◉明日の記憶

2018年2月28日
僕の寄り道――◉明日の記憶

他人になにかを教えてしつこく同じ質問を受けると、「どうして何度も同じことを聞くのか」「覚えようという気がないんじゃないか」などと言ってしまったりするのだけれど、本当は自分もよくそういうことをしている。

尋ねても調べても「覚えられない」のではなく、わずかな間は覚えていても、どうしても長いこと「覚えていられない」、「身につく記憶」と「身につかない記憶」があるらしい。身につかないので『なんどおなじことをいわせるの」などと叱られている。

子ども時代、学校では勉強ができないのに、実生活では頭の良い友だちがいっぱいいた。どうしてあの子はあんなに頭がいいのに、学校の勉強が苦手なのだろうと不思議に思ったことが多い。理解したことを持続的に覚えているのが苦手ということもあっただろう。

先生は「授業に身が入っていないから覚えられないんだ」と叱っていたが、それも一理あったように思う。「身につく」「身につかない」は「身が入っていない」の「身」に関係があるかもしれない。


2014年からスマートフォンで連用日記をつけて、身につきそうもない記憶は書きとめている。明日の日記を開いたら書き込み欄がなく、なんと前回書いたのはおととしで、次回書くのはさらいねんになっている。(2018/02/28)


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◉座敷旅行

2018年2月27日
僕の寄り道――◉座敷旅行

明治の世になると本来血縁関係内のみで行われていた三が日の年賀が、広く世間的なものとして行われるようになり、煩わしいので勇気のある人は虚礼だと言って拒否し、お金のある人は近郊へ旅行に出て留守にし、お金のない人は家の奥に引きこもって居留守を使った。それを「座敷旅行」と呼んだというので笑った。人間にとって「宇宙旅行」も「座敷旅行」も大して変わりがない気がするのでおかしい。

年末に餅をついて、その音で餅をついたことが隣り近所に知れると、お裾分けをしなくてはならないので、夜中にこっそり餅をつかずにこねて食べたという話もある。そういう餅に何やら面白い名がついていたような気がするけれど思い出せない。

松たてずしめかざりせず餅つかずかかる家にも春は来にけり

これは江戸時代前期の日蓮宗の僧日政(にっせい)のうた。今ではそういう家が増えたが確かに春はちゃんと来ている。感じる春の質は微妙に違うかもしれない。

昨夜は録画しておいた NHK クラシック倶楽部で、山田耕筰作曲の交響曲ヘ長調「かちどきと平和」を広上淳一指揮の東京フィルハーモニー交響楽団で聞いた。日本人初の交響曲であるこの曲をベルリン高等音楽学校の卒業作品として作ったというのだから大したもんである。広上淳一の燕尾服の裏地が紫色なのが袱紗(ふくさ)のようでかわいい。

今日は終日仕事場に引きこもり、座敷旅行風に外出をせず終日年度末仕事をして過ごした。
仕事場には観葉植物のパキラ、鉢植えのカゲツ、南天の鉢植えがある。パキラは 30 年以上前、八丁堀の会社でもらった透明カップ入りハイドロカルチャーを鉢に植え替えたもの。カゲツは 20 年以上前に清水の母が持ってきた「金のなる木」がベランダで生き残っていた子孫。南天は2015年の師走に駅前の苔玉売りから買って土に植え替えたもの。わが家の植物はみなきわどく生き延びている。

老人ホーム訪問帰りの妻が大宮駅前で買ってきたヒヤシンスが窓辺の緑に加わった。ヒヤシンスは小学生時代の水耕栽培以来なので嬉しい。(2018/02/27)


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◉東京年中行事

2018年2月26日
僕の寄り道――◉東京年中行事

東洋文庫『東京年中行事』若月紫蘭著。朝倉治彦校注、平凡社の1と2を揃えて買ったもののまだ読んでいない。秋山安三郎『下町今昔』英宝社版を二月の行事まで読み終え、桜が咲く花時(はなどき)について書かれたあたりは三月に読もうと閉じたところで、そうか『東京年中行事』もその月の章をその月に読んで行けば良いのだと気付いた。もう二月も終わるので出遅れたけれど、月内に追いつこうと思う。そうすれば年末までに読み終わる。

俗謡「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入づ」を引いた書き出しの前に置かれたはしがきに明治四十四年とあり、彼は明治十二年生まれだから三十二歳の時だ。明治時代初期に日本が行った一連の維新を子どもとして眺めて過ごした世代がもつ批判的精神は、第二次大戦中を子どもとして過ごした世代のそれと似ている。

的確で当を得ている優れた人と著作が多いけれど、自由といえば自由な言論の反面、当事者ではなく傍観していた者の身勝手さを感じることが多い。

インターネットの時代になって不平不満ばかりを垂れ流している人たちというのも、ある特徴的な時代に偏在しているように見える。文句ばかり言って、自分で自分の心を病ませているように見えるあの人もこの人も同世代である。

大正時代に幼少期を過ごした義父もまた文句が多い人で、誰も相手をしてくれないとテレビに向かって文句を言っており、「お父さん、食事中にぶつぶつ文句を言うのはやめて、家庭が暗くなるから」と妻は父親に抗議していた。

東洋文庫『東京年中行事』。人間を「活動の人」と「平和の人」に二分しているのが面白い。活動は平和に反するもの、活動的であることを賞賛するのは軍国主義的であると言いたげだ。軍都東京ゆえに非活動的な元日は「理想郷」のようだと言う。

11 時から北池袋の編集事務所で雑誌打ち合わせ。西口に出て乱歩通りを歩いていたらつがい(?)のカラスがいちゃついていた。いつも楽しみに店頭のワゴンをのぞいていた古書店が今月いっぱいで閉店するという。町の古書店が消えるというのは新刊書店が消えるより文化的な痛手だと、インド下痢が癒えた S 氏が熱弁をふるっていた。S 氏は山口出身なので、読みかけた『東京年中行事』を見せ、校注者の朝倉治彦も山口人だと言ったら喜んでいた。

 

DTP を担当していた女性社員が退職するそうで、「何年くらいここにいたことになる?」と聞いたら 5 年になるというのでびっくりした。限られた人生の中で 5 年というのはなかなかに重い。こっちも年をとるわけだ。

次号の雑誌 Bricolage の特集は「介護と農業」になり、表紙はこれに決まった。

三好春樹氏の後ろ姿、撮影はカメラマンの T ちゃんかと聞いたら、奥さんの K さんが「私がスマホで撮ったの」と笑いながら言う。K さんもスマホもなかなかのものである。(2018/02/26)


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◉カラスと野良犬

2018年2月25日
僕の寄り道――◉カラスと野良犬

未明からやかましく騒いでいるカラスが、日が昇ってからも追いかけっこをしているので、もう盛りがついたのかと不審に思う。各地でまだ豪雪が続いており、関東地方でもときどき雪の予報が出てくるので、まだ早かろうと思うのだけれど、彼らにとってはすでに恋の季節らしい。

昨日は汗ばむほどの陽気だったのに、今日はまたコートの襟を合わせたくなるほど寒い。昼食を買いに出て鉛色の空を見上げたら、本郷通りのイチョウ並木にカラスが巣をかけていた。年末に作業車が来て剪定された樹木なので、そのあとで新しい巣作りが行われている。イチョウが赤ん坊の手のひらのような若葉を吹いて、あっという間に緑に覆われるまで、ここで無事に抱卵と子育てができるだろうか。

コンビニも各チェーンで少しずつ扱い品目が違っていて面白い。なぜかファミリーマートにはチャンジャがあって、好きなので見つけるたびに思い出して買ってくる。販売者は大阪になっている。これを京都男前豆腐店の「特濃ケンちゃん」にのせ、胡麻油をちょっと垂らして食べるとよい酒のつまみになる。「特濃ケンちゃん」の下に海苔を一枚敷いておくと最後にもう一度おいしい。

東大正門前の古書店で買った高見順編『浅草』英宝社を読み終え、執筆者として興味を持った秋山安三郎の『下町今昔』永田書房版を読み始めた。正月二日に良い夢を見られると売られた宝船の絵には「なかきよのとおのねふりのみなめさめ、なみのりふねのおとのよきかな」という和歌が添えられていた。誰でも読めるよう、ひらがなで書いてあるのだろうが、どうしても意味がわからないので調べたら、「長き夜の遠の睡りの皆目醒め 波乗り船の音の良きかな」で、前から読んでも後ろから読んでも同じ「回文」になっているのだという。なーる。

郷里静岡県清水では他地域に比べて異様に多い苗字を「〇〇、〇〇、犬のクソ」と言ったが、東京では「伊勢屋、稲荷、犬のクソ」と言ったと秋山安三郎が書いている。それほど東京の街には伊勢屋を名乗る商店とお稲荷様が多かった。そして昭和三十年代あたりまで、清水でも東京でも、たぶん日本中で野良犬や放し飼いの犬が多く、登下校時はよくクソを踏んで困ったものだった。(2018/02/25)

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◉田端――若いということ

2018年2月24日
僕の寄り道――◉田端――若いということ

午前中、マンション管理組合の通常総会。早朝、階下に住む友人の母子宅で救急車を呼ぶ騒ぎがあったので安否確認と仲間への連絡をした。

熱のこもった総会への出席を終えたら正午を回っていたので、駅前の蕎麦屋に行って若者がつくる熱のこもった蕎麦を食べた。春の陽気に誘われ、腹ごなしに田端高台通りを通って田端文士村記念館に行き、「田端に集まる理由(わけ)がある 明治の田端は芸術村だった」の展示を見てきた。

駒込駅近く、妙義坂で荷を広げる行商さん

『森田恒友青年期素描集 20歳-21歳』から田端の鉄道工事現場の写生が7枚展示されていた。田端年表を見ると、写生されたのは 1902(明治35)年 11 月で、池袋・田端間複線が開通する前年。森田が生まれたのが 1881(明治14)年だから 21 歳。ウィキペディアによると「自ら平野人と号し…自然を写生し、閑静な生活の中に心の澄んだ素直な作品を描いた」とあるが、奇を衒(てら)わない真面目なスケッチでよい若者だったのだなと思う。

道灌山切通し

森田が写生した二年前には正岡子規もこの工事現場を訪れて道灌山について書いている。子規は 1867 年生まれなので、その時 33 歳。その後、森田が写生した日の二ヶ月前に亡くなって田端の大龍寺に土葬されている。時の流れの中をみな駆け足で生きていた。

田端高台通りにて

夕食時は先週住民交流会で観損ねた NHK大河ドラマ『西郷どん』の再放送録画を観た。若者が若き西郷隆盛を熱演している。そのあと同じく、録画してあった NHK クラシック倶楽部でフランスの若手カルテット、アロド弦楽四重奏団の演奏を聴いた。

曲目は「弦楽四重奏曲 ニ短調 K.421 から第 1 楽章 第 4 楽章」と「弦楽四重奏曲 第 2 番 イ短調 作品 13」で 2017 年 12 月 14 日、王子ホールでの収録。観終えてテレビに拍手した。

聴きながら画家の若描きを愛した画商洲之内徹や、上田の信濃デッサン館と無言館を思い出した。若さには若いが故の輝きがあって、観たり聴いたりする者に特異な感動をもたらす。(2018/02/24)


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◉それから

2018年2月24日
僕の寄り道――◉それから

未明に目が覚めて漱石の『それから』を読む。「夫から」とあって、その文脈で「おっとから」とは読まないので「それから」だろうとは思うけれど、「夫れから」と「れ」が送られていないことに違和感がある。だが漢籍をしっかり読んだ明治人であれば、文頭にある「夫」は一文字で「それ」と読むのだろうし、「積」も一文字で「つもり」と読ませている。「天爵的」の天爵とはなんだろうと辞書をひいたら天から授かった徳のことで、やっぱり出所は孟子である。

寝床で本を読んでいるあいだずっと、まだ暗いのに六義園内をねぐらにするカラスたちがやかましい。明るくなってから双眼鏡で覗いてみたらペアになって木々の間で追っかけっこしている。寒いのにもう求愛の季節になったのだろうか。

鳥は写真に撮るより双眼鏡で眺めているほうが楽しい。両眼視による立体感があるからで、まるで森の中を模した動くジオラマを見ているようだ。近所のカメラ店で見つけたミノルタの双眼鏡を仕事場の窓辺に置いてある。

昼休みに六義園内を見たら新婚さんらしい二人が記念撮影をしていた。スタッフもいてきちんとした撮影なので、有名人だろうかと双眼鏡で覗いてみたら、新郎は笑顔の凛々しいイケメンだが、有名人かどうかまではわからない。双眼鏡なので新婦もまた立体的に見える。

夕食時はソフトバンクのお父さん犬なら「おい冬季オリンピックもそろそろ飽きたな。なんか別のやつやってないか」と言いそうな気分なので 19 時からロンドンで行われている卓球のワールドカップを観た。

中継映像のカメラアングルがいつもと ちがって新鮮だが、どうちがうのかがよくわからない。日本選手のリターンが決まったかどうかがちょっとわかりにくい。エジプト選手の卓球スタイルがいろいろ新鮮でおもしろいけれど、シングルスを戦う早田ひなもおもしろい選手だと思った。みんなちがってみんなおもしろい。(2018/02/23)


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◉道中歌と江尻

2018年2月23日
僕の寄り道――◉道中歌と江尻

東京は朝から小雪がちらつく肌寒い一日となった。終日外出せずに仕事をし、夕方になって晩酌の芋焼酎を買いに出た帰り、郵便受けをのぞいたら、木村荘八『東京風俗帖』ちくま学芸文庫が届いていた。

ぱらぱらとめくって拾い読みしたら生まれ故郷「江尻」の文字が目に入る。砂利道でふと目を引く小石を見つけるように、活字の海で目をとらえる地名の存在は不思議だ。

何が書いてあるのかと読んでみたら、「♪お江戸日本橋七つ立ち…」で始まる道中歌は、日本橋を出立した後ちゃんと京都に着くまでが18節に仕切られて存在し、しかも往路の上りだけでなく復路の下りもあるのだという。知らなかった。

有名な道中歌の出だしは、
「♪お江戸日本橋七つ立ち、初上り、ああこりゃこりゃ。行列揃へて、あれわいさのさ、こちゃ、高輪、夜明けの、提灯消す。こちゃえ、こちゃえ。」

郷里江尻を通過する上りは、
「♪江尻つかれて気は府中、はま鞠子、ああこりゃこりゃ。どらをうつのかどうらんこ、こちゃ、岡部で笑はゞ笑はんせ、こちゃえ、こちゃえ。」
下りは、
「♪江尻、興津の浜辺より、はるばると、ああこりゃこりゃ。三保の松原右に見て、こちゃ、浮世の塵を薩多坂、こちゃえ、こちゃえ。」
なのだという。

どうも江尻界隈のは難しい。清水でもとなりの由比、興津の地名は使いやすいのか、わかりやすくて内容もふるっている。
上りは、
「♪愚痴を由井だす薩多坂、ああこりゃこりゃ。馬鹿らしや。絡んだ口説きも興津川。こちゃ、欺して寝かして恋の坂。こちゃえ、こちゃえ。」
下りは、
「♪わが元由比の乱れ髪、ああこりゃこりゃ。はらはらと、蒲原かけて降る雪は、こちゃ、富士の裾野の吉原へ。こちゃえ、こちゃえ。」
となっている。

日暮れどきに O さんから仕事の日程調整の電話が入る。聞きたかったことがひとつあるのを思い出したけれど、後日会う日の楽しみにした。

夕食どきは呑みながら平昌オリンピック、スピードスケートのショートトラックを1時間ほど見た。

狭苦しいコースでの追い越しでインをつく駆け引きは見ているだけで疲れる。コーナーで大外を回って一気にトップに立ち、そのまま逃げ切る圧倒的な勝ち方をした韓国人女性選手がいて惚れ惚れした。あそこまで強いのは気持ちいい。強いので見ていて疲れない。スプリントの強さを見せつけられた気がしたが、解説者は遠心力に負けない強さと言っていた。なーる。

1時間で切り上げて録画してある NHK クラシック倶楽部。久しぶりにセザール=フランク(1822 - 1890)の作品を聴いた。やはりフランクはオルガン奏者だなぁと思う。背景として奏でられるゆったりとした曲想があり、その上にちょこまかと乗せられて来る別の曲想が陰陽で相反しているのが面白い。フランクの曲は甘じょっぱくて、みたらし団子の味わいがある。

「ピアノ五重奏曲 ヘ短調」を原田幸一郎、神尾真由子のバイオリン、磯村和英のビオラ、毛利伯郎のチェロ、ミロスラフ・クルティシェフのピアノで聴いた。この曲の初演ではサン=サーンスがバイオリンを弾いたという。磯村和英は東京カルテットの人。(2018/02/22)


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◉いろいろなゴール

2018年2月22日
僕の寄り道――◉いろいろなゴール

荷物が届く予定だったので終日外出せずに仕事をしていたが 18 時の終業まで待っても配達がなく、「本日、ご指定のお届け先へ配達に伺う予定です」というメールが 21 時過ぎに入っていた。早すぎても遅すぎても仕事場では受け取れない。

ノルディック複合のゴール風景は倒れこむようで壮絶だが、スピードスケートの選手がゴールする姿はちょっと面白い。陸上競技では頭部と四肢以外の胴体をラインの先に突き出そうとするけれど、オリンピック競技のスピードスケートでは靴の先端通過で判定されるので、片足を突き出すようにしてゴールインの瞬間を争う。

荷物を待ちながら仕事をしていたら欧文書体終端の装飾である「セリフ(Selif)」がゴール直前に突き出されたスケート靴に見えておかしい。

冬季オリンピック中継を見ながらの夕食どきは、チャンネルを切り替えてなるべく同時にゴールを争う競走競技を見ている。個別に試技を披露する競技だと、日本人選手応援に力が入りすぎるあまり、他国選手の番になると「こけろ!」「はずせ!」などと声には出さないものの、失敗を念じている自分に気づくのがいやだからだ。せこい。

女子パシュートが無事に決勝へと進んだところで金メダル獲得を祈念し、録画しておいた NHK クラシック倶楽部で樫本大進、小菅優、クラウディオ・ボルケスの演奏会を観た。こっちの三重奏も音楽パシュートみたいだ。ベートーベンの作品はハズレなしの安定感がいい。小菅優は映像を見ているといろいろ面白い。見事に演奏を終えたので画面に向かって拍手した。(2018/02/21)


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◉時間と労働

2018年2月21日
僕の寄り道――◉時間と労働

仕事場のインターホンに訪問者の録画記録があり、午前8時に荷物の配達があったことがわかる。不在再配達が宅配業者の悩みの種らしいので意図して早朝配達をするのだと思うが、マンション内が仕事場だとそれが裏目に出て不在である確率が高い。

仕事関連の荷物の場合、早すぎる配達で不在配達連絡票を入れられ、急ぎの資料が再配達になると困る。それにしてもこの配送員はいったい何時から働かされているのだろうと、気の毒な姿を眺めながら記録動画を消去した。

10 時半を回ったところで郷里の友人、中学の一年先輩から電話があり、混迷して暴走する市政、というか市長に対しての抗議文をつくり、七万部印刷して新聞折り込みで配布したいと言う。故郷のために一肌脱いでレイアウトと印刷手配を手伝えと言うので印刷代の見積もりをとってみた。

速攻で見積もりを送ったら、印刷用紙や色数の工夫でもっと安くならないかと言う。印刷料金の価格は紙やインク代ではなく何営業日で納品かで大きく変動する。もっと余裕を持って納期を決めれば安くなったのだと説明した。

そんな説明をしながら、結局、経済はもう物質の重さそのものではなく、人の労働を踏みつけにした「時間」を取り引きするようになっているのだということを改めて感じる。

午後から急ぎの仕事打ち合わせが入って赤坂まで外出。地下鉄南北線で溜池山王駅まで出て、六本木経由で知らない道を選んで歩いた。この辺りは人を疎外するように生気のない高層オフィスビルが乱立していて悲しい気分になる。

それでも譲れない地面を死守するように、ビルの谷間に残った神社を見つけると嬉しい。打ち合わせ時刻の 1 時半にちょっと間があるので神様に手を合わせて時間つぶしした。

打ち合わせを終えて帰宅したら「檄文」の原稿が届いていた。人は感情が高まって勢いがつくと使いやすい道具を手にとる。銃社会なら銃に手が伸びるところだろうが、友人はエクセルで原稿を書いて来た。久しぶりにそういう「文字原稿」を受け取った。チカラが余るたびに短文が連続する別セルに入っている。結合させながらセルもまたメッセージであると思う。

勢いのある文章に応えるよう、2時間ほどかけ A4 裏表の檄文をレイアウトし、PDF で送信したところで夕暮れとなった。そのあいだに急ぎ仕事のメールが次々に入り年度末ムードが高まって来た。(2018/02/20)


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◉椎名町の赤い門

2018年2月20日
僕の寄り道――◉椎名町の赤い門

仕事の打ち合わせで北池袋の編集事務所へ。
山口県人の S 氏が来ていたので雑談し、いま読んでいる松居桃楼(まついとうる)が書いた禅の本を見せた。「蟻の街のマリア」とか「ゼノ神父」の事を書いた人だと言ってみたが、亡くなられて久しいせいかピンとこないらしい。

自分はこれを読んでいると見せてくれたのは木田元訳の仏教関連書(ちらっと見て意外な人が翻訳しているので『おやっ』と思って記憶したのだけれど、友人のブログを読んだら中村元だったと気づいた。岩波文庫のワイド版だったから間違いない)で、なんでそんなもん読んでいると聞いたら、今年も三好春樹氏のインドツアーに参加したそうで、帰国後も酷いインド下痢の最中だから良い機会なのだという。お釈迦様も呆れておられよう。これから一緒にうどんを食いに行かないかと誘われたが、インド下痢がうつると嫌なので断る。

ぎょうざの満州がある椎名町駅前

いつも通り山手通りを歩いて椎名町に行き、駅前の「ぎょうざの満州」に寄って冷凍生餃子を買う。ここの餃子はしっかり閉じていて、はだけないので水餃子やスープ餃子が作りやすくて好きだ。

山手通りから椎名町駅前に折れる角に赤い門の寺があるが、となりの長崎神社に気を取られて注意して見たことがない。蓮華山仏性寺金剛院(れんげさんぶっしょうじこんごういん)という真言宗の寺で赤い門の脇に洒落たカフェがある。

寺が経営しているらしく『赤門テラスなゆた』という洒落た名前が付いている。
“ そんな場所に「和を敬い 西を讃ずる」現代的な和モダンをモチーフとした「カフェ寺ス」をオープンするのは、無縁社会と言われる中で三世代が自然と交流し、そこから新しい「コミュニティ」を作りあげ、その点と点を線にして面にしながら、人々が「ご縁」を結ぶ「結縁」の場所として活動していくことを目指しています。”
と寺の紹介にあり、寺の生き残りをかけた商売とはいえ、なかなかよい方法だと思う。現代人には確かにそういう場所が必要で、結構客が入っている。

赤門と赤門テラスなゆた

江戸の落語では葵の御紋の殿様を笑いのめすわけにもいかないので、赤井御門守(あかいごもんのかみ)が三太夫を従えて登場するが、考えてみたら寺に赤門は珍しい。解説を読むと、
“ 金剛院の山門は1780年(安永9年)に建立された。天明年中(1781 - 1788年)、度々発生した大火の折、十九世・宥憲(ゆうけん)和尚が先頭に立ち、多くの罹災者を金剛院で収容し助けた。その功績が将軍 徳川家治の耳にとどき、褒賞として、山門を朱塗りとする許可を受けた。この当時、朱塗りの門を作るということは将軍家と縁のある家などにだけ許される名誉あるものであった。金剛院は村民から赤門寺(あかもんでら)の名で慕われた。朱塗りの山門(赤門)は、1994年(平成6年)6月27日に豊島区より有形文化財の指定を受けている。”
とのことだった。「なーる」である。

帰宅して来月の住民交流会ポスターの準備をし、昨日の写真をプリントしてもらうため文京グリーンコートに行ったら、プリント仕上がりに 15 分ほどかかるという。となりの文教堂書店で時間つぶしに雑誌の棚を見ていたら、柴田元幸責任編集『MONKEY』の最新号が出ていて、特集の「絵が大事」がなかなか良いので買った。あと飲み屋のガイド本を一冊。もらった図書カードがあったのでそれで支払う。

赤い雑誌2冊

写真を受け取って外に出たら日暮れたベンチでスマートフォンをいじっている会社員がいて足元に鶺鴒(せきれい)がいる。鶺鴒はあまり人を恐れないが、ちょこまか歩きのくせに妙におっとりしている。会社員が立ち去った後もそこにいるので写真を撮っていたらこちらに近づいてくる。オフィス街のベンチで飲み食いする人たちから餌をもらって人慣れしたのかもしれない。

夕暮れの鶺鴒

帰宅して先ほど写した鶺鴒の写真を見たら右脚がひどく変形しており、実はああやって物乞いをして生き延びていたのかもしれない。なんだかもの悲しい気分になったら、急ぎ足で夕暮れがやって来た。(2018年2月19日)


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◉カレーラーメンの麺

2018年2月19日
僕の寄り道――◉カレーラーメンの麺

昨夜のマンション内食事会で東洋史学者の宮脇淳子氏にもらったラーメン。富良野にある佐々木製麺所がつくった自然乾燥麺シリーズで、北海道から届いたという。味噌、塩、醤油の他にカレー味がある。どれかふたつくれるいうので迷わずカレー味を選んだ。

去年も同じものをいただき、味噌、塩、醤油、カレーを食べくらべてみたら群を抜いてカレー味がおいしかった。カレーうどんにせよカレーそばにせよ、たとえインスタント食品であっても、カレー味のスープが美味しい商品はある。この袋麺の優れている点は麺自体にスパイスが練り込んであることで、ちゃんと麺とスープが絡みつくような一体感がある。これぞカレーラーメンと思う。


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◉八女茶と静岡茶

2018年2月18日
僕の寄り道――◉八女茶と静岡茶

マンション内で向こう三軒両隣的な付き合いを喜ぶ隣人たちが、手料理と飲み物をコミュニティルームに持ち寄って食事会をしている。

そういう付き合いに加わって四年も経つと、高齢な隣人ほど加速度的な劣化が著しい。体が動かなくなり、精神的な筋力が衰えて思考や記憶も思うにまかせなくなる。言葉ではなく文字に書いてメモを渡す習慣が必要になった。

今夜は最高齢のおかあさん相手に楽しく脳機能訓練もどきを手伝えたらいいなと思う。そういえば彼女は九州の八女地方出身だったことを思い出したので、八女茶のことをちょっと調べてにわか話題づくりをする。

八女茶といえば筑後茶とも呼ばれる釜炒り茶の本場だったと本で読んだ知識にある。陶器の釜を焼く技術もあった。現代では蒸して揉む煎茶が主体になっているけれど、煎茶技術を切り開いた静岡茶との接点があれば話題にもなるだろう。

調べてみたらあったあった。粗悪な釜炒り茶の輸出禁止で打撃を受けた頃、当時宇治の製茶法に改良を加え、独自の蒸製緑茶で躍進していた静岡から技師を招いたと記録にある。製茶法の伝習を行うとともに山の茶樹をかまぼこ型の茶園に整備し直して生産性を上げ、八女茶という統一ブランドを確立して静岡茶にならったのだという、

よしよし、以前静岡の新茶を届けたら八女もお茶の産地だと自慢していたので、こういう話の持って行きかたなら心も動くだろう。書きながらのリハーサルである。装いを新たにしたマンション内ふれあいダイニングは本日午後 6 時開始になる


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◉他己(たこ)

2018年2月16日
僕の寄り道――◉他己(たこ)

「自己があるなら他己(たこ)もあるのか」と冗談を言って笑うのを聞いたことがある。他人が自分をどう見ているかという情報を基にした「他己分析」なるものがあると聞いて自分も笑った。ところが鎌倉時代の禅僧道元が書いた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』に「他己」が出てくる。

「みずから」と「おのれ」と同じ意味を重ねた熟語が自己なので、「他人」と「自分」という反対の意味をくっつけた他己がおかしいと感じる。そして軟体動物のタコを連想するので他己分析を間抜けに感じて笑ってしまう。

正法眼蔵に出てくる「他己」は道元がつくってよく使った言葉だそうで、大乗仏教では「自他不二(じたふに)」 「自他一如 (じたいちにょ)」という。道元の「他己」は、他者と自分がはじめから別人として存在しているのではなく、まったく同じ人間のあいだにとり結ばれる関係が、結果として他者と自分を生じさせていると言いたいのだと思う。「関係」こそが自分と他人をつくる。

そうであるなら「他己」という言葉はおかしくない。他者とは自分がつくりだしている幻想、外部に投影した自分の思い込みに過ぎないし、他人が見る自分とは他者によって投影されている幻想にすぎない。そういう意味で「他己」という言葉はとても大切なことを指し示している。


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◉赤ペンと消しゴム

2018年2月15日
僕の寄り道――◉赤ペンと消しゴム

このところ仕事場で赤ペンと消しゴムを見かけない。使う機会が減ったからだ。使う機会が減ったものの、必要が生じた時に無くては困るのが赤ペンと消しゴムである。

「昔はあんなにあった消しゴムが最近は見当たらないね」
と言うと
「そうなのよ」
と妻が言う。

珍しく校正をして指示を出す必要が生じ、探すと引き出しにも筆立てにも赤ペンが見当たらない。

「昔はあんなにあった赤ペンが最近は見当たらないね」
と言うと
「そうなのよ」
と妻が言う。

使う機会が減ったものの、必要が生じた時に無くては困るという点で、赤ペンと消しゴムは缶切りと栓抜きに似ている。


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◉修行と悟り

2018年2月14日
僕の寄り道――◉修行と悟り

草枕を読んでいたら禅の本が読みたくなり、都合のよいことにわが家の墓が曹洞宗の寺にあるので、道元の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)入門書を買って未明に目がさめるとパラパラやっている。

大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)を僧侶がパラパラする風を受けるだけで読んだに等しい功徳があるというけれど、電子書籍は風が立たないのでちゃんと読む。

郷里の寺で法事があると住職が読む修証義(しゅしょうぎ)は正法眼蔵の要点を一般人向けに要約したもので、そのやさしい現代語訳を読んで風にあたると、そうか坊さんはそんなことを言っていたのかと興味深い。「修」は修行「証」は悟り「義」はことわりである。

未明に目が覚めて布団の中で入門書を開くと、

修のほかに証をまつおもひなかれ
(修行を離れて悟りを求めてはならない)

道元はこんなことを言っている。ふむ。本を閉じてもう少し寝る。

本郷、落第横丁の蕎麦屋。友人であるカメラマンのお兄さんのお嫁さんがここの娘さんだという。要するに義姉だ。

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