電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【熱海の香蘭亭】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 4 月 28 日の日記再掲)
4 月 28 日、静岡県清水で無人となった実家の片付け帰省。
ゴールデン・ウィークが始まり新幹線指定席も満席だったので東海道在来線普通列車でのんびりと西へ下る。
熱海止まりの列車の接続が沼津行きで中途半端なのと、ちょうど正午近くなので熱海で途中下車して昼食にした。あまり観光客相手くさくない店を探して路地裏を歩き小さなラーメン屋に入ってみた。
■静岡県熱海市田原本町。香蘭亭のある路地。「遠くからわざわざ立ち寄る香蘭亭」(店内の色紙より)。
中年女性三人組の先客がする話が聞こえ、どうやら温泉ホテル従業員が泊まり込みの勤めを終え、昼食をとってから帰宅するところらしい。
「これで、しっかり食べて昼寝するからかろうじて身体が保ってるようなもんだよねぇ…」
などと溜息混じりに言い、仲間同士の愚痴にも温泉地ならではの風情がある。
■香蘭亭のチャーハン。
炒飯をたのんだら花型にてんこ盛りになっていてほのぼのと嬉しい。お皿のマークがどこかのホテルのもののようであり、レンゲのメラミンという文字も懐かしく、さまざまな風情の味付けもあってかとてもおいしかった。
■頭上のテレビ。
入口脇に据えられたテレビ下の席に腰掛け、開け放った玄関から忍び込んでくる温泉町の風と香りと街の音を聞きながら一気に食べ終え、
「ごちそうさま!」
と勢いよく立ち上がったら、テレビをのせた棚で頭を打って
「ゴン!」
という鈍い音がした。
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【渭城朝雨潤軽塵+】
【渭城朝雨潤軽塵+】
渋谷区代々木1丁目。
静岡県清水の高校を卒業して東京に出た年に、こうしてこの路地の入口に立った。
撮影日: 07.4.16 10:49:17 AM
奥にあるノードビルはもちろん影も形もなかったけれど手前のビルは当時からあった。
ただそれだけのことにも感慨がある雨の日。
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【渭城朝雨潤軽塵】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 4 月 25 日の日記再掲)
4 月 23 日、郷里静岡県清水の隣組で不幸があり、通夜に出るためとんぼ返り帰省したのだけれど、通夜を取り仕切った若いお坊さんがとても面白くて、帰京後その夜の法話をなんど思い出しても感心してしまい、今週末の帰省時にどこの寺の住職だったのか確かめてみたくなった。
通夜の会場に着き、案内に従って席につき、式が始まるのを待ち、読経が始まったので静かに聞き、遺族・近親者のあとに続いて焼香し、喪主の挨拶が終わって退出かと思ったら、突然お坊さんの法話が始まった。
E=mc2(イー・イコール・エム・シー・スクエア)というアルベルト・アインシュタインの「エネルギー・質量保存則」の話が登場し、それは人間誰もが死の瞬間に 21 グラムだけ体重が減るという不思議な現象を紹介するための導入部であり、なんとアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画『 21 グラム』の話へと続いて行くのである。
■渭城の朝雨軽塵を潤す。渋谷区代々木二丁目にて。
やがてその読経と焼香の時間を合わせたより遙かに長い説法は、「渭城朝雨潤軽塵(いじょうのちょううけいじんをうるおす)客舎青青柳色新(かくしゃせいせいりゅうしょくあらたなり)勧君更尽一杯酒(きみにすすむさらにつくせいっぱいのさけ)西出陽関無故人(にしのかたようかんをいずればこじんなからん)」という漢文の授業でおなじみ、王維の詩朗読となり、昔の中国では柳の枝を振って人を見送ったのだ、という別れの話となって終わる。
■客舎青青柳色新たなり。
あまり経が上手なお坊さんではないな…と思い、経読み下手はすなわち話し下手なのか、話の中身がとっ散らかっている印象もあるのだけれど、清水弁丸出しで「話したい!」というエネルギーが溢れ(ひょっとして落研出身か…)しかも揺れる柳の枝のように話が長いので、不思議な説教がやっと終わった途端妙にすっきりした気分になって退出した参列者が多かったのかもしれず、それはそれで良い春の別れとなっていた気もする。
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お坊さんに失礼なことを書いた気もするので、どこの御住職か聞いたのをここにメモしなかったら、おもしろかった説法の内容とともに記憶から消えてしまった。(2021年7月1日追記)
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【場所の記憶+】
【場所の記憶】
静岡県清水桜橋町。
郷里静岡県清水でも比較的良く通る道であり、時折ここで立ち止まらざるを得ない場所でもあり、立ち止まるとついついこの異物にさわってしまうので、この異物の写真を見せられて
「さてここは清水のどこでしょう」
と言われても答えられそうな気がする。
この場所は清水次郎長も何度となく通ったはずの古道である。
東海軒が静岡駅で駅弁を売る商売を始めるに際し、権利を得るために一肌脱いだという次郎長もこの異物を見るとついついなでていた……という話しは
ありそうではあるけれど可能性はきわめて薄い。
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【プラモデルパッケージ原画と戦後日本文化】
【プラモデルパッケージ原画と戦後日本文化】
かつて東京の電機メーカーでサラリーマンデザイナーをしていたとき、ひょんなことで田宮模型のプラモデル、そのパッケージを印刷している印刷会社社長と知り合い、話を聞いたら静岡県清水市大曲出身とのことで意気投合して友人になった。
■静岡鉄道草薙駅にて
撮影日: 07.4.23 3:17:45 PM
田宮の模型のパッケージ、その製函していない校正刷りをサンプルに貰ったことがあるけれど、精緻なことは版画芸術といっても良い出来映えだった。
■静鉄電車車内にて
撮影日: 07.4.23 6:55:56 PM
4 月 7 日から 5 月 20 日まで静岡県立美術館で「プラモデルパッケージ原画と戦後日本文化」と題した企画展が催されているらしい。
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【場所の記憶】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 4 月 24 日の日記再掲)
2007 年 4 月 20 日(金曜日)の日記【桜とカトリックと渋沢栄一】で
「 1609 年「御浜御殿」が建った場所に326年後の 1935 年「カトリック清水教会」が建ったのだけれど、徳川家のものだったこの土地がどのようにして「カトリック清水教会」のものとなったのか、その変遷を知ってみたい」
と書いたら、美濃輪稲荷赤鳥居前の魚屋が実家の郵便ポストに手がかりとなる資料を投げ込んでくれたと言うので、日帰りお通夜帰省の際、実家に回ってありがたく取り出してきた。
資料を読んだら、なんとカトリック清水教会がある場所は、徳川頼宣( 10 男)が父家康のために隠居所として御浜御殿を建てる前、現在清水町にある実相寺だったのである。漁民が漁の最中に海中から発見したという毘沙門天を祀り、鎌倉光明寺の良忠上人が開山となって実相寺を創建したのが 1239(延応元)年の事である。それから 370 年後の 1609(慶長 14 )年、御浜御殿を建てるために移転を請われ、実相寺は次郎長通りそばの現在地に移ったのだ。
御浜御殿は家康の没後、妻であったお万の方(第十子頼宣=紀州家と第十一子頼房=水戸家の母)に請われて静岡市沓谷にある蓮永寺(勝海舟の実母と妹の墓がある)に移築(後に消失)され、御殿跡は屋敷守を置いて維持されていた。1774(安永 3 )年に火事で焼失しその後は田んぼとなったが、御浜御殿があった当時の松が 45 株残っていたので地域の人々が金比羅神社(一種の竜神信仰として広く船舶関係者の尊崇を集める)を祀った。通称「岡の金比羅さん」は現在下清水八幡神社に合祀され、その場所にカトリック清水教会と聖母保育園が建っている。
それがかつて浄土宗実相寺があった場所にカトリック清水教会が建っている今日まで、1239 年から 768 年間の歴史である。
■静岡県清水桜橋町。かつて小型 SL による軽便鉄道が走っていたと思われる櫻珈琲前の道。
新清水と新静岡を結ぶ静岡鉄道は、入江岡駅西側にあった鉄橋で東海道本線を渡って現在のルートから逸れ、入江南町と淡島町の町境となっている道を走り中村タイプ前を通り、トヨタカローラ脇の道を入り、櫻珈琲前を走って旧東海道追分に抜けていた。珈琲を焙煎する香り漂う櫻珈琲前を小型 SL の軽便鉄道が走っていた時代があったのだ。
■つつじ咲く入江小学校。
櫻珈琲前を直進すると道は入江小学校に突き当たり、そこから先には校内を SL が走っていた時代があったはずなのだけれど、時の経過とともにそういう場所の記憶もまた歴史の彼方で忘れ去られて行く。
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【はちがや大坪町清水駅】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 4 月 23 日の日記再掲)
郷里静岡県清水にある無人となった生家の隣組(となりぐみ)に不幸があって、4 月 23 日午後、お通夜のために帰省した。
喪主となられたご主人が
「遠いところから来て貰って悪いっけね」
と頭を下げられたけれど、午前中で仕事を片づけて故人とのお別れに日帰りできるほど、幼い頃に比べたら東京と清水の距離は近くなっている。
故郷で暮らす知り合いに不幸があると、故人を悼む気持ちはもちろんだけれど、故郷そのものが少しだけ死んだような気がして、身を削られるような痛みに似た感覚があるのが不思議だ。
■静岡鉄道草薙駅にて。
東京駅 13 時 23 分発こだま 575 号に乗車し静岡駅で下車し、15 時 05 分発興津行きに乗り草薙駅で下車して静岡鉄道草薙駅まで歩き、静鉄電車に乗り換える。静岡鉄道草薙駅ホームから清水方面を見ると、あの向こうで横たわって待っている人の姿が見えるような気がして切なく、それはかつて病んだ母を残して静岡駅を発車した新幹線車窓から清水平野を眺めて「(ああ、あの街に病んだ親が横たわっている)」と思って切なかった気持ちに似ている。
間もなく清水蜂ヶ谷(はちがや)で『べにふじ』の花が咲くので、蜂ヶ谷在住の友人と缶ビール片手に花見をしようと約束し、一緒に花見に行かないかと郷里の友人に声をかけているのだけれど、『べにふじ』どころか蜂ヶ谷という町の在処(ありか)を知らない人も多い。自分もまたインターネットを通じて蜂ヶ谷に友だちができるまで蜂ヶ谷の場所を知らなかったので似たようなものであり、蜂ヶ谷を知っているといまでも地図上で知っているだけでまだ一度もその地を踏んだことがない。
■静岡鉄道桜橋駅前にて。
お通夜が終わり、静岡鉄道桜橋駅に向かって歩いていたら南幹線をしずてつジャストラインの路線バスが通りかかり、行く先表示に「はちがや大坪町清水駅」という遠く隔たった三地点が併記されているのを見て頭の中が混乱してしまい、自分もまたひどく郷里の地理に疎いことを思い知らされる。
終電車で帰京できればよいので草薙駅前あたりで飲んで帰ろうかとも思ったけれど、黒ずくめの礼服で止まり木にとまったカラスのように場になじめない自分を思い浮かべてやめ、缶ビールを買って上り新幹線に乗る。喪服での帰路というのも、この世にひとり置き去りにされたような気がして毎度切ない体験である。
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【意味】
【意味】
意味はわかりやすければよいというものでもない。
意味不明なるが故に心惹かれるということは
宣伝広告を有効なものとするための大切な効果のひとつである。
静岡県清水上清水町。
記念塔通り沿いにある「清水キーセンター」の看板。
ドアを開けようとしている男は囚人服のズボンをはいて覆面をして鍵束を持っているのでこれでもかとばかり賊とわかるようになっている。
一方、左でグローブをはめ、ボールを手に持った野球中年オヤジは、よく見ると巨大化した鍵であり、嬉しそうにしているのが何とも意味不明であり、それ故に前を通るたびに見入ってしまう。
そういう意味で「清水キーセンター」の看板は成功している。
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【雑誌 『sizo:ka』 2007 年春号発売】
【雑誌 『sizo:ka』 2007 年春号発売】
清水市出身、清水市立第二中学の後輩でもある本間英覚(さとし)さんが編集発行人をつとめる雑誌【sizo:ka】(しぞーか)第5号が発売になりました。
表紙デザインは畠山香織さん、表紙イラストはさのまきこさんです。特集は「街道沿いのものがたり」でなかなか面白い読み物になっています。
創刊号より連載させていただいている写真エッセイ、今回は「君を呼ぶ日本平」と題して原稿を書かせていただきました。
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【都市と死角】
【都市と死角】
静岡県清水松井町。
文字や模様の部分を切り抜き、インキを通過させて文字や模様を印刷する謄写印刷の1技法、もしくはそのための型紙をステンシル( Stencil )という。
「原金釣船」という文字に思わず見入ってしまう。
ステンシルによって印刷された文字をステンシル文字と言うがこういうステンシル文字の型紙には出来合いのものがあるのだろうか。
撮影日: 07.4.15 4:21:41 PM
ステンシル文字の型紙というのはバラバラにならないのはもちろんのこと強度を保つために文字を変形省略せざるを得ないのだけれど、このステンシル文字の「船」という字など良くデザインされているなぁと感心してしまう。
うーーんとしばらく唸ってから写真を撮ろうとしたら向こうから富士山が覗いていた。
ステンシル文字に夢中で見入っていたので背景は死角になっていたのだった。
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【人生すべてに意味がある】
【人生すべてに意味がある】
静岡県清水上清水、大小山慶雲寺門前にて。
「人生すべてに意味がある」
世の中はそう思って生きている人がほとんどで「人生はそもそも無意味である」などと斜に構えて生きる一握りの人がいるのだろう。
「意味があると思って生きたけれど人生すべてが無意味だった」
と溜息をついて悲しんでいる人を励ますのは難しい。
「そんなことないよ!」
などと子どもみたいな言葉が口をついて出た夜を思い出す。
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【都市と死角】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 4 月 21 日の日記再掲)
あるものを見ることが出来なくなる特定の角度を死角という。
あまり気持ちの良い字面の熟語ではないので広辞苑を引いてみると
(1)(dead angle) 銃砲の射程内であるが、地物(ちぶつ)の障害または銃砲自身の構造上どうしても射撃し得ない区域。(広辞苑第四版より)
とあり銃砲射撃用語から来た言葉なのでちょっと忌まわしいのかも知れない。
小学校に入学したての頃、わが家に古びたマンガの単行本があり、それは貸本用に描かれたマンガを父親が古本屋で買って来たのだった。
「またこんなものを買って来て!」
と母は眼を三角にして怒り、母は生涯マンガを嫌った人なので、マンガ本と知っただけで激怒したのだった。
漫画が好きだったので嬉しくて、父親の留守中にこっそり引っ張り出して読んだら怪奇なミステリーものばかりで気味が悪く、夢に見てうなされ深夜に寝ぼけて泣き出すこともあった。
「あのマンガが怖い」
と言ったら、
「そら見なさい、こんな物を家に置いておくから!」
と母は怒り、これ幸いと処分してしまったので怪奇なマンガ本は永遠の死角に消えたのだけれど、その怪奇なマンガのひとつを今でも忘れられないでいる。
事件の鍵を握るのが岬の果てに立つ小さな灯台で、その灯台が見えたり見えなかったりする死角のトリックを利用して物語は展開するのだった。灯台があったはずの岬から、どんな大型トラックを使っても運べそうにない灯台が忽然と姿を消した絵はとても不気味に見えたのだった。
■午前8時51分の円環型モニュメント。清水駅東西連絡通路より。
静岡県清水、JR清水東口駅前広場に巨大な円環型のモニュメントが出来た。
4 月 15 日、両河内のタケノコ掘りにやって来た友人を清水駅ホームで見送り
「巨大な環(わ)というのはどこにあるんですか?」
と聞くので
「ほらあそこに…」
と振り向いて指さしたら市が大枚はたいて建てた円環型モニュメントが忽然と消え去っているのでびっくりした。
■午後4時15分の円環型モニュメント。清水駅ホームより。
目を凝らしてよく見ればホームから完全に側面しか見えない死角に入っていたのであり、デジカメの望遠で撮影してみればちゃんとあるべき場所に存在しているのだった。円環型モニュメント下部のハンドルを一回転させるとモニュメントは 1/360 回転するそうで、誰かが 90 回ハンドルを回したので清水駅ホームは環が消失して死角になったのだった。
人は過去の体験と、今とっさに生じた思いこみと、未来にそうあって欲しいという願望までない交ぜにして、心の中でも死角を作れるらしく、異物を心の死角に追いやることで我慢しながら都市に生きる知恵も持っている。
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【桜とカトリックと渋沢栄一】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 4 月 20 日の日記再掲)
東京都北区飛鳥山。
静岡県清水市に生まれ両親に連れられて上京し小学生時代を過ごした昭和 30 年代、桜の名所として名高い公園の中心には野球場があった。
地域の野球チームに入っていたので、そこで試合をしたこともあるけれど、野球場の使用には前もって大人の代表者による申し込みが必要だったので、毎日放課後にする普段の練習は近所の空き地を探してやっていた。
その当時飛鳥山公園に隣接した場所は野球に格好の空き地になっており、塀を乗り越えてこっそり進入すると人っ子ひとりいない広大な空き地の真ん中に子どもが野球の試合が出来る程度の広場があった。王子小学校に通う子どもたちはその場所をカトリックと呼んでおり、授業が終わると、
「カトリックに行こうぜ」
などと言って飛鳥山公園脇の人目に付かない場所から手を貸し合って塀を乗り越えたのだった。
国鉄の線路側に面した斜面は芝生が生えており野球に飽きるとごろごろ転がって遊んだ。かつてはハイカラに手入れをされていたであろう広大な敷地は、よく見ると建物の基礎の跡があり、おそらくカトリック教会があり、関東大震災とか、第二次大戦の空襲とか、不慮の火災とかで教会は消滅してしまい「カトリック」という名前だけが残ったのではないかと幼心に思ったものだった。
後に、その場所に幕末から明治を生きた実業家であり晩年を社会事業のために尽くした渋沢栄一の記念館が建てられたので、渋沢栄一邸の跡だったと知った。そしてその空き地になる前はコンベンツァル聖フランシスコ修道会というカトリック男子修道会の司祭養成所「聖ボナヴェンツラ神学院」だった。現在は練馬区武蔵関に移転しているけれど、同修道会は今も北区内で、赤羽のカトリック教会や聖母の騎士幼稚園を運営している、と当ブログの掲示板で教えていただいた。(2012-07-17 17:54:59)
■静岡県清水岡町の「カトリック清水教会」。
静岡県清水岡町。
出身中学校への通学路でもあった記念塔通り。海から緩やかに桜ヶ丘に向かって登っていく坂道の左手に石垣を巡らせた建物があり、それは「カトリック清水教会」である。昭和 10 年完成の典型的カトリック教会なのだけれど、1600 年代初めまで遡るとこの場所は「御浜御殿」という名の庭園付きの建物があり、それは徳川頼宣( 10 男)が父家康のために建てた隠居所だった。
■御浜御殿由来
1609 年「御浜御殿」が建った場所に 326 年後の 1935 年「カトリック清水教会」が建ったのだけれど、徳川家のものだったこの土地がどのようにして「カトリック清水教会」のものとなったのか、その変遷を知ってみたいと思うのは、春に花開く教会前の「桜」と門柱の「カトリック」の文字が、幼い頃忍び込んだ渋沢栄一邸跡を思い起こさせるからだ。→その変遷【場所の記憶】
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【しらすを描く】
【しらすを描く】
江尻船溜まり岸壁際、河岸の市隣接の大衆食堂『どんぶり君』の釜あげしらす丼。
先日美濃輪稲荷赤鳥居前の魚屋が送ってくれた茹でしらすも細かかったけれど、やはり『どんぶり君』の釜あげしらす丼にのせられたしらすも細かい。年をとった義父母には噛まずに食べられると好評だったしらすである。
撮影日: 07.4.14 8:21:35 AM
こういうしらす丼の絵を描こうと思ったら、しらすの部分はオートマチックな線で埋め尽くしたりするのだけれど、そういうのが嫌いなのでうんとアップにしてしらすだけを画面いっぱいに丹念に描いたりする癖が子どもの頃からあった(描いたのはしらすではなく街や木々)。
とはいえたくさん描きたいので欲張ってしまい時間内に半分程度しか描き終わらずに無念の提出をすることが多かった。
それでも一所懸命描いたことがわかると褒められて賞を貰ったこともあるし
「コンクールに出してやるから家に持って帰って気長に仕上げてみろ」
などと言われたこともあり、小学校中学校を通じて美術教師には恵まれていたと思う。
いま自分が教師だったらそういう教師でいられるだろうか。
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【沼津駅の弁当】
【一瞬の風景から】
午前7時33分、沼津駅停車中の普通列車静岡行き車窓より。
最近は普通列車の長旅をする人が減り、列車の停車時間も短くなり、駅弁業者の商売も大変だと思う。
それでも列車の旅を懐かしむ人々はいるので大型スーパーやデパート地下食料品売り場では「全国駅弁フェア」などが催されて有名駅弁は買って食べることができる。
駅売りなどより有名駅弁を作って全国から引き合いが来るようになることが生き残り策なのかも知れないけれど「昔ながらのラーメン」「昭和三十年代懐かしの味」のように何の変哲もない普通の駅弁が恋しいなぁと思う。
左上「御弁当」710 円の茶畑型ご飯の畝など見ただけで懐かしさに胸がいっぱいになる。
入れ物が経木の木製なのでご飯が張り付いてしまっており、割り箸で無理矢理剥がして残さず食べようとしたら箸がおぞい(清水弁でおんぼろ)ので折れてしまったりした、なんとも切ない汽車の旅をした時代を思い出す。
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