◉編集者の学校

2018年12月31日(月)
僕の寄り道――◉編集者の学校

昨夜は保育に関する出版関係者と駒込駅前で待ち合わせて飲んだ。5人のうち4人が駒込在住という超ローカルな飲み会である。一人はうんと若いお嬢さんで日本エディタースクールで編集を学んだという。

大掃除をしていたら日本エディタースクール出版部の本があって昨夜のことを思い出した。山下浩著『本文の生態学』。読んだ記憶がないので開いてみると毎日新聞の書評切り抜きが挟んであるので、誰かが手放した本を古書で買って積ん読になっていたのだろう。面白そうなのでちゃんと読んでみる。

駒込在住の二人が帰ったあと、王子在住の編集者が
「もう一軒行きましょう」
と言うので東口で二次会をした。某社会福祉法人には日本女子大卒業後新卒で入ったのかと聞いたら、そのまま院で勉強していたらしい。研究者になった可能性もあるわけで、なるほどそういうタイプだったのかと思う。

お通しのキャベツにソースがついてきて二度づけ禁止だという。
箸でつまんでソースにつけたら若い店員が
「おとーさん、おとーさん!」
と叫びながら飛んできて、箸を使うのは二度づけと同じだからアウトだと言う。
「最初の一箸だけ使ったんだ、あとは手で食べる」
と言ったら
「ぎりぎりセーフ!」
と笑う。
「おとーさん、おとーさん!」
の叫び方がシューベルトの『魔王』みたいだったよと言ってみんなで笑った。

 (2018/12/30)

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◉言葉とダンス

2018年12月30日(日)
僕の寄り道――◉言葉とダンス

今年も大晦日がやってくるので NHK の紅白歌合戦を観る。

どんどん知らない出場者が増えて、歌われる曲に対する違和感が強まり、自分たち夫婦世代ががどれだけ世間からずれてきたかを、確かめて楽しむよい機会になっている。ずれを測れるから、好き嫌いはあっても、自分本位で勝手な疎外感がない。あたりまえのずれを楽しめば、若者にとやかくいう筋合いなどない。

予告を見て、知らない出場者の知らない曲に対する自分の違和感、聴き心地の《いたたまれなさ》がどこにあるのかを考えるのが楽しい。《いたたまれない》言葉が意図的な周期で反復されて循環する律動(リズム)を聴いていると、意味よりダンサブルな《音の連なり》を叩き出しているのだなと思う。語音の打ち方がテクニカルだ。いたたまれなければもう踊るしかない。

朝日新聞に「U.S.A.」という曲の日本語作詞家 shungo という人のインタビュー記事があって、ああやっぱりそうなのかと読みながら思う。

(2018/12/30)

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◉モノクロネガのデジタル化 2

2018年12月29日(土)
僕の寄り道――◉モノクロネガのデジタル化 2

やはりHDR(ハイダイナミックレンジ)によるモノクロフィルムのデジタル化は効果絶大だ。
2017年02月09日に「四十数年振りの現像」と題して日記を書いた。

「露出オーバーで真っ黒なフィルムをスキャンし、明るさとコントラストを組み合わせてレベル調整すると、写っているものが判別できることを主眼とすれば、かなり救済できることがわかった。こんなスキャンデータにも画像情報はちゃんと記録されている。」

1970年ごろの清水

上が明るさとコントラストを調整して復活させた真っ白な白黒ネガフィルム。下が HDR 方式でのデジタル化。明るさとコントラストの調整では復活できなかった細部がちゃんと見える。

(2018/12/29)

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◉モノクロネガのデジタル化

2018年12月29日(土)
僕の寄り道――◉モノクロネガのデジタル化

写真はデジタルの時代になったが、フィルムというのは大したものだった。露光不足で真っ白に透けてしまったモノクロネガでも、パソコンに取り込んで画像処理してやると、ちゃんと写したつもりのものが写っている。人間の目には見えないだけだ。そのことには最近気がついた。

年末と人生の断捨離的な大掃除をしながらふと思いついたのだけれど、デジタル化してパソコンに取り込んで保存することにしたモノクロ写真のネガも、単なる高速スキャンではない方法で行なったら、もっとよい残し方ができるのではないか。

スマホに搭載されてポピュラーになった HDR(ハイダイナミックレンジ)による写真撮影は、大雑把に言えば適正な明るさと、それより明るく、それより暗くという 3 通り以上の撮影を 1 度の連写で行い、いいとこ取りの合成をして 1 枚の画像にする手法。その仕組みでモノクロネガ自体をスキャンしたら階調豊かな画像が取り出せるのではないかと思うのだ。

 

試してみた。かつて清水市駒込にあった天然記念物の大公孫樹(おおいちょう)。高校生だった 1970 年頃に撮影したもの。上が通常取り込みで、下が HDR によるもの。見事に隠れていた細部が読み込まれているので、画像処理ソフトでの仕上げがしやすい。すべてこの方法でやり直そうと思う。

(2018/12/29)

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◉鼾(いびき)

2018年12月29日(土)
僕の寄り道――◉鼾(いびき)

鼾(いびき)をかく人と、かかない人がいる。自分に鼾をかく癖があることに気づいている人と、気づいていない人がいる。自分の鼾で他人に迷惑かけることを気にする人と、気にしない人がいる。他人の鼾が気になる人と、気にならない人がいる。みんなちがって、みんなあたりまえだ。

言葉で列挙すればあたりまえだが、現実は関係を含むので過酷だ。会社員時代の社員旅行で山の宿に泊まり、みんなで大部屋に雑魚寝する段になったら、自分の布団を持って押入れに入ろうとする人がいる。大鼾をかくので他人に迷惑かけたくないという。

自分は他人の鼾など気にならない人なので「構わない」と言ってみたが、彼は頑なに雑魚寝を拒んで押入れの中で寝た。確かにすごい鼾が押入れの中から聞こえたと翌朝になって同僚が笑っていたが、「寝たら火事になっても起きない」と言われるほど眠りが深い自分はまったく気づかなかった。

他人の鼾に気づかない人は、気にならない人になる。おまえの鼾で眠れなかったと言われた経験がある人は、自分が近所にかけるかもしれない迷惑をひどく気にする人になる。井伏鱒二もたぶんそういう人だったらしい。

「自分の鼾のことを思うと 、コンクリ ートづくりの部屋でも結構だと云わなくてはならぬ。このごろ各地の海岸町に民宿があるそうだが 、鼾の心配が解消するところならそこでも結構だ」(井伏鱒二『晩春の旅 山の宿』)

鼾は寄せて返す波の息遣いのようなものなので気にならない。だが咳は不意を突く突風なので気になる。咳は体外に異物を吐き出そうとする現象なので
「医者に諮くと、人間が激しい咳をするときには、風速百何十米の風を咽から出す」(同)
のだそうだ。

他人の鼾が気にならない自分も、他人の咳は気になるので、運悪く咳をする人とエレベーターに乗り合わせると息をとめている。ドアが開く頃には息がつまり、頭に血がのぼってぶっ倒れそうになる。咳もまた気にならない人は気にしないらしく、開けっぴろげに咳をする人がいれば、その隣りにいて平気で息をしている人もいる。

(2018/12/29)

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◉主語のありなし

2018年12月27日(木)
僕の寄り道――◉主語のありなし

JR 最寄駅の改札を入った場所にあるフリーペーパーのラックに、富山県人が今も用いる古い日本語を紙名にした無料観光案内があって『ねまるちゃ』という題字が見える。見えるたびに違和感があるので、動詞「ねまる」をそういう活用で使うのかと富山出身の妻に聞くと「なーん使わん」と言い、やはり違和感を感じると言う。

くつろいで座ることを《ねまる》と言い、妻にくっついて富山の実家に帰省すると、義母は
「疲れたやろう。どうぞ楽にしてねまられ」
と言った。《ねまられと勧められたから
「はい」
と答え、その返事には《それでは遠慮なくねまらせていただきます》という気持ちが含まれていた。

そういう微妙なやり取りの経験が家族内にあるせいか、富山を初めて訪れた旅の人が、「どうかお楽にしてください」と勧められてもいないのに
「ねまるちゃ」
と言ってさっさと足を崩してしまったような行儀悪さを感じる。微妙な違和なので経験の差異や時代変化による誤差で、「いまの富山の若い人は普通にそう言うのかもしれないね」などと話していた。

日本語は膠着語(こうちゃくご)なので《ねまる》という語幹に語尾をつけて
nemar anai「ねまらない」
nemar imasu「ねまります」
nemar eba「ねまれば」
nemar ô 「ねまろう」
と活用する。

芭蕉も奥の細道で

涼しさをわが宿にしてねまるなり

と詠んでいる。これはなんの違和感も感じないのに、「ねまるちゃ」だと終助詞《ちゃ》の「確認や念押し」の勢いが、「そのセリフを誰に言ってんだ!」と聞きたくなるような違和感をもたらすのだろう。

涼しさをわが宿にしてねまるちや

では、「芭蕉は誰に向かってねまると言っているのだろう」と思う。主語のない膠着語的な日本語法が、相手のいるいないにかかわらず「私は…」という宣言を含む英語的な語法へと変化しているのかもしれない。

(2018/12/28)

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◉古い本棚

2018年12月26日(水)
僕の寄り道――◉古い本棚

仕事場ではなく寝食の場である自宅の本棚は古い。結婚してふたり分の本棚が一緒になった学生時代のものや、新婚当初の会社帰りに買った本などが詰まっている。四谷にあった文鳥堂で買ったものも多い。小さな本屋なのに欲しくなる本が並んでいて、小さな出版社を集めた書架もあった。

そういう本の中から、もう二度と読むことがないだろうと思われる本は段ボール箱に詰めて買取業者に送ることにした。本を捨てると後ろめたいので、値がつかなくてもなんらかの役立て方をしてもらえばそれでいいなどと思いつつ、前回は五万円程になってちょっと嬉しい。

古い本棚を掘り出すと忘れていた思いがけない本が出てくる。しっかり読んでみたいので古書で探して買おうと思っていた本、たとえば中村雄二郎の著作群もちゃんと古い本棚に揃っていた。おそらくかっこつけて買ってみたものの歯が立たなかったのだろう。

「へぇ〜こんな本があったんだ。面白そうな本買ってたんじゃん」
と思い、今ならもっと楽しめそうなものは古い本棚から新しい本棚に移動させている。

(2018/12/26)

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◉写真を片づける《プリント》

2018年12月26日(水)
僕の寄り道――◉写真を片づける《プリント》

喪中になった親の荷物片づけと、年末の大掃除を兼ね、いまの勢いを利用して自分たちの身の回りを片づけている。

本は業者に引き取らせてスッキリ片づいた。一番厄介なのがフィルム時代の写真片づけで、とりあえずフラットベッドスキャナに並べてスキャンし、デジタル化して DVD にデータ保存し、もとのプリントは捨ててしまうことにした。

写真には思い出というかたちのないものが含まれているので捨てにくい。

プリントされた写真を、物体として否定しながら、思い出だけ更に高い次元のデジタルデータに昇華させて生かすのだ、と自分を納得させ、場所を食い、こころの負担となる物質としての写真を捨てている。難しいカタカナ言葉で言えばアウフヘーベン、漢字で書けば止揚(しよう)、この場合は揚棄(ようき)という言葉がぴったりであるような気がする。

カラーのサービスサイズプリントはかなり退色が始まっている。デジタル化しておけば画像処理ソフトによる復元は簡単なので、最後の保存チャンスであったような気がする、というのも後ろめたさ祓(ばら)いの助けになっている。

写真をデータ化して記憶メディアの中に揚棄してしまったら、実はもう見ることもないような気がする。それでも万一、あの写真がもう一度見たかった、どうして捨ててしまったのだ、と自分を責める思いがけない自分を封印するための神事と言えるかもしれない。千代田区九段北にある神社のように。

(2018/12/26)


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◉寒山拾得

2018年12月25日(火)
僕の寄り道――◉寒山拾得

「森鴎外の「寒山拾得」を今朝も読んで、検索したら芥川龍之介も「東洋の秋」で寒山拾得について書いていた。こちらも青空文庫で読めるのですぐに読んだ。あとは井伏鱒二が「寒山拾得」を書いていて、講談社文芸文庫の短編集に収められているらしい。本棚を探してみて、なかったら古本で拾おう」と 2014 年 8 月 22 日に書いていた。

処分する本の第二陣をまとめていたら新潮文庫の『山椒魚』が出てきた。同じ日に「「寒山拾得」は井伏鱒二『山椒魚』新潮文庫に収録されていた」と書いていたそれだ。

片付けの手を休めてもう一度読んでいたら妻が
「またそうやって感慨にふけってる!」
と笑うので
「井伏の寒山拾得は何度読んでも素晴らしいんだ」
と答えたが、すっかり内容を忘れていて新鮮である。げらげらげら。

(2018/12/25)

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◉暗夜行路の旅

2018年12月25日(火)
僕の寄り道――◉暗夜行路の旅

井伏鱒二の随筆集『晩春の旅 山の宿』講談社文芸文庫所収の「志賀直哉と尾道」はよかった。『暗夜行路』をもう一度読みたくなる。

旅の随筆を読むたのしみは、かつて予備知識なしで訪ねた場所を味わい深く思い出すことにある。思い出すことで埃が払われ、紋切調なら「こころ洗われる思いがした」と言うところだ。行為が先立ってあったから思い出しつつ洗われる。

こころ洗われる思いとはカタルシスのことであり、カタルシスはもともと排泄を意味した。海に面した斜面にへばりついた尾道の家並みに、予備知識もなくのぼって観光し、さしたる思い出も持ちえなかったことが口惜しく恥ずかしく思え、さらさらとお尻洗われる思いがする。

(2018/12/25)

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◉面倒力

2018年12月24日(月)
僕の寄り道――◉面倒力

 自分の「多動性」が生きづらさの主因になってきたという当事者たちに、なぜ今はそれがおさまっているのかと尋ねたら、加齢によって多動エネルギーが低下してきて「面倒くさい」気持ちが先立つようになったからだと言って笑っていた、という話を読んで笑った。

今年になってSNS をはじめとしてネット関連のあれこれをやめてのんびり本を読んでいる。電話で「どうして?」と聞かれて説明するのが面倒くさいので「面倒くさくなったから」と答えていたら、横で聞いていた妻が「いいなあ」と笑っていた。やっぱり人は多動に生きる性分すら、加齢とともに面倒くさくなるものらしい。

堀江貴文が頑張って『多動力(たどうりょく)』という本を書いたらしい。読んでいないので中身を知らないし、興味もわかない。ただなんとなく今の過活動的社会では「面倒力(めんどうりょく)」の方がずっと善いものであるような気がしている。

(2018/12/24)

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◉線路ぎわのクリスマス

2018年12月23日(日)
僕の寄り道――◉線路ぎわのクリスマス

(2018/12/23)

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◉苺屋のクリスマス

2018年12月23日(日)
僕の寄り道――◉苺屋のクリスマス

JR 三河島駅前近く『苺屋』の飾り窓。

(2018/12/23)

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◉ゆく本くる本

2018年12月23日(日)
僕の寄り道――◉ゆく本くる本

思えば四半世紀ぶりに、親たちのための世話働きがない年末年始になる。

さてこの自由をどう使おうかと考え、気になっていた義父母の住まいの破れた障子紙を張り替え、積ませてもらっていた宅配 100 サイズ(20 〜 25kg)の段ボール箱 20 箱を古書買い取り会社に送った。昨日、査定結果が届いて 5 万円ちょっとの値がついたので売却承認した。

読みたいと思っていた本があると妻がメモ用紙を見せるので、『正しい楽譜の読み方 バッハからシューベルトまで』現代ギター社、『トン・コープマンのバロック音楽講義』音楽之友社、『バロック音楽 歴史的背景と演奏習慣』音楽之友社の三冊を注文した。自由な時間のよい埋め合わせになるだろう。

(2018/12/23)

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◉「死ぬの反対」

2018年12月23日(日)
僕の寄り道――◉「死ぬの反対」

子どもの頃よくチャンバラごっこをした。木の刀で斬り役と斬られ役をうまいこと交代しながら遊んでおり、スローモーションで斬られる斬られ役は
 
「うーーーやーられーたー」
と言いながら倒れ
「死ぬーー、ガクッ」
などと自分でナレーションをつけながら死んでいた。

女子のままごと遊びを見ていると、お母さん役の女の子が泥と草のご飯を片付け、布団を敷く真似をし
「もう夜だから寝なさい」
と言い、子ども役の子は
「はーーい」
と横になり
「ぐーぐー」
と言いながら寝て、またすぐ朝になった。

子どもラジオ電話相談で
「死ぬの反対は生きるですか、生まれるですか」
と聞いた子がいて
「君すごいことを聞くなあ…」
と回答者の先生方が苦笑していた。

《死ぬ》の反対は《生まれる》だと思って生きている。《寝る》の反対が《起きる》だからだ。寝てもそのまま《起きない》と人は死ぬわけで、そうなってしまったら自分が死んでいると気づく自分はもういない。《寝る》と《死ぬ》には《起きる》か《起きない》かという紙一重の差しかない。紙一重の差に人は毎晩、大いなる賭けをするわけだ。

それでも《寝る》という賭けにいたってお気楽なのは、寝ても自分は必ず《起きる》という確信があるし、とにかくそんなことに頓着できないほど眠いからだ。人は生まれた時から死ぬほど眠いのである。

(2018/12/23)

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