【無人島と念仏】

2020年7月31日

【無人島と念仏】

2020 年 5 月 20 日に【無人島の一冊】と題して日記を書いた。

たくさんの人が家庭内に逼塞して生活しているせいか、朝刊のサンヤツに、無人島に一冊持っていきたい本として般若心経の広告を見かけるようになった。おもしろい傾向だと思う。

そして 2020 年 7 月 24 日の【無人島へ】と題した日記では

無人島小説で検索したら吉村昭の 『漂流』 がポツンとあったので電子書籍で買ってみた。

と書いた。そして一気に読み終えた。

書評らしい書評は苦手なので思い切り簡潔に言えば、本の中で念仏が重要な意味を持つことで、この無人島漂流記そのものが念仏であるような気がした。無人島に経本を持っていくのではなく、こころの無人島に流れ着くような事態に陥ったとき、念仏のひとつも唱えられたら、ひとは丸ごと救済されるかもしれないということを学べる。人も、無人島も、念仏も枠組みである。無人島に行く前に読んでおくべき良書だと思う。

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【嘘になる】

2020年7月30日

【嘘になる】

「……というと嘘になる」という表現は日本語の乱れ、汚れとも言えるみっともない用例である、と尊敬する先生が書かれていた。何が気に障られたのだろうと思うに、「嘘になる」の「になる」の部分に、可能性を宙ぶらりんにして相手の判断に委ねる甘ったれた語法が見られるからだろうかとまず思う。難しい言葉で、対事モダリティのうちの認識様態のモダリティ(epistemic modality)という。「かもしれない」が頻出する自分の文章の、痛いところに自ら思い当たったのでどきっとした。

改めて文脈を辿るとお怒りの発端は、ご自分の文章に「亡う」(うしなう)と書いたら「亡す」(ほろぼす)ではないかと異議を唱えられたところに端を発しているので、「からっぽ」「いない」「そら」「すきま」などを意味する「虚」に口偏をつけ「ウソ」に通用させた新しい日本語用法に憤られておられるのだ、と思う。憤られておられる、のかもしれない、とは書かない。

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【本帰る】

2020年7月30日

【本帰る】

清水の友人宅から借りてきた筑摩書房『ちくま文学の森10 賭けと人生』、最後の作品は『入れ札』で菊池寛だった。侠客ものだが清水次郎長ではなく国定忠治の話だ。

わが家の本棚から借り出されたまま帰って来ない本は多い。帰って来ない本のうち、借り手に読まれた本は少ないだろう。借りて、読んで、面白ければ、返しながらひとこと感想が言いたくなるからだ。読んでいないか、読みかけて面白いと思えない本は、何となく返し辛い。そういう気持ちはわかる。

読み終えた感動を忘れないうち、話したい気持ちが萎えないうちに、思い切り走り書きのメモを添え、清水の本棚宛の住所を書き、郵便ポストまで走って投函した。

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【五味康祐の喪神】

2020年7月30日

【五味康祐の喪神】

母は五味康祐と飲んだことがあるというのが自慢で、いろいろな脚色をつけて何度も聞いたので嘘ではないと思うが、遊びで他人の手相を観てやるのが好きだった母が「私の手相は五味康祐直伝よ」と言っていたのは正しくない。五味康祐に手をとって観てもらってポーッと夢中になり、熱心に『五味手相教室』を買って読んだのだろうと思う。

息子の自分は、手相と麻雀とオーディオの五味康祐という印象ばかりで、文学の方の作品を読んだことがない。清水の友人宅から借り出した筑摩書房『ちくま文学の森10 賭けと人生』に思いがけず芥川賞受賞作『喪神』が収録されていたので初めて読んだ。

思わず引き込まれてしまい、伝奇的で精神性の高い剣豪小説を書くような人は、手相を見たり、麻雀に熟達したり、オーディオ趣味に耽溺したりと、多分に心理主義的な傾向があるのではないかと思う。亡き母は五味康祐に出会って『五味手相教室』を買い、息子はアマゾンに『秘剣・柳生連也斎』を注文した。

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【今東光の闘鶏】

2020年7月29日

【今東光の闘鶏】

幼い頃のテレビの中に、ツルツルして見事に丸いお坊さんが出ていて「今東光(こんとうこう)さん」と呼ばれており、お坊さんではなく「作家の」と肩書きが冠されていた。なだいなだもテレビに出るときは「肩書きはなんとお呼びしましょう」とよく聞かれたという。本業がわからない。子どもの目から見たら今東光の肩書きはどう見てもお坊さんであり、意味のわからないチンチンナムナム的な本ばかり書いている人なのだろうと思っていた。

亡くなられたのが昭和 52 年だから、清水の高校を卒業して大学生をやっている頃までご存命だったのだけれど、書かれた本はひとつも読んだことがない。清水の友人宅から借り出した筑摩書房『ちくま文学の森10 賭けと人生』は賭け事と人の生き方についてのアンソロジーなので、知っていて読んだことのない人、名前すら知らなかった人の作品を、諄々として順々に読んでいる。

今東光『闘鶏』というちょっと長めの作品が納められて、河内平野の闘鶏について、河内弁を交えた稠密な文章で書かれている。筆者も文末に書いているように、いつかは失われていく土着的な庶民文化の貴重な記録になっている。血と汗が臭い立つような人と鶏との生きざまは、こういう筆力のある作家を得なければ書き残され得なかったかもしれないと感心した。

見事な作品と文才に圧倒されたので、作家としてではなくチンチンナムナムの方ではどうだったのか知りたくなり、集英社文庫『毒舌・仏教入門』を注文した。昭和 50 年 8 月に 5 日間連続で行われた最後の説法の記録である。

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【自分の伝言】

2020年7月28日

【自分の伝言】

メモを自分の言葉による表現としてとらないと、あとで読み返してなんの役にも立たないことがある。記憶力の衰えもあるだろう。自分が書いた箇条書きや単語羅列メモを読んで、自分が何を言いたかったか解読できないことが増えてきた。

過去にとったメモを整理していたら、
「表現の方向に開いていくとは、手っとり早くいえば、辞典的な性格から通読に耐えるエッセー集に近づけるということである」
という中村雄二郎さんからの引き写しがあった。メモのとり方とは関係のない文脈で語られたものだけれど、都合よくお借りして「メモ書きを表現の方向に開いていく」と言い換えるとぴったりであるように思う。

最近は読んでいる本の余白への書き込みも、「自分はこうであると思う」と自分以外の者が読んでわかるように書いている。あとで読み返す自分が、別人のようによそよそしいことが多いからだ。たぶん人は年を取るにつれ、自分が自分でなくなっていく。

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【バトンゾーン】

2020年7月28日

【バトンゾーン】

灰身滅智ということばがあって、文字通り身を灰にし智を滅ぼして死に至る部派仏教の最終目標であり、大乗仏教から見れば虚無思想と言える。「けしんめっち」と読み、初めて聞いたことばだけれど、自分が知らなかっただけで世間ではふつうだったりして…と思ってスマホに入力したら「化身めっちゃ」くらいしか候補に出ないので安心した。

清水の櫻珈琲個室図書室本棚にあった筑摩書房『ちくま文学の森10 賭けと人生』を借りてきて、一作ずつちびちび読んでいる。ヘミングウェイはすごいなあと感心したあと獅子文六の『塩百姓』を読んだらこれもいい。「ジュンボク」とわざわざカタカナ表記した人間の性(さが)への洞察が深い。灰身滅智くそくらえである。昔の人は文章の骨密度が高い。獅子文六という人の生年を見たら清水次郎長の没年で、1893 年をバトンゾーンにした生まれ変わりである。

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【カンナとベンガルトラ】

2020年7月27日

【カンナとベンガルトラ】

近所のコンビニに買い物に出ると教会裏に毎年咲く「斑入りの葉をもつカンナ」が見えるので、ついつい脇道に逸れてひと区画分遠回りして帰ってくる。前に立って眺めていると、斑入りの葉のうねりと模様が描く動的な視覚効果が面白く、こういうのを美術では「ムーブマンがある」という。

この斑入りのカンナに特別な名があるのだろうかと調べたら「カンナ ベンガルタイガー(Canna 'Bengal Tiger’)」というのだそうで、なるほどと思うもののちょっと意外だった。

毎年、この季節になると本郷通り沿いにあるカトリック教会裏手にトラが出て、のそのそ歩き回っているように見える。

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【わするなぐさ】

2020年7月27日

【わするなぐさ】

「忘れる」は自動詞の下一段活用、「忘る」は他動詞の四段活用。何をどうしようとしていたかすら思い出せない自動詞的な忘れ方があれば、益体もないことを思い出さないようにしたいという目的を持った他動詞的な忘れ方もあって、辞書を引くとちゃんとそう分類されている。

「忘らむて野行き山行きわれ来れどわが父母は忘れせぬかも」

万葉集の防人歌(さきもりのうた)にこうあった。何とか忘れようと努力しながら、野をこえ山をこえ私はやって来たけれど、どうしてもわが父母のことは忘れられないという切ない思いがうたわれている。

「忘らむて」の「忘ら」は他動詞「忘る」の四段活用未然形であり、勿忘草の「わするなぐさ」という読み方は、「わすれなぐさ」よりすこし味わい深い。

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【縁読】

2020年7月27日

【縁読】

井上靖の作品は、自称静岡出身の著者による自伝的小説というのにひかれ、郷里静岡への郷愁も手伝ってか、小学生時代に『しろばんば』を読み、それ以外はまったく読んだことがない。

静岡出身の仏教学者三枝充悳が、あまり行かない映画館に脚を運んで『天平の甍』を観たと書いており(1980)、中村嘉葎雄の普照、田村高広の鑑真、井川比佐志の業行の演技に感心し、暫くぶりに映画の数場面に涙ぐみながらも、「それでも原作にどこか及ばない」と書いているのにひかれ、電子書籍で『天平の甍』を買ってみた。

こういううまく言葉で言えない動機ともつかない動機が繋ぐ読書を、勝手に縁読(えんどく)と名付けて楽しんでいる。

 
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【霖雨】

2020年7月27日

【霖雨】

来る日も来る日も雨が降り続き、このまま降り続くと土砂が流出して国土がなくなってしまうのではないかと思う。全国的に農作物の被害が広がっているそうで、週末の買い物を荷物持ちして手伝ったけれど、野菜が高くて出来が悪いのに驚いた。悪いことは重なっておこる。長いこと降り続く雨を霖雨(りんう)という。

元号が安永から天明にかわったのが 1781 年で、元号が変わった途端に悪いことが次々に起こった。天明三年(1783)三月に岩木山、七月に浅間山が噴火して各地に火山灰を降らせ、日射量低下による冷害をもたらした。その前年、天明二年には、五月に季節はずれの北風による気温低下、七月には大雨がつづき河川が氾濫して田畠が流失、八月には大暴風雨の襲来、天明三年には、一年を通して長雨がつづき、作物の収穫はほとんどなくなり、翌天明四年も同様の異常気象がつづいたという。江戸四大飢饉のひとつ、天明の大飢饉である。

全国で 90 万人以上が飢餓で命を落としたと推定されるけれど、為政者の失政で甚大な死者が出たことを理由に改易されるのを恐れた各藩が、数字を隠したり操作したため正しい記録はわからないという。数字というのはいつの時代でも厄介な道具だ。

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【思いださない方法】

2020年7月26日

【思いださない方法】

郷里清水、西里の茶業農家『水声園』から届くお茶にはいつも手製のポストカードが同封されており、先日届いた新茶の「棒茶」には見事に咲いたミツバツツジのカードが添えられていた。三十年前に種から育て、いまは茶園の法面に十本ほど植わっているという。これからはツツジの花を見るたびに、「棒茶」にも遅れてやって来る新茶の季節を思い出すだろう。花言葉は「抑制の効いた生活」と書き添えられていた。

ポストカードを引き出しに仕舞い、雨が一時的に止んだので窓開けして換気をし、一斉に湧き上がった蝉の声を聞きながら掃除機をかけた。掃除機をかけながら、思いださなくてもよいことを思いださない技術とは何かを考えた。思いださないようにしよう、と思う事は、すでに思いだしているに等しい。思い出すまいとも「思わない」ことが思いださないための最良の方法であり、「思わない」ための最良の方法は、今現にやっている事についてのみ「思う」ことだろう。

そう思ったので掃除機をかけること自体を思って掃除をした。いま現にやっている事についてだけ思う、いま現にやっている事についてだけ思うと念じていたら、掃除をしろと命じられ何年間もただ掃除を続けることによって悟りをひらいた人の話を思い出したので、いけない、余計なことを思うまいと掃除機自体に集中した。

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【サザエさんの秘密】

2020年7月25日

【サザエさんの秘密】

友人宅から電話があり、長崎の平戸からサザエが届いたので
「あげる」
と言う。ひとつ階上に住む友人なので、電話を切ったらすぐに持って行くと言う。

発泡スチロール製のトロ箱を開けたらたくさん入っているので、いくつ貰えるのかと聞いたら、
「自分が食べられる分は取ったから、ぜーんぶあげる、女のひとり暮らしじゃこんなに食べられない」
と言う。確かに。

すべて生でほじくり出して綺麗に処理し、一部は刺身でいただき、残りは冷凍しておいてご飯に炊き込むことにした。問題は貝の奥にある肝をどうするかで、いつも取り出し方に苦労する。数が多いので要領よく取り出すコツはないかとネット動画を見たら、プロの料理人はスプーンの背で身を取り出したあと、指を突っ込んで簡単に取り出している。さっそく真似をして指を突っ込み、プロの指づかいを思い出してクルンとやっていたら、三個目で指が
「あ、わかった!」
と言う。他人の手本を目で見て、自分の身体で実践した体験は身につく。運よく数をこなしたのでサザエさんの秘密は掴んだ。

コツが指先でわかったので次々にクルンクルンと取り出し完了した。郷里清水で漁師の友人は、
「おらっちは、とってすぐじゃないサザエは、たとえ生かしてあったって、肝を刺身で食う気にはならないやぁ」
と言う。もったいないとはいえ茹でたのでは味気ないので、醤油、酒、味醂に実山椒をあわせてさっぱりと煮たら素晴らしく美味しい。

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【助字の教え】

2020年7月25日

【助字の教え】

初めて出会う住著ということばの読みを調べたら「じゅうじ(ち)ゃく」で、ひとつところに留まっていることをいう。「住」の意味に対して著は助字(じょじ)になっている。ちなみに着は著の草書体であり分岐した同じ文字だ。おもしろいのでこの助字で低徊してみた。

住著と似たことばに恋著があって「れんじ(ち)ゃく」と読み、思いから離れ難くなることをいう。

住著や恋著と似たことばに取著があって「しゅじ(ち)ゃく」と読む。助字がつくということは「取」の方に意味の重心があって、古い仏教では執着することを「取」という。

「執着することを『取』という」、というときの執着の着も助字であり、「住」も「恋」も「取」も「執」もひとつところに心身が固着することを意味して原始仏典に出てくる…というときの固着もまた助字である着がつくので、「固」もこだわりのお仲間なのだろう。

そういう 「住」や「恋」や「取」や「執」や 「固」に著(着)するな、著(着)してこだわるから苦悩が絶えないのだ、と昔の親切な賢人たちは助字を添えて教えている。

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【無人島へ】

2020年7月24日

【無人島へ】

子どもの頃からたくさんの登場人物が出てくる本が苦手で、本の最初に「主な登場人物」という一覧がある本は、しょっちゅうそのページに戻って確認していた。たくさんの登場人物がいる話でも、少人数で代わるがわる登場してくれるならまだしも、いきなり大きな社交会のような場面で幕が上がるとお手上げで、「すみません気分が優れないのでちょっと外の空気を吸ってきます」と言って会場を出て、そのまま本の世界から逃げ出したくなる。

いきなり記憶力が試されるようなそういう本を苦にせず読む、自分から見たら特殊な能力を持つ友だちもいて、そういう人の頭の中はどうなっているのだろうと不思議に思ったものだった。

大人になって年齢を重ね読書経験が増えても、そういう記憶力は増強されないようで、さっきもプーシキンの作品を読み掛け「こりゃダメだ、登場人物が多すぎてついていけない」と逃げ出して断念した。子どものころ一番好きで、もっとも多い回数読み返したのは、デフォーの『ロビンソン漂流記』だ。あれはシンプルでいい。無人島小説で検索したら吉村昭の『漂流』がポツンとあったので電子書籍で買ってみた。

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