地図の中

2015年1月18日(日)
地図の中

01
たいへんな時代になったもので、住所がわかれば地図がたちまち検索され、航空写真で俯瞰もできるし、ストリートビューで玄関前まで行って、窓辺に干された洗濯物さえ見えてしまう。そういう仕組みが迷惑だと申し出ても通らないほどに普及してみると、地図グーグル検索の深みにはまってやっていることは、漱石がいう「賎しい家業」に似ている。パソコン画面という硝子戸を覗き込んでいるだけでできる簡単な探偵稼業である。

02
 宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈って貰った事がある。
 平生は白い金巾の幕で、硝子戸の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放り出してすぐ挨拶をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後へ廻って、鋏をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔し寺町の郵便局の傍に店を持って、今と同じように、散髪を渡世としていた事が解った。(夏目漱石『硝子戸の中』)

03
先日、早稲田の夏目漱石旧宅漱石山房跡に行って多少の土地勘もできたので、あの山房前にある細い道を東に下ったら、かつては小川があったのだろうかと、大正時代、震災前の地図を見たら小川が流れており、漱石山房も地図にちゃんと描かれていた。

04
「その橋向うのすぐ左側」ということは牛込区辨天町二十八番地で、そうか、ここに床屋があったのかとわかったものの、漱石が嫌った探偵ごっこをしたような気分であり、地図というのはあれば詮索せずにいられない魅力を持っている。

05
「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の姪でさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作は亡くなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩で亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸の中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。(夏目漱石『硝子戸の中』)

06
人の記憶もまた地図のようなものであり、根掘り葉掘りの話になった末、漱石もまた「たった一度」行っただけと書くくらいには奇妙な心持ちになったらしい。

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漱石山房跡へ行ってみた話

2015年1月17日(土)
漱石山房跡へ行ってみた話

01
漱石の畜鳥獣譚には、気がすすまないまま飼った鳥獣にいつのまにか愛着し、死なれて家人の不人情を誹りつつ自分も含めた人間の身勝手さをやるせなく見つめるという類型化があり、それでも滲み出る哀切の情が胸に迫るよう写生的にできている。

02
猫の場合はこんな風。

03
 猫は吐気がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。この頃では、じっと身を竦めるようにして、自分の身を支える縁側だけが便であるという風に、いかにも切りつめた蹲踞まり方をする。眼つきも少し変って来た。始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然たるうちに、どこか落ちつきがあったが、それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。けれども放っておいた。妻も気にもかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。
 ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾に腹這になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸声を挙げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢の袖を縫い出した。猫は折々唸っていた。
 明くる日は囲炉裏の縁に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注いだり、薬缶を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈の上に倒れていた。
 妻はわざわざその死態を見に行った。それから今までの冷淡に引き更えて急に騒ぎ出した。出入の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻起る宵あらんと認めた。車夫はこのまま、埋めても好いんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷かした。
 小供も急に猫を可愛がり出した。墓標の左右に硝子の罎を二つ活けて、萩の花をたくさん挿した。茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つになる女の子が――自分はこの時書斎の窓から見ていた。――たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝りは、静かな夕暮の中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤おした。
 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。(夏目漱石『永日小品』「猫の墓」)

04
犬の場合はこんな風。

05
 翌朝書斎の縁に立って、初秋の庭の面を見渡した時、私は偶然また彼の白い姿を苔の上に認めた。私は昨夕の失望を繰り返すのが厭さに、わざと彼の名を呼ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。彼は立木の根方に据えつけた石の手水鉢の中に首を突き込んで、そこに溜っている雨水をぴちゃぴちゃ飲んでいた。
 この手水鉢はいつ誰が持って来たとも知れず、裏庭の隅に転がっていたのを、引越した当時植木屋に命じて今の位置に移させた六角形のもので、その頃は苔が一面に生えて、側面に刻みつけた文字も全く読めないようになっていた。しかし私には移す前一度判然とそれを読んだ記憶があった。そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常の匂が漂っていた。
 ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎を見た。
「どうかしてやらないといけない。病気だから」と云って、私は看護婦を顧みた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。
 私は次の日も木賊の中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再び宅へ帰って来なかった。
「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」
 家のものはこう云って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。届書を出す時、種類という下へ混血児と書いたり、色という字の下へ赤斑と書いた滑稽も微かに胸に浮んだ。
 彼がいなくなって約一週間も経ったと思う頃、一二丁隔ったある人の家から下女が使に来た。その人の庭にある池の中に犬の死骸が浮いているから引き上げて頸輪を改ためて見ると、私の家の名前が彫りつけてあったので、知らせに来たというのである。下女は「こちらで埋めておきましょうか」と尋ねた。私はすぐ車夫をやって彼を引き取らせた。
 私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅がどこにあるか知らなかった。ただ私の小供の時分から覚えている古い寺の傍だろうとばかり考えていた。それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多の屋根を越してよく見えた。
 車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近づかなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北に当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒された裏庭を覗くと、二つともよく見える。もう薄黒く朽ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。(夏目漱石『硝子戸の中』)

06
そして文鳥の場合はこうだ。

07
 自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めた。空になった餌壺を眺めた。空しく橋を渡している二本の留り木を眺めた。そうしてその下に横わる硬い文鳥を眺めた。
 自分はこごんで両手に鳥籠を抱えた。そうして、書斎へ持って這入った。十畳の真中へ鳥籠を卸して、その前へかしこまって、籠の戸を開いて、大きな手を入れて、文鳥を握って見た。柔かい羽根は冷きっている。
 拳を籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静に掌の上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと座布団の上に卸した。そうして、烈しく手を鳴らした。
 十六になる小女が、はいと云って敷居際に手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ抛り出した。小女は俯向いて畳を眺めたまま黙っている。自分は、餌をやらないから、とうとう死んでしまったと云いながら、下女の顔を睥めつけた。下女はそれでも黙っている。
 自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端書をかいた。「家人が餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と云う文句であった。
 自分は、これを投函して来い、そうしてその鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴りつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。
 しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋るんだ埋るんだと騒いでいる。庭掃除に頼んだ植木屋が、御嬢さん、ここいらが好いでしょうと云っている。自分は進まぬながら、書斎でペンを動かしていた。
 翌日は何だか頭が重いので、十時頃になってようやく起きた。顔を洗いながら裏庭を見ると、昨日植木屋の声のしたあたりに、小さい公札が、蒼い木賊の一株と並んで立っている。高さは木賊よりもずっと低い。庭下駄を穿いて、日影の霜を踏み砕いて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子の手蹟である。
 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。(夏目漱石『文鳥』)

08
こういうものを繰り返し読んでいたら、猫や犬や文鳥が埋められたという早稲田南町七番地の旧居跡に行ってみたくなった。上富士交差点から早稲田行きのバスに乗り、早稲田鶴巻町で下車すれば昼休みの散歩で行ける距離だ。

09
山鹿素行の墓のある寺というのは宗源寺で、コンクリート造りのモダンな寺になっていた。そこから大通りを渡り、折れ曲がった路地をたどって漱石山房跡に向かったが、かすかな上り勾配になっていて、ちょっとした高台だったことがわかる。道沿いに犬や文鳥の話で登場する木賊(とくさ)が植えられているのが目についた。この辺の人は漱石を読むのだろう。

10
山房跡は都営住宅の裏手にあり、ちょっとした公園になっていて隅に小さな資料館がある。区のシルバーボランティアらしき人が常駐していて、引き戸を開けて中に入ったら「こちらにいらっしゃるのは初めてですか」という。そうですと答えたらたくさんの資料をもらい、展示物をざっと説明したあと、「私が説明するよりよくわかりますからビデオをご覧なさい」という。

11
ビデオを見ていたら七十がらみの紳士がやってきて、来月四十人ばかり引き連れて見学に来るけれど、ここで弁当を使わせてもらっていいかという。四十人も入れないけれど、外でいいならかまわないと答えながら二人は外に出て行った。年寄りばかりではないにしろ、二月の寒空の下、戸外で弁当を使うのは辛かろうと漱石にかわって思う。

12
漱石が飼った鳥獣を供養した猫の塔は空襲で灰燼に帰したそうで、現在あるものは戦後復元されたものだという。ストーブのきいた資料室でひとり硝子戸ごしに眺めるようなビデオ映像を見ていたら、昭和28年、除幕式に列席する鏡子夫人の姿があった。

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写生文

2015年1月13日(火)
写生文

01
寺田寅彦の書いた表立って理科的でない写生文が好きだ。たとえば「写生紀行」とか「嵐」など。

02
その「嵐」について漱石が高浜虚子宛に出した手紙に書いていた。
「寅彦、「嵐」と題する短篇を送りこし候。例の如く筆を使わないうちに余情のある作物に候。」(高浜虚子「漱石氏と私」)

03
筆を使わないとは、書き手の中で内面化されず、他者そのままを素描したという意味で写生的であるということだろう。
「壮大なこの場の自然の光景を背景に、この無心の熊さんを置いて見た刹那に自分の心に湧いた感じは筆にもかけず詞にも表わされぬ。」(寺田寅彦「嵐」)

04
その寺田寅彦が高浜虚子の写生文について書いていた。
「近頃の『ホトトギス』で虚子の満州旅行記を時々読んでみる。やはり昔の虚子が居るような気がする。筆が洗練され、枯淡になっていても、やはりどこか昔の虚子の「三つのもの」や「石棺」時代の名残のようなものが紙面の底から浮上がって来るように私には感ぜられるのである。しかしそういう点を高浜虚子氏に対して感ずる人は割合に少ないかもしれない。丸ビル時代の『ホトトギス』しか知らない人にはちょっとそれが分りにくいのではないかと思う。」(寺田寅彦「高浜さんと私」)

05
千駄木の文章会時代に虚子が書いた写生文を読んでみたいけれど、青空文庫に収録されていないので、やはり国会図書館行きかなと思った。「定本高浜虚子全集」の目録をアップされている方がいて、目指すものは第8巻写生文集にあった。検索したら古書で送料込み¥298と電車賃並みだったので注文した。

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夢の進化

2015年1月12日(月)
夢の進化

01
物心ついた頃から一貫して、夢に他人が出て来ることがなかった。何歳まで生きるかわからないけれど、人生の大半をそういう無人の夢だけ見て過ごしてきた。

02
それが人並みに登場人物のある夢を見るようになるのは、1から2に世紀の頭が変わった頃からで、今にして思えばインターネットが普及して仮想世界の人々と知り合い、親たちが次々に倒れて現実世界に目が開いたからかもしれない。

03
夢に登場人物があるようになり、さらに最近では夢の中で他人と交わした会話の内容も明瞭に覚えており、次第に論旨も明快になっているような気もする。

04
そして最近はもっと夢と現実が入り混じり、夢の中で仕事の発想を得て絵に描いたりする。今朝は、やりかけの仕事を自分で評論してここをこう手直ししたほうがいいなどと言い、目が覚めて思い出すと実に的を射た指摘なので感心してしまう。夢が自分に役立つようになった。

05
夢もとうとう自分に意見するまで進化したかと驚く一方で、加齢にともなう人格的変化と、なんらかの原因で睡眠の質が変わったのではないかといぶかしんでいる。

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負けず嫌い

2015年1月10日(土)
負けず嫌い

01
「負けず嫌い」というのはヘンな言葉だ。食べてもみないでその食べ物を嫌うことを「食わず嫌い」や「食べず嫌い」という。それにならえば、「負けず嫌い」は負けてもみないで負けることを嫌うことになってしまう。

02
負けることが好きな人は珍しい。誰でもたいがい負けることが嫌いである。負けてもみないで負けることを嫌うのが「負けず嫌い」ならしごくあたりまえの話だ。明治以前はすなおに「負け嫌い」と言ったという話も聞く。人はみな負け嫌いである。

03
高浜虚子「漱石氏と私」を読んでいたら明治三十三年の思い出話に面白い言葉が出てきた。

04
「その日寅彦君は初めから終いまで黙って私たちの謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかしたところが大変拙いなどと漱石氏の謡に冷評を加えたりした。そうすると漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などと負けず我慢を言ったりなどした」(高浜虚子「漱石氏と私」、寅彦は学生だった寺田寅彦)

05
「負けず我慢」という言葉を初めて聞いた。これなら漱石氏の心持ちもわかる気がする。耐え忍ぶという意味の我慢は近世の使い方だ。曼は目を覆って隠すことなので、りっしんべんのついた慢は仏教語で思い上がりの心、思い上がりは過剰な自己肯定なので、我慢とは自分という不確かな存在に拘泥するあまり、吾(われ)が地に足のついていない状態をいう。

06
他人から見て明らかに「負けんとする状態」であるのに、自分が負けるということを受け入れ難くて、地に足のついたあるがままを喪失していること。漱石という人はそういうふうに自分で自分を苦しめて衰弱する人だったように思う。

07
負け上手というのは勝ちに匹敵する上手である。地に付いた足があれば自分を見失って、自分の亡霊に苦しめられることがないし、弱い自分を受け入れて強くなる機会でもある。「負けず我慢をするな」というのは良い言葉だと思うし、負ける時は潔く負けてみろという意味に捉えれば、「負けず嫌いはいけません」もまた含蓄がある。勝手な私論だけど。

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著者近影

2015年1月9日(金)
著者近影

01
仕事がらみで本を乱読するうちに思いもかけない方向へ脱線し、親たちと同じ昭和一桁生まれの学者が書いた哲学入門書が気に入ってしまい、目が覚めた未明の読書用に、電子書籍で出ている別の著作も買ってみた。

02
その電子書籍がなかなかの名著で、書いてあることが完全に理解できたと思えるまで何度でも再読したいと思い、持ち歩いて線引きしながら熟読するため、紙の書籍も購入した。幼い頃父親がいなくなったので、立派になって帰ってきた父の背を追いかけるような不思議な気分だ。

03
電子書籍と違って紙の書籍は裏表紙に著者の顔写真入りの略歴があり、書かれたものから想像していた顔かたちとあまりに違うのでびっくりした。本を読んでいるときは、深い悟りに達して慈愛に満ちた風貌のおじいちゃんを想像したのだけれど、著者近影は写りが良くないのか迷える因業爺(いんごうじじい)にしか見えない。

04
名は体を表すというけれど「体」は本質という見えない実態のことであって姿かたちのことではない。名が姿かたちを表すわけではないように、容貌もまた目に見えない本質を表さない。だが容貌が体を表さないことを受け入れたうえで人を愛するのは深さにおいてまさっている。ちょっと脱線した。

05
どうして書籍に著者近影を載せるのだろうか。写真を見て「なんだ、こんなおっさんが書いているのか」とわかることがなんの足しになるのかわからない。著者近影などないほうがいいと思う。

06
そう言いながら著者近影があれば見入ってしまうし、名は体を表さないとわかっていても、名前を見て思い浮かべるのは姿かたちなので、著者近影は人を見かけで判断しようとする人間の性(さが)に対する、特典的な「おまけ」なのだろう。おまけつき略歴。

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見かけと中身

2015年1月8日(木)
見かけと中身

01
今和次郎という民俗学研究者の名前は聞いたことがあるけれど本は読んだことがない。加藤秀俊の本を読んでいたら面白そうなことが書いてある。今和次郎が監修者となって行ったテレビ番組内の実験の話だ。

02
今先生は 「実験的考現学 」をさらにすすめて交番のお巡りさんにどてらを着せてみる。駅の改札口の駅員に色メガネをかけてジャンパ ーを着せてみる。そして反響をみたのである。あたりまえのことだが、道ゆくひとびとはどてらを着た警察官を警察官とはみとめず、やくざ風の駅員を駅員とは認識しなかった。みんなふしぎそうな、そして不安にみちた目でかれらをながめたのである。だから制服がないと 「社会的秩序がしっくりいかない 」というのがその結論。(加藤秀俊『隠居学』講談社より)

03
新年会で同じマンション内に暮らすご夫婦を仕事場に招待したら、すっきり片付いていて同じ建物内とは思えないと言うので、「そりゃあそうです、ここでは衣食住をしていなくて、そういう生活臭がないからですよ」と答えた。

04
面白そうなので今和次郎の著書を二冊ほど注文し、まず『日本の民家』が届いたので本屋まで受け取りに行ったら、前書きにそれに通じることが書いてあった。都会で暮らす人々は仕事の場が別の場所にあることが多いので、生活の場は衣食住の快適さだけを求めて、好みの住まいをつくりあげられるのだと。

05
仕事の場はその逆で、衣食住のことを考えなくていいので、暮らしのやるせなさをとことん排除した場所作りができる。だから同じ集合住宅内の似たような間取りでも、室内が全く違って見えるのだ。

06
外観が個人の自由にならないので画一的に見える集合住宅生活者ほど、室内が個性的になっていて、招じ入れられると驚くことが多い。病人の家は病人らしく、酒飲みの家は酒飲みらしく、そして遊び人の家は遊び人らしく生活の造形ができている。

07
没個性的な暮らしに見える集合住宅が立ち並ぶ都会でも、その中は一つひとつきわめて個性的になっている。はみ出す個性と個性が干渉しあうことも多く、マンション管理組合の仕事を引き受けたりすると、そういうことがよく見えてくる。ルールとは着用を義務付けられた制服のようなものである。

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離れ・裏座敷・隠居所

2015年1月7日(水)
離れ・裏座敷・隠居所

01
高浜虚子「漱石氏と私」を読んでいたら、中学校教師として松山に赴任した漱石が住んでいた下宿の話があった。

02
「漱石氏は一番町の裁判所裏の古道具屋を引き払って、この二番町の横町に新らしい家を見出したのであった。そこは上野という人の持家であって、その頃四十位の一人の未亡人が若い娘さんと共に裏座敷を人に貸して素人下宿を営んでいるのであった。裏座敷というのは六畳か八畳かの座敷が二階と下に一間ずつある位の家であって漱石氏はその二間を一人で占領していたのであるが、子規居士が来ると決まってから自分は二階の方に引き移り、下は子規居士に明け渡したのであった。」(高浜虚子「漱石氏と私」)

03
漱石は一年近くこの裏座敷一階に住み、肺病療養のため松山に帰省した正岡子規に譲って二階に移り、子規は夏から秋をここで過ごした。

04
そういう話ではなく、虚子の「裏座敷」という言葉に興味を惹かれた。この裏座敷の持ち主だった上野氏の姪から虚子に届いた手紙には
「あの離れはたしか私たちがひっこしてから、祖父の隠居所にといって建てたもののようです。襖ふすまのたて合せのまんなかの木ぎれをもらっておひな様のこしかけにしたのを覚えています。」(高浜虚子「漱石氏と私」)
とある。略していう「離れ」は「離れ座敷」のことであり、「隠居所」という文字を読むと自分が子どもだった頃のことが思い出される。

05
東京下町で暮らした小学生時代、庭のある立派な家では裏手に離れがある家が多く、離れにはたいがい隠居した年寄り夫婦がひっそりと暮らしていた。おじいさんは中風で寝たきりになっていることが多く、わがアパートの大家もそういう家で、いつも「ばあさん!ばあさん!」と叫ぶ声が真っ暗な家の奥から聞こえた。遊んでいるとおばあさんに声をかけられ、
「お菓子をあげるから上がっておじいさんのそばで食べてちょうだい。そうするとおじいさんが喜ぶから」
と言われて上がりこむことがよくあった。薄暗い部屋に敷いた布団で寝たきりになったおじいさんが嬉しそうに笑っていたのを今でも覚えている。それは虚子が言うように、離れや隠居所というより「裏座敷」がふさわしい光景だった。

06
「遠野の山口という小さな集落があります。集落は、小さい沢に沿ってあって、その片側の山の中腹にダンノハナという小さな村の墓地があって、ダンノハナのちょうど向かい側に蓮台野という台地がある。山口集落では六十歳になった老人たちを蓮台野にあげたというんです。でもすぐには死なないから、日中は降りて畑を手伝ったりする。それで一食の夕飯をもらって、また夜は蓮台野にあがっていく。そうしているうちにだんだん弱って死んでしまうんでしょう。その蓮台野にいる老人たちは、毎日毎日、対岸にあるダンノハナの墓地を見て暮らした、というすさまじい伝承が書いてあるんですよ。」(『考える人』No.39特集ひとは山に向かう、池内紀との対談より湯川豊)

07
離れ・裏座敷・隠居所というのは山里から町に降りてきた人々にとって、蓮台野のような役割を持った場所だったのではないかといまになって思われ、それは都市化、高齢化、住環境劣化の進展とともに病院や老人施設などによって肩代わりされているのかもしれない。

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大田和先生と峠

2015年1月5日(月)
大田和先生と峠

01
小学生時代、教師が作る手作りプリントの、ガリ版印刷に憧れていた。正しくは謄写版印刷といい発案者はあのトーマス・エジソンだった。ガリ版の上にロウ紙をおき、鉄筆でガリガリと文字を書いたものを原紙にするスクリーン印刷だが、一枚の元絵からたくさんの複製ができるのが楽しくて、絵よりも版画、版画より写真、写真より商業美術と興味が繋がって今の職業についている。

02
そのガリ版印刷機が使えるというので中学では報道部に入った。早速学級新聞をガリ版印刷で作ることにしたがコンテンツがない。いまなら記事をでっちあげたり絵を描いたりして一人でもやってしまうけれど、当時はそんな自信もなかったので大好きだった国語教師の大田和(おおたわ)六男先生に原稿を依頼した。

03
国語が好きで進んで手をあげる生徒だったので、無理を承知で頼みに行ったら「いいよ、原稿用紙何枚?」と気軽に引き受けてくれた。出来上がってきた原稿は、先生が幼い頃仲間たちと遊んだ清水市郊外にある農業用ため池、山原堤(やんばらづつみ)に関する随筆だった。

04
ガリ版を切りながら、やはり大人の書くもの、しかも国語教師ともなると上手な文章を書くなと感心した覚えがある。残念ながら学級新聞は残っていないけれど、先生は原稿をお持ちだろうかとときどき思い出す。柳田國男の本を読んでいたらその「大田和」のことが出てきて驚いた。

05
「鎌倉の武士大多和三郎は三浦の一族で、今の相州三浦郡武山村大字太田和はその名字の地である」(柳田國男「峠に関する二、三の考察」)

06
なんで峠に関する考察に大田和が出てくるかというと
「中国では峠を「たわ」または「たを」といい、その大部分は乢の字を当てている。乢はいわゆる鞍部の象形文字で、峠の字と同じく和製の新字である。内海を渡って四国に入れば、「たを」とは言わずに「とう」と呼ぶけれども、「とう」はまた「たを」の再転に相違ない」(柳田國男「峠に関する二、三の考察」)
とのことで「おおたわ」は「おおきなたわ」すなわち「おおきなとうげ」なのだという。

07
生家のある清水区入江には三浦さんの姓が多く、おそらく大田和さんも三浦さんと同じく鎌倉時代まで祖先を辿れる家系なのだと思う。郷里で大田和を検索するとサッカー選手までいて驚いたが、電話帳検索したら秋吉町に先生の名があってびっくりした。多分覚えておられないと思うので会いには行かないけれど懐かしい。

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象を呑む

2015年1月3日(土)
象を呑む

01
どこかで幻術つかいが象を呑んで人々を驚かす話を読んだ気がするけれど思い出せないので、「ぞうをのむ」とひらがなで検索してやったら「臓を揉む」が大辞泉にあるので笑った。「臓を揉む」とは「苦しい思いをすること」だという。確かに「象を呑む」のも苦しそうで意味が遠くないからよけい可笑しい。

02
そうか、司馬遼太郎だった、司馬遼太郎が 1961 年に書いた『果心居士の幻術』にそんな話があったと思い出したが、果心居士が幻術で呑んで見せたのは象でなくて牛だったらしい。本がもう手元にないので本当にそうかはわからない。

03
今まで存在すら知らなかったり、著者の名前だけは知っていても読んだことのない本を知り、読んでみたいと思った瞬間、巨大な象を呑むような気がしてたじろぐことがある。

04
なぜたじろぐかというと、自分の知力では読めなくて悲しい思いをしないだろうか、限りある人生の残り時間をその本に費やす価値があるだろうか、価値があったとして得たものが残りの人生で役に立つだろうか、などという打算的な邪念が浮かぶのを押しとどめ得ないからだ。

05
それでも「えいやっ」と勢いで読み始め、最後のページを閉じた時、自分よりはるかに大きな象を呑み込んだような達成感があるのは苦しい思いをしたからだ。それこそが読書の醍醐味なので、名前だけ聞いて読んだことのない民俗学研究者今和次郎『今和次郎採集講義』と『日本の民家』を注文した。

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ネズミの寒中水泳

2015年1月2日(金)
ネズミの寒中水泳

01
京浜東北線田端駅、赤羽・大宮方面行き1番線ホームの崖側線路際に四角い小さな水槽があり、「鑑賞池」という札が掲げられている。

02
線路拡幅で崖側が削り取られる以前は滝があったりした場所なので、いまも壁面から湧水があり、その水を集めて池を作り、金魚を飼って育てている。

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自然の湧水を素朴な仕掛けで集めているせいか、水量の増減がある。昨夏はずいぶん水が減り、とうとう底すれすれに水位が下がって金魚が消えていた。どうしたのだろうと見ていたら、後ろの草むらがゴソゴソ動き、大きなネズミが飛び込んで水泳をしていた。

04
水位が減ったので金魚がネズミに食べられたのだろうと思っていたが、数日後には水が満たされて金魚が戻っており、何があったのかは謎になっている。

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元日は溢れるほどの水位があって金魚たちものびのび泳いでいたが、また後ろの草むらがゴソゴソして、くだんのネズミが飛び込むのでびっくりした。

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鑑賞池の金魚たちはみな大きくネズミの数倍もあるので、逐われたネズミが慌てて水から上がるのを見た。そのうちまた草むらがゴソゴソしてネズミが飛び込み、底近くまで潜水して池から上がって草むらへ消えた。

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寒いのになぜ鑑賞池に飛び込み、潜水までして寒中水泳をするのかが不思議だ。池の底に食べられるものが沈んでいるのではないかと思うのだけれど、意外にも湧水を集めた池の中が外気より温かいゆえの温浴だろうかとも思う。寒中水泳するネズミの真相はわからない。

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ベランダにハトが巣をつくって子育てを始めようとし、カラスがやってきて巣を襲い、そのまま卵と親鳥の姿が消えたことがあった。その後なんどもカラスはやってきて巣のあった場所を覗き込んでいた。カラスには記憶が残ったのだ。金魚池への飛び込みと潜水を繰り返すネズミに残っている記憶とはなんだろう。

09

加齢に伴って認知力が衰える年寄りは、短期の記憶が苦手になり、意外なほど長期にわたる過去の記憶が維持されている。カラスやネズミがいま目の前にある現象を見てではなく、過去の記憶を元に行動しているのを見ると、ますます記憶の不思議を感じずにいられない。

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他人以上家族未満

2015年1月1日(木)
他人以上家族未満

01
足かけ9年の在宅介護ののち、親が特養ホームに入所して5回目の正月になる。月日が過ぎ去るのは早い。

02
毎年、特養ホームでは施設内に設けられた神社に初詣しておせち料理と温かい長寿うどんを食べる新年会がある。この日ばかりはたくさんの家族がやってくるが、ひとりで新年を迎えるお年寄りも多い。

03
義母が暮らすユニットは老化に伴う認知能力が低下して、自分の家族もわからなくなったお年寄りが多い。毎日昼食食事介助に向かう妻も、母はもう私のことがわからないと思うと言っている。家族が来ないことを寂しがらないお年寄りが多いと思うと胸の痛みも少し和らぐ。

04
自分の家族すらわからなくなったお年寄りでも、目が会うたびに笑顔で挨拶するとちゃんと笑顔になる。そして微笑みながら
「だれ?」
などという。家族は見分けられなくても、もっと大きな環境にはちゃんと反応がある。

05
老化に伴って認知力が失われ、不穏な行動が毎夜起こるようになると、在宅で介護する家族は辛い。家族というのは言葉にできないほど良いものであり、それが壊れていく日々の辛さもまた言葉にならない。

06
少しだけ晴れ晴れとした顔で老人ホームにやってくる家族を見ていると、この人たちも辛い在宅介護を頑張った末、ここにたどり着いたのだなと思うことにしている。

07
たくさんの人が一同に集う施設内初詣風景、その雑踏の中のひとりとなって、お年寄りたちが反応する大きな場づくりに役立つため、今年もまた新年会に参加する。年老いて衰えた人にとって他人以上家族未満の人に護られて過ごすのが幸せであるようにも思うのだ。

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