【母と歩けば犬に当たる……49】

東海道みとり旅の記録
【母と歩けば犬に当たる……49】
 

49|別れの一本杉

 親と肩を並べるようにして、同じ速度で人生の並木道を歩き、村はずれまでやってくるとそこに一本杉がある。
 根方に石の地蔵さんがあって、そこを過ぎると親たちとの間に時間の感じ方に対する緩急の差が生じ、親たちが歳をとったこと、その人生の終わりが近いことを知ることになるので、その場所を勝手に「人生別れの一本杉」(★1)となづけた。
 年寄りの時間は駒落としのように早くなる。瀑布を前にした川の流れのようでもある。
「今度してあげるからね」
と言った時の〝今度〟は、若者にとっては〝今週中〟であったり、〝今月中〟であったり、〝機会があったら〟だったりするのだけれど、〝してあげる〟と聞いた途端に年寄りは今かいまかと待っていたりするのであり、そのうち、いい加減なことを言って年寄りの心をもてあそんでいる、などと怒り始めたりするのである。
「今度って言ったでしょう? こっちだって仕事があるんだから」
という言い訳は通用しない。年寄りには
「年寄りに残された時間は短いんだよ。だから今かいまかと待ってるんだよ」
という天下御免の大義名分があるので、
「ごめんなさい」
と謝るのは、不用意に好意の発言をした側と決まっているのである。
「広辞苑が引ける電子辞書を使ってみたい」
と母が言い出し、
「わかった、今度買ってきてあげるね」
と言ったら、翌日忘れずに買いに行くのであり、
「そんなに急がなくて良かったのに〜」
と嬉しそうに笑う顔を見て、早くしておいて良かった〜と思うのだ。
 食事中の会話で、理解が食い違った場合は、すぐさま辞書を引き、読み上げ、家族一人ひとりの思い違いによる齟齬を解消しておくことにしている。年寄りは自分の意見が通らなかったこと、自分が否定されたように感じたことを根にもつことが多く、針の穴ほどのわだかまりが、翌日にはかけ違えたボタンの穴ほどになっていることも多いので、「おやっ」と思ったらすぐに会話の交通整理をする必要があるのだ。
 一方で年寄りにはスローモーションのように間延ばしした時間で付き合わなければならないことも多い。
 親たちが通う大学病院の前に木が植えられていて、丸い実がなっているのに気付いたので、あれは何の実だろうかと夕食時に話したら、母が
「ああ、あれはスズカケの木で丸い実がなっているんだよ」
などと言う。いかに草木の事情に疎い息子だってスズカケの木くらいは知っているので
「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
と驚き、スズカケの木に丸い実がなるのは晩秋の頃だと指摘したくなるが、同じく怪訝な顔をしている妻に目配せして、「ふう〜ん」などと適当に相づちを打って結論を保留する。目の前で見ればすぐにわかる間違いを、目の前にそのものがない状態で言下に否定することは、思い込みの激しい年寄りにはよくないのである。
 数日我慢すれば定期検診の日がやってくるわけで、
「お母さん、先日話した丸い実がなる木はこれだけど、スズカケの木じゃないでしょう?」
「あはは、本当だ、スズカケの木じゃないね〜」
などと笑えるわけで、良かった〜、とホッとする。年寄りの考え違いを正すことも、現物があるからこんなにもスムーズなのである。
 結局トチノキに栃の実がなっていたことを確認し、肝心のCTスキャンの結果も栄養状態も良好であることを確認して、抗がん剤投与に入った母を残し、タクシーに乗って仕事に戻る。
 乗り合わせたタクシーの運転手がこれまた高齢で、厚生年金と国民年金を交互にかけつつ受給年齢に達したこと、社会保険窓口の担当者が何も知らないくせに横柄な態度であることなど、延々愚痴を聞かされ、それでも適当に相づちを打ちながら、早く上富士交差点につかないかなぁ、と心の中で呟く。
 もうすぐ上富士交差点という地点まで来たら運転手が突然振り向いて(じいさん、運転中に振り向くな!)、
「お客さん、上富士っていう地名は昔からあるんですか?」
などと言い出すので、年寄りだから仕方ないか、と深呼吸し、相手の時間に合わせて、
「文京区には本富士っていう地名もあるでしょう。富士神社がその名の由来で、今は上富士にあるけど、昔は加賀前田家藩邸、今の東京大学構内にあって…」
などと噛んで含めるように教えるうちに、タクシーは降りるつもりでいた別れの一本杉、上富士交差点をとうに過ぎている。泣けた、泣けた…。

(2004年6月18日の日記に加筆訂正)

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★1 『別れの一本杉』
高野公男作詞、船村徹作曲により1955年12月に発売された春日八郎のシングル盤。当時としては爆発的数字である50万枚売り上げの大ヒットとなったが、高野公男はその翌年肺結核のため26歳で亡くなった。

【写真】 見上げればトチノキにトチノミがなっている。

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