コミュニティバスと巡回販売と宅配

2017年7月28日
僕の寄り道――コミュニティバスと巡回販売と宅配


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由比の旧東海道を歩いていたら、道沿いには自販機もないから飲み物を持っていけと言い、この辺の方ですかと尋ねたら「山の方から来たと答えたご婦人と別れ、薩埵峠へ向かう道を歩いていたらトラックを利用した巡回販売車がやってきた。

商店など無い街道沿いで暮らす人びとの暮らしはこういう仕組みで支えられている。家並みの壁には電話やFAXで注文すれば、どんなものでも配達しますと書かれた青果店のポスターも張られていた。

「山の方」からやってくるという女性は車を運転されるように見えないので、往復の足はどうしているのだろうと思ったら、街道沿いの壁に地域コミュニティバス「ゆいばす」のポスターが貼られていた。

帰省時に海岸を通過するだけで、いままで知らなかった由比の「山の方」に行ける乗合バスがあることがわかった。嬉しい。この夏の帰省、次はそれに乗ってみようと思っている。



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寺尾と西倉沢の時計つき掲示板

2017年7月28日
僕の寄り道――寺尾と西倉沢の時計つき掲示板


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猛暑の旧東海道由比を歩いていたら声をかけてくれたご婦人がおり、暑いから冷凍庫で冷やしておいたチョコレートをめしあがれと言う。この地域の人は親切なのだ。

ひとついただいて礼を言ったら残りも持って行けと言い、
「どっちの方からいらっしゃった?」
と聞くので
「東京から来ました」
と答えたら
「そうじゃなくて由比と興津、どっちの方からいらした?」
と言うので、ああそうかと思い
「由比駅前から歩いて、これから薩埵峠を越えて興津駅まで歩きます」
と言ったら
「この辺は自動販売機もないもんで、飲み物は用意してある?」
と聞くのでだいじょうぶですと答えた。

ちょうどよいので
「このちょっと手前、寺沢自治会館に入る細道の角に時計のある掲示板がありますね」
と言ったら
「ええ、由緒ある物らしいです」
と答える。

「あの掲示板の脇には《昭和五年十二月、反対側には《退團記念》って書いてありますけど、いったい何から退団したんでしょう」
と聞いたら
「さあ、私はこの辺の者じゃないのでわからない」
と言う。
「ああ失礼しました、由比の方じゃないんですか」
と聞いたら
「いいえ由比ですけど、ちょっと山の方なんです」
と言う。《どっちの方》や《この辺》が、海岸ぞいの狭隘な地域では尺度が随分違うのだ。

ご婦人に礼を言って別れ、西倉沢まで来たら同じようなコンクリート製掲示板があり、こちらは大正十参年に作られ、裏には由比町西倉澤分團の入団者と退団者の名前が彫られていた。

ああそうか、とやっと謎が解けた。どうやらこの地区では消防団の退団者名と入団者名を刻し、記念として地域に時計つき掲示板を寄贈していたらしい。

こういうコンクリート製の掲示板は、どこか別の地域でも見たことがあるけれど、東京だったか千葉だったか思い出せない。いずれにせよ街灯と時計と掲示板が、地域にとってとても大切だった時代の、ほのぼのとする地域遺産である。


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由比東倉沢の八阪神社

2017年7月28日
僕の寄り道――由比東倉沢の八阪神社


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東海道最大の難所である由比は親知らず子知らずの伝説も伝わっている。かつては命がけで波打ち際を通行して命を落とすものもいたらしいが、徳川の時代になって薩埵峠越えをする中道、上道の整備が行われて安全な通行ができるようになった。いま東海道線や国道が通る僅かに平坦な陸地である下道に当たる部分は安政の大地震によって出現したとされている。その狭隘な海沿いに旧東海道の間の宿(あいのしゅく)の家々や民家が建って暮らしが営まれている。

由比東倉沢にある東海道線の踏切。踏切の向こうに波除の低いコンクリート壁が見え、その向こうが昭和8年に開通した国道1号線。その向こうはちょっと前まですぐ海だったのであり、台風の日などは国道は通行止めになるし、通過する列車の窓には波しぶきが飛んで来た。


踏切から旧東海道に向かってのぼっいていく小路があり、両側に民家が立ち並び、旧東海道側から見れば海辺へ向かう漁師の道になっている。

旧東海道沿いの崖の上に八阪神社(石柱はもちろんゼンリンやマピオンの地図でも八阪神社になっているがウェブ上では八坂と書いてあったりするがあり、社にのぼる石段はこのあたりの神社が大抵そうであるように60度もある急角度になっている。

石段を登って振り返ると、崖沿いにある僅かな陸地に日本の動脈が束ねられているこの地域の有り様がよくわかる地点になっている。


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永福稲荷神社の石

2017年7月27日
僕の寄り道――永福稲荷神社の石

初めての八王子なのでスマホの地図を広げ、古そうな神社を探したら市守神社があった。駅前から真っすぐ歩いて市守神社に行ってみたら観光案内板があり、脇の道が旧甲州道中であることがわかった。

旧甲州道中を歩いて竹の鼻の一里塚跡に行ってみようと思い、古い蔵などを眺めながら右に折れたら左手に永福稲荷神社があった。

古くからこの場所にあった神社のようで、宝暦六年八月二日(1756年)に八王子出身の力士八光山権五郎が再建したのだという。境内に力士石像のある由縁である。

小さな祠の脇に芭蕉の句碑があり、八王子出身の女流俳人松原庵星布(まつばらあんせいふ、1732-1815)の書とあるが、達筆すぎて読めない。

帰宅して調べたら

蝶の飛ぶばかり野中の日かげかな

だという。

鳥居正面脇の石垣が面白い。こういう立派な石を埋め込むために他の石を削ったのだろうか。石がいろいろ面白い神社である。


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道を探す

2017年7月27日
僕の寄り道――道を探す

散歩嫌いを散歩に誘うと、「目的もないのに歩いて疲れるのがいや」だと言う。わからないでもないけれど、自分は目的のない散歩が好きだ。

2017 年 7 月 27 日、はじめて歩いた八王子の町で、一級河川浅川にかかる大和田橋上で焼夷弾着弾跡を見学し、上流をながめたら河床の泥岩層が露出している奇景が見えた。やや、あれは宮沢賢治が好きだったという花巻の「イギリス海岸」と同じだと驚いた。

猛暑であり、八王子のイギリス海岸で水遊びをする子どもたちが見えたので、あの場所に行ってみたいと思う。あそこへ行ける道があるはずだと上流に向かって左岸を歩いたけれど、河川敷に夏草が生い茂って河原まで通う道がない。

それでもあんなに人の興味をそそる場所には、かならずおおぜいの人が行ってみたい一心で踏み分けた小道があるはずだと思い、歩き続けたらやはり最短距離で河原に向かう夏草の踏み分け道があった。

午前中の「絹の道」歩きもそうだけれど、自分は人が歩くことによって踏み分けられた《道を歩くこと》自体が好きなのだろう。道はそもそも目的があって作られるものであり、その目的が何だったのかを考えながらする散歩が好きなのだ。

花巻のイギリス海岸もそうだけれど、ここ八王子のイギリス海岸でも、メタセコイヤや動物の化石がみつかっており、学問上でも貴重な場所らしい。


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絹の道を歩いてみた

2017年7月27日
僕の寄り道――絹の道を歩いてみた

はじめて八王子に出かけたので、以前から気になっていた「絹の道」を歩いてみた。

市指定史跡 絹の道
指定区間 御殿橋から大塚山公園(道了堂跡)まで
安政6年(1859)の横浜開港から明治はじめの鉄道の開通まで、 八王子近郷はもとより長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、 この街道(浜街道)を横浜へと運ばれました。 八王子の市にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、 財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれました。 なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代の末に名づけたものである。
 (八王子市教育委員会)

このあたりは激しく宅地開発が進められているようで、地図や航空写真を見て、その変貌ぶりをうかがい知ることができる。絹の道と名付けられた古道も、かつて十里というから約40キロもあったのが、のこり1.5キロほどになって保全の対象となったという。道了堂跡がある大塚山公園から鑓水(やりみず)村の名主であった八木下要右衛門屋敷跡に建つ「絹の道資料館」までが「絹の道」として残されているわけだ。

大塚山から別れる「絹の道」ではない道。迷ってこちらも歩いた。

絹の道途中でひぐらしが鳴く木陰があったのでレコーダをすえて音を採集し盛大に蚊にくわれた。

平日ということで誰もいない資料館に入って小一時間ほどかけてじっくり見学した。八王子から横浜まで絹を運んだ道をマクロ的に見るために、明治のフランス式測量地図へとプロットした資料が展示されていた。

そしてマクロ的地図の中で、この資料館のある鑓水の地域をミクロ的に見るために立体地図化した資料があってとてもおもしろい。谷戸のある入会地にどんな暮らしが営まれていたかがわかる。

この鑓水の商人たちが栄華をきわめたのは、たかだか五十年ほどだというけれど、たいしたひと時代だったのだろうと思う。戦後五十年の間に日本が復興と高度成長とバブル経済崩壊までいたった年月に等しい。

「ありがとうございました」と管理者に会釈して外に出たら、門前には緑の田んぼがあり、草むしりに精を出されているお百姓がいた。この景色はずっと変わらないで往時のままなのだろう。


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肉うどんの話

2017年7月27日
僕の寄り道――肉うどんの話

人は他人の話を自分が聞きたいように解釈しながら聞き、自分が覚えておきたい話だけ残して、いらない話は暫時記憶から捨てている。覚えられる量に限りがあるのだから仕方がない。仕方がないとはいえ、そうしているうちに知識は痩せ、世界はだんだん狭くてつまらなくなる。他人の話を聞きながら、どんな話でもそのままメモにとる習慣は、知識を豊かにし、世界を広く楽しくすることがある。

思いがけない場所で久しぶりに会って話す機会を得た人が、思いがけず長野県上田出身だという。上田には何度か行ったし今も好きな町だと言ったら、また行く機会があればぜひ
「中村屋で肉うどんを食べてみてください」
などと言う。さっぱりした食感を楽しむうどんやそばに肉は合わないという思い込みがあるせいか、あまり興味のわかない話なので相槌を打つかわりに手帳を取り出し、熱心にメモをとることでやり過ごす。

自分の話を聴いている人にメモをとられるのは、不都合な話でない限り嬉しいものであり、そんなに喜んでもらえるならと話に身が入る。

やや前のめりになって肉うどんの話に熱がこもり
「その肉が普通の肉じゃなくて、なんと馬の肉なんです」
「へぇ〜、馬肉ですか」
「そうなんです。一杯580円、うどんは食べたくないけどそれで一杯やりたけりゃ肉だけの肉皿も頼めるんです。ぜひ行ってみてください」
などと言う。

出版記念会のお呼ばれで出かけた席なので、その後スピーチがあったり、地元八王子芸者の歌や踊りがあり、酒も入って酔っぱらい、上田の話もそのまま立ち消えになった。

八王子駅前にて

翌 7 月 28 日は静岡県清水で雑誌の編集会議があり、早朝の電車に乗って再び外出した。小田急線内で亡くなられた日野原先生の本を読んでいたら、酒を飲んだ翌日は肉などの良質蛋白をとって身体をいたわれと言う。

いつも小田原駅乗り換え時に構内の蕎麦屋で朝食にするのだけれど、ふと手帳を見たら肉うどんの話があって昨夜の話を思い出した。

メニューを見たらこの店にもちゃんと肉うどんと肉そばがある。生まれて初めて肉そばを頼んでみたらなかなかいい。朝から天ぷらで口の中が脂っこくなることもなく、意外に後味もよくて、この豚肉を馬肉に替えたら上田風になるのだなと思う。メモにとったことで、経験がひとつ増え、世界が少しだけ広く楽しくなった。


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遅れを活かす

2017年7月7日
僕の寄り道――遅れを活かす

SHARP が Linux 搭載の Zaurus を売り出したのは、ちょうど親たちの介護が始まった頃(2002年)で、最終モデルとなった機種の発売が実母の看取りを終えた翌年(2006年)だった。今にして思えば短命な商品だったのだなと思う。そして iPhone の発売が 2007 年であり、Zaurus は引き出しの隅で埃をかぶり、ポケットにはいつも iPhone がある。

このところポケットに Zaurus のキーボード付きが復帰し、本を読みながらのメモ取りなどに重宝している。自身で通信機能を内蔵しないので通信アダプタなしではネットに繋がらず、そういう弱点がかえって、煩わしさを抱え込まず、明窓浄机風に清々しく、しかも電池が長持ちするという、美点となって返り咲きしている。ただの小さな日本語ワープロである。

「子どもの長所を見つけて伸ばす」などと言われるけれど、短所と決めつけられて劣等感を抱いたり、いじめの標的にされそうな個性を見抜き、武器として逆に活かすための指導こそが求められるものだろう。人間の場合は他人に対して短所と思われがちな独特な個性を、生存のための道具として長所に転じることができた人が、他人がやらない分野で傑出した業績を残す成功者になっていることも多い。

機械の場合はただ眠っているだけで、多機能化しすぎた最新機種に対する反動として周回遅れ的に存在価値が復活し、まるで時代の先頭を切っているように見えるということもあるわけだ。キングジムの pomera すら次第に重厚長大化してしまったいま、キーボードを使った文字打ちが軽快にでき、畳んでポケットに入るくらい小さくて、通信をしないかわりに電池が長持ちする、そういう日本語ワープロが発売されないものかしらと思ったら、引き出しの中にあった。


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