一揆で知られています。徳川家康の時代にも宗派の勢力が大きく、大変恐れられていました。家康が駿府に隠居したとき、静岡にある浄土真宗のお寺のみがなぜか怒りに触れ、夫々駿府を離れた土地へと難をさけ、このお寺も入江の地に西敬寺として創立されました。家康の死後、各寺院は静岡へと帰りましたが、堂宇がありましたので和尚の弟が寺を引き継ぎ、後に明通寺と名を変えたそうです。(入江まちづくり推進協議会コミュニティ委員会発行『入江の史跡めぐり』より)

ネットで知り合って時折メールをもらっていた 7 歳年下の男性と初めて会った。

彼は僕の通った高校の後輩という接点があるけれど、それよりも生まれたところが目と鼻の先、となり町である鶴舞町というだけで十分に共有する人生の交差点がある。

1972(昭和 47 )年、清水市立入江小学校創立百年を記念して生徒が校庭に人文字と校章を描いた際の航空写真を見せていただいた。

生まれ故郷を空から見るとこんな風に見えるのかということも興味深いけれど、カメラをぶら下げて清水の町を撮り歩いた高校生の自分がこの空の下にいた、ということにも深い感動がある。

■友人が見せてくれた航空写真を浜田町『かしの木亭』臨時スタジオにて撮影。明通寺の場所はここ。
Panasonic DMC-FX8

■主な目印を記入してみた。
Panasonic DMC-FX8

明通寺は国道 1 号線の五差路である大曲交差点からほど近い。

大曲から渋川にかけては、かつて工業地帯として工場の誘致が行われたという歴史があり今も鉄工所などの工場が多い。戦争中は当然執拗な爆撃を受け、大曲辺りの死者は次々に明通寺に運ばれたと清水市立入江小学校創立百年記念誌『入江の里』に書かれていた。

■静岡県清水元城町。国道 1 号線大曲交差点で交わる元城町と入江町の間の通りは「しらひげ神社通り」という。この通り沿いに白髭神社があるからで白髭神社というのはそもそも高麗神社・百済神社・新羅神社などと並んで古代朝鮮にちなむ神社であるといわれる。白髭神社の参道は清水三保にある御穂神社参道「神の道」と全く同じ方角、海上の道に向いている。
RICOH Caplio GX 

■明通寺はしらひげ神社通りに面している。
RICOH Caplio GX 

家康が浄土真宗を嫌った理由について司馬遼太郎の本にこんな記述がある。

 戦国期、本願寺の勢力は、近畿、中国、北陸、東海といった地方に広まりました。家康の二十歳のころに、家康が信頼していた部下のほとんどがお念仏――本願寺――のほうに走り、三河一向一揆が起こります。これは家康の一代の難事でした。(司馬遼太郎『以下無用のことながら』より)

天皇家に対抗するために天台宗と浄土宗を将軍家の二大菩提寺にした家康が浄土真宗を嫌ったのは当然のことだろう。

明通寺門前にこんなお言葉が掲示されていた。
「私たちは、自分の都合でしかものごとを見ることができません」
という文章の最後に「同朋会」と書かれていてなるほどなぁと思う。

■明通寺全景。
RICOH Caplio GX 

■同朋会のお知らせ。
RICOH Caplio GX 

親鸞の言葉に「御同行御同朋」があり、「同行」というのは兄弟姉妹、「同朋」とは友のことである。それらに「御」がつくのは「同行」も「同朋」も「如来から与えられたものであって私有物ではない」ということによる。これに基づいて信徒の教化と布教活動を目的とする信徒運動が「同朋会運動」なのである。

タテ社会日本の中で希有なヨコ社会実現をめざした宗派の寺が「清水のこの地域」にあることも「いろいろ」考え合わせると興味深い。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

▼雨のカナダ大使館前

奥に見えるのは高橋是清記念公園の樹木。
激しい雨脚が写っている。

カナダ大使館脇の塀に腰掛けているヤツがいるのでちょっとドキッとする。
楽しいドキッはとても貴重な体験であり、
外出して良かったと感じる一瞬である。



散歩は世界を広げるための飛び道具である。

「景色が大きいほど、見つかる楽しみも大きい」

その通り、散歩こそボケ防止の特効薬だと思う。
年をとればとるほど歩いた方がいい、としっかり自らの心に刻む。

たとえ土砂降りでも。

コメント ( 4 ) | Trackback ( )
« 前ページ